児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年06月

今日6月23日は、でんぷん、セルロース、タンパク質、プラスチックなど、大きな分子でできている物質を扱う「高分子化学」分野で、先駆者といわれる桜田一郎(さくらだ いちろう)が、1986年に亡くなった日です。

1904年、京都に生まれた桜田一郎は、京都帝国大学(京都大)工学部を卒業後、コロイド科学・繊維化学・高分子化学研究の道に入りました。1928年からドイツへ留学し、ライブツィヒのオストワルトやベルリンにあるカイザー・ウィルヘルム研究所のヘスのもとで高分子化学の先端技術を吸収し、帰国後の1935年、母校の教授となると、工学部長や科学研究所長を務めながら、1967年まで「高分子化学」の全領域での研究を展開しました。

その間、1938年にニューヨークのデュポン社が合成繊維ナイロンを発表したことに対抗し、翌1939年にポリビニール合成繊維の創製に成功し、「合成1号」を完成させました。そして戦後の1950年、倉敷レイヨンから「ビニロン」の名で工業化され、世界で最初のビニロン繊維の一貫生産を開始しました。

ビニロンは、木綿によく似た合成繊維で、戦後の繊維不足の時期には学生服や作業服などに広く用いられ、その後は、熱に強いことから、消防用出動服などに使用されています。その他、ロープ、魚網、工業用ベルト、アルカリ乾電池の材料(セパレーター)、セメントやコンクリートの補強材など産業資材として幅広く用いられ、農業資材としては、防虫防鳥用の果樹ネット、野菜などを栽培するときの被覆材などに使われています。最近では、石綿(アスベスト)が空中に飛散した繊維を長期間大量に吸入すると肺癌や中皮腫の誘因となることが指摘されるようになり、その代替品としてビニロン需要が急増、日本はビニロン生産シェアが世界の80%を超えているため、日本の技術は世界的に再評価されています。

なお、桜田は、「高分子化学」の名付け親となったばかりか、1951年に設立された高分子学会の創立者の一人であり、高分子研究者の国際交流に貢献し、この学問分野を日本にしっかり根づかせた最大の貢献者として、1977年文化勲章を受章しました。


「6月23日にあった主なできごと」

1794年 水野忠邦誕生…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家・水野忠邦が生まれました。

1908年 国木田独歩死去…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した国木田独歩が亡くなりました。

1967年 壺井栄死去…『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家の壺井栄が亡くなりました。

今日6月22日は、ユーモアあふれる分かりやすい法話や講演、『心』『道』『まごころ説法』の著書など、写経100万巻を達成させ、奈良市にある「薬師寺」の金堂・西塔・中門・回廊他を再建させた高田好胤(たかだ こういん)が、1998年に亡くなった日です。

1924年、大阪市の裕福な家に生まれた高田好胤(本名・好一)は、11歳のとき父を亡くし、母方の実家が東大寺龍蔵院だった縁で、薬師寺の管主橋本凝胤の弟子として引き取られました。凝胤の厳しい教育に耐え、1946年に龍谷大学仏教学科を卒業後、1949年、好胤は薬師寺の副住職に就任します。

当時は老朽化が進んでいた薬師寺でしたが、好胤は「仏法の種をまくことが自分の使命」と考え、修学旅行の生徒たちへの法話に力を入れ、18年もの間、そのユーモアあふれる分かりやすいガイドは人気を呼び、好胤の法話を聞いた生徒は600万人以上にものぼりました。私もその一人で、「みなさん、毎日ご飯をいただくとき『いただきます』『ごちそうさま』といっていますか? 喜びと感謝、敬いの気持ちをもっていえたら、仏さまの教えが半分わかった人です』」という呼びかけにはじまる一つひとつの言葉に、強烈な印象を受けたことを今も思い出します。

1967年、薬師寺管主に就任すると、金堂の再建に挑みました。再建費用は約10億円も必要で、檀家組織を持たない薬師寺にはその負担は重いものでした。好胤は、全国から一人1000円の写経納経の供養料を集める勧進を行って、これを賄おうと考えました(写経勧進)。

そのためには100万人の写経が必要です。好胤は全国800以上の市町村を回り、8000回にもおよぶ講演を行って写経勧進を呼びかけたほか、『心』『道』『まごころ説法』などを著し売れ行きが好調だったこと、三越百貨店での月光菩薩展示も追い風となって復興事業は一挙に進み、1976年には念願の100万巻を達成、同年、金堂が再建されました。その後も写経勧進は進み、西塔、中門、回廊などを次々と再建しました。

亡くなる前年の1997年には写経勧進は600万巻にものぼり、没後の2003年に大講堂が落成したほか、2001年には平山郁夫画伯の、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」が、1991年に造営された玄奘三蔵伽藍に展示されたことは大きな話題になりました。写経勧進は今も、薬師寺の大きな柱の一つとなっています。


「6月22日にあった主なできごと」

1633年 ガリレオ終身刑…イタリアの物理学者ガリレオは、宗教裁判で終身刑を言い渡されました。当時、地球は動かず太陽が地球を回っているという「天動説」がローマ教皇庁の考えでした。しかし、ポーランドの天文学者 コペルニクス のとなえた「地動説」を支持、みずからの観測を重ねて本に著したことで教会の怒りをかい、罰せられたのでした。病身だったガリレオは、厳しい取調べに、天動説を認める書類に署名しましたが「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。なお、この判決に対し359年後の1992年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は、教会の誤りを公式に認めました。

1752年 雷は電気を証明…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが、たこを用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしました。これがきっかけとなって避雷針を発明します。

1941年 独・ソ戦開始…史上最大の死傷者を出した第2次世界大戦のうちでも「最大の戦い」といわれるドイツとソ連(独・ソ)戦が始まりました。

今日6月19日は、自民党の最大派閥「経世会」を創設し、第74代総理大臣として消費税の導入、「ふるさと創生」を推進した政治家の竹下登(たけした のぼる)が、2000年に亡くなった日です。

1924年、今の島根県雲南市に酒造業を営む旧家の長男として生まれた竹下登は、旧制松江中学、早稲田第一高等学院を経て早稲田大学商学部に入学するものの1944年、学徒動員により陸軍飛行隊に入隊、陸軍少尉として終戦をむかえました。1947年に同大を卒業後に郷里へもどり、中学代用教員をつとめながら青年団活動で政治基盤を築き、1951年島根県議会議員に初当選。1958年からは、島根全県区から衆議院議員に当選し、連続当選14期をつとめあげました。

その間に竹下は、第3次佐藤内閣の官房長官、第2次田中内閣の官房長官、三木内閣の建設大臣、第2次大平内閣の大蔵大臣、中曽根内閣発足から大蔵大臣を4期連続で務めるなど、得意の「根回し・気配り」で政策調整、国会対策に活躍しながら要職を歴任しました。特に大蔵大臣在任時の業績としては、1985年に先進5ヵ国蔵相会議でドル安を推進する「プラザ合意」に加わったことが挙げられます。

1985年に田中派から独立して創世会を旗揚げ、1986年創政会を解散して自民党幹事長となり、1987年竹下派113人を率いて「経世会」を結成すると、自民党最大派閥となって党を支配、1987年に第74代内閣総理大臣に就任しました。

主な業績としては、税制改革に取り組み、1989年に「消費税」の導入を実現したほか、全国の市町村に一律1億円を交付する「ふるさと創生」事業を実施したことでしょう。1989年には、昭和天皇死去に伴い、「昭和」から「平成」への移行に尽力しました。その後、消費税導入による不人気や、「リクルート事件疑惑」をきっかけに政治不信が広がり、1989年6月に退陣しました。

1991年自民党最高顧問に就任後も、陰の実力者として政界に重きをなし、退任後は「平成の語り部」を自称して以後の内閣に影響力を行使し続けましたが、竹下派が小渕派と羽田派に分裂してからは影響力は少しずつ低下、2000年5月に政界引退を表明しました。


「6月19日にあった主なできごと」

645年 元号のはじまり…元号とは、明治・大正・昭和・平成のような年代の数え方で、645年のこの日、蘇我氏を倒した中大兄皇子(のちの天智天皇)が、わが国初の元号「大化」を定めました。江戸時代以前は、大きなできごとがあるたびに元号が変わっていましたが、明治から、天皇の即位から亡くなるまでを一つの元号とする「一世一元制」となりました。

1129年 白河上皇死去…天皇として初めて院政をはじめ、43年間もその地位についた白河天皇(上皇)が亡くなりました。

1909年 太宰治誕生…『人間失格』『走れメロス』『斜陽』『晩年』『ヴィヨンの妻』などを著した作家太宰治が生れました。なお、この日は、1948年に入水自殺した太宰の遺体が発見された日でもあり、「桜桃忌(おうとうき)」とよばれて、太宰をしのぶ人たちが、三鷹市禅林寺にあるお墓の前に集うことで知られています。

今日6月18日は、唐の玄宗皇帝に尊ばれて経典5000余巻を日本にもたらし、政界にも勢力をふるった法相宗の僧玄�ム(げんぼう)が、746年に亡くなった日です。

玄�ムがいつどこで生まれ、どのように育ったかについてはほとんどわかっていません。出家する前の名(俗姓)は阿刀氏で、716年に遣唐大使の多治比県守にしたがって、吉備真備や阿倍仲麻呂とともに入唐し、学問に励みました。当時の中国は盛唐といわれる玄宗皇帝時代で、玄�ムは18年もの間、おもに法相(ほっそう)宗の智周に学び、天子の玄宗も玄�ムを尊んで、三品(書画における3品格)に準じて紫袈裟を着用させるほどでした。

735年、遣唐大使多治比広成とともに帰国しますが、帰国に際して諸仏像のほか仏教の経典およびその注釈書5048巻を持ち帰りました。聖武天皇の皇后である光明皇后の主導する写経所に提供したことで、わが国の経論を豊富にし、その発展に大きな貢献をしました。

日本の朝廷も、唐と同様に玄�ムへ紫袈裟を与えて着用させ、736年に封戸(ふこ=俸禄)を与え、翌737年僧正(僧官の最上位)に任じ、内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入りました。やがて、聖武天皇の母藤原宮子の病気を、祈祷により回復させたことで、橘諸兄(もろえ)政権を支える吉備真備とともに、天皇の寵愛が目立つようになりました。

しかし、玄�ムに対して一部の人々の批判が強くなり、740年には藤原広嗣が「玄�ムと真備を排除せよ」という要求をして、九州大宰府で反乱を起こしました(藤原広嗣の乱)。乱は鎮圧されましたが、聖武天皇は都を恭仁(くに=京都)に移し、鎮護国家を願って741年、「国分寺建立の詔」を発しました。さらに疫病がひろがったことで、都を滋賀の紫香楽(しがらき)宮、大阪の難波京に移したりしたのち、平城(奈良)に移したのは745年のことでした。

このころから藤原仲麻呂が勢力を伸ばし、玄�ムは封戸を奪われただけでなく、大仏造営の勧進役を行基が大僧正となって行うことになり、筑紫国(福岡)の観世音寺に移され、この地で亡くなりました。


「6月18日にあった主なできごと」

1815年 ワーテルローの戦い…エルバ島から脱出したフランス皇帝ナポレオン1世は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に、「ワーテルローの戦い」で敗れました。

1940年 レジスタンス…ヒトラー率いるドイツとの戦いに敗れ、首都パリが陥落すると、フランス軍将軍のド・ゴールはイギリスへ亡命することを決断。ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と抵抗(レジスタンス)をフランス国民に呼びかけました。

1945年 ひめゆり学徒隊集団自決…太平洋戦争の末期、沖縄では一般市民を巻きこんだ地上戦が行なわれていました。この戦いで、負傷兵の看護を行なってい女子学徒隊は、軍に解散命令を出されたことでアメリカ軍に包囲された洞窟内で、49名が集団自決をしました。さらに沖縄戦終了までに、生徒123人、教師13人が亡くなりました。その霊をなぐさめ、悲劇を二度とくりかえしてはならないという願いをこめた「ひめゆりの塔」が、沖縄県糸満市に建てられています。

今日6月17日は、ウェールズを制圧し、騎士と市民の代表を議会に参加させるなど、法治国イギリスの基礎を築いたエドワード1世が、1239年に生まれた日です。

フランス貴族の流れをくむ「プランタジネット朝」のイングランド王ヘンリー3世の長男として生まれたエドワードは、1265年に父王と貴族との間に争いがおきたとき、貴族派の指導者でイギリス下院を創設したシモン・ド・モンフォールや改革派の諸侯と「イーブシャムの戦い」に勝利し、国王の権威をとりもどしました。

1270年、第7回十字軍に参加したエドワードは、エルサレムで暗殺団にねらわれて引き返す途中に父王の死を知り、1274年に帰国してエドワード1世として即位すると、フランス的なさまざまな要素を払拭してイギリス人として統治にあたりました。貴族とも協調して法的な整備を行い、1282年にブリテン島の統一をめざしてウェールズを制圧してケルト人をイギリスに組み込みました。このとき、長男が生まれ(のちのエドワード2世)、「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えました。これがきっかけとなって、のちに「イギリス皇太子」の称号として定着します。

さらに北のスコットランド征服を試み、このスコットランド遠征の戦費としての増税を国家的に認めてもらうために、1295年「模範議会」を召集しました。これは、シモン・ド・モンフォールの議会をまねたものでしたが、大貴族・高位聖職者、各州から2人の騎士、各都市から市民2名の代表を議会に参加させたことで、王権の支持勢力である騎士と市民の信頼を得て政権を安定させることに成功、「イギリスのユスティニアヌス(東ローマ帝国大帝)」といわれました。

スコットランド征服は、激しい抵抗を受けて失敗しましたが、身長2メートル近い大男だったので「ロングシャンクス」(長脛王)と愛称され、現在まで続く多くの法令を制定するなど、法治国イギリスの基礎を築いた王といえます。

エドワード1世は、1307年に3度目のスコットランド遠征の途中で病死しました。


「6月17日にあった主なできごと」

1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。

1877年 モース来日…アメリカの動物学者のモースが来日し、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。

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