児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年06月

今日6月30日は、『イエスの裔(すえ)』で直木賞を受賞したほか、『眠狂四郎無頼控』『御家人斬九郎』『徳川太平記』など戦国・幕末を扱った作品を多く著し、「剣客ブーム」を巻き起こした大衆作家の柴田錬三郎(しばた れんざぶろう)が、1978年に亡くなった日です。

1917年、今の岡山県備前市に地主の子として生まれた柴田錬三郎(本名・齋藤)は、旧第二岡山中学を卒業後に医者をめざして上京、慶応義塾大学医学部へ入学するものの、半年後に文学部へ移り、在学中に『十円紙幣』を「三田文学」に発表したり、魯迅に傾倒して1940年同大学支那文学科を卒業しました。

内国貯金銀行、月刊誌『書道』編集部に勤務後、日本出版協会に勤めていた1942年、太平洋戦争に召集され、1945年には衛生兵として南方へ派遣される途中、輸送船が敵襲にあって沈没、7時間漂流する中で奇跡的に救助されました。

敗戦後の1949年から文筆活動に入ると、1951年「三田文学」に発表した『デス・マスク』が芥川賞と直木賞の候補に入り、翌1952年に『イエスの裔』で第26回直木賞を受賞して、本格的な作家活動に入りました。

時代小説を次々と発表しますが、1956年に創刊されたばかりの「週刊新潮」に『眠狂四郎無頼控』を連載すると、主人公の眠狂四郎が、「転び伴天連」という江戸時代に拷問や迫害によって棄教したキリシタンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てるというニヒルな剣士の姿、読み切りという斬新な手法が人気を呼び、剣豪小説の一大ブームを巻き起こしました。

以後、『剣は知っていた』『赤い影法師』『御家人斬九郎』『徳川太平記』などのユニークな時代小説のほか、1969年には『三国志英雄ここにあり』では吉川英治文学賞を受賞しています。現代小説では『チャンスは三度ある』『図々しい奴』『幽霊紳士』などの話題作を手がけたほか、直木賞の選考委員を務め、五木寛之、野坂昭如、陳舜臣、井上ひさし、藤沢周平らを選考しています。また、テレビ番組「3時のあなた」や「ほんものは誰だ?!」へ出演するなど、文化人タレントの側面を持つ人物でした。


「6月30日にあった主なできごと」

1898年 日本初の政党内閣…それまでの内閣は、長州藩や薩摩藩などの藩閥が政権を担当していましたが、自由党と進歩党がひとつになった憲政党が、大隈重信を首相に、板垣退助を内務大臣に内閣が組織されたため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板(わいはん)内閣といわれました。しかし憲政党に分裂騒ぎがおき、組閣後4か月余りで総辞職を余儀なくされました。

1905年 相対性理論…20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが、相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌に発表しました。

今日6月29日は、明治初期に「臥雲式紡績機」(ガラ紡)を発明し、日本の紡績業が機械化されるまでの発展に大きく貢献した発明家・事業家の臥雲辰致(がうん たつむね/たっち)が、1900年に亡くなった日です。

1842年、今の長野県安曇野市の豪農の家に生まれた臥雲辰致(本名・横山栄弥)でしたが、幼いころ、父親が賭け事に熱中して財産を失ってしまいました。足袋底の布を扱う問屋を始めた母の布を織るのを手伝いながら、機械の改良を考えていましたが、1861年20歳で近隣の安楽寺で出家しました。智恵(ちけい)と名乗りましたが、明治政府の廃仏毀釈により廃寺とされたため還俗し、臥雲辰致を名乗って母の仕事にもどりました。

幕末のころから日本の紡績業は、輸入綿糸や綿布に圧迫されていました。臥雲は優れた織機ができれば輸入品に負けないとの信念から、紡織機の発明に熱中、1873年に、最初の「臥雲式紡織機」を発明しました。この紡織機はガラガラ音を立てることから「ガラ紡」と呼ばれました。1877年には、その改良機を東京上野で開催された第1回内国勧業博覧会に出展すると、最高の賞である鳳紋賞牌(ほうもんしょうはい)を受賞しました。

臥雲は、専売特許を申請するものの、当時は特許制度が確立されていなかったため、公売を許されただけでした。松本に「連綿社」を設立して事業化すると、扱いやすく値も手ごろだったことで、愛知県を中心に急速に全国へ広まり、日本の紡績業の発展に大きく貢献します。ところが、模造品が各地に続出したため、連綿社は苦境におちいり、1880年に閉鎖せざるをえませんでした。それでも翌1881年、第2回内国勧業博覧会にいっそう改良を進めた「ガラ紡」を出品すると、再び機械部門の最高賞を受章します。

1885年に政府は、ようやく「専売特許条約」を定め、発明者の権利保護に乗り出しましたが、その改良機もまた全国に普及した後のことでした。やがて、高速に細い糸を紡ぐ洋式紡績機が普及したことで、「ガラ紡」は1890年ころから衰退してしまいました。

臥雲の挑戦はまだ続き、従来の織機にくらべ生産能率が15倍の蚕網織機の発明に成功すると、1890年の第3回内国勧業博覧会に出品し、3等の有功賞を受け、1896年に工場を建てて蚕網の製造に乗り出しました。しかし、まもなく病にたおれ、経済的にむくわれることのない生涯を閉じてしまいました。


「6月29日にあった主なできごと」

1866年 黒田清輝誕生…『湖畔』『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家黒田清輝が生まれました。

1903年 滝廉太郎死去…『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎が亡くなりました。

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人にも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

今日6月26日は、従来の紡績機を改良した「ミュール紡績機」の発明により、イギリス綿業を飛躍的に拡大させた紡績工で発明家のクロンプトンが、1827年に亡くなった日です。

1753年、ランカシャー地方ボールトンの貧しい農家で織布工を兼ねた両親の子として生まれたサミュエル・クロンプトンは、幼児期に父を亡くしたことで、早くから織布工として生計をたて、ハーグリーブスの発明したジェニー紡績機を使用していました。1772年ころからその改良に取り組むうち、アークライトの開発した水力紡績機の長所も取り入れた独自の紡績機を1774年に作り、実験を重ねながら、1779年に「ミュール紡績機」として完成させました。

この紡績機は、撚(よ)りかけと巻き取りが交互になされ、経糸(たていと)も緯糸(よこいと)のどちらも生産可能な上、細い良質糸の大量生産を可能にしたものでした。「ミュール」とは、ラバ(馬とロバの雑種)の意味で、従来の紡績機をはるかにしのぐ紡績機の発明により、従来までインドから奢侈品として輸入していた上等のモスリンの生産に適した糸を製造することに成功したのでした。

ところが、猛烈な勢いで産業革命が進むランカシャーの綿業界は、クロンプトンに対して冷酷でした。近隣の工場主たちは、クロンプトンの生産した糸の細さと美しさに注目し、ミュールがアークライトの特許と抵触するかもしれないといって特許を取ることを断念させ、自主的な寄付金の約束と引きかえに「ミュール」を公開させたのです。

ところが集まった寄付金はわずか67ポンドにすぎず、失望したクロンプトン1811年に英国議会に請願しました。貢献を判断するための調査によれば、ミュールの紡錘数はすでに420万錐、当時のイギリスの総紡錘数の90%に及んでいたことで、議会はイギリス綿業に対するクロンプトンの貢献に対し、5千ポンドの賞金を授与したのでした。しかし、この金も事業の失敗や息子の放蕩のために、費やされてしまったようです。

やがて完全に機械化された自動ミュールの製作により、イギリス綿業は飛躍的に拡大しますが、この失意の天才は、貧困のうちに生涯を閉じたのでした。


「6月26日にあった主なできごと」

1833年 木戸孝允誕生…西郷隆盛、大久保利通と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。

1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。

今日6月25日は、水中の呼吸装置スクーバ(アクアラング)の発明者の一人として知られ、カンヌ映画祭最高賞を受章した『沈黙の世界』など、海のドキュメンタリー記録映画を数多く製作したフランスの海洋探検家で海洋学者のクストーが、1997年に亡くなった日です。

1910年、フランス南西部ボルドー近郊のサンタンドレに生まれたジャック・クストーは、1930年にブレストの海軍兵学校を卒業後にフランス海軍に入り、海軍士官として潜水技術の研究・開発に従事しました。1943年、エミリー・ガ二ヤンと共同で世界初の潜水用水中呼吸装置(商品名・アクアラング)を発明しました。これは圧縮空気を利用した簡便な水中作業用具で、海洋開発やレジャーに新生面を開きました。

1948年には、ピカールによって発明された、推進力をもち深海を自由に動き回ることが可能な潜水装置「バチスカーフ」の試験をピカールとともに行いました。1951年から翌年にかけては調査船カリプソ号で紅海の海洋調査にあたり、海やそこに住む生物の研究を行ういっぽう、それを書籍、記録映画にして一般への啓蒙活動を行いました。他の海にも海洋調査を拡げ、1956年にはルイ・マルとの共同監督によるドキュメンタリー記録映画『沈黙の世界』が、カンヌ国際映画祭で最高の栄誉となるパルムドールを受賞したほか、アカデミー賞最優秀記録映画賞を受章しました。翌年にも『太陽の届かぬ世界』でアカデミー賞を受章しています。

1957年に海軍を退役し、モナコ海洋博物館所長、フランス海洋開発センター所長を歴任しながら、海の国連と呼ばれる世界水中連盟(CMAS)を創設したり、テレビに進出し、海洋やアマゾン川の探検、海中居住実験などを行った記録を連続科学番組に提供しました。わが国でも、1970年代から1980年代にかけて、テレビドキュメンタリー番組『驚異の世界・ノンフィクションアワー』や『クストーの海底世界』シリーズで広く知られるようになりました。

1992年には、地球サミットで環境破壊・海洋汚染を警告し、母国フランスの核実験再開を激しく批判したことでも知られ、トレードマークの赤いニット帽とともに、「海の恋人」といわれていました。主著に『沈黙の世界』や『大いなる海の覇者』があります。


「6月25日にあった主なできごと」

845年 菅原道真誕生…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷されましたが、「学問の神」として信仰されるようになった菅原道真が生まれました。

1734年 上田秋成誕生…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が生まれました。

1956年 宮城道雄死去…琴を主楽器とする日本特有の楽曲「箏曲(そうきょく)」の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が亡くなりました。

今日6月24日は、昭和の歌謡界を代表する歌手・女優として活躍し、女性として初の国民栄誉賞を受賞した美空(みそら)ひばりが、1989年に亡くなった日です。

1937年、横浜市磯子区に魚屋の子として生まれた美空ひばり(本名・加藤和枝)は、幼少の頃から歌が上手で、母の喜美枝は終戦間もない1945年に「青空楽団」を設立し、近所の公民館や銭湯に舞台を作ってひばりに歌わせ、9歳のとき横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏ませました。

1948年9月、横浜国際劇場で歌手美空ひばりとしてデビューをはたすと、翌年に映画『のど自慢狂時代』でブギウギを歌う少女として映画初出演して注目されます。レコード会社の日本コロムビアに入社すると、8月には松竹映画『踊る竜宮城』に出演して、主題歌『河童ブギウギ』でレコードデビューを果たしました。さら映画初主演した『悲しき口笛』を大ヒットさせ、その主題歌は45万枚売れて当時の史上最高記録となり、みごとな歌唱と演技で「天才少女」の評判をとりました。1950年の『東京キッド』、1951年の『あの丘越えて』も映画とともに同名の主題歌も大ヒットとなり、戦後の沈んだ世相の中で、いちやく人気歌手の仲間入りをはたしました。

1952年、女性として初めて歌舞伎座の舞台に立つと、同年の映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が自己の史上最高記録を更新する70万枚の大ヒットとなります。1950年代後半になると、『波止場だよお父っつぁん』『港町十三番地』『哀愁波止場』の港唄を次々にヒットさせ、映画化されて、歌に映画に舞台に大活躍をし、特に、当時全盛を迎えていた時代劇に、初代中村錦之助と共演した作品は人気を呼び、1958年には15本もの映画に出演して、10曲もヒットさせて人気の絶頂期を迎えました。

やがて、映画から身を引き、歌謡界の天才少女から「歌謡界の女王」へ成長を遂げた美空は、舞台で活躍するいっぽう、歌唱力に磨きがかけられ、1965年には190万枚売り上げた『柔(やわら)』でレコード大賞グランプリを受章、1966年の『悲しい酒』も売上145万枚を記録し、1967年には人気フォークグループ「ブルー・コメッツ」をバックに歌った『真っ赤な太陽』で新境地を開いて140万枚を売り上げました。

その後、美空の人気は下降線をたどりはじめ、1986年ころから体調を崩して福岡市で入院しますが、快復すると、最後の力をふりしぼるように『愛燦燦(さんさん)』(1986年)『みだれ髪』(1987年)『川の流れのように』(1988年)と、今も歌いつがれるヒット曲を連発させて人気を復活させました。

しかし1989年、無理を重ねた再起コンサートの連続に再入院し、52年の生涯を閉じてしまいました。没後、女性として初の国民栄誉賞が授与されました。


「6月24日にあった主なできごと」

672年 壬申の乱…古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が始まりました。大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の争いで、およそ1か月続きました。

1611年 加藤清正死去…豊臣秀吉の家臣として仕え、秀吉没後は徳川家康の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった加藤清正が亡くなりました。1562年に誕生した日でもあります。

1788年 田沼意次死去…江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次が亡くなりました。

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