児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年05月

今日5月8日は、スタンダール、バルザックの後を受け、近代リアリズム文学の頂点をきわめたと評価されるフランスの作家フロベールが、1880年に亡くなった日です。

1821年、フランス北部ルーアンの病院長の子として生まれたギュスターブ・フロベールは、幼少のころから死や病を身近にしたとから、内気で物事を深く考える性格に育ったようです。早熟な子どもで、9歳のころに物語を書きはじめ、12歳のころには劇作家を夢見て脚本を書くほどでした。ルーアン王立中学を経て、パリ大学法学部に入るものの、生涯の持病となる神経病発作をおこして学業を断念し、ルーアン近郊クロワッセにあった父の別荘に移り住みました。以後、旅行やパリへ出かける以外はほとんどこの地で、文学と創作に専念することになります。

1849~51年、友人とエジプトやトルコなど東方旅行に出かけ、帰国後は友人の忠告や15歳のときに出会った美しい夫人との思い出をヒントに、4年半の歳月をかけて長編小説『ボバリー夫人』を完成させると、1856年10月から3回に分けて、文芸誌に掲載されました。内容は、ボバリーという田舎医者の後妻となったエンマが、あこがれていた結婚生活があまりに退屈なために2人の男に恋して夢を実現させようとするものの、男に捨てられ、夫に内緒の借金の末に追いつめられ、ついに自殺してしまうまでを描いたものでしたが、その内容が風紀を乱すという罪で起訴されてしまいました。

しかし翌年、よく知られている公判中の「ボバリー夫人は私だ」と文学的信念を語って無罪判決を勝ち取り、単行本として出版されるやベストセラーとなり、いちやく有名になりました。そしてこの作品は、厳しい客観主義を重視し、たとえば服毒自殺の場面を描くのにも多くの医学書を読み込むなど、その徹底した写実主義は、わが国の田山花袋や島崎藤村らの自然主義文学に大きな影響を与えました。

その後フロベールは、『感情教育』(1869年)や、未完の長編『ブバールとペキュシェ』に、現実生活をテーマにした作品を書くいっぽう、『サランボー』(1862年)『聖アントアーーヌの誘惑』(1874年)のような、歴史や伝説をテーマにしたロマン主義的幻想を描いた作品を交互に発表しているのは、興味深いものがあります。


「5月8日にあった主なできごと」

1615年 大坂夏の陣…豊臣秀頼の生母で、秀吉亡きあと秀頼の後見人として豊臣家一族を盛りたてた淀君が、家康のはかりごとに屈し、「大坂夏の陣」に敗れて秀頼とともに自害しました。

1794年 ラボアジェ死去…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明したことで「近代化学の父」と称されたフランスの科学者ラボアジェが、ある時期に徴税請負人をしていたことがわかり、ギロチンで処刑されました。

1859年 デュナン誕生…負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家デュナンが生れました。この誕生日を記念して、5月8日は「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。

今日5月7日は、ドイツ王国を統一して西ヨーロッパへの影響力を強め、「神聖ローマ帝国」の初代皇帝となったオットー1世(大帝)が、973年に亡くなった日です。

フランク王国を興したカール大帝(742─814年)により、ドイツを含む西ヨーロッパ世界の秩序は安定しましたが、カールの没後に3つの国に分裂し、そのひとつ「東フランク」(ドイツ)は、北欧のノルマン人や東方のマジャール人の侵入を受けて衰退していました。そんな中から、次第に力を伸ばしてきたのが「ザクセン朝」でした。

912年、ザクセン王ハインリヒ1世の子として生まれたオットーは、936年、諸部族をおさえてドイツ国内を統一しかけて亡くなった父王に代わってドイツ国王オットー1世となりました。しかし、それに不満を持つ者も多く、異母兄や弟のハインリヒらの反乱を押さえると、947年には直轄領のザクセンに加えて、ハインリヒを許してバイエルン大公の地位を与えたのをはじめ、フランケン・シュバーベン・ロートリンゲンの全ての大公領をオットー1世とその近親者の掌中に収め、ドイツ王国の基礎を固めました。

いっぽう、マジャール人を徹底的に破ってその後の侵入を不可能にさせ、フランスのロートリンゲン帝国の内紛に介入してドイツとの併合を認めさせた他、デンマーク王国やボヘミヤ公国を傘下にしました。また961年までに、ローマ教皇に近づいて3回にわたるイタリア遠征の末にイタリアをほぼ併合したばかりか、翌962年にはローマ教皇ヨハネス12世から「神聖ローマ帝国皇帝」として戴冠されました。

これにより、皇帝は、教皇の宗教上の権利は認めるかわり、政治上では皇帝に従わせることになったため、ドイツ皇帝がローマ皇帝を受け継ぐことになります。こうして「神聖ローマ帝国」は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリアを中心に、ナポレオン1世につぶされる1806年まで続きました。しかし、皇帝の権力は諸侯の力が大きく伸びることで弱められ、13世紀ころからは名前だけの存在に近いものでした。

なお、オットー1世の晩年はほとんどイタリアで過ごしました。当時東ローマ(ビザンチン)帝国が治めていたベネチアと南イタリアを傘下にできなかったため、ローマ帝国の称号を東ローマ帝国に認めさせるため、息子(オットー2世)の妻に、東ローマ皇帝の王女を迎え入れています。

こうしてオットー1世は、学問と文化を隆盛させた「オットー朝ルネサンス」を、後の時代へ橋渡しするという大きな業績を残したことで「大帝」と称されています。


「5月7日にあった主なできごと」

1615年 真田幸村死去…安土桃山時代から江戸初期の豊臣方の武将で、大坂の陣で大活躍した真田幸村が亡くなりました。

1730年 本居宣長誕生…35年かけて完成させた『古事記伝』など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者本居宣長が生れました。

1824年 第九の初演…ベートーベンの交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。

1840年 チャイコフスキー誕生…バレー組曲『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』、交響曲『悲愴』、弦楽四重奏曲『アンダンテカンタービレ』などを作曲したロシアの作曲家チャイコフスキーが生まれました。

今日5月1日は、ナチス・ドイツ率いるヒトラー政権の宣伝大臣をつとめたゲッペルスが、1945年ヒトラー自決の後を追って亡くなった日です。

1897年、ドイツ中西部の中都市ライトに厳格なカトリック市民の子として生まれたヨーゼフ・ゲッベルスは、4歳の時に患った小児マヒの後遺症で左足に障害が残り、第1次世界大戦での徴兵検査で失格となりました。しかし、そのハンディをバネに学業に打ちこみ、1921年にはハイデルベルク大学で哲学博士の学位を取得します。卒業後は、ジャーナリストをめざすもののかなわず、銀行員として働いているとき、ヒトラーと運命的な出会いをして1922年にナチス党へ入党、N・S通信の編集をしたり、当初はヒトラーと対立する党内左派の幹部グレゴール・シュトラッサーの秘書などをしました。

やがてヒトラーの忠実な部下となり、弁舌の才能を買われて1926年にはベルリン管区指導者に抜てきされ、同地区を本拠地としていたドイツ共産党と激しい闘争をくり広げました。いっぽう党機関誌「デア・アングリフ(攻撃)」を創刊して、ユーモアとウィットに富んだパフォーマンスで民衆を魅了し、ナチス党の勢力拡大に大きく貢献します。1929年にはナチス党の中央宣伝責任者となり、12議席だったナチス党の国会議席を、大不況の追い風にものって、1932年に196議席、翌1933年には288議席まで大躍進させました。

こうしてヒトラー内閣が成立すると、新設された国民啓蒙宣伝大臣に任命され、就任早々の1933年5月に、反ナチス、ユダヤ的とされた大量の書物を焼く(焚書)を行って言論弾圧を行ったのを手始めに、新聞・ラジオ・出版物などドイツのマスコミや文化を完全に統制して、ユダヤ人排斥運動を煽りました。さらに、国民をナチスの考えに巻きこんで、1939年に第2次世界大戦をひきおこし、ドイツ国民を戦争にかりたてていきました。

一時は、オランダやフランス、東ヨーロッパ諸国を傘下におさめたもののソ連との戦いに苦戦、演説を行わなくなったヒトラーに代わって徹底抗戦の演説を行ったり、空襲で被災した都市を視察し、救助隊の組織をして国民の賞賛を得るなどしました。スターリングラード大敗北後の1943年2月には、「総力戦」という言葉を使って戦争継続の士気を高める宣伝工作を行いました。

しかし1945年4月30日、連合軍とのベルリン攻防戦のさなか、首相官邸地下壕で自決したヒトラーを見届けると、翌日のこの日、6人の子どもを毒殺、自らは妻とともに拳銃で自殺してヒトラーの後を追ったのでした。


「5月1日はこんな日」

メーデー…世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭りの日」です。


「5月1日にあった主なできごと」

1873年 リビングストン死去…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが亡くなりました。

1904年 ドボルザーク死去…『スラブ舞曲』や『新世界より』などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが亡くなりました。

1951年 永井隆死去…長崎で被爆したにもかかわらず、献身的な被爆者治療にあたった医師で『長崎の鐘』に歌われた永井隆が亡くなりました。

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