児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年05月

今日5月15日は、アメリカを発見したコロンブスが、西回り航海を決意させた海図を提供したイタリアの地理学者・数学者・天文学者のトスカネリが、1482年に亡くなった日です。

1397年、イタリア・フィレンツェに医師の息子として生まれたパオロ・トスカネリは、当時学問の中心だったベネチア共和国のパドバ大学で数学と医学を修めました。その間、ドイツの枢機卿で自然科学者だったクザーヌスと親友となり、その後長期間にわたりさまざまなジャンルの最新知識を交換しあいました。

1425年にフィレンツェにもどり、医者をしながら天文学に精通し、いくつもの彗星を観測して、それらの軌道を念入りに計算したことが知られています。大聖堂の建設に協力し、1468年には大聖堂に日時計を設置して子午線を設定したり、1470年に、アジアがヨーロッパの西方にある地図を作成するなど、ルネサンス初期におけるフィレンツェ知識階級の中心人物となりました。

1474年、ポルトガルの友人でリスボン大聖堂司教フェルナンへ送った手紙と海図には、西回りで香料諸島やアジアに行く計画が詳細に記されていたようで、トスカネリが地球球体説を確信していたことがよくわかります。

のちにトスカネリと知り合ったコロンブスは、トスカネリがフェルナンに送付した海図と同じものを手に入れました。この地図が、ローマに来た東方の使節や商人から聞いた話を総合してこしらえたことをトスカネリから聞き出すと、コロンブスは、マルコポーロの旅行記に基づいて黄金の国ジパングをめざしす計画を練り上げました。しかし、トスカネリが地球の直径を小さく見積もってしまったことが、コロンブスのアメリカをアジアと誤認する結果となってしまったようです。


「5月15日にあった主なできごと」

1932年 5・15事件…海軍の若い将校を中心に陸軍や右翼の若者たちが、政党や財閥をたおして軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相官邸や警視庁などを襲撃、犬養毅首相を射殺する事件を起こしました。この惨劇により、14年間続いた政党内閣が断絶しました。

1972年 沖縄本土復帰…第2次世界大戦後アメリカに占領されていた沖縄が、26年ぶりに返還され、沖縄県として日本に復帰しました。

今日5月14日は、バレエ『飛鳥物語』『戦国時代』『角兵衛獅子』などの創作、「橘バレエ学園」を設立して、娘の牧阿佐美ら数多くの優秀なバレリーナを育てた橘秋子(たちばな あきこ)が、1971年に亡くなった日です。

1889年、栃木県宇都宮市に生まれた橘秋子(本名・福田サク)は、栃木師範学校(今の宇都宮大学)を1926年に卒業後、県内の高等小学校に勤務し、おもに体操の教師として創作ダンスを作るうちバレエに興味を持つようになりました。やがて本格的なバレエの道を志すと、1930年鎌倉にあったロシアから来日したエリアナ・パブロワ・バレエ団に内弟子として入団しました。まもなく浅草松竹座での公演でデビューをはたすと、翌1931年には、自作『生蕃(せいばん)の印象』 を日比谷公園音楽堂で発表して絶賛を浴びました。

1933年に独立、橘秋子舞踊研究所を杉並区大宮前に開設すると、門下生とともに橘秋子舞踊団(後の橘バレエ団)として公演活動を開始しました。また、パブロワのもとで草創期の日本バレエ界で活躍していた牧幹夫と結婚、娘の阿佐美をさずかりました。秋子と幹夫は、幼い阿佐美を親戚に預けると、『こわれた人形』など数多くの作品を引っ提げて全国各地を公演しました。ところが、1938年にタゴールの思想に魅かれた幹夫はインド芸術を学びたいと単身インドへ渡ってしまいました(帰国することなく1970年ポンペイで死去)。その後、秋子率いる舞踊団は、1939~44年、満州や山西省などへ慰問団の一員として、戦場の兵士を励ます活動を行いました。

敗戦後の1946年、新宿の保育園内にバレエ研究所を開設して公演活動を再開すると、1950年には橘バレエ学園を設立します。優秀なバレリーナには、幅広い教養と精神修養の必要性を感じていた秋子は、バレーレッスン以外に、礼法・座禅・茶道などを採り入れました。1952年に学校法人に認可されると、世界的なバレリーナのアレキサンドラ・ダニロワを講師をに招くいっぽう、シンフォニック・バレエ『運命』『未完成交響曲』や、創作バレエ『飛鳥物語』『戦国時代』『角兵衛獅子』などを次々に発表して、どの公演も成功させました。

1956年には、大成した娘の阿佐美を筆頭に、門下生の大原永子、森下洋子らとともに「牧阿佐美バレヱ団」を結成し、数多くの公演を成功させ、今も日本を代表するバレエ団として親しまれています。

なお、秋子は、1960年に 『運命』の振付で芸術選奨文部大臣賞受賞したほか、『飛鳥物語』振付で東京新聞舞踊芸術賞受賞。1967年には、日本バレエ界に残した功績により紫綬褒章を受章しています。


「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇は、京都近隣の武士1万7千人に対し、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。

1839年 蛮社の獄…江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士渡辺崋山、高野長英らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを、崋山や長英らが非難したことへの反感からの逮捕でした。

1878年 大久保利通死去…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者大久保利通が暗殺されました。

今日5月13日は、動物学・古生物学・分類学などの分野で先駆的研究を行ったフランスの博物学者キュビエが、1832年に亡くなった日です。

1769年、スイス国境に近いモンベリアールに、退役軍人の子として生まれたジョルジュ・キュビエは、幼少期から記憶力の優れた勉強家として注目され、1784年にドイツのシュツットガルトのカールスアカデミーに入学し、初めは軍人養成のための経済、行政、法律などを学んでいました。やがて植物学、動物学、博物学を学ぶうち、比較解剖研究に取り組むキールマイヤーと出会って、この分野の研究を深めたいと考えるようになりました。

貧しかったため、卒業後は貴族の家庭教師をしながら、軟体動物・甲殻類・ヒトデ類などの海産動物の内部形態を探るうち、著名な博物学者エティエンヌにその成果が評価され、1795年にパリにある国立自然史博物館の比較解剖学教授の助手として採用されました。

まもなくその実力が認められ、翌1796年からパンテオン中央学校で講義するようになり、講義記録が『動物の自然史の基礎』として出版され、1799年には国立コレージュ・ド・フランスの自然史教授となりました。また、1800~05年に発表した『比較解剖学講義』は、その分野の古典的研究として高く評価され、1802年にはパリ植物園の教授になるいっぽう、公教育の視学監督官に任命され、公務や講義に追われながらも著作活動を続けました。

当時、パリのモンマルトルにある石膏採掘所から、多くの哺乳類の化石が発見されているのを知ると、バラバラに出てきた骨と現在の動物とを比較する新しい研究の道を開き、1812年に『化石骨の諸研究』を発表。1825年には『地表変革論』を発表し、ラマルクらの主張する進化論より、「天変地異説」という、大洪水など地球的規模でおこった激変により古い生物は滅び、新しい生物が1段階ずつ高等になるという説をとなえました。

代表的な著書は、『動物の自然史の基礎』や『比較解剖学講義』に手直しを加え、1829~30年に改訂版として刊行した通称『動物界』(5巻)です。動物には「脊椎動物」「軟体類」「関節類」「放射類」の4つの部門があること、さらに15類に分類できること、各器官・部分は特定の機能の媒介によって統一されていることを主張したことが知られています。

さまざまな能力を兼ねそなえたキュビエは、ナポレオン1世にも重用され、パリ大学の評議員に任命されるなど数々の重要ポストにつき、ナポレオン失脚後もパリ大学の総長を数年間務めたほか、内務次官となったり、亡くなるまで国家評議委員を務め、博物学者として当時のヨーロッパ学界をリードする存在でした。


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易再開要請…室町幕府第3代将軍の足利義満は、明(中国)に使節を派遣し、明との貿易要請をしました。明は、遣唐使以来、長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、明の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易」とも呼ばれています。

1717年 マリア・テレジア誕生…ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いたマリア・テレジアが生まれました。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった松平定信が亡くなりました。

今日5月12日は、戯曲をはじめ詩、小説、童話、随筆、評論などさまざまな分野で活躍した文学者秋田雨雀(あきた うじゃく)が、1962年に亡くなった日です。

1883年、今の青森県黒石市に産科医の子として生まれた秋田雨雀(本名・徳三)は、父が眼病で失明してしまったため、子どものころから父の代書をしたり、本を読んであげたりしました。また、聖書や近代日本文学に親しむ幼少期を過ごしたことで、感受性豊かな少年に育っていきました。旧青森第一中学を経て、東京専門学校(のちの早稲田大)英文科に入学すると、在学中に幸徳秋水の演説を聞いて社会主義に関心を持ついっぽう、1904年には詩集『黎明』を自費出版したり、小説を書くようになります。

1907年卒業後は作家として自立する決意をし、翌年「早稲田文学」に発表した小説『同性の恋』が恩師の島村抱月に認められるなど新進作家として話題を呼び、戯曲『記念会前夜』『第一の暁』『埋もれた春』などを次々に発表して劇作家としても注目されるようになりました。

1913年には抱月が創立した劇団「芸術座」に参加して新劇改革に取り組み、翌年沢田正二郎らと美術劇場を設立するものの劇団経営に失敗してしまいました。失意の時に来日した盲目のロシア人作家エロシェンコと親交を結ぶうち相馬黒光と知り合い、新宿中村屋2階での会員制朗読会「土蔵劇場」を主催し、島崎藤村、有島武郎、高村光太郎ら多くの文化人を集め、関東大震災で建物が崩壊するまで開催しました。

その間、「新潮」などに30編ほどの小説を発表しながら、1919年ころからは意識的に童話創作に打ちこみ、『旅人と提灯』『仏陀と戦争』『白鳥の国』など人道主義、反戦思想の色濃い作品を発表しています。やがて社会主義思想にいっそう近づくと、1921年には日本社会主義同盟に加入、1927年にはロシア革命の10周年祭に国賓としてソ連に招かれました。それ以後は、プロレタリア文化運動の中心者として文化運動の中心としての活動に身をささげたことで逮捕されることもありましたが、信念を曲げることはありませんでした。

戦後は、「舞台芸術学院」を設立して院長となり、日本児童文学協会会長として演劇や児童文学の後継者の指導にあたりました。童話作品には、上記の他『東の子供へ』『太陽と花園』などがあり、短編ながら読後にじっくり考えさせる作品が多く、私にとっては『監督判事』が特に印象深いもので、笑いがこみあげてくる小品です。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、秋田雨雀の『三人の百姓』だけを読むことができます。
「青空文庫」さまへ「お願い」 『監督判事』他、もっとたくさん雨雀の作品をとりあげてください。


「5月12日にあった主なできごと」

1534年 織田信長誕生…群雄割拠といわれる戦国時代を走りぬけ、全国統一を目の前にして家臣明智光秀の謀反に倒れた武将・織田信長が生まれました。

1698年 青木昆陽誕生…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な青木昆陽が生まれました。

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力したナイチンゲールが生まれました。5月12日は国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」とされています。

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。

今日5月11日は、『価値論と社会主義』『共産主義批判の常識』などを著し、皇太子明仁親王(今の天皇)の教育係をつとめた経済学者・教育家の小泉信三(こいずみ しんぞう)が、1966年に亡くなった日です。

1888年、東京三田に慶応義塾第2代塾長小泉信吉の長男として生まれた信三は、父が福沢諭吉の門下であったことから、幼少のころは晩年の諭吉の家に同居したこともあったようです。1910年慶応義塾大政治学科を卒業後は母校の教員となり、1912年にヨーロッパへ渡ってイギリス、フランス、ドイツの各大学で経済学や社会思想史を学びました。

1916年に帰国すると、同大学教授となって経済学や社会問題を中心に講義し、1920年に発表した『社会問題研究』で、社会思想家としての名声を確立しました。また、1923年に『価値論と社会主義』を刊行し、共産主義やマルクス経済学に対し、保守的リベラリズムの立場から徹底した批判を加えたことで、マルキストの河上肇、山川均、櫛田民蔵らと大論争を行ったことはよく知られています。小泉は、あくまで経済学の本流はリカードが完成した「古典的経済学」にあることを主張し、1934年には『リカアドオ研究』を著しました。

いっぽう1933年からは、14年間にわたり慶応義塾大塾長となり、戦中・戦後の困難な時代の大学運営をにないました。その間、1人息子の戦死や東京大空襲で火傷による重傷を体験しています。戦後も「共産主義の脅威」を説いて政府の方針を支持し、1949年からは東宮御教育参与となって、皇太子明仁親王の教育係をつとめ、美智子妃との成婚をとりきめ、皇室の近代化に努力しました。

経世的・啓蒙的随筆家としても知られ、1959には文化勲章受章しました。著作は上記以外に『マルクス死後五十年』『福沢諭吉』など多数あり、1949年に著した『共産主義批判の常識』はベストセラーになっています。


「5月11日にあった主なできごと」

1473年 細川勝元死去…室町時代の武将・守護大名で、応仁の乱の東軍総大将として知られた細川勝元が亡くなりました。

1891年 大津事件…日本訪問中のロシア皇太子ニコライ(のちの皇帝ニコライ2世)は琵琶湖見物の帰りに大津市を通ったとき、警備の巡査に突然斬りかかられました。この「大津事件」でロシアとの関係悪化を恐れた政府は、犯人の死刑判決を求めましたが、大審院(現在の最高裁判所)は政府の圧力をはねつけ「無期懲役」の判決を下しました。これにより日本の司法権への信頼が、国際的に高まりました。

1970年 日本人エベレスト初登頂…松浦輝夫と植村直己が日本人初となる世界最高峰エベレストの登頂に成功しました。

↑このページのトップヘ