児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年05月

今日5月22日は、鎌倉幕府の第14代執権で、新田義貞らによる鎌倉攻めにあって敗れた北条高時(ほうじょう たかとき)が、1333年に自害した日です。

鎌倉時代中期、当時大陸を支配していたモンゴル帝国と属国の高麗王国によって2度にわたる日本への侵攻(1274年「文永の役」・1281年「弘安の役」)された、いわゆる「蒙古襲来」に対し、幕府はなんとか退散させたものの、懸命に闘った御家人たちへの褒章に苦慮したことで、急速に衰えをみせはじめていました。

1303年、第9代執権北条貞時の子として生まれた北条高時は、1309年に7歳で元服すると、9歳の時に父貞時が死去、1316年に14代執権となるものの、妻の父に当たる秋田時顕や、家臣の長崎高綱・高資(たかすけ)父子が実権を握る中で、名ばかりの執権だったことから、闘犬見物、飲酒、田楽鑑賞にうつつをぬかしました。
(『太平記』によれば、鎌倉じゅうの闘犬は数千匹におよんだといいます) 1331年、高資の策略で、わずか24歳の高時は、病気を理由に出家させられてしまうものの、実質的執権として背後で少しずつ政治に関わりはじめました。

こんな幕府の混乱ぶりは、京都の公家勢力にまきかえしの機会を与えることとなり、1331年8月に後醍醐天皇が倒幕を企てて笠置山へこもり、河内では楠木正成が挙兵する「元弘の乱」が起こると、高時は大軍を上洛させて乱を鎮圧し、翌1332年には後醍醐天皇を隠岐島へ配流、側近の日野資朝らを処刑したほか、皇位に光厳天皇を立てました。

1333年に後醍醐天皇が隠岐を脱出してふたたび挙兵すると、幕府は下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣しました。ところが高氏は、後醍醐天皇方に寝返って京都にある幕府出先機関の「六波羅探題」を攻略します。いっぽう関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵して鎌倉へ進撃すると、有力御家人たちに次々と寝返られた高時は、北条家菩提寺の東勝寺へ退き、北条一族とともに自刃。140年つづいた鎌倉幕府は滅亡したのでした。

なお、南朝側に立った古典歴史文学『太平記』が広く世間に流布したため、高時が暗君、暴君、愚かな殿といったレッテルを張られてきましたが、最近では、繊細で温厚な人柄であったと、再評価されるようになってきています。


「5月22日にあった主なできごと」

337年 コンスタンティヌス大帝死去…ローマ帝国皇帝としてキリスト教を公認し、都をコンスタンティノーブルに移して全盛期を築いたコンスタンティヌス1世(大帝)が、337年に亡くなりました。

1775年 蒸気機関の特許…イギリスのエンジニアであるワットは、凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこなって、この日特許を取得しました。ワットの蒸気機関は、鉱山や工場で広く用いられ、産業革命の原動力となりました。

今日5月21日は、「ハルハウス」を設立して世界最大規模のセツルメントに発展させ、生涯を貧しい人たちに捧げたアメリカの女性社会事業家ジェーン・アダムズが、1935年に亡くなった日です。

1860年、イリノイ州シダービルに豊かな事業家の子として生まれたジェーン・アダムズは、幼いころに母親を亡くし、病弱だったことから家族の愛情を一身に集め、心優しい少女に成長しました。ロックフォード女学院を首席で卒業後、フィラデルフィア女子医科大学に入って医師をめざすものの、脊髄の病気が悪化したため勉学を中断、2年後の1883年に療養をかねて、家族でヨーロッパ旅行をしたとき、ロンドンの貧民街イーストエンドで、目をそむけたくなるほどの貧しい人々に出会いました。

イーストエンドには、オックスフォード大学教授のトインビーが提唱し、「セツルメント」というボランティアの学生らが活動する福祉施設があることを知ったジェーンは、帰国後に再びロンドンを訪れ、サミュエル・バーネットにより1884年に設立された「トインビーホール」を実地見学して感動、生涯を貧しい人たちのために捧げる決意を固めました。

1889年、ジェーンは親友のエレン・スターと共同で、シカゴの貧民街にあった古い別荘を提供してもらうと、世界最大規模の地域福祉センター「ハルハウス」を設立しました。ジェーンとエレンとその仲間たちはここに住みつきました。ここは、働く母親たちのために子どもを預かって世話する保育所、料理や裁縫などを教える学校、運動場、集会所であり、音楽・演劇・絵画などの芸術活動などを通じて地域住民の生活や文化の中心となっていきました。

やがて、彼女たちの活動や考えに共感した多くの人たちが活動に参加したり、多くの寄付金も集まってセツルメント運動は全国規模の拡がりをみせるようになりました。ジェーンは1911年、アメリカセツルメント・隣保事業センター連盟を創設して、その会長に就任しました。婦人参政運動でも強力なリーダーシップを発揮し、1919年には平和と国際女性同盟の会長に選ばれています。当時のハルハウスは、週に2千人もの人を世話し、成人のための夜間学校、幼稚園、少年少女のためのクラブ活動、慈善食堂、画廊、喫茶部、体育館、プール、製本所、音楽教室、図書館などを備えた大規模な活動だったといわれています。1923年には来日し、賀川豊彦ら社会事業家らとも交流しています。

そして1931年、そんな長年の功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞。その後も74歳で生涯を閉じるまで、45年間もフル・ハウスに住みこんで、貧しい人たちへ奉仕し続けたのでした。


「5月21日にあった主なできごと」

1575年 長篠の戦い…甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いがありました。この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した野口英世がアフリカで黄熱病の研究中に発病して亡くなりました。

今日5月20日は、室町幕府8代将軍足利義政の正室で、「応仁の乱」の原因を作った日野富子(ひの とみこ)が、1496年に亡くなった日です。

1440年、山城国(京都府)に朝廷に仕える公家日野家の当主政光の子として生まれた富子は、1455年16歳で室町幕府8代将軍足利義政の正室となりました。日野家が将軍家と深く結びついたのは、日野業子(のりこ)が3代将軍義満の正室となって以来で、朝廷内に絶大な権勢をふるっていました。

1459年、富子は男子を生むもののその日のうちに亡くなってしまいました。これは義政の乳母の呪いのせいだとし、琵琶湖沖島に流罪(途中で自刃)した上、義政の側室4人も追放しました。その後富子は、女子を2人生むものの男子がなかったため、1464年に義政は、実弟で仏門に入っていた足利義視を将軍の後継者に決め、有力守護大名細川勝元を後見にしました。ところが翌1465年、富子は義尚(よしひさ)を出産します。

富子は、溺愛する義尚を将軍の後継者にしたいと、もうひとりの有力守護大名山名宗全を後見に立て、義視を推す細川勝元と対立しました。この対立と、斯波氏、畠山氏の家督相続問題などが複雑にからみあって「応仁の乱」が勃発しました。細川勝元(東軍)、山名宗全(西軍)に分かれたこの内乱は、勝負を決っすることなく長期化し、1473年に宗全と勝元が相次いで亡くなると、義尚が元服して9代将軍につきました。

政治への興味を失った義政は隠居し、東山に山荘を構え、銀閣を作って風流な生活を送るいっぽう、富子は、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付けたり、京都の入り口7か所に関所を設けて税収をはかり、米の投機を行うなどして巨額の富を得ました。そのため多くの人たちの反感を買いましたが、その財力を武器に実質的な幕府の指導者となっていきます。

1477年、ようやく西軍が引き上げたことで戦乱は終わり、1489年に義尚が25歳の若さで亡くなると、義視と自分の妹の間に生まれた足利義稙(よしたね)を将軍に擁立し、1490年義政が没すると、義稙を10代将軍につかせました。しかし後見人となった義視とともに義稙が富子に敵対しだすと、富子は義稙を廃し、義政の甥の子足利義澄を11代将軍につけるなど、亡くなるまで権勢を持ち続けました。

なお、これまでの富子は「悪妻の代表」のようにいわれてきましたが、最近では、富子の時代を見据える行動力や金融力を高く評価する歴史家も出てきました。


「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていたバスコ・ダ・ガマは、アフリカ南端の喜望峰を経て、インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

1506年 コロンブス死去…スペインのイザベラ女王の援助を得て、ヨーロッパ人として最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者のコロンブスが亡くなりました。

1799年 バルザック誕生…『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など、90数編に及ぶぼう大な小説を書き上げ、その小説群を「人間喜劇」と総称したフランスの文豪バルザックが生まれました。

今日5月19日は、オスマントルコ帝国に対するアラブ反乱を支援したことで知られる、イギリス軍人・考古学者のロレンスが、1935年に亡くなった日です。

1888年、北ウェールズのトレマドクに生まれたトマス・エドワード・ロレンスは、オックスフォード大学で考古学を学ぶうち中近東に関心を持ち、在学中の1909年にレバノンを訪れて1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしました。卒業後の1911年、恩師デイビッド博士による大英博物館の調査隊に参加し、現在のトルコ・シリア国境付近のカルケミシュで、考古学の仕事に従事しました。

第一次世界大戦が勃発すると、ロレンスはイギリス陸軍情報部将校としてエジプトのカイロへ配属されました。この大戦でイギリスは、オスマントルコがドイツ側に参戦したため、アラブ人の間にオスマントルコへの反感が高まっているのを利用して、大戦に勝利後はアラブを独立させる約束をしました。

1916年、メッカにいたフサイン・ファイサル父子がオスマントルコに対し反乱をおこすと、ロレンスはアラブ人に変装し、トルコに対するアラブ側の軍事行動を助けました。鉄道線路の爆破、アカバ(今のヨルダン唯一の港湾)の奇襲占領など、ロレンスの指導によるゲリラ戦は大きな成果を上げました。ところが、イギリス・フランスなど連合軍政府は、裏で大戦後はアラブを分割する約束(サイクス・ピコ協約)をしていたため、大戦に勝利したものの、アラブの独立は認められませんでした。(この協約により、人工的に引いた国境線が、シリア・イラクで分断されたスンニ派が抑圧され、ゲリラ組織「イスラム国」を生んだとする研究者が多くいます)

イギリスのアラブ人に対する裏切り行為に失望したロレンスでしたが、なんとか粘って2年後にファイサルがイラン国王となったのを確認すると、政府のアラブ問題顧問を辞任しました。その活躍ぶりから、「アラビアのロレンス」といわれましたが、ショーの偽名で空軍に入ったりするものの、裏切られた悔しさは、生涯消えることはありませんでした。そして除隊から2か月後、オートバイ事故で亡くなりました。

なおその半生は、1962年にデビット・リーン監督、ピーター・オトゥール主演『アラビアのロレンス』として映画化され、アカデミー作品賞を受賞するなど、世界的にヒットしたことはよく知られています。


「5月19日にあった主なできごと」

1645年 宮本武蔵死去…江戸時代初期の剣豪で、書画でも優れた作品を残した宮本武蔵が亡くなりました。

1725年 新井白石死去…徳川幕府6代将軍家宣(いえのぶ)に仕え、優れた文治政治を行なった儒学者の新井白石が亡くなりました。

今日5月18日は、『君が人生の時』『ヒューマン・コメディ(人間喜劇)』など、底抜けに明るく生きる庶民の姿を自由奔放に描いたアメリカの小説家・劇作家のサローヤンが、1981年に亡くなった日です。

1908年、アルメニア系移民の子としてカリフォルニア州フレズノに生まれたウイリアム・サローヤンは、1歳半のとき父を亡くしたため、4人の兄姉とともにオークランドの孤児院に入りました。5年後に女工となった母に引き取られましたが、学業半ばの12歳のときから、電報配達・新聞売り子・農場労働者など、10種類以上の職につきながら作家を志し、1930年ころから雑誌や新聞に採用されるようになりました。そして、1934年「ストーリー誌」に掲載された短編『空中ブランコに乗った若者』によって、いちやく注目されるようになります。

それ以後、短・長編、戯曲、映画脚本など、庶民の哀歓をわかりやすい文体で自由奔放に綴り続け、『わが心は高原に』(1938年)がブロードウェイでヒットし、翌年の『君が人生の時』も大ヒットして演劇部門でピューリッツァー賞が決定(受賞辞退)しました。同時期に出版した小説『わが名はアラム』と『ヒューマン・コメディ(人間喜劇)』は、アルメニア系アメリカ人たちの底抜けに明るく生きる姿を活写したもので、『ヒューマン・コメディ』は1943年には映画化されてアカデミー最優秀脚本賞を受賞、日本では1947年、『町の人気者』のタイトルで公開されています。

その他、『どこかで笑ってる』『ロック・ワグラム』『世界の午後の一日』『サローヤン短編集』などが評判になったほか、1939年に作詞した『家へおいでよ(Come On-a My House)』(♪ 家へおいでよ 私のお家へ あなたにあげましょ キャンディ……) は、1952年に当時15歳の江利チエミが歌って大ヒットしています。


「5月18日にあった主なできごと」

945年 紀貫之死去…平安時代の中期に活躍した歌人で、『土佐日記』を著し、三十六歌仙の1人といわれた紀貫之が亡くなりました。

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家であるダンテが誕生した日といわれています。代表作は彼岸の国の旅を描いた壮大な長編叙事詩『神曲』、および9歳の時にであった初恋の美少女ベアトリーチェをモデルにした詩文集『新生』など。イタリア文学最大の詩人、ルネサンスの先駆者とされています。

1869年 戊辰戦争終結…明治維新で江戸城無血開城後、旧幕府軍をひきいて箱館(函館)の五稜郭を拠点に、蝦夷(えぞ)共和国を樹立した榎本武揚らが降伏し、戊辰(ぼしん)戦争が終結しました。

1872年 ラッセル誕生…イギリスの哲学者・論理学者・数学者で、原水爆禁止や平和運動に力をつくしたラッセルが生まれました。

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