児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年05月

今日 5月29日は、亜酸化窒素の発見、ナトリウム・カリウム・マグネシウム・カルシウムなどの純粋分離、「デービー灯」の発明など、電気化学の基礎を築いたイギリスの化学者・発明家のデービーが、1829年に亡くなった日です。

1778年、南西部コーンウォール半島のペンザンスに木彫職人の子として生まれたハンフリー・デービーは、幼いころから知識欲が旺盛な上に記憶力がよく、病院を営む外科医に学ぶため年季奉公に入りました。やがて、ラボアジェの化学教科書を参考に独学で化学実験を重ね、1798年にブリストルのT・べドーズ気体研究所に採用され、気体の化学的・生理的研究に従事します。

そのうちデービーは、亜酸化窒素を発見し、この気体を吸い込むと笑い出したくなる性質を見つけると、公開実験をして人々に見せました。そのため亜酸化窒素は「笑気」とよばれ、麻酔剤に使用されるようになりました。この研究により、化学者としての名声を得たデービーは、1801年には王立研究所の教授となり、同研究所主催の講演会でみごとな講演を行って、人気を博しました。

1806年からは、発明されたばかりのボルタの電池を使って、水酸化ナトリウムや水酸化カリウムなどの電気分解に成功し、ナトリウム・カリウムなどの「アルカリ金属」(第1属元素)、マグネシウム・カルシウム・ストロンチウムなどの「アルカリ土類金属」(第2属元素)を純粋分離したほか、塩素やヨウ素の性質を明らかにし、ナポレオン賞初の受賞者となりました。

なお、デービーは、可燃性の気体が存在しても引火爆発をしない工夫をほどこした炭鉱用の電灯「安全灯」(デービー灯)を発明して多くの人々の命を救いました。また、製本屋で働いていた、のちに「電気学の父」と称されるファラデーを見出し、助手にして育てたことでも知られています。


「5月29日にあった主なできごと」

1917年 ケネディ誕生…わずか43歳で第35代アメリカ大統領となり、対ソ連に対し平和共存を訴え、こころざし半ばで暗殺されたケネディが生まれました。

1942年 与謝野晶子死去…明治から昭和にかけて歌人・詩人・作家・思想家として活躍した与謝野晶子が亡くなりました。

1953年 エベレスト初登頂…イギリス登山隊のヒラリーとシェルパのノルゲイが、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)の初登頂に成功しました。

今日5月28日は、大正時代に危険な思想家として東大助教授を辞めさせられ、戦後は2期にわたり文部大臣をつとめ、広島大学学長、中教審会長として活躍した経済学者の森戸辰男(もりと たつお)が、1984年に亡くなった日です。

1888年、今の広島県福山市に旧福山藩士の子として生まれた森戸辰男は、福山中学、第一高校を経て、1914年、東京帝国大学経済学科を卒業しました。森戸は、社会問題を生涯の研究課題に選んで大学に残り、恩師である高野岩三郎の経済統計研究室の助手をした後、1916年に、経済学科助教授となりました。

1919年、経済学科が経済学部として法学部から独立すると、新機運を象徴するものとして、新たに経済学部助教授に就任した大内兵衛編集による機関誌『経済学研究』を刊行しました。森戸はこの創刊号に、ロシアの無政府主義者として知られるクロポトキンの論文『パンと奪取』を翻訳し「クロポトキンの社会思想の研究」として発表しました。このことが上杉慎吉を中心とする学内の右翼勢力から危険思想を広めるものとせめたてられ、さらに新聞紙法違反の罪で森戸は発行者の大内とともに起訴され、教授会は両人を休職処分にしました。

これ対し東大新人会が森戸らを擁護、各大学の学生団体も森戸と大内を擁護し、新聞や雑誌も大きく取り上げ、言論界は大論争となります。裁判は、証人に高野、特別弁護人に三宅雪嶺、吉野作造、安部磯雄らそうそうたるメンバーが揃い、大審院まで行ったものの、原敬首相兼法相、平沼騏一郎検事総長らの強圧に屈して、有罪が確定。森戸と大内は失職し、森戸は巣鴨監獄の独房で3か月を過ごしました。(森戸事件)

出獄後は、大原孫三郎の援助で発足し、高野が所長を務めていた大阪の「大原社会問題研究所」に迎えられました。同研究所は、森戸や事件に抗議して辞めた櫛田民蔵他、東大経済学部の若手研究家たちが集まったことで、社会思想研究の権威を高め、やがて森戸は常務理事、所長代理をつとめました。

敗戦後、森戸は社会党に入党すると、1946年戦後初の衆議院議員総選挙に当選。以降3回当選をはたし、天野貞祐らと教育基本法原案の骨組み作成に携わったほか、社会保険制度調査会、教育刷新委員会、給与審議会各委員を歴任し、1947年には片山内閣、翌年には芦田内閣の文部大臣に就任、戦後の教育改革に尽力しました。

1950年広島大学学長となって政界を去り、原爆の跡が生々しく残る同大学の再建に力をそそぎました。1963年に退官すると、1966年には、文部省におかれた中央教育審議会(中教審)の会長となり、青少年がいかにその能力を向上させ人間性を育んでいくべきかを「期待される人間像」にまとめて答申しました。「愛国心」を強調したことで、進歩的知識人たちから国家主義的と批判をうけましたが、最近になり、改めて見直す動きもあらわれています。


「5月28日にあった主なできごと」

1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。

1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえています。

今日5月27日は、庶民生活の日常をコミカルに描いた『サザエさん』などの漫画で「国民栄誉賞」を授与された長谷川町子(はせがわ まちこ)が、1992年に亡くなった日です。

1920年、今の佐賀県多久市に三姉妹の次女として生まれた長谷川町子は、幼少期から旧福岡高等女学校2年まで福岡に育ち、炭鉱技師だった父の死去により、1934年に一家で上京しました。転入した山脇高等女学校在学中、「のらくろ」で有名な田河水泡に師事すると、1935年に少女倶楽部に掲載された『狸の面』で漫画家デビューをはたしました。1939年に『ヒィフゥみよチャン』が初連載され、翌1940年には『仲よし手帖』の連載が人気をよんで、女性漫画家としての地位を確立しました。

ところが、太平洋戦争が勃発し、戦局が日本に不利になると「ぜいたくは敵だ」といったスローガンのもとに娯楽どころではなくなり、大都市から地方への学童疎開が始まる1944年、長谷川家は福岡へ疎開し、町子は西日本新聞社に校閲係として勤務しました。

敗戦後の1946年、西日本新聞社から独立したフクニチ新聞社から創刊したばかりの「夕刊フクニチ」に漫画の連載を依頼された町子は、初めて『サザエさん』の連載を開始します。海岸付近を散歩しているときに、サザエさん一家のカツオやワカメなど海の生き物の名を思いついたと後に語っています。

1946年の年末に一家そろって再上京すると、姉の毬子を社長に「姉妹社」を設立し、その後1949年からは「朝日新聞」に、『サザエさん』の連載を再開。全国紙だけに人気は沸騰して、以後自身の都合で何度か中断期間をはさみながらも1974年まで25年間にわたり連載されました。庶民生活の日常をコミカルに描いた4コマの家庭漫画は、広い世代に愛され、「国民的漫画」といわれるようになり、姉妹社から出版された単行本は、全68巻となります。

1969年からは、『サザエさん』を原作にテレビアニメ化され、いまだに人気を誇っているのは驚異的です。また、『サザエさんうちあけ話』を原作とし、姉毬子を主役としてNHKの朝の連続ドラマ『マー姉ちゃん』が放送された他、『いじわるばあさん』『エプロンおばさん』もヒットしました。

1962年に文藝春秋漫画賞、1982年に紫綬褒章、亡くなった2か月後に「家族漫画を通じ戦後の日本社会に潤いと安らぎを与えた」として国民栄誉賞が授与されました。


「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)の永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが亡くなりました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。

今日5月26日は、長州藩の天保改革を指導し、幕末・維新期に活躍する人脈の土台づくりをした村田清風(むらた せいふう)が、1855年に亡くなった日です。

1783年、長州藩士郡代官の長男として大津郡三隅に生まれた村田清風(幼名・亀之助)は、藩校明倫館で国学や兵学を学び、成績優秀だったことから学費免除のうえ明倫館書物方に抜てきされ、1808年には藩主毛利斉房の小姓として仕えました。その後江戸へ赴き、塙保己一らから兵法や海防策、経世論を学ぶなど知識を広げ、1819年には家督を相続しました。その後も祐筆添役など、藩の諸役を歴任するうち、1838年、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を握り、5代藩主となった毛利敬親のもとで「天保の大改革」に取り組みました。

清風は、慢性的な借財に苦しんでいた財政改革に取り組み、城下の特権商人の力を抑え込んで借金を帳消しにしたり、「三七ヵ年賦皆済仕法」を発布して藩士の負債の救済、特産物である蝋の専売制を廃止して商人による自由な取引を許しました。その代りに運上銀を課税し、当時の西国諸大名にとっては商業・交通の要衝であった下関に越荷方(金融・倉庫業)を設置し、豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して運営させるなど、長州藩の財政を健全化させていきました。また、清風は教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育をすすめ、明倫館の拡大も行なっています。

そんな大胆な改革も、1844年に家老の坪井九右衛門らからの横槍が入ったのと、自ら中風に倒れたために藩政の実権を坪井に譲って失脚しました。その後、病から回復して子弟教育に力を注ぐかたわら『海防糸口』など、多くの著作を記しています。1855年には清風を尊敬する家老・周布政之助の強い要請により、ふたたび藩政にたずさわるものの、持病の中風悪化により生涯を閉じました。その後も、藩の実権は周布派(正義派)と坪井派(俗論派)の2派に分かれ、その対立は維新まで続きました。

なお、清風の改革は、幕末・維新期における長州藩の躍動の口火となったとして、今も高く評価されています。


「5月26日はこんな日」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て平清盛が台頭し、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1467年 応仁の乱…10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる応仁の乱が、本格的な戦闘に入りました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した木戸孝允が亡くなりました。

1933年  滝川事件…京都帝国大学の滝川教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件「滝川事件」がおきました。京大事件とも呼ばれます。

今日5月25日は、自由民権と女性民権をテーマに、男女平等を主張しつづけた岸田俊子(きしだ としこ)が、1901年に亡くなった日です。

1863年、京都の古着呉服商の子として生まれた岸田俊子は、幼いころから漢学を学び、神童とさわがれるほどでした。1877年に京都府女子師範学校に入学するものの病気のため退学し、1879年山岡鉄舟らの推挙で文事御用掛として宮中に出仕し、明治天皇の皇后に漢学を2年余り講義しています。ところが、現実の社会が中国古代の堯(ぎょう)や舜(しゅん)の政治とあまりにかけはなれていると感じはじめ、1881年に御用掛を辞すと、母とともに各地を遊歴しました。やがて高知で、民権派と知り合ったことで勇気をえた俊子は、まもなく立志社に加わり、国会開設を求め民主主義をめざす「自由民権運動」に参加しました。

1882年大阪・道頓堀で「婦女の道」の演説を行うと評判となり、やがて西日本を中心に全国をめぐって女権の拡張、男女平等の演説を行ったことで、福田(景山)英子ら多くの女性が民権運動に参加する契機をつくりました。ところが、翌1883年大津で行った「箱入娘」の演説は、政治演説とみなされて集会条例違反で拘引・留置され罰金刑を受けています。

1884年、高知出身で自由党副総理の中島信行と結婚すると、同年星亨主宰の新聞『自由の灯』に論説「同胞姉妹に告ぐ」を発表、男尊女卑は野蛮なもの、男女関係は愛憐をもってすべしと強調しました。1886年からは、巌本善治主宰『女学雑誌』誌上を、言論活動の主要な場とするいっぽう、自宅で塾を開きました。1887年にはフェリス英和女学校名誉教授に就任して「孟子」などを講義したり、学生監督として女子教育に力をそそぎました。

1894年、イタリア公使となった夫に同行して内助の功を発揮するものの、夫妻共に肺結核にかかったため翌年帰国、闘病生活を送りました。この間のいきさつは、「湘煙」のペンネームを使用した『湘煙日記』に詳しく記されています。『善悪の岐(ちまた)』『山間の名花』などの小説も残し、1900年に亡くなった夫の後を追うように、翌年38歳の若さで亡くなりました。


「5月25日にあった主なできごと」

1336年 楠正成死去…鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将で、後醍醐天皇による「建武の新政」の立役者だった楠木正成が亡くなりました。この日摂津国湊川(現在の神戸)で、九州から東上した足利尊氏の軍勢が、対立する楠正成・新田義貞軍と衝突(湊川の戦い)し、尊氏軍が勝利して正成は自害しました。

1892年 チトー誕生…6つの共和国(スロベニア・クロアチア・ボスニア=ヘルツェゴビナ・モンテネグロ・セルビア・マケドニア)からなる「ユーゴスラビア」という国がありましたが、この国を一つにまとめあげ、たくましい社会主義連邦共和国に育てあげた政治家チトーが生まれました。

1910年 大逆事件…長野県の社会主義者・宮下太吉ら4名が明治天皇暗殺計画が発覚したとして、この日逮捕されました。この事件を口実に社会主義者、無政府主義者、思想家に対して取り調べや家宅捜索が行なわれ、20数人を逮捕。この政府主導の弾圧は「大逆事件」と呼ばれ、幸徳秋水ら12名が処刑されました。

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