児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年04月

今日4月15日は、石川啄木とともに生活派歌人といわれ、国語学者としても活躍した土岐善麿(とき ぜんまろ)が、1980年に亡くなった日です。

1885年、今の東京浅草にある寺院の子に生まれた土岐善麿は、子どものころに僧侶の父から短歌の作り方を教わり、旧東京府立1中を経て、早稲田大学英文科に進み、同級の若山牧水や北原白秋らと交流しながら作歌に励みました。

卒業後、読売新聞記者となり、1910年にローマ字の1首3行書きという異色の第1歌集『NAKIWARAI』(146首収録)を出版すると、日常生活の哀歓や新鮮な叙情とともに歌壇の注目を集め、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が賞賛したことががきっかけとなって、啄木の無二の親友となりました。

1912年に啄木が亡くなると、善麿は啄木の遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編さんに尽力するなど、啄木を世に出すことに努力し、啄木の遺志をついで文芸思想誌『生活と芸術』を創刊して生活派歌人の育成に努めました。その後、歌集『黄昏に』『遠隣集』など、生活に根ざした若々しい感覚の歌の数々に、啄木とともに生活派短歌の代表歌人といわれるようになりました。いっぽう、社会部長にあった1917年には、東京~京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画して大成功を収めますが、これが今日の「駅伝」の起こりとされています。

また、古典、中国詩、能楽などの研究書を著したり、田安宗武の研究に打ちこんだりしましたが、大杉栄や荒畑寒村ら社会主義者と友好を持つうち、自由主義者として非難されるようになり、1940年に読売から移った朝日新聞を退社して、戦時下を隠遁生活で過ごしました。

敗戦後にふたたび歌作に励み、1946年には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞したり、翌年には『田安宗武』で学士院賞を受賞すると早大教授となり、上代文学などを講じたり、国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くしました。

代表的な短歌を、いくつか掲げてみましょう。

働くために生けるにやあらむ、
生くるために働けるにや、
わからなくなれり。

めづらしく、金もちのごとき
この朝の寢ねざめの心に、
スリッパをはく。

手の白き労働者こそ哀しけれ、
国禁の書を、
涙して読めり。

けふも、なほ、裏のあき家の、
そこばかり、消えぬがさびし、
やねのうへの雪。

遠く来て、この
糞のよなビフテキを
かじらんとする、──妻よ、妻よ、恋し。


「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…『古今和歌集』(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって紀貫之ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が天皇に奏上されました。『枕草子』を著した清少納言は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。

1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられるレオナルド・ダビンチが生まれました。

1865年 リンカーン死去…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領リンカーンが、南北戦争の終わった5日後の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝のこの日、56歳の生涯を閉じました。

今日4月14日は、テレビなどで人気の「銭形平次」を創りだした作家の野村胡堂(のむら こどう)が、1963 年に亡くなった日です。野村は、新聞人としては本名の長一(おさかず)、作家としては筆名・胡堂、音楽評論家としては筆名・あらえびすを使用し、広い分野で活躍しました。

1882年、今の岩手県紫波町の農家の子として生まれた野村は、1897年に旧盛岡中学に入学し、金田一京助や石川啄木と親交を結び、文学を志すようになります。1907年東京帝国大法科に進学するものの、父親が地域の農家収入増加のために始めた仕事に失敗して破産、その心労で亡くなったため、友人のノート整理や芝居小屋で働くものの授業料が払えず、大学を除籍させられました。

1912年 『報知新聞』を発行する報知社に入社して政治部に配属されると、同紙に人物評論欄「人類館(やかた)」を連載することになり、「胡堂」を筆名にするいっぽう、「あらえびす」の筆名でレコード評論等を執筆しました。新聞人としては、社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任し、1942年に退社しますが、その間に野村は、初めて新聞に「西洋音楽情報」や「時事川柳」をとりあげて評判をとり、東洋一の新聞売り上げに貢献、「報知に野村あり」といわれました。

いっぽう1931年、文芸春秋発行の『文芸春秋オール読物号』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表。以来、太平洋戦争を挟んで1957年までの26年間に、『銭形平次捕物控』を383編書いたほか、『三万両五十三次』『池田大助捕物日記』などを著しました。特に『銭形~』は、長谷川一夫主演でシリーズ化され、1949~61年までの間に18本も映画化され、テレビでも1966~84年まで大川橋蔵主演で888回放送されたほか、2000年代に入っても演じられています。なお、「銭形平次」は、中国の古典『水滸伝』に出てくる一人物「小石投げの張清」をヒントに投銭名人として創造したとしています。

1949年には、「捕物作家クラブ」が結成されて初代会長に就任、亡くなった年の2月には、私財1億円を基金に、学生等への奨学金の交付を目的とする「野村学芸財団」を設立しました。学資が払えず学業を断念した自身の苦い経験が背景になっています。


「4月14日にあった主なできごと」

1759年 ヘンデル死去…『水上の音楽』『メサイア』などを作曲し、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれる、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家ヘンデルが亡くなりました。

1867年 高杉晋作死去…江戸時代末期、長州藩に非正規軍「奇兵隊」を組織して幕府軍と戦った志士・高杉晋作が亡くなりました。

1912年 タイタニック沈没…イギリスの豪華客船タイタニック号が、処女航海の途上、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突して沈没、死者1500人以上の惨事となりました。

1917年 ザメンホフ死去…世界でおよそ100万人以上の人が使用していた人工言語、エスペラントの創案者ザメンホフが亡くなりました。

今日4月13日は、明治新政府の重職をにない、司法制度の充実に努めるなど「維新十傑」の一人とされるものの、「征韓論」に敗れて帰郷後、不平士族の乱をおこした江藤新平(えとう しんぺい)が、1874年に亡くなった日です。

1834年、佐賀藩の下級武士の長男に生まれた江藤新平(本名・胤雄)は、1848年に藩校の弘道館で学びました。尊皇攘夷論に近づいたことで退校になると、大隈重信・副島種臣・大木喬任らと同盟を結び、やがて国事に関心をもって、1856年、[アメリカやロシアなどの外圧に対抗するために開国し、通商して富国強兵をとなえよ] という意見書『図海策』を提出すると、藩の洋式砲術、貿易関係の役職に就きました。

1862年には脱藩して京都に行き、長州藩士の久坂玄瑞・桂小五郎(木戸孝允)、公家の姉小路公知らと知り合い、中央政局にかかわろうとするもののかなわず、2か月ほどで帰郷しました。当時脱藩は死罪であったものの、江藤の見識を高く評価した藩主鍋島直正のはからいで永蟄居(無期謹慎)となり、寺子屋師匠などを務めながら、同士と密かな交流をはかりました。

15代将軍徳川慶喜の大政奉還により幕府が消滅した1867年12月、江藤は蟄居を解除されて郡目付として復帰しました。まもなく、薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、王政復古の大号令を行って新政府が誕生すると、佐賀藩もすぐこれに参加。江藤は、副島とともに京都へ派遣され、翌1868年に三条実美関東監察使の軍監となって江戸へ赴き、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定すると、江藤は城内の文書類を接収し、東京遷都を成功させました。戊辰戦争が始まると、彰義隊との戦いで討幕軍の黒幕となって才腕をふるうなど、1869年には、維新の功により賞禄100石を賜っています。

1871年明治新政府の文部大輔、左院副議長となり、1872年には司法卿となって、司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)を行ったほか、学制の基礎・四民平等・警察制度の整備など、近代化政策を推進しました。

ところが、1873年に参議という重職につくと、西郷隆盛らとともに武力で朝鮮を開国させようとする「征韓論」を主張したものの大久保利通らに敗れて、西郷、板垣退助、後藤象二郎、副島らとともに政府を去りました。1874年1月には、板垣らと愛国公党を結成し、「民撰議院設立建白書」に名を連ねたあと、帰郷します。

そして2月16日、佐賀の士族たちが江藤らをかついで武装蜂起し、初の不平士族の反乱「佐賀の乱」をおこすと、政府の素早い出兵にたちまち敗れ、江藤は鹿児島・高知に逃れたものの捕まり、佐賀に護送され、見せしめのため、さらし首となってしまいました。


「4月13日にあった主なできごと」

1592年 文禄の役…1590年に全国統一をはたした豊臣秀吉は、「民」(中国)を支配下におこうと、第1次出兵として加藤清正や小西行長らの率いる兵16万人を釜山に上陸させました。これは「文禄の役」といわれ、その後ソウルを陥落させましたが攻めあぐね、翌年休戦をしました。

1612年 巌流島の決闘…宮本武蔵と佐々木小次郎が、山口県の巌流島で決闘を行ないました。武蔵は、約束の時間に遅れて小次郎をいらだたせ、「小次郎敗れたり」と叫んで相手の動揺を誘い、舟の櫓で一撃のもとに小次郎をたたきのめしたといわれています。この有名なシーンは、小説、映画、テレビドラマなどでおなじみです。

1743年 ジェファソン誕生…第3代アメリカ合衆国大統領で、イギリスからの独立宣言文を書いたジェファソンが生まれました。

1818年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、16年もかけて日本全土の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」を完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1912年 石川啄木死去…「はたらけど はたらけど なおわがくらし 楽にならざり じっと手をみる」などたくさんの短歌や詩、評論を残し、民衆歌人、天才詩人といわれた石川啄木が亡くなりました。

今日4月10日は、著名なフランス文学・文化研究者にとどまらず、さまざまの分野の研究者を組織して先駆的な共同研究システムを主導、登山家としても知られた桑原武夫(くわばら たけお)が、1988年に亡くなった日です。

1904年、今の福井県敦賀市に、東洋史の大家桑原隲蔵(じつぞう)の長男に生まれた桑原武夫は、旧京都一中・三高を経て、1928年に京都帝国大仏文科を卒業。旧大阪高や京大講師をしながら、スタンダールの『赤と黒』やアラン『散文論』を翻訳するなど、フランスの文学や評論を日本に広く紹介しました。いっぽう、早くから父とのつながりから、西田幾多郎、内藤湖南ら京都学派の多くの人たちとふれあい、さまざまな分野に興味をもつようになり、1943年には東北帝国大助教授に就任しました。

敗戦後の1946年、『第二芸術』を著し、俳句が前近代的・趣味的だと指摘し、現代人が魂を打ち込むべき芸術といえないと主張して、短歌とともに「第二芸術」と位置づけて論議をよびおこしたり、戦後の出版ブームでは、『文学入門』『日本の名著』など、新書のベストセラーをいくつも刊行しました。

1948年に、京大人文科学研究所教授となると、吉川幸次郎、貝塚茂樹らと戦後の京都学派の中心的存在として知られるようになり、『フランス百科全書の研究』『ルソー研究』は、1951年に毎日出版文化賞を受賞しています。さらに、フランス革命、中江兆民研究、現代日本文化の反省など、先駆的な共同研究システムを主導的に推進し、梅棹忠夫、梅原猛、上山春平、鶴見俊輔、多田道太郎ら多くの文化人を育てました。1959年には同研究所所長となっています。

また、今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には、京大山岳会の隊長として、パキスタンのチョゴリザへの登頂を成功に導いたり、登山を題材にした『登山の文化史』を著しています。

1968年に定年退官後も、1984年から世界平和アピール七人委員会の委員を務め、1987年には文化勲章を受章しました。


「4月10日にあった主なできごと」

1946年 初の女性議員…この日、日本ではじめて女性が参加した衆議院議員選挙が行なわれました。この選挙の女性投票率は67パーセントをこえ、女性立候補者82名のうち39名が当選をはたしました。

1952年 「君の名は」放送開始…NHKは連続ラジオ放送劇「君の名は」(菊田一夫作)を、この日からスタートさせました。放送開始から爆発的な人気を呼び、銭湯の女湯がガラ空きになるほどの社会現象をひきおこしました。

1959年 皇太子の結婚…皇太子明仁親王(現在の天皇)がこの日結婚。皇太子妃となる正田美智子さんが、民間から初の妃ということで慶祝熱が高まり、ご成婚パレードには美智子妃を一目みようと沿道に53万もの人がつめかけるなど、日本じゅうが「ミッチーブーム」にわきたちました。

今日4月9日は、スイス出身で、革命前夜のフランスで活動した銀行家・政治家のネッケルが、1804年に亡くなった日です。

1732年、ジュネーブに生まれたジャック・ネッケルは、16歳のときパリに出て、父の友人の経営する銀行に入り、のちに「テリュソン・ネッケル銀行」を設立し、経済理論家として知られるようになりました。オーストリアとプロイセンとの間に「七年戦争」(1756~63年)がおこると、国家への融資や穀物投機で大財政家になります。

1777年には、ルイ16世の財務長官となって赤字財政を穴埋めするために公債政策をとるなど、課税方式の改革を試みました。しかし、アメリカ独立戦争への多額の援助や、公債による利子負担の増加に行き詰まってしまいました。そこで1881年、「国王への財政報告書」を公表して、赤字の原因は、宮廷生活のぜいたくにあるとし、王妃マリー・アントワネットとその寵臣に質素倹約を進言したことから、貴族たちの反発をかって辞職しました。

ところが、後任が財政改革に失敗したことで、1788年8月にネッケルは国務長官として復職します。世論を味方につけて、税金を免除されている聖職者や貴族へ課税しようとするものの、かれらの反対にあい、なんとか1年後に、三部会(聖職者・貴族・平民の代表会議)を開催させることに成功します。しかし、利権を手放すことを拒否した保守派貴族やマリー・アントワネット一派の圧力もあり、1789年7月11日、財務長官職を解任されてしまいました。ネッケル解任の知らせは市民たちを憤激させ、7月14日の民衆によるバスティーユ襲撃・占領のきっかけになりました。

7月16日、民衆の歓呼をあびて再び財務長官に就任するものの、ネッケルの努力によっても財政再建の道は見出せず、革命はさらに激しくなって翌1790年9月に失意のうちに辞職し、小説『デルフィーヌ』の著書で知られる娘のスタール夫人とともに、生まれ故郷のジュネーブにもどったのでした。


「4月9日にあった主なできごと」

752年 奈良大仏開眼…聖武天皇の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれました。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。

1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだリンカーンが大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1862年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。

1976年 武者小路実篤死去…『友情』『愛と死』『真理先生』などの小説、人生賛美あふれる人生論を著した武者小路実篤が亡くなりました。

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