児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年04月

今日4月22日は、ベトナム戦争の終結、中国との国交成立に尽力するものの、ウォーターゲート事件により唯一任期中に辞任した第37代アメリカ大統領のニクソンが、1994年に亡くなった日です。

1913年、ロサンゼルス近郊ヨーバリンダの果樹園の子として生まれたリチャード・ミルハウス・ニクソンは、地元のウィッティア大学を卒業後、ノースカロライナのデューク大学法学大学院に進み、1939年に地元にもどって弁護士事務所を開業。第2次世界大戦中は海軍に入り、1946年下院議員選挙に立候補すると、共産主義を激しく非難し、カリフォルニア州共和党議員になります。やがて、国務省のスパイ活動を攻撃するなど、マッカーシーとともに「反共の闘士」としてその名を全米にとどろかせました。1950年には上院へのくら替えを試み、選挙活動期間中に朝鮮戦争が勃発、反共的な風潮が強まったことも追い風となって上院議員に選出されました。

1953年からアイゼンハワー政権で副大統領となり、病気がちな大統領を支えて、2期8年間務めました。1960年の大統領選挙では民主党のケネディに敗れ、1962年のカリフォルニア知事選にも敗れて政界を退いたかにみえました。しかし、その後の6年間、法律事務所に勤めながら党内での力を蓄え、1968年の大統領選挙に共和党から出馬し、ジョンソン政権の副大統領だった民主党の大統領候補ハンフリーを僅差で破って、第37代合衆国大統領に就任しました。

当時のアメリカは泥沼化していたベトナム戦争に対し、ニクソンは公約通り、戦争を終わらせるためにベトナムと交渉を続け、1973年1月に和平協定を成立させてアメリカ軍を撤退させ、反戦的なリベラル層からの支持も獲得しました。いっぽう、冷戦下で対立関係にあった東側に対して、官僚排除、現実主義・秘密主義外交を主とするホワイトハウス主導の融和外交を展開し、大統領補佐官のキッシンジャーとともに、融和的なデタント(緊張緩和)政策を推進、1972年2月にアメリカ大統領としては初の中国を訪問して事実上の外交関係を開始すると、ついでモスクワを訪問し、米ソ中のバランスのとれた外交を展開しました。沖縄の統治権を日本に返還したのも、このころ(1972年5月)のことです。

これらの功績が高い評価を受け、1972年秋の大統領選挙には大勝利を挙げて再選されました。ところが、「ウォーターゲート事件」が発覚。この事件は、1972年6月にワシントンの民主党本部で起きた盗聴侵入事件で、ニクソンが事件のもみけしに関わったことが判明すると、国民の不信感がいっきに高まって、下院の大統領弾劾決議が成立し、ニクソンは1974年8月に辞任、任期途中で辞任に追い込まれた、史上初の大統領になってしまいました。


「4月22日にあった主なできごと」

1451年 イサベル1世誕生…1474年カスティリャ王国の女王となり、夫がアラゴン国王となったのを機に両国を統合し、スペイン王国を建国、初代女王となったイサベルが生まれました。イサベルは、1492年にはイスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタ(国土回復運動)を完成させました。同年女王の援助したコロンブスが新大陸を発見、スペイン海外発展のキッカケとしたことは有名です。

1500年 ブラジル発見…ポルトガル人のカブラルがブラジルに漂着し、ポルトガルの旗を立てて領土としました。そのため、中南米の国々では、ブラジルだけがポルトガル語を言語としています。

1927年 支払い延期令…この年の3月に倒産や休業したりする銀行が続出、この金融恐慌を鎮めるために、3週間にわたる「支払い延期令」(モラトリアム) を発令、即日実施しました。日本銀行は、2億円の非常貸し出しに印刷が間に合わず、片面白紙の200円札を発行しました。

今日4月21日は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』など10冊以上もの著書による新しい経済理論により、全世界の人々に大きな影響を与えたイギリスの経済学者ケインズが、1946年に亡くなった日です。

1883年、経済学者の父、ケンブリッジ市長の母の子としてケンブリッジに生まれたジョン・メイナード・ケインズは、イートン校を経て、ケンブリッジ大学のキングス・カレッジで数学を専攻するかたわら、政治・経済から芸術に至るまで幅広い教養を身につけました。1906年に卒業後は2年間インド省の役人を務めると退官し、母校の研究員として学者を志し、経済原論や貨幣論を講義しました。

1911年には「エコノミック・ジャーナル誌」の編集者となり、1915年に同誌の編集長に就任したのち、大蔵省に入りました。1919年のパリ講和会議では、大蔵省首席代表として参加しますが、対独賠償要求がぼう大すぎるとして辞職し、その主張を世に問うために『平和の経済的帰結』を著すと、新しい経済学者としてのケインズの名は、世界じゅうに広まりました。

1923年に著した『貨幣改革論』では、資本主義経済の金本位制を評し、これが必ずしも最も優れた制度でないことを説いたり、1936年の『雇用・利子および貨幣の一般理論』では、失業の問題を扱い、資本家は利潤をいくらでも大きくすることができるが、労働者にはできないことを基に、国家が経済に介入する新しい理論を繰り広げました。そして、貨幣に関する新しい考えをいくつも発表して、国民生活に役立つ経済理論を改めたことで「ケインズ経済学」と呼ばれる体系を作りあげました。アメリカ合衆国のルーズベルトは、1929年からの世界恐慌に際し、この理論を採り入れて恐慌を切りぬけたといわれています。

第2次世界大戦がおこると、ケインズは再び大蔵省に迎えられ、戦時経済政策の指導に当たりながら、戦後の経済の仕組みについて考えをめぐらせ、強制貯金によりインフレを食い止めること、国際通貨を決めて自由に各国が通商できるようにすること、世界銀行を設けて国際投資を行うことなど、独自の計画を立てました。そして、戦後に「国際通貨基金」を設けるのに成功し、その委員長に推されました。

さらに、大きな戦災を受けたイギリス復興のために、みずからアメリカにわたって資金の調達に成功するものの、帰国後に急死してしまいました。


「4月21日にあった主なできごと」

1782年 フレーベル誕生…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者フレーベルが生まれました。

1910年 マークトウェーン死去…『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』『王子とこじき』など、わんぱくな自然児や少年たちの冒険物語を著したアメリカの作家マークトウェーンが亡くなりました。

1951年 民間放送の日…民間放送16社に予備免許がおりて、これまでNHKだけの放送から、さまざまな局の番組を選べるようになりました。放送はこの年の秋、ラジオからスタートしました。

今日4月20日は、連合艦隊司令長官、7代にわたる海軍大臣、短期間ながら内閣総理大臣を務めた米内光政(よない みつまさ)が、1948年に亡くなった日です。

1880年、岩手県盛岡市に旧盛岡藩士の長男として生まれた米内光政は、家が貧しかったために盛岡中学を卒業後に就職する予定でした。しかし、向学心が強く同郷に斎藤実ら海軍軍人が多かったことから、1898年海軍兵学校に入校しました。1901年に卒業後は砲術学校教官、練習艦に乗船しながら経験を積んで、1905年に勃発した日露戦争に従軍し、日本海海戦などに参戦します。

1912年海軍少佐になって海軍大学校に2年間学び、1915年から、ロシアのサンクトペテルブルク、モスクワ、ウラジオストックに勤務後、語学が堪能だったことから、1920年にはヨーロッパなどにわたって、ロシア革命の状況調査にあたりました。その後、「春日」「扶桑」「陸奥」艦長、艦隊司令官・司令長官などを務め、1936年に連合艦隊司令長官となりました。

米内は政治的な関心は薄かったものの、その国際的な視野の広さを買われ、1937年、林銑十郎内閣のもとで海軍大臣に就任すると、海軍次官を務めた山本五十六と名コンビをうたわれ、第1次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも海相を留任しました。1940年には天皇にも信頼されて総理大臣となりましたが、親英米的な考えだったことから、日独伊三国同盟を主張する陸軍側とは、しだいに対立を深めていきました。

当時ヨーロッパではドイツ軍が優勢で、オランダ、フランスが降伏すると、オランダ領インドシナ(インドネシア)やフランス領インドシナ(今のベトナム、ラオス、カンボジア)を占領しようとする陸軍の力が強まったため、6か月後に総辞職へ追いこまれてしまいました。やがて、海軍内でも主流だった米内・山本・井上成美(しげよし)の「良識トリオ」体制より、陸軍に同調する者が多くなって「三国同盟」は締結され、1941年12月8日、日本は太平洋戦争へ突き進みました。

戦争末期の1944年11月、戦争を指揮してきた東条英機退陣を受けて、小磯国昭内閣のもとで副総理格として4期目の海軍大臣に就任した米内は、一日も早く戦争を終わらせるために尽力し、敗戦後も海軍の戦後処理を担当、帝国海軍の最後を見とどけたのでした。

米内は、青少年時代から、明るくおだやかで誠実な人柄が多くの人たちに愛され、極東裁判(東京裁判)のキーナン検事から「日本の真の平和愛好者は、あなたがた4人」として、宇垣一成、岡田啓介、若槻礼次�カとともにパーティに招待されています。


「4月20日にあった主なできごと」

1141年 栄西誕生…鎌倉時代の僧で、禅宗の「臨済宗」を開いた栄西が生まれました。

1855年 犬養毅誕生…明治~昭和の政治家で、政友会総裁となり首相に就任するも、五・一五事件で暗殺された犬養毅が生まれました。

1889年 ヒトラー誕生…「わが闘争」を著しドイツのナチス党をひきいた独裁者ヒトラーが生まれました。

1901年 日本初の女子大学…この日「日本女子大学校」(現・日本女子大学)がこの日開校しました。創立者は成瀬仁蔵で、古来の良妻賢母主義から、一人の人間としての人格形成を新しい女性像として掲げてスタート。制服のえび茶色のはかまが注目の的でした。

今日4月17日は、1876年に「お雇い外国人」として来日し、短期間ながらも、浅井忠、小山正太郎、松岡寿ら明治期を代表する洋画家を指導したイタリアの風景画家フォンタネージが、1882年に亡くなった日です。

1818年、イタリア中北部のレジョネルエミリアに生まれたアントニオ・フォンタネージは、同地の美術学校で古典的な風景画を学び、やがて風景画家として認められるようになりました。1848年にトリノに出て、イタリア独立戦争に従軍するもののガリバルディの解放軍の敗北によってスイスへ逃れ、風景画で生計を立てながら、少しずつ叙情的な作風を身につけていきます。

さらに1855年パリへ出て、コローやミレーらバルビゾン派、ラビエらリヨン派の画家と交流を深めるうち、ロマン主義的作風に磨きがかけられ、1865年からはロンドンでコンスタンブルとターナーの風景画に接することで、詩情豊かな牧歌的な独自の風景画を完成させます。1868年にルッカ美術学校校長、翌1869年にはトリノの王立アルベルティナ美術学校教授に迎えられ、自らの制作活動と、後進の指導に、熱意をもって取り組みました。

1876年、58歳のときにフォンタネージは、明治政府が工部美術学校を創立し、本格的な西洋美術教育を実施するにあたり、「お雇い外国人」の一人として招かれ、画学教師になりました。画材からデッサン用の石膏像、画学教科書などを持参し、デッサンや油絵の基礎からバルビゾン派らの絵画に関する講義が優れていたばかりでなく、人間的な魅力の持ち主で、のちに明治期の洋画界を代表する浅井忠、小山正太郎、松岡寿、山本芳翠らから敬愛されました。

残念ながら、病による体調の悪化で、2年後の1878年9月に帰国しますが、失望した画学科生の多数が退学し、フェノロサや岡倉天心らの活動により西洋美術より日本美術への関心が高まったため、工部美術学校もやがて廃校になり、洋画界にとっては苦難の時代を迎えることになってしまいました。

なお、帰国後のフォンタネージは、療養のかたわらアルベルティナ美術学校に復帰し、多くの風景画を残して、19世紀イタリアを代表する風景画家と高く評価されています。


「4月17日にあった主なできごと」

723年 三世一身法… 聖武天皇が即位したこの年、農民の人口が増え、耕地が不足したため、田地を開墾した者には、本人・子ども・孫の代まで、その土地の所有を認める「三世一身法」を公布しました。当時は、土地の所有は認められず、班田収授制によって貸与された土地からの何割かを「租」として納める制度でした。

1616年 徳川家康死去…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、「江戸幕府」を開いてさらに磐石のものとした徳川家康が亡くなりました。

1895年 下関条約調印…1894年7月に始まった日清戦争は日本の勝利に終わりましたが、この日山口県下関市で、日清戦争の講和条約のための下関条約が調印されました。

4月16日は、『アメリカの民主政治』などを著し、現代大衆社会の重要な予言者といわれるフランスの政治・思想家トクビルが、1859年に亡くなった日です。

1805年、ノルマンディー地方ベルヌーイの大地主という由緒ある貴族の子として生まれたアレクシ・トクビルは、1823年にパリ大学で法律を学び、卒業後の1827年、ベルサイユ裁判所の陪審判事の職につきました。

1831年、同僚の陪審判事ボーモンと共に、アメリカの刑務所制度の視察のために渡米すると、9か月にわたって各地を旅しながら調査と視察を行い、共著で『合衆国における監獄制度とそのフランスへ応用について』を刊行、1833年にアカデミー・フランセーズ賞を受賞しました。

さらにトクビルは、裁判所を辞職後の1835年、ジャクソン大統領時代のアメリカでの見聞をまとめた『アメリカの民主政治』を出版し、大きな反響を呼びおこしました。その著書の中で、アメリカの民主主義は、社会的諸条件を平等化し、社会活動を活発化させることで生活向上への推進力となることを認めるいっぽう、社会構成員の大多数が物質主義と個人主義に陥り、彼らが一度中央権力に依存すると、新しい型の権力の専制化や絶対化が生ずる危険性をも指摘しました。

高い評判を得たことで、1840年には『アメリカの民主政治』第2巻目を刊行。アメリカ文学が語法においてヨーロッパから独立し、上流階級より一般庶民を扱うようになるだろうとか、宗教にも寛容でさまざまな宗派が成長するとか、婦人を解放し親子の関係を変容させるなど、多岐にわたる総合的な分析を行ったことで、1850年までに13版を重ね、アカデミー・フランセーズ会員に推されています。

いっぽう、1839年からは国会議員になり、1848年二月革命の際には革命政府の議員となり、翌年にはバロー内閣の外務大臣として対外問題の解決に尽力しました。しかし1851年、ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻きこまれて逮捕され、釈放後は公職を退き、歴史研究に没頭しました。1856年に著した『旧体制と大革命』は、フランスの民主政治と旧制度の崩壊の過程を分析した歴史的な著作で、『アメリカの民主政治』の続編をなすものでしたが、肺結核を悪化させ、54年の生涯を終えてしまいました。

トクビルの思想は、20世紀に入り、「大衆社会時代の予言者」「21世紀を見ぬいた人物」として再認識されるようになりました。


「4月16日にあった主なできごと」

1397年 金閣寺完成…室町幕府3代将軍の足利義満は、金閣寺の上棟式を行ないました。巨額の資金を投入した3層建で、下から寝殿づくり、武家づくり、仏殿づくりとなっています。1950年に放火による火事で全焼してしまい、1955年に再建されました。1994年、古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。

1828年 ゴヤ死去…ベラスケスと並びスペイン最大の画家のひとりであるゴヤが亡くなりました。

1889年 チャップリン誕生…『黄金狂時代』『街の灯』『モダンタイムス』『独裁者』『ライムライト』など山高帽にチョビひげ、ダボダボずぼん、ドタ靴、ステッキといういでたちで、下積みの人たちの悲しみや社会悪を批判する自作自演の映画をたくさん制作したチャップリンが生まれました。

1972年 川端康成死去…『伊豆の踊り子』 『雪国』 など、生きることの悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづり、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家 川端康成が亡くなりました。

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