児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年04月

今日4月30日は、明治時代から長く日本人に親しまれている「埴生の宿(ホーム・スイート・ホーム!)」を作曲したビショップが、1855年に亡くなった日です。

1786年、ロンドンの雑貨商の子に生まれたヘンリー・ビショップは、13歳のときに音楽出版社で働き始め、そのころから和声法を学び、1804年に『アンジェリーナ』と題された小品を作曲して認められました。1806年にバレエ音楽『タマルランとバヤジット』が王立劇場で上演されて成功を収めたのをきっかけに、王立劇場などの音楽監督をしながら、たくさんの歌劇を作曲。『チュルケスの花嫁』『偏執狂』『太陽の乙女』『ミラノの乙女』などを、次々とヒットさせます。

その後ビショップは、フィルハーモニー協会などの指揮者を経て、オックスフォード大学音楽教授を務めますが、1842年には音楽家として初めてナイトの称号を与えられ、生涯に100曲以上もの劇音楽を残しました。ところが現在では、「埴生(はにゅう)の宿」とシェークスピアの詩に曲をつけた「見よ、優しいひばりを」の2つの歌曲だけしか歌われていないのは、残念な気がします。

特に日本でよく知られている「埴生の宿」は、1823年に発表された歌劇『ミラノの乙女』の導入部のアリア「ホーム・スイート・ホーム!」が原曲です。この詩をを書いたのは、アメリカ生まれのジョン・ペインで、ロンドンで俳優や劇作家としてかなりの成功をおさめた人でしたが、この詩を書いたときは、アメリカのロング・アイランドの粗末な家に住んでいた時だったそうです。直訳すると「華やかな御殿に快楽を夢みたことがあったが、たとえ粗末な小屋でも、わが家にまさるものはない。天国にいるような魅力で身を清めてくれる小屋。世界じゅうどこを探したってこんな良いところはない。わが家よ、わが家よ、わが家にまさるものはない、わが家にまさるものはない」といった内容です。

その後ペインは、また旅に出て、アフリカの果てで1855年に亡くなりますが、亡くなる少し前ビショップへの手紙に「ビショップさんが作曲してくれた歌は、いま、どんな貧しい家でも楽しそうに歌われていますが、それを作ったぼくは、小さい時から温かい家庭もなく、寂しく一生を終わるのです……」とあったそうです。

「埴生の宿」は、日本では1889年『中等唱歌集』で紹介された、里見義(ただし) 訳詞がよく知られています。

埴生の宿も 我が宿 
玉の装ひ 羨まじ
長閑也(のどかなり)や 春の空 
花はあるじ 鳥は友
おゝ 我が宿よ たのしとも たのもしや

書(ふみ)読む窓も 我が窓 
瑠璃(るり)の床も 羨まじ
清らなりや 秋の夜半(よわ) 
月はあるじ むしは友
おゝ 我が窓よ たのしとも たのもしや

なおこの歌は、1991年の「日本のうた・ふるさとのうた100選」、2006年の「日本の歌百選」の一つに選ばれています。また、映画やドラマにもよく使われ、戦後の名作映画『ビルマの竪琴』(竹山道夫原作・市川昆監督)、『二十四の瞳』(木下恵介監督)をはじめ、『火垂るの墓』、『純情きらり』、『ゲゲゲの女房』、『マッサン』などにも効果的に使用されました。


「4月30日にあった主なできごと」

1189年 義経衣川で自害…一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いに勝利して、平氏を滅ぼした源義経は、兄の頼朝と対立、この日奥州藤原氏当主の藤原泰衡(やすひら)の率いる500騎の兵に、衣川の館を襲われました。泰衡の父秀衡(ひでひら)は、義経をかくまうよう遺言を残していましたが、頼朝からのおどしに泰衡が屈したためで、義経はいっさい戦わず、妻子を殺害して自害しました。

1945年 ヒトラー自決…ドイツの独裁者ヒトラーは、1933年から12年間ドイツを支配しました。1939年にポーランドに侵入、ソ連に戦争をしかけたことで、第2次世界大戦を引き起こしました。当初は、連戦連勝の勢いでしたが、やがてソ連の反撃にあい、1945年4月に入ると、首都ベルリン陥落まで追いつめられ、この日、前日結婚したばかりの妻とともに自殺しました。1週間後の5月7日にドイツは降伏、ヨーロッパに平和がもどりました。

今日4月28日は、長編時代小説『大菩薩峠』を著し、孤高の人生を貫いた作家の中里介山(なかざと かいざん)が、1944年に亡くなった日です。

1885年、現在の東京羽村市に精米業者の子として生まれた中里介山(本名・弥之助)は、生家の商売がうまくいかなくなったために、1898年高等小学校を卒業後に上京、以後何度となく上京・帰郷をくりかえしながら、電話交換手や母校の代用教員になるなど、一家を支えました。その間、『平家物語』などの日本古典、トルストイやユゴーらの外国小説に親しむいっぽう、多摩に色濃く残っていた民権運動の流れから、キリスト教や社会主義の洗礼を受けました。やがて「平民新聞」へ詩や小説を寄稿するうち、日露戦争開戦時には反戦詩人として知られるようになりました。

その後、社会主義から離れ、仏教思想に傾くようになって、1906年に『今人古人』を刊行後、「都新聞」に入社して『氷の花』『高野の義人』『島原城』など、次々と小説を発表しました。さらに、幸徳秋水らが処刑された「大逆事件」がおこり、親しかった人たちに多数の逮捕者や刑死者を出したことがきっかけとなって、1913年から、代表作となる長編『大菩薩峠』の連載を開始しました。

この作品は、1921年まで「都新聞」に連載され、以後は書き下ろしとして1918年に自費出版、続いて1921年「春秋社」から出版された後は、『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』『国民新聞』『読売新聞』など、連載紙を替えながらも1941年まで書き継がれました。「世界一の長編大衆小説」といわれましたが、急逝により未完の大作となってしまいました。

内容は、幕末を舞台に、主人公の剣士・机竜之介と数十人の登場人物がおりなす質の高い時代小説で、のちの剣豪小説の源となる作品として、映画や舞台で大評判となりました。しかし介山は、この小説を大衆小説といわれるのを好まず、「大乗小説」「思想小説」とし、文壇と関わることなく、6畳一間の庵を結んで「敬天愛人克己」をスローガンに独身と粗食を貫き、独自の人生観に基づく孤高の人生を貫きました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、代表作『大菩薩峠』(41巻)をすべて読むことができるほか、介山の生き方がよくわかる『百姓弥之助の話』『余は大衆作家にあらず』などを読むことができます。


「4月28日にあった主なできごと」

1945年 ムッソリーニ死去…ファシズム理論を独自に構築して、20年も独裁政治を行った第40代イタリア首相のムッソリーニが銃殺されました。

1952年 日本が独立回復…第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国軍に敗れた日本は、連合国軍に占領されていましたが、前年のこの日に調印された「サンフランシスコ平和条約」が発効し、6年8か月ぶりに独立を回復しました

今日4月27日は、豊臣秀吉政権の「五大老」のひとりで、「関ヶ原の戦い」では西軍の総大将をつとめた毛利輝元(もうり てるもと)が、1625年に亡くなった日です。

1553年、毛利隆元の長男として安芸国(広島県)郡山城に生まれた毛利輝元(幼名・幸鶴丸)は、1563年父の急死により11歳で家督を継ぎました。若かったため祖父元就(もとなり)の後見を受け、1565年に元服して11代将軍足利義輝の1字をもらって輝元を名乗りました。翌1566年に祖父とともに敵対する尼子義久を倒し、1571年に元就が亡くなると、叔父の吉川(きっかわ)元春、小早川隆景の補佐を受けて、山陽・山陰10か国中国地方最大の勢力を誇りました。

いっぽう1573年、織田信長に京都を追われた15代将軍足利義昭を保護し、石山本願寺に兵糧を援助するなど、次第に信長と対立するようになります。1577年からは、信長の命を受けた羽柴(のちの豊臣)秀吉と播磨・因幡などで数回にわたる戦いをくり広げました。1588年、信長が本能寺の変で亡くなると、輝元は備中高松で秀吉と講和し、以後秀吉に従って、四国・九州平定に活躍しました。それらの功績により、毛利家は安芸国広島城に移し、9か国112万石の大大名となりました。

秀吉の朝鮮への2度の侵略(文禄・慶長の役)では、総大将となって出陣し、豊臣政権を担う「五大老」のひとりに任ぜられます。秀吉亡きあとの1600年、天下分け目の決戦といわれる「関ヶ原の戦い」では、東軍の徳川家康が豊臣方の石田三成をやぶったことで知られていますが、輝元は西軍の総大将として豊臣秀頼を立てて大坂城にいたため、戦後は、周防・長門(ともに山口県)38万弱に減俸されてしまいました。

その後、輝元は剃髪して宋瑞(そうずい)と号し、1604年に萩に城を築いて移り、家督を幼い秀就(ひでなり)に譲って、これを後見しました。


「4月27日にあった主なできごと」

BC399年 ソクラテス死去…古代ギリシアの哲学者ソクラテスが、若者たちをまどわした罪で死刑の判決を受け、逃亡をうながす友人に『どんな「悪法」でも国の法律でさばかれた以上それにそむくことはできない』と語り、いさぎよく毒を飲んで亡くなった日です。

1917年 世界初の駅伝競走…東京遷都50年を記念して、京都から東京までタスキをつないで走る「駅伝」が世界で初めて行われ、この日から3日間、昼夜休まず続けられました。

1989年 松下幸之助死去…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げ「経営の神様」といわれた松下幸之助が亡くなりました。

今日4月24日は、プロイセン陸軍の参謀総長として、普墺戦争・普仏戦争を勝利に導き、ドイツ統一に貢献した軍人・軍事学者のモルトケ(大モルトケ)が、1891年に亡くなった日です。

1800年、ドイツ北東のパルヒムに、デンマークとドイツに古くから伝わる名家の子として生まれたヘルムート・フォン・モルトケは、デンマークの幼年士官学校に入学し、1818年にデンマーク軍の少尉となりましたが、1822年に同盟していたプロイセン軍へ移りました。

プロイセン陸軍大学を出て参謀将校になると、1835年から4年間オスマントルコの軍事顧問として、軍制改革や対外紛争の処理を指導するなど軍務体験を積み、1858年にプロイセン陸軍の参謀総長に就任します。ビスマルクの強兵政策に協力し、プロイセン軍を近代的に改革し、鉄道や電信・電話を利用して大兵力を移動させるなど近代的用兵術を練り上げました。

プロイセン軍は、1863年の対デンマーク戦に勝利して信頼を高めると、1866年の対オーストリア戦(普墺戦争)では、オーストリア軍に集中打を浴びせてわずか3週間で勝利しました。1870年5月に始まった対フランス戦(普仏戦争)でも、さらに磨きがかけられた戦術 [分散進撃・包囲・一斉攻撃] による「セダンの戦い」で、フランス皇帝ナポレオン3世を捕虜にして勝利するなど、10か月近くにわたる戦争をプロイセン側の圧倒的勝利に終わらせました。この普仏戦争の勝利によって、ドイツ諸邦はプロイセン主導によって統一され、1871年に「ドイツ帝国」が成立しました。

モルトケは、自国の防衛は、他国への攻撃によって保証されると考えた人物であるとともに、軍部の独立を主張したため、しばしばビスマルクと対立しました。しかし、政治的野心は少なく、控え目で落ち着いた人物だったことから「偉大な沈黙者」といわれました。ドイツ帝国成立後はフランスとロシアに対する予防戦争・二正面作戦計画を立てていましたが、1888年に高齢を理由に参謀総長を辞任しました。

なお、モルトケ(大モルトケ)は、1906年に甥のモルトケ(小モルトケ)も参謀総長となっているため、大・小と区別しています。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故の教訓から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

今日4月23日は、昭和初期には知識人の心をとらえた長編小説『冬の宿』『幸福』『風雪』などを著し、戦後は進歩的文化人として行動した作家・翻訳家・英文学者・評論家の阿部知二(あべ ともじ)が、1973年に亡くなった日です。

1903年、今の岡山県美作市に中学教師の子に生まれた阿部知二は、文学好きだった兄の影響を受け、旧姫路中学、旧八高時代にはトルストイやチェーホフらの文学作品に親しみました。東京帝国大学英文学科に入学すると、はじめての小説を文芸部の雑誌に発表したのを皮切りに、数々の同人雑誌に短編小説を発表します。

卒業後も小説に取り組み、1930年雑誌「新潮」に、国際色豊かな短編『日独対抗競技』を発表したところ、注目をあびて作家デビューを果たすと、同年に、20世紀西欧文学を概観する評論集『主知的文学論』を刊行し、昭和の新しい文学の担い手として広く知られるようになりました。そして1936年、代表作となる長編小説『冬の宿』を発表。軍国主義が忍びよる暗い時代を背景に、社会や人生に悩みをかかえた大学生を主人公にした作品は、当時の学生や知識人たちに高い支持を受けました。

その後『幸福』『北京』『街』『風雪』など、長編をつぎつぎと発表した他、『白鯨』(メルビル作)など外国小説の翻訳、明治大学教授として英文学を講じた内容を評論にするなど、昭和10年代を代表する文学者として活躍しました。

戦後は「新日本文学会」に所属し、思想とその方法が注目される小説『黒い影』『日月(じつげつ)の窓』などを発表したほか、1954年に女子寄宿舎を描いた長編『人工庭園』は、木下恵介監督の「女の園」の原作として映画化され、キネマ旬報ベストワンとなっています。シャーロック・ホームズシリーズの訳者としても知られるいっぽう、社会に対する関心を深め、1952年には1230人が逮捕された「メーデー事件」の特別弁護人になったり、ベトナム反戦運動に加わるなど、平和を求める実践行動をする進歩的文化人としても活躍しました。


「4月23日にあった主なできごと」

1616年 シェークスピア死去…『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『べニスの商人』などイギリスのエリザベス朝時代の演劇を代表する劇作家シェークスピアが亡くなりました。

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、幕府の要人の襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは、1円と定められていました。

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