児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年03月

今日3月3日は、近・現代中国文学研究、特に魯迅研究の第一人者で、伊藤整や野間宏らと国民文学論争を展開するなど、言論界で活躍した文芸評論家の竹内好(たけうち よしみ)が、1977年に亡くなった日です。

1910年、長野県臼田町に生まれた竹内好は、東京で育ち、旧府立一中、大阪高を経て東京帝大支那文学科に入学しました。在学中に中国を旅したことで中国文学研究者となる決意を固め、卒業後の1934年、学友だった武田泰淳らと「中国文学研究会」を結成、会報誌「中国文学月報」の編集責任者となりました。1937年から2年間は北京に留学、1943年には陸軍に召集されて中国大陸で終戦を迎えたことで、独自の中国観を育てました。

敗戦後は、魯迅研究と翻訳に本格的に打ち込み、『現代中国論』(1951年)を刊行。この著書には、[追いつき、追いこせが日本の標語であり、それをささえる『優等生文化』は、(中国の文化に対し) 自分たちは優秀で選ばれたものであり、遅れた劣等生を指導しなければならない。これが「文明の帝国意識」であり、「文明のヒエラルキー」 である。日本ファシズムの根はこの優等生文化にあり、日本文化の構造そのものである] と、鋭く論じました。

いっぽう竹内は、日中国交のない時代に、日中の友好関係を深めるための「中国の会」を作り、雑誌『中国』を発行、1972年に国交回復するまで続けました。その間、慶応大学講師を経て東京都立大人文学部教授になっていましたが、1960年の安保闘争中に、強行採決に抗議して同大教授を辞めています。

その後も魯迅研究を続け、個人訳「魯迅文集」(6巻)を計画していましたが、病に倒れ、門下の人たちの努力で、没後に完成させています。

心の広い、おおらかな人物だったらしく、こんなエピソードが残されています。あるとき、雑誌『中国』の印刷を引き受けていた会社の社長が、竹内から金を借りました。後日、礼状をそえて竹内に返金したところ「私は、まったく忘れていました。せっかくですから、拝領しお礼を申し上げます」とあり、さらにお子さんに適当なものをという一文があって、返したお金がそっくりそえられていた、ということです。


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わり、貴族のあいだで行なわれていたものが、江戸時代になって一般家庭にも広がるようになったものです。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功したベルが生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカのペリー提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたことで、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老の井伊直弼と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による「安政の大獄」で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

今日3月2日は、1901年、夫愛蔵とともに「中村屋」を創業し、荻原碌山や中村彝(つね)ら芸術家に交流の場を提供したり、ボースら亡命者をかくまって保護するなど、人道主義的実業家として知られる相馬黒光(そうま こっこう)が、1955年に亡くなった日です。

1876年、旧仙台藩士の子として仙台に生まれた相馬黒光(本名・良)でしたが、小学校にあがるころから家計が苦しくなり、キリスト教会に通ううち、12歳で洗礼を受けました。小学校を卒業後に裁縫学校に進むものの進学を強く希望し、1891年にミッション系の宮城女学校に進学しました。ところが、アメリカ式教育を押しつける教師に反発してストライキをおこして退学、横浜のフェリス英和女学校に転校しますが、文学を志して北村透谷、島崎藤村らが講師をする明治女学校にふたたび転校して、1897年に同校を卒業しました。

卒業後まもなく、長野県安曇野で養蚕事業をしていた相馬愛蔵と結婚し、愛蔵の生家に住みました。養蚕や農業に取り組んだ黒光でしたが、健康を害し、また村の気風になじめなかったこともあって、療養のため上京すると、そのまま東京に住み着くことになります。

やがて、本郷にあった小さなパン屋を買い取りると、パンの製造と販売をする「中村屋」を1901年に開業しました。1904年にはシュークリームをヒントにクリームパンを発明するなど苦労を重ねながら店を繁盛させ、1907年に新宿へ移転、1909年には、今も続く現在地に「新宿中村屋」を開店しました。夫とともに、中華饅頭、月餅、インドカリーなど新製品をつぎつぎと考案、喫茶部の新設など本業にいそしむいっぽう、愛蔵の安曇野の友人である荻原碌山、碌山の友人の中村彝ら美術家をはじめ、高村光太郎、木下尚江、島村抱月、松井須磨子、会津八一、秋田雨雀ら文学者らに交流の場を提供し、「中村屋サロン」と呼ばれる交流の場を提供しました。

碌山の代表作のひとつ『女』像は黒光をモデルとしたものだといわれているほか、黒光は、亡命したインド独立運動の志士ボースをかくまって保護したり、ロシアの亡命詩人ワシーリー・エロシェンコを自宅に住まわせたことでも知られています。また長女の俊子は、中村彝が文展で3等賞を得た『少女』『婦人像』など一連の作品のモデルとなり、のちに帰化したボースと結婚しています。中村彝の代表作『エロシェンコ』も中村屋の庇護のもとに生まれました。

なお、「黒光」の名は、恩師の明治女学校教頭から与えられたペンネームで、良の性格的な激しさから「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」ということからつけられたとされています。


「3月2日にあった主なできごと」

1894年 オパーリン誕生…生物の起源を科学的に解き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者オパーリンが生まれました。

1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語とされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし1本・よし2本」。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。

1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に成功しました。

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