児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年03月

今日3月10日は、カブール、ガリバルディと並び「イタリア統一の三傑」の一人とされる社会運動家のマッツィーニが、1872年に亡くなった日です。

1805年、イタリア北西部の港町ジェノバに、医者の子に生まれたジュゼッペ・マッツィーニは、子どものころは病弱でしたが聡明な青年に育ち、ジェノバ大学で法律を学び、卒業後に弁護士を開業しながら、評論活動をはじめました。

イタリアは中世以来、都市国家が乱立し、多くの国から支配されてきました。フランス革命の影響を受けてからは、統一の動きが少しずつ活発になってきているのを感じたマッツィーニは、秘密結社のカルボナリに入党しました。やがて自身のめざす方向と違う組織に限界を感じはじめた1830年、逮捕されて国外追放されてしまいました。しかし翌1831年、亡命先のフランス・マルセイユに、イタリアの統一と自由共和国をめざす政治結社「青年イタリア」を結成します。

この結社は、その政治的信条を出版活動を通じて公言し続けることと、ゲリラ方式の反乱を重視した活動で、国内へ急速に浸透しはじめました。1848年、市民の蜂起でミラノに革命がおこると、マッツィーニはすぐにミラノに入って活動し、翌年に「ローマ共和国」を打ち立てると、アウレリオ・サッフィ、カルロ・アルメッリーニと共に三頭政治のひとりに選ばれました。

しかし、この共和国はルイ・ナポレオンの軍事介入により短命に終わってしまいましたが、イタリアの自由主義、国民主義は依然として高まりを見せていました。スイスとロンドンに亡命したマッツィーニは、外国からミラノ、ジェノバなどの革命運動を指導しつづけました。しかし、1953年のミラノ蜂起、1957年のジェノバ蜂起に失敗したことで、マッツィーニの主張はしだいに支持を失いはじめ、イタリアの国民主義者たちはサルディーニャ王国とその首相カブールに期待を寄せるようになってきました。

1859年から1862年の対オーストリア戦争において、フランスとの同盟を組んだカブール、南部イタリアを進軍し占領地を王に献上したガリバルディらの活躍によって立憲君主制の「イタリア王国」が成立しますが、これはローマとベネチアを除外したもので、マッツィーニの主張する共和国とは程遠いものでした。

反発したマッツィーニは再び亡命し、ローマとベネチアの解放に努力しながら、「イタリア労働者協会」を通じて労働運動に強い影響を与え、1864年には第一インターナショナルに参加するもののマルクスらと対立して脱退。一時イタリア議会に選出されましたが、王制への反発からこれを拒否しました。1870年にイタリア国家がローマを併合して統一が果たされましたが、失意のうちにピサで死去したのでした。

のちに徳富蘇峰は、著書『吉田松陰』の中でマッツィーニを、松陰の精神と横井小楠の理想を併せ持った人物と紹介しています。


「3月10日にあった主なできごと」

710年 奈良時代始まる…天智天皇(中大兄皇子) の4女である元明天皇が、藤原京から奈良の平城京に都を移し、奈良時代がはじまりました。

1945年 東京大空襲…第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、この日の前夜から深夜にかけての空襲はもっとも大規模なものでした。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、超低空から木造家屋へ、大量の手榴弾、機銃掃射、焼夷弾を浴びせました。爆撃は2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化し、死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

今日3月9日は、プロイセン皇帝としてビスマルク首相、モルトケ参謀総長を起用し、対オーストリア・対フランス戦に勝利し、新生「ドイツ皇帝」となったウィルヘルム1世が、1888年に亡くなった日です。

1797年、プロイセン王ウィルヘルム3世の次男としてベルリンに生まれたウィルヘルム1世は、1807年にプロイセン軍に入隊し、1814年ナポレオン1世の支配に対抗する「解放戦争」に従軍して勝利をおさめます。同時に、この戦いを通じてナポレオンが生み落とした革命を憎み、革命から王権を守れるのは軍隊だけと確信するようになりました。

やがて1840年、子のなかった兄ウィルヘルム4世が即位したことで第1位王位継承権者となり、1848年に「3月革命」が起こると、これを武力で制圧しようとしたため自由主義派の憎悪の対象となり、一時イギリスへ亡命を余儀なくされました。革命の勢いがおとろえはじめると帰国し、自由主義者を弾圧して革命を鎮圧させました。その後は、妃アウグスタの影響を受けて自由主義勢力と親交を持つようになりましたが、1857年に兄王が精神病となったことで摂政となり、軍制改革を計画したことから、ふたたび自由主義勢力との対立がはじまりました。

1861年1月、兄王の死去により63歳でプロイセン王に即位すると、軍備の拡大を決意し、ビスマルクを首相に、モルトケを参謀総長に任命して、自由主義勢力が多数を占める議会の反対を押し切って計画を推進しました。その甲斐があって、1866年の「プロシア・オーストリア戦争」では、わずか7週間でオーストリアを下し、プロイセン王を盟主とする北ドイツ連邦が創設され、ウィルヘルムは「北ドイツ連邦」主席に就任します。さらに1871年には、スペイン王位継承問題をめぐる対立により、対フランス戦にも勝利したことで、南ドイツ諸国が北ドイツ連邦に参加する形で新生「ドイツ帝国」が建設され、ウィルヘルムはパリ郊外のベルサイユ宮殿で、ドイツ初代皇帝に即位しました。

当時73歳の皇帝を、国民は「老皇帝」とよび、皇帝は宰相ビスマルクを信頼して政治のほぼすべてまかせ、その国力は、当時のイギリスをおびやかすまでに急成長しました。しかし、社会主義者らにうとまれ、1878年には2度も暗殺されかかって重傷を負いますが、その後10年も皇帝を続けました。


「3月9日にあった主なできごと」

1888年 梅原龍三郎誕生…豊かな色彩と豪快な筆づかいで知られ、昭和画壇を代表する画家梅原龍三郎が生まれました。

1933年 ニューディール政策…アメリカ大統領のルーズベルトが世界恐慌を克服しようと「ニューディール(新規まき直し)政策」を発表。この日から100日間に銀行および破産直前の会社や個人の救済、TVA(テネシー川流域開発公社)などの公共事業、CCC(民間資源保存局)による大規模雇用などの全国民的な経済活動をスタートさせました。

1934年 ガガーリン誕生…人類として初めて宇宙飛行をなしとげたソ連の宇宙飛行士ガガーリンが生まれました。

今日3月6日は、社会主義者として明治・大正・昭和3代にわたって活動した荒畑寒村(あらはた かんそん)が、1981年に亡くなった日です。

1887年、神奈川県横浜市の横浜遊郭内で生まれた荒畑寒村は、高等小学校を卒業後に海軍に入隊を志すもののはたせず、外国人商館でボーイとして働きながら、キリスト教の洗礼を受けました。横須賀の造船工場に見習工をしていた1903年、日露開戦気分が高まっていたとき、『万朝報』紙に載っていた幸徳秋水と堺利彦連名の「退社の辞」に感動しました。幸徳と堺が発行する週刊『平民新聞』の非戦論にも共鳴し、社会主義に接近すると、翌年社会主義協会に入会し、横浜に横浜平民結社を作って反戦運動をくりひろげます。

1905年には平民社に入り、書物を売りながら社会主義の宣伝を行う [伝道行商] に取り組みました。足尾鉱毒事件で悩む栃木県谷中村を訪れ、この村を取り潰して遊水地を作ろうとする政府の計画に反対し、住民と共に戦う田中正造と出会うと、これがきっかけとなって『谷中村滅亡史』を出版しました。(この書は、即日発禁となるものの、後世に残る名著といわれています)

その後、社会主義運動は議会を重視する派と直接行動する派に分かれると、荒畑は後者の一人となって行動し、1908年、出獄歓迎会を行っていた社会主義者を一斉に逮捕する「赤旗事件」で検挙され、裁判で有罪となり、重禁錮1年の刑を受けました。しかしこれが結果的に荒畑には幸いし、政府主導による捏造事件(大逆事件・幸徳ら19名が処刑・獄死)を免れました。

1912年からは大杉栄と『近代思想』を創刊し、小説や文芸批評を書くなど活躍し、石川啄木の思想をいち早く紹介したことでも知られています。第1次世界大戦後は、大阪、京都で労働組合活動を指導し、1922年に日本共産党(第一次共産党)の創立に参加すると、成立をコミンテルンに報告するためにモスクワを訪れました。しかし1923年、非合法として党員を一斉検挙する「第一次共産党事件」がおこり、堺利彦とともに検挙され、翌1924年には、荒畑の反対論が押し切られて共産党解散決議がなされました。

こののちは、山川均らと『労農』を創刊し、労農派の中心メンバーとして非共産党マルクス主義の理論づけを行いましたが、1937年に「人民戦線事件」(コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して日本で人民戦線の結成を企てたとして労農派系の大学教授・学者グループが一斉に検挙された事件)で、山川ら400名以上とともに検挙され、敗戦まで投獄されてしまいました。

戦後は、日本社会党の結成に参加し、1946年の総選挙で衆議院議員となり、2期務めた後の1949年に社会党を脱党。以後は政治や労働運動の第一戦から身をひいて、主として文筆・評論活動に専念しました。著書には、『寒村自伝』をはじめ『著作集』(10巻)があります。


「3月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が生れたとされる日です。

1948年 菊池寛死去…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』『真珠夫人』などを著した小説家・劇作家・ジャーナリスト、また文芸春秋社を創設して芥川賞・直木賞をはじめた実業家でもある菊池寛が亡くなりました。、

1972年 日の丸飛行隊が金・銀・銅独占…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金さえとったことのなかった大ニュースに、3人は「日の丸飛行隊」とよばれ話題を独占しました。

今日3月5日は、『お正月』『鳩ぽっぽ』『雪やこんこ』など、口語による童謡を作詞した東くめ(ひがし くめ)が、1969年に亡くなった日です。

1877年、今の和歌山県新宮市に、元新宮藩家老の長女として生まれた東くめ(旧姓・由比)は、小学校卒業後に大阪に転居、設立間もない大阪ウィルミナ女学院で学ぶうち西洋音楽の道を志し、1890年に東京音楽学校(のちの東京芸術大)選科に入学しました。予科、専修部、研究科へと進み、1897年、研究科に在籍のまま旧東京府立第1高女(現・白鴎高)の音楽教諭になりました。

音楽教諭を務めるかたわら、同窓で2年後輩の作曲家滝廉太郎と組んで「お正月」(もういくつ寝ると お正月……)「鳩ぽっぽ」(鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポと 飛んでこい……)「雪やこんこ」(雪やこんこ あられやこんこ……)などを作詞しました。1901年に、言文一致で書かれた日本で最初の唱歌集『幼稚園唱歌』が発行されましたが、収録された20曲のうち13曲は東くめの作詞となっています。この本は、東京女子高等師範学校助教授で附属幼稚園の教師を兼ねていた、1899年に結婚した夫の東基吉から「子どもの言葉による、子どもが喜ぶ童謡」を提案されて、誕生したものです。

8年間音楽教諭を務めた後、1917年に基吉が池田師範学校の校長に就任したのを機に池田へ移り、その後ピアノ教師を90歳まで続け、終生この地で過ごしています。

なお、滝廉太郎の研究家の小長久子は、生前のくめから、こんな話を聞いたそうです。「私の歌詞がひとつできて、それを滝さんに渡すと、彼はその歌を読み、まるで鼻歌を歌うように、いかにも楽しそうに、すぐその場で五線紙に書いたものです」(『歌を訪ねて』毎日新聞学芸部編より)


「3月5日にあった主なできごと」

1827年 ボルタ死去…生涯にわたって電気の研究を続け、「電気盆」や「ボルタ電池」を発明したイタリアの物理学者ボルタが亡くなりました。

1932年 団琢磨死去…三井・三池炭鉱を経営し、三井財閥の総帥となって、大正・昭和初期の日本実業界のトップに立った団琢磨が暗殺されました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥となったスターリンが亡くなりました。

今日3月4日は、国内電子機器業界を代表する「カシオ計算機」の基礎を築いた樫尾忠雄が、1993年に亡くなった日です。

1917年、高知県の貧しい農家の長男に生まれた樫尾忠雄は、5歳のころ、東京で働いていた叔父に誘われて一家で上京しました。忠雄は高等小学校を卒業したのち、家計を助けるために見習いの旋盤工として働き始めます。その腕の良さはなかなかなもので、本物と間違えるほどの銃を作ってしまうほどで、工場主の勧めもあり、働くかたわら早稲田工手学校に通学しました。そして、教わった技術と知識をもとに、鍋、釜、自転車の発電ランプなどを、たちまちこしらえてしまうほどになります。そんな卓越した技能や創造性が評判となり、冶金金属製造会社、軍関連製品製造会社を経て、航空機の部品製造会社として独立しました。

敗戦後の1946年、東京三鷹市に「樫尾製作所」を興し、3人の弟とともに、精密機械の加工業を始めると、これまで日本では作られていなかった計算機の開発に取り組みはじめました。試行錯誤のすえ1955年、電動式と機械式をうまく組み合わせた計算機の試作品を完成させると、その後改良を重ね、1957年6月、小型電子計算機で14桁まで計算できる「カシオ14-A型」を発売しました。これは、電子的な計算処理をする世界初の量産型計算機で、これを機に社名を「株式会社カシオ計算機」として、全国販売を開始しました。

こうして、業界でも有名な「樫尾4兄弟」は、主に忠雄が財務、次男俊雄が開発、3男和雄が営業、4男幸雄が生産を担当して、コンビよく、カシオを順調に運営していきます。「カシオ14-A型」の後も、1972年に電子式計算機「カシオミニ」を12800円で発売させると爆発的な人気となり、国民の間に計算機が広まるきっかけとなりました。さらに、電卓、デジタルウオッチ、電子楽器、ポケットテレビ、液晶モニター付きデジタルカメラ、液晶テレビなど、画期的な製品をすばやく、低価格で発売して消費者のニーズに応え、急成長をとげていくのは周知のとおりです。

「創造することは社会に貢献すること」という「創造貢献」の信念を生涯貫いた忠雄は、1988年に社長から相設役へと退き、将来を弟たちに託したのでした。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父藤原道長からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった松平定信を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家有島武郎が生まれました。

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