児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年03月

今日3月17日は、「大逆事件」で幸徳秋水ら被告の弁護を務めた作家・歌人で弁護士の平出修(ひらいで しゅう)が、1914年に亡くなった日です。

1878年、今の新潟市に庄屋の8男として生まれた平出(旧姓・児玉)修は、幼いころは身体が弱かったものの、記憶力に優れ、高等小学校を卒業後、地元の小学校の教師となりました。そのかたわら短歌や評論を雑誌「明星」に発表して活躍するようになります。24歳のときに上京し、明治法律学校(今の明治大学)を優秀な成績で卒業すると、判事検事登用試験に合格して司法官試補に任ぜられました。しかしこれを辞退し、1905年に 神田神保町で弁護士を開業します。いっぽう「明星」の同人として活躍し、「明星」廃刊後は、石川啄木や吉井勇と親交をむすんで、後継誌「スバル」を、経済的に援助しました。

平出修の名が知られるようになるのは、1910年に起きた「大逆事件」で、幸徳秋水ら被告の弁護人を務めてからです。この事件は明治天皇暗殺計画に関与したとして、多くの社会主義者・無政府主義者が逮捕されたもので、翌年死刑24名の判決が下り、幸徳ら19名が処刑されましたが、ほぼ政府がでっち上げた事件といわれています。

当時32歳だった平出の弁護は、被告たちに感動と敬服を与えるものでした。幸徳らに「平出君のあの弁護があった以上、死んでも悔いがない」と、監獄から平出本人や、別の事件で収監されていた堺利彦や大杉栄らに感謝の意を伝える書簡が寄せられたといわれています。

平出は1913年の博文館発行の「太陽」9月号に、大逆事件の裁判を描いた小説『逆徒』を発表したところ、内務省は、これを即日発行禁止処分にしました。さらに平出は、事件を題材にした『畜生道』『計画』などを著して時代に抗し、石川啄木に裁判関係の記録を見せて真相を伝えたことでも知られています。

しかし、残念ながらその翌年、37歳の若さで亡くなってしまいました。その業績が知られるようになるのは敗戦後のことで、『定本平出修』(正続)により再評価されるようになり、今でも、事件の検証と犠牲者の復権への運動は続いています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、平出の『逆徒』『畜生道』『計画』など8編を読むことができます。


「3月17日にあった主なできごと」

1220年 サマルカンド征服…モンゴルの征服者チンギス・ハンは、インドから黒海に至る交通路を占めていたホラズム・シャー朝の首都サマルカンド(現・ウズベキスタン)を徹底的に破壊し、数十万という人口の3/4を殺害しました。

1836年 ダイムラー誕生…ドイツの技術者で、自動車開発のパイオニアと讃えられているダイムラーが生まれました。

1945年 硫黄島玉砕…2か月ほど前から小笠原諸島の南西にある硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じていた戦闘は、この日、アメリカ軍は猛爆を加え、日本軍は守備兵力2万余名のほとんどが戦死、アメリカ軍に島を奪取されてしまいました。このため、アメリカ軍は日本本土空襲の理想的な中間基地を手に入れ、東京大空襲、名古屋大空襲、大阪大空襲を続けざまに実施、日本軍は、勝ち目のほとんどない絶望的な本土戦を余儀なくされました。

今日3月16日は、スウェーデン人初となるノーベル賞(文学賞)を受賞した女性作家ラーゲルレープが、1940年に亡くなった日です。

1858年、スウェーデン中部べルムランド地方のモールバッカに、没落しつつある名家の子として生まれたセルマ・ラーゲルレーブは、生まれつき足が不自由だったために外遊びができず、文学好きの父や民間伝承に詳しい祖母の影響で、文学の好きな少女に成長します。ストックホルムの高等師範学校を卒業後、1885年南部のランスクローナで女子高等師範学校の教師となり、そのかたわら、詩や短編小説を雑誌の懸賞小説に投稿したりしました。

1890年に投稿した短編が受賞すると、翌年に『ヨスタ・ベルリング物語』を刊行、1894年に出版した短編集『見えざる絆』が商業的な成功を収めたことで専業作家になります。それ以降も夢と創造力に満ちあふれた作品『アンチ・キリストの奇跡』『クンガヘラの女王たち』『地主屋敷の物語』が次々と刊行され、国内ばかりでなく世界にも、多くのファンを持つようになりました。

さらに1896年、スウェーデン中部のダーラナ地方で、「神の声を聞いた」という農民たちがエルサレムに集団移住すると、ラーゲルレーブはエルサレムを訪れて移住した農民たちを取材し、国内に残った農民たちとの葛藤と和解を描いた大著『エルサレム』は、国際的に高く評価されました。

そして1880年、国民学校の教育向上を目的に、政府から初等教育に使用する地理読本の執筆を依頼されると、その依頼に応え、スウェーデン各地を取材するなど十数年かけて代表作となる『ニルスのふしぎな旅』を刊行しました。この作品は、次のような内容です。

わんぱくでいたずら好きの少年ニルスは、いつも家畜をいじめてばかりいました。ある日曜日の朝、両親が教会にでかけた留守に、ニルスは小妖精トムテが、母親の長持をかきまわしているのを見つけて捕まえます。ところが、おこったトムテに魔法をかけられ、小人にされてしまいます。小さくなったニルスは、動物の言葉を理解できるようになるものの、普段いじめられていた家畜たちはニルスの小さな姿を見て、仕返しにかかります。 家で飼っていたガチョウのモルテンがたまたま通りかかったガンの群れに「飛べない鳥」とからかわれると、悔しまぎれに飛び立ったところ、モルテンを捕まえようとしたニルスもいっしょに飛び立ちました。こうしてニルスとモルテンは、ガンの女隊長アッカに認められ、13羽のガンたちといっしょに、北のラップランドをめざして旅することになったのでした。
ニルスは、モルテンやアッカ隊長とガンの仲間たちとともに、さまざまな土地を訪れます。時には励まされ時には厳しい叱咤を受けながら、ニルスは行く先々でたくさんの動物たちと出会い、ふれあううち、次第に成長して行きます。
やがて一行はラップランドに到着し、一夏を過ごします。秋になり、今度は南をめざして帰路へと旅立ち、ニルスはいろいろな冒険をしながらスウェーデンの伝説や歴史・地理を学び、いよいよニルスの家が近づくと、アッカ隊長はニルスに妖精トムテからの伝言として、元にもどるには、モルテンの命を生けにえに差し出さなければならないと宣告します。一足先にモルテンがニルスの家へ帰ると、ニルスの両親はモルテンを絞め殺そうとしています。ニルスは思わず、モルテンを殺してはいけないと叫び、気がつくと人間にもどっていました……。

ラーゲルレーブは、『ニルスのふしぎな旅』を刊行した2年後の1909年、女性としてはじめてのノーベル文学賞を受賞すると、民話を素材にした幻想の世界を紹介した大作家の作品として世界じゅうで翻訳されました。

日本では1918年、『ニルスのふしぎな旅』は「飛行一寸法師」として初めて出版されました。


「3月16日にあった主なできごと」

1600年 リーフデ号漂着…難破したオランダ商船「リーフデ号」が、豊後国(大分県)の臼杵に漂着しました。この船に乗っていたウイリアム・アダムスは「三浦按針」として徳川家康に仕えました。

1934年 国立公園…日本で初めて、瀬戸内海・雲仙・霧島国立公園の3か所が指定されました。国立公園とは、国が指定し保護・管理をする自然公園のことで、現在では、阿寒・大雪山・支笏洞爺・知床・利尻礼文サロベツ・釧路湿原・十和田八幡平・磐梯朝日・三陸復興・日光・富士箱根伊豆・秩父多摩甲斐・南アルプス・小笠原・尾瀬・中部山岳・伊勢志摩・上信越高原・白山・吉野熊野・山陰海岸・大山隠岐・足摺宇和海・阿蘇くじゅう・西海・西表石垣・慶良間諸島国立公園が加わっています。

今日3月13日は、開国したばかりの日本に無料の施療所を開き、ヘボン式ローマ字綴りによるわが国初の和英辞典をこしらえ、「明治学院」を設立したへボンが、1815年に生まれた日です。

アメリカ・ペンシルベニア州ミルトンに生まれたジェームス・カーティス・ヘボンは、熱心なキリスト教徒だった両親の影響を受けて、少年のころから海外にキリスト教を広めたいと考えるようになりました。プリンストン大学を経てペンシルベニア大学医科を卒業すると、1841年に妻とともに伝道の旅に出ました。シンガポール、マカオなどに滞在して布教に努めましたが、妻の病気のために1845年に帰国し、ニューヨークで病院を開業しました。

海外へ布教する志は堅く、1859年に北アメリカ長老教会の宣教医として、妻と共にふたたび旅立ち、開国したばかりの横浜に到着して、成仏寺の本堂に居住しました。近くに無料の施療所を設けて医療活動を開始すると、その誠実な人柄と優秀な治療は大評判になりました。近代医学の歴史は、ここから始まったといわれています。

いっぽう、日本語の研究に取り組み、1867年には、わが国初の和英辞典『和英語林集成』を、眼病を治療してもらった新聞の生みの親といわれる岸田吟香が助力して編さんしました。(岸田はヘボンから伝授された目薬を「精�リ水」として発売し、売薬業に専念したこともよく知られています) この辞典の中で使われているローマ字による日本語の綴りが、現在「ヘボン式」といわれているものです。さらにヘボンは、『新約聖書』と『旧約聖書』の翻訳制作委員の責任者となって、1887年までに完成させています。

夫人もまた、1863年に男女共学の「ヘボン塾」を開設しました。のちに同塾は、他のプロテスタント・ミッション各派学校と連携し、日本人教育に大きな貢献をしています。1871年にはヘボン塾の女子部が仲間の宣教師メアリー・キダーによって洋学塾として独立し、同塾は「フェリス女学院」の母体となっています。1887年には、私財を投じて東京・白金に「ヘボン塾」を明治学院として統合させ、ヘボンは、明治学院初代総理に就任しました。

こうして、明治時代の日本文化の発展に大きな貢献をした夫妻は1893年に帰国、1911年にヘボンは、95歳の高齢で亡くなりました。


「3月13日にあった主なできごと」

1578年 上杉謙信死去…戦国時代に、甲斐(山梨)の武田信玄と5度にわたる「川中島の戦い」をともに戦った越後(新潟)の武将の上杉謙信が亡くなりました。

1813年 高村光太郎誕生…彫刻家、画家、評論家として活躍し、詩集『道程』『智恵子抄』などを著した詩人の高村光太郎が生れました。

1988年 青函トンネル開通…青森県と北海道を結ぶ全長53.85kmという世界一長い海底トンネルが開通しました。これにより、津軽海峡を運航していた「青函連絡船」が姿を消すことになりました。

今日3月12日は、ローマ司教の域を出なかったローマ教会の影響力を、西ヨーロッパ全域に広めたことで、「大教皇」「大聖」とあがめられているローマ教皇グレゴリウス1世が、604年に亡くなった日です。
 
540年ころ、ローマの富裕な貴族で元老院議員の子として生まれたグレゴリウスは、573年にローマ市の政治をになうウルビに指名され、市の財政・建物管理・食糧供給の任にあたり、政治家としてのキャリアを積んでローマ市最高司政官になりました。そして、父親の死をきっかけに莫大な財産を売り払って貧民を救済する資金に充てたばかりか、シチリア所領内に6つの修道院を建てたほか、ローマの自宅も修道院にして修道士になりました。

590年に教皇に選ばれてグレゴリウス1世となると、教区民へ毎日曜日に説教をし、市民への食糧供給を組織化したり、貧民には食糧や衣類を供給するなど精力的活動をすることにより、以後の教皇のお手本となる礎を作り上げました。

イングランドのアングロ・サクソン族への伝道活動も特筆すべき行動で、その動機はローマの奴隷市場で見た美しい少年奴隷に出会ったことからといわれています。596年に修道士40人をカンタベリーのアウグスティヌスに引率させて派遣し、ケント王を受洗させることに成功、この地を西方カトリック教会の拠点としました。また、北イタリアに侵入したゲルマン民族の一派ランゴバルド族とも伝道による改宗という平和的手段で和約させ、東ローマ(ビザンチン)帝国には、ローマ帝国の独自性を主張しました。こうして、ローマ司教の域を出なかったローマ教会の影響力を、西ヨーロッパ全域に広めました。

いっぽうグレゴリウス1世は著作に優れ、聖ベネディクトスの伝記をはじめ、実践的な知恵の書『道徳論』などを著し、アンブロシウス、ヒッポのアウグスティヌス、ヒエロニムスと並び「四大ラテン教会博士」のひとりに数えられています。

典礼音楽の発展にも尽力し、最近話題になっている「グレゴリオ聖歌」の名はグレゴリウス1世に由来しており、伝承では多くの聖歌を作曲したといわれています。


「3月12日にあった主なできごと」

1876年 日曜休日制…日本の官庁は、明治時代以降、毎月31日を除いて1と6のつく日を休日としていましたが、欧米にならって日曜を定休、土曜を半休とすることを決めました。

1925年 孫文死去…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている孫文が亡くなりました。

1945年 アンネ・フランク死去…『アンネの日記』を書いたことで知られるアンネ・フランクが、ナチの収容所で亡くなりました。

今日3月11日は、古代ローマ建築を再構成した古典様式を創出し、イタリア盛期ルネサンスを代表する建築家として高く評価されるブラマンテが、1514年に亡くなった日です。

1444年ころ、イタリア中東部ウルビーノ近くに生まれたドナート・ブラマンテ(本名・ダンジェロ)は、はじめは画家を志し、やがてウルビーノ公に仕える建築家のラウラナから建築学を学んだといわれています。1472年にミラノに移って、装飾画家、建築家として活躍するようになり、1479年ころからは、ダ・ピンチと共にミラノ公スフォルツァに仕え、サンタ・マリア聖堂の建築をはじめ、パビア大聖堂の改装では奥行きのない堂宇を透視図法を用いただまし絵で広く見せたといわれています。またサンタ・マリア・グラッツィエ教会(ダ・ピンチの『最後の晩餐』があることで有名)の設計などにも従事しました。

1499年、フランスの侵攻によってミラノを追われたブラマンテは、ローマに移って古代ローマ建築を研究し、教会や邸宅の建築に腕をふるいました。とくにサンタマリア・デラ・パーチェの回廊や、聖ペトロ殉教の地とされていたサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会の小神殿は、盛期ルネサンス建築の頂点とされています。

1503年には、教皇ユリウス2世に任じられ、サン・ピエトロ大聖堂の建築主任となり、同時にバチカン宮殿の拡張に着手しました。この工事は、あまりに大規模なものだったために、完成するのは17世紀ですが、ブラマンテの構想した中央に大円蓋を戴くギリシャ十字の集中方式は、ブラマンテの死後に大混乱に陥り、最終的にミケランジェロが決定をくだすまで、幾度も設計変更を繰り返したといわれています。

のちに、建築理論家のセルリオやパラディオは、ブラマンテの作品のみを古典と同等の評価をし、「のちのマニエリスム時代の主題が内包され、同時代のダ・ピンチとともに時代の分水嶺を形づくっている」としています。


「3月11日にあった主なできごと」

1444年 ボッティチェリ誕生…イタリア・ルネッサンス期の画家で『ビーナスの誕生』や『春』を描いた、ボッティチェリが生まれました。

1582年 武田勝頼死去…武田信玄亡き後、織田信長・徳川家康軍と対抗するものの、「長篠の戦い」に敗れたことがきっかけとなって家臣団の統率に失敗した武田勝頼が自害しました。

1955年 フレミング死去…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが亡くなりました。

2011年  東日本大震災…午後2時46分、宮城県牡鹿半島沖130km付近で地震が発生。その規模は、日本観測史上最大のマグニチュード9.0で、最大震度7を記録しました。地震発生から30分後には、東北・関東に巨大津波が到達し、岩手・宮城・福島県を中心に死者・行方不明者約2万名もが犠牲となりました。この津波による漁業、農業等の被害は甚大で、とくに漁業は壊滅的被害を受けました。さらに、東京電力福島第1原子力発電所(福島第1原発)には14mを超える津波が直撃し、3時42分には、13台あった非常用発電機が1台を残しただけですべて止まり、6基の原発のうち1~5号機の電気がまったく使えなくなって原子炉の温度が上がり続け、水素爆発や炉心溶融(メルトダウン)を引き起こしました。大量の放射線物質が放出されたため、半径20km圏内の住民は避難されることになり、いまだに放射線汚水漏れがつづいていることで、いつ元の生活に戻れるかわからない状況がつづいています。

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