児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年03月

今日3月24日は、平氏の全盛を築いた平清盛の正室として、宗盛、知盛、重衡、徳子(建礼門院)を生み、平家の家長的存在となった平時子(たいらの ときこ)が、1185年の「壇ノ浦の戦い」で、幼い安徳天皇を抱いて海中に身を投じて自害した日です。

1126年、中級貴族の平時信の娘として生まれた平時子は、1145年ころ、清盛の後妻として嫁ぎ、時子が二条天皇の乳母となり清盛が乳父となって、後白河上皇と二条天皇の対立の中で、二条天皇への従属と政治的奉仕の姿勢を示しました。二条天皇が亡くなると、後白河上皇の妃となった異母妹滋子(建春門院)とともに、清盛と後白河上皇との政治的提携強化の媒介となりました。

その間、のちに平氏一門の頭となる3男宗盛、勇ましい戦いで知られる知盛、源平合戦の主力となる重衡、安徳天皇の母となる徳子(建礼門院)を生みました。1168年、清盛とともに出家して二位尼(にいのあま)といわれ、清盛が福原へ移ると八条二品亭を継承します。1171年に徳子が高倉天皇に嫁ぐと、中宮の母として徳子の出産や成長儀式にも深くかかわり、清盛一門と皇室との関係を結ぶ重要な役割を果たします。こうして、高倉天皇没後の1180年、幼い安徳天皇が即位したのでした。

1181年清盛亡き後は、時子が平家の家長的存在として一門の精神的支柱となり、壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に滅ぼされると、安徳天皇に「浪の下にも、きっと都がありますよ」といい聞かせ、幼帝をだいて海中に身を投じて自害したと「平家物語」に記されています。


「3月24日にあった主なできごと」

1185年 平氏の滅亡…一の谷、屋島の戦いに敗れた平氏は、源義経の率いる水軍を、壇ノ浦(山口県・下関市)で迎えうちました。この日の正午近くに戦闘が始まり、平氏は西から東へ流れる潮流にのって有利に戦いを進めていました。ところが、3時過ぎになって潮流が逆になると形勢は逆転。敗戦を覚悟した平氏は、次々に海に身を投げていきました。この「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡、以後源頼朝の支配が確立しました。

1603年 エリザベス女王死去…「グッド・クィーン・ベス」(すばらしい女王、エリザベス)という愛称で国民からしたわれたエリザベス1世が亡くなりました。

1870年 本多光太郎誕生…明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者本多光太郎が生まれました。

1905年 ベルヌ死去…『80日間世界一周』『海底2万マイル』『十五少年漂流記』などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家ベルヌが亡くなりました。

今日3月23日は、『赤と黒』『パルムの僧院』『恋愛論』などを著した、フランスの小説家スタンダールが、1842年に亡くなった日です。

1783年、フランス南東部グルノーブルに裕福な弁護士の子に生まれたスタンダール(本名・マリ=アンリ・ベール)は、7歳の時にかわいがってくれた母が亡くなり、厳しい父のもとで育ちますが、父のブルジョア的偽善に嫌気がさして反攻的な少年時代を送りました。

数学に優れていたため、1799年に理工科学校受験のためにパリへ出ましたが、バリの生活になじめず、突然受験をやめて劇作に夢中になり、翌年ナポレオン1世の軍隊に入ると、陸軍少尉となってイタリア遠征に参加しました。亡き母がイタリア系だったこともあり、以前から、イタリアに憧れを持っていたスタンダールは、遠征先の情熱的で生命力あふれる人や土地が気に入り、以後、イタリアを第2の故郷とみなすようになります。

1802年軍を辞めると、パリの輸入問屋に勤めながら、劇作家をめざして文学修行にはげみました。ナポレオンの大陸封鎖令によって海外貿易ができなくなると、1806年、ふたたび陸軍に入って官僚として順調に昇格し、パリの華やかな生活も体験しながら、財務監査官にまで出世しました。その後、オーストリアやドイツに駐在したり、モスクワ遠征にも加わります。1814年ナポレオンが失脚したことで、スタンダールはイタリアのミラノにわたり、フリーのジャーナリストとして活躍しながら、多くの不幸な結果になる恋愛事件をおこしながらも、『イタリア絵画史』を著しています。

ところが、雑誌に書いた評論が問題視され、「フランスのスパイだ」といううわさが広まって失意のうちにパリにもどると、『恋愛論』(1822年)をはじめ、長編小説『赤と黒』(1830年)などを発表します。とくに『赤と黒』は、元神学生による殺人未遂事件を素材に、野心に燃えた貧しい青年ジュリアンの成功と挫折を描きつつ当時の社会の風潮を批判した作品で、恋愛心理を深く掘り下げた代表作です。しかし、当時はほとんど評判になりませんでした。

長い不遇の後、1830年に七月革命が勃発すると、ルイ・フィリップが治める自由主義の立憲王政ができ、自由主義者として知られていたスタンダールに声がかかり、ローマ近郊のチビタべッキア駐在フランス領事になりました。その間1836年から39年まで休暇をとってパリに戻り、ミラノ貴族ファブリスを通して、永遠の平和を追い求めて情熱的に生きる波乱に富んだ生涯を描いた半自叙伝といわれる大作『パルムの僧院』を書きました。

やがて、これらの作品に登場するまざまな人間の鋭い心理分析や簡潔な文体は、「近代小説の先駆者」と讃えられるようになりました。墓碑銘には「ミラノ人 アッリゴ・ベイレ 書いた 愛した 生きた」となっています。


「3月23日にあった主なできごと」

1138年 鎌倉大仏建立開始…幕府の命令で鎌倉高徳院にある大仏の建立が開始され、5年後に完成しました。1252年木造から金銅で作り直され、1495年の津波により大仏殿が壊されて、外にむきだしのままになりました。

1910年 黒沢明誕生…映画『羅生門』でベネチア国際映画祭でグランプリを獲得した他、『七人の侍』『生きる』『椿三十郎』など、数多くの映画作品の監督・脚本を手がけ、国際的にも「世界のクロサワ」と評された黒沢明が生まれました。

1950年 世界気象デー…加盟国間の気象観測通報の調整や、気象観測など気象資料の交換、気象学の研究・教育を行う世界的組織の世界気象機関(WMO)が発足し、日本は1953年に加盟しました。

今日3月20日は、上杉謙信の養子で、豊臣政権の五大老の一人となるものの、家康と対立した上杉景勝(うえすぎ かげかつ)が、1623年に亡くなった日です。

1555年、越後国魚沼の坂戸城下に、長尾政景と上杉謙信の姉の次男として生まれた上杉景勝は、1564年に父が亡くなったため、春日山城(今の上越市)に入って叔父である謙信の養子となりました。

1578年に謙信が死去すると、謙信が後継者を明確にしなかったため、相続をめぐって景勝は、後北条家の北条氏康7男で謙信の養子となっていた上杉景虎と争うことになりました(御館の乱)。当初は後北条家と同盟していた武田勝頼のバックアップで景虎側に押されていたものの、甲越同盟で武田家と和睦するなど形勢をもり返し、1579年に追いつめられた景虎が自害したことで、1580年に上杉家当主となって越後国の領主となりました。 

しかし「御館の乱」によって軍事力は急速に衰え、乱の鎮圧後の恩賞問題をめぐり、協力してきた新発田重家らが抵抗するなど亀裂がおこりはじめました。そんな折の1581年、織田信長家臣の柴田勝家、佐々成政軍勢の侵攻を受け、さらに翌1582年には越中を柴田軍に制圧(魚津城の戦い)されて、景勝は窮地に立たされてしまいました。幸いにも「本能寺の変」が起こって柴田軍は引き上げ、九死に一生を得たのでした。 

その後景勝は、信濃などに勢力を伸ばし、秀吉に接近して1586年に上洛して臣下となり、1587年には敵対していた新発田重家を討つことに成功して越後を統一しました。翌年には佐渡に出兵して分国化、1590年の小田原征伐への出兵、奥羽一揆を鎮圧したほか、真田昌幸を一時従属下にしたり、1592年の朝鮮出兵、伏見城普請など、豊臣政権下の大名として積極的に行動をしました。その間に景勝は、参議、権中納言に任じられ、1595年には五大老の一人に列せられると、1598年には、秀吉の命により、越後から東北監視のために蒲生氏郷に代わって会津に移り、120万石に加増されました。 

1598年8月に秀吉が亡くなると、景勝は徳川家康と対立し、家康は会津へ上杉討伐に出陣しました。その間、石田三成が挙兵したために西に引き返す家康を景勝は追撃せず、西軍方として東軍方の伊達政宗や最上義光に攻撃をしかけます。しかし「関ヶ原の戦い」で東軍が勝利したことで、景勝は家康に降伏しました。1601年、会津などの領地は没収され、米沢藩30万石に減移封されるものの、大坂の陣には家康側として参陣しました。

なお、景勝の政権基盤は、家老の直江兼続(かねつぐ)に負うところが多く、国政・外交ともに両頭体制で進めながら、家臣団の掌握に努め、検地などを通じて領内農村の支配を見事にやってのけました。そのため、米沢藩の上杉家は、苦難の連続を極めたものの、上杉鷹山らの名君が出て乗り越え、明治維新による廃藩置県が行われるまで続いたのでした。


「3月20日にあった主なできごと」

1727年 ニュートン死去…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが亡くなりました。

1828年 イプセン誕生…『人形の家』『ブラン』『ペール・ギュント』などの戯曲で知られ、「近代演劇の父」といわれるノルウェーの劇作家イプセンが生まれました。

1882年…上野動物園開園…東京上野に、博物館(いまの国立博物館)の付属機関として、日本初の近代的動物園が開園しました。

1995年 地下鉄サリン事件…通勤・通学で混雑する8時ころ、東京の5つの地下鉄の中に猛毒サリンがまかれ、死者12名、重軽症者5500人以上という大惨事がおこりました。犯人は、オウム真理教という宗教団体であることが判明しました

今日3月19日は、幼児のころに両手・両足の切断というハンデにもかかわらず、自立した生活を送った女性として知られる中村久子(なかむら ひさこ)が、1968年に亡くなった日です。

1897年、今の岐阜県高山市に生まれた中村久子(幼名・ひさ)は、2歳の時に左足にできたしもやけが原因で、「突発性脱疽(だっそ)」という病気にかかってしまいました。この病気は、少しずつ手足の先から腐っていき、やがて命を落とすという恐ろしい病気です。激痛に昼夜泣き叫ぶ久子を見かねた両親は、手術を決断し、3歳で1度目の手術をし、闘病生活が始まりました。4歳の時の2度目の手術で、両腕はひじまで、両足はひざの関節まで失ってしまいました。

7歳の時、それまで人一倍可愛がってくれていた父が亡くなり、母は久子を連れて再婚します。久子の将来を心配した母は、障害があっても一人で生きていくすべを身につけなくてはと、厳しくしつけました。そのおかげで、久子は食事、トイレ、風呂といった身の回りのことはもちろん、口で文字を書くことや、口にハサミや針をくわえ、糸を結び、編み物まで出来るようになりました。しかし、当時の社会は、身障者に対する理解は薄く、手足のない久子を見る世間の目は、冷たいものがありました。

やがて1916年、20歳になった久子は地元高山を離れ、上京して横浜市などで一人暮らしを始めると、自ら見世物小屋に身を投じました。芸名を「だるま娘」とし、見世物小屋での芸人として働くようになったのです。口で裁縫や編み物を見せたり、太字は口に筆をくわえ、細字は右腕と頬にはさんで書いて見せました。興業は人気を呼び、日本全国から、朝鮮や台湾など海外にまでおよびます。

そんな中で、久子は2度結婚しますがともに夫と死別、3度目の夫とは家庭を顧みない相手にあいそをつかして離婚、4度目の夫中村敏雄と結婚してようやく安らかな家庭を持つことができ、夫にささえられながらも、生まれた2人の娘を育てながら、気丈に働き続けました。そして、見世物小屋で働き始めて以来、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない」と決意し、生涯を通じて国の障害者制度による保障を受けることは一度もありませんでした。

1937年4月、41歳になった久子は、東京日比谷公会堂で目も見えず耳も聞こえず言葉も話せない三重苦のヘレン・ケラーと出会いました。久子は、そんな重障害を持ちながらも、世界中を回って障害のための福祉活動をしているヘレンに贈り物をしようと、口を使ってこしらえた日本人形をケラーに贈ることを思いついたのです。久子が両手足のないことを知ったケラーは、見えない目からはらはらと涙をこぼし「私より不幸な人、私より偉大な人」と久子を抱きしめたと伝えられています。

1942年ころ、久子は26年間も続けた見世物興業から引退しました。以後は請われるままに全国各地からの招きに応じ、夫や娘に背負われながら、婦人会、母の会、学校、刑務所、お寺などの講演活動、さまざまな施設慰問活動を始め、全国の身障者ばかりでなく健常者にも大きな生きる力と光を与えました。自分の奇異な生い立ちを語りながらも、自分の体について恨むどころか、「私にとって一番の良き師、良き友は、両手両足のないこの体でした」という言葉は、人々に大きな感動を与えたのでした。


「3月19日にあった主なできごと」

1813年 リビングストン誕生…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが生まれました。

1943年 藤島武二死去…明治末から昭和前期にかけて、日本の洋画界の指導的役割を果たしてきた藤島武二が亡くなりました。

1982年 フォークランド紛争…アルゼンチン軍が、イギリスと領有権を争うフォークランド諸島のジョージア島に上陸。果敢な航空攻撃でイギリス海軍艦に大きな損害を与えましたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、約3か月後に降伏しました。

今日3月18日は、10年にもわたる内戦「応仁の乱」の西軍総大将として知られ、「赤入道」と呼ばれた山名宗全(やまな そうぜん)が、1473年に亡くなった日です。

山名氏は、かつて「六分の一衆」といわれ、全国66か国の1/6を領有する権力を持っていました。しかし、1391年山名時熙(ときひろ)のとき、室町3代将軍足利義満の挑発により敗れ(明徳の乱)、わずか伊賀・但馬・備後の3国を領するだけになっていました。1404年、時熙の子として生まれた山名持豊(法名=宗全)は、1435年に跡目を継ぎました。

1441年に持豊は、6代将軍足利義教(よしのり)を殺害した赤松満祐らを討ち、自らの所領のほか播磨・石見・美作・伯耆・備前・因幡など10ヶ国の守護職を回復して再建に成功、幕政にもかかわるようになりました。1442年に出家して宗全と改めると、1450年に、家督と守護職を嫡男の教豊に譲りました。しかし、依然として一族の実権を握り続け、幕府内での地位も不動のままで、その風貌から「赤入道」とよばれて恐れられていました。

やがて幕政をめぐり、親類の細川勝元(宗全の娘が勝元の妻)と対立するようになります。そのきっかけは、1465年に男子を出産した8代将軍足利義政の正室日野富子が、実子の足利義尚を次期将軍職に望み、宗全に接近して支持を得てからでした。いっぽう、すでに決まっていた義政の弟義視を推す細川勝元と対立し、さらに有力守護大名の勢力争いもからんで、1467年に「応仁の乱」が始まりました。

宗全は、出石此隅山城に各国から集結した西軍11万を率いて挙兵し、京都へ進軍しました。いっぽう勝元率いる東軍16万あまりと大激戦となり、一進一退の状況になって勝負がつきません。けっきょく戦乱は、1477年まで約10年間にわたって継続し、京都の街を壊滅させて終わりますが、宗全は戦い半ばに亡くなり、勝元もその2か月後に世を去ったのでした。

なお、西陣織で有名な京都の「西陣」は、宗全の西軍陣地のあったところで、地名に名をとどめています。


「3月18日にあった主なできごと」

724年 柿本人麻呂死去…飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂の正確な生没年は不詳ですが、亡くなったとされる日です。

1584年 イワン雷帝死去…ロシア史上もっとも強力な権力を誇り、中央集権化を推し進めたことで「雷帝」といわれたイワン4世が、1584年に亡くなった日です。

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

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