児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年03月

今日3月31日は、清朝の末期、政治改革(変法自強説)を唱えた学者で指導者の康有為(こう ゆうい)が、1927年に亡くなった日です。

19世紀末の中国・清朝は、イギリスがアヘン戦争(1840~42年)以来チベットから四川、雲南をうかがい、ロシアは東北地方に、フランスはベトナムから華南に侵入するなど、ヨーロッパ列強からたび重なる侵略を受けて、植民地化していました。

1858年、中国広東省南海県に、教育者の家系の子として生まれた康有為は、幼ないころから学問に優れ、広東で儒学を学ぶものの満足できず、陽明学や仏教までも独学で学びました。さらに、1882年に北京からの帰途、上海でヨーロッパの書物の翻訳書を買い求めて新しい時代の到来を感じると、1888年に「大同の説」という急進的な改革論を主張し、清の光緒帝に上書しました。当時「洋務論」という西洋の技術のみを導入する考えが李鴻章や曽国藩らの主導のもとで行われていたのに対し、康はこれに異議をとなえ、徹底した内政改革(変法)して国力を高める(自強)を主張しました。そして1890年、郷里に近い広州に私塾を開き、自分の教えを子弟に授けはじめました。

やがて日清戦争がおこり、翌1895年に敗れた清朝は屈辱的な下関条約の締結により、遼東半島と台湾を割譲し、莫大な賠償金に応じようとしていました。ちょうどそのころ康有為は、役人になるための登竜門である科挙に合格しました。康は、中国にも日本の明治維新のような政治改革をめざさなくてはならないと、科挙受験者1200名もの署名を集め、再度光緒帝へ上書(公車上書)し、時の人となりました。

その後も、意見を出しつづけたところ、1898年6月、ついに光緒帝から召し出され、立憲君主国をめざした政治改革(変法自強)の主導権を与えられることになりました。ところが、当時、清王朝の実権を掌握していた西太后ら保守派の反感を買うこととなり、改革はわずか100日あまりで西太后らのクーデターにあって失敗に終わってしまったのでした。(100日維新)。

光緒帝は幽閉され、康の実弟を含む同志6人は逮捕処刑されましたが、康は上海のイギリス領事館に保護され、宮崎滔天らの助力で香港を経由し、日本に亡命しました。

その後、アメリカやインドなどを周遊しながら、中国に立憲君主制を樹立する活動を行いましたが、1911年に辛亥革命が起こって帰国が可能となり、それ以後は拠点を中国国内に移しました。しかし、革命後には、立憲君主制という考えは、孫文ら革命派との間に対立が生まれ、以後、政治の表舞台から姿を消すことになってしまいました。


「3月31日にあった主なできごと」

1727年 ニュートン死去…万有引力を発見したことで有名なイギリスの物理学者・数学者ニュートンが亡くなりました。

1732年 ハイドン誕生…ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家ハイドンが生まれました。

1889年 エッフェル塔完成…フランス革命100周年を記念したパリ万博のシンボルとして、この日エッフェル塔が完成しました。当時300mという世界一の高さを誇って大人気となるものの、鉄骨むきだしの姿はパリの美しい景観をそこねると賛否両論の声があがりました。

1906年 朝永振一郎誕生…量子力学の研究の中から「超多時間理論」をまとめ、それを発展させた「くりこみ理論」を発明した功績によって、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎が生まれました。

1970年 よど号ハイジャック事件…100余名を乗せた日本航空旅客機「よど号」が、富士山上空を飛行中に、赤軍派学生9名にのっとられました。犯人たちは北朝鮮へ亡命したいと要求、よど号は福岡と韓国のソウル金浦空港を経由して北朝鮮の美林飛行場に到着しました。乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身がわりとなった山村新治郎運輸政務次官と犯人グループは北朝鮮に向かい、山村氏はその後帰国、犯人グループは亡命をはたしました。

今日3月30日は、『海神丸』『真知子』『迷路』『秀吉と利休』などを著し、最長期間にわたる文学活動をした作家として知られる野上弥生子(のがみ やえこ)が、1985年に亡くなった日です。

1885年、大分県臼杵市の造り酒屋の子に生まれた弥生子(本名・小手川やゑ)は、16歳の時に上京し、明治女学校を卒業後、同郷で英文学者の野上豊一郎と結婚、3児の母となりました。夫の師だった夏目漱石の指導を受け、1907年に雑誌「ホトトギス」に『縁』を掲載し、写生文作家としてデビューをはたしました。やがて子育てをしながら、母性賛歌のユニークな文学を築きはじめ、1916年に処女創作集『新しき命』を発表するいっぽう、アルプスの少女ハイジとして知られる『ハイヂ』を翻訳しています。

1922年に発表した短編『海神丸』は、船長と3人の船員(おいの三吉・八蔵・五郎助)をのせた船が嵐にあって漂流、飢えの苦しさから、食肉のために八蔵は五郎助をそそのかして三吉を殺すという内容です。極限状態におかれた人間の欲望・策略・絶望を冷めた眼でみつめ、昭和初期の思想問題に取り組んだ長編『真知子』とともに、初期の代表作といわれています。

日本が戦争へ傾斜していく時期には、時流を批判した『黒い行列』を著しますが、1956年に、当時は書けなかった事柄を大幅に加筆した長編『迷路』は、市民文学の代表作として高い評価を得ました。1964年に78歳で完成させた長編歴史小説『秀吉と利休』も評価の高い作品で、秀吉の誤解から死を命ぜられた利休の、自由人としての誇りをあざやかに描き出したことで、女流文学賞を受賞しています。

1971年、86歳で文化勲章を受け、翌1972年からは長編自伝『森』の執筆にとりかかり、1980年に完成させています。弥生子は亡くなるまでの1世紀にわたる生涯、最も長く文学活動を持続し、女流作家にはめずらしい客観性と知的教養あふれた人道主義作家として、今も知られています。

また弥生子は、1950年に夫亡き後は、北軽井沢に春から秋にかけて過ごしていました。最近、やはり北軽井沢に隠とん生活を送っていた哲学者田辺元と恋愛関係にあったことが判明し、その往復書簡が『田辺元・野上弥生子往復書簡』として刊行されています。なお、京大教授でイタリア文学者の野上素一は長男、東大教授で物理学者の野上茂吉郎は次男です。


「3月30日にあった主なできごと」

1746年 ゴヤ誕生…『裸のマハ』『着衣のマハ』などを描き、ベラスケスと並びスペイン最大の画家のひとりといわれるゴヤが誕生しました。

1853年 ゴッホ誕生…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが生まれました。

1867年 アメリカがアラスカを購入…デンマーク生まれでロシア帝国の探検家であるベーリングは、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを18世紀半ばに確認して以来、ロシアは毛皮の貿易に力をそそぎ、1821年に領有を宣言していました。その後財政難に陥ったロシアは、この日アメリカに720万ドルで売り渡す条約に調印しました。1959年、アラスカはアメリカ合衆国の49番目の州になりました。

1987年 ゴッホ『ひまわり』落札…在命中には、わずか1枚しか売れなかったゴッホの作品でしたが、この日に行なわれたロンドンのオークションで『ひまわり』(7点あるうちの1点)が史上最高価格53億円で落札されました。落札したのは旧安田火災海上保険でした。

今日3月27日は、液体酸素が磁性を持つことの発見、水素の液化と固化などの研究、魔法瓶やコルダイト無煙火薬を発明したイギリスの化学・物理学者のデュワーが、1923年に亡くなった日です。

1842年、スコットランド東部キンカーディンに宿屋の6人兄弟の末っ子として生まれたジェイムズ・デュワーは、1859年にエディンバラ大学でプレイフェアのもとで化学を学び、卒業後も助手として残りました。1867年にベンゼンの構造式の候補をいくつか掲げた論文を発表したところ、ベルギーのケクレの目に留まり、デュワーはその夏ヘントにあった研究室に招かれ、ピリジンやキノリンの構造式も提案しています。

帰国後、エディンバラ大学にもどって1873年まで助手として働くかたわら、1869年からは王立獣医学校の講師も兼任しながら同学校で、デュワーが生涯をささげた低温物理学の研究を開始しました。1875年、ケンブリッジ大学の実験物理学教授に、1877年にはロンドン王立研究所の化学教授に就任すると、両方の教授を亡くなるまで務め、1904年にはナイトの称号を受けています。

ケンブリッジ大学では、ライビングと共同で25年以上にわたり、さまざまな金属のスペクトル研究を行い、スペクトル線やスペクトルバンドと分子の関係を調べあげました。王立研究所では、低温物理学の研究、とくに気体の液化とその低温物性の研究を行いました。1877年にフランスのカイユテとスイスのピクテがそれぞれ窒素と酸素の液化に成功していましたが、デュワーは翌年に、別の方法で液化に成功して公開実演するとともに、1885年までには大量の液体酸素を製造し、1891年には、液体の酸素やオゾンが磁性を持つことを発見しています。さらに、1895年には微量ながら水素を液化することに成功すると、1898年液体水素を大量に製造してその屈折率を調べ、翌年-259℃という低温で水素の凝固にも成功しました。

いっぽう、デュワーは1892年、研究のかたわら魔法瓶(デュワー瓶)を発明しています。これは二重壁の内壁と外壁の間を真空にして伝導と対流を防ぐものでした。魔法瓶は、1904年に2人のドイツのガラス職人が商品化に成功すると、1905年に、デュワーはココナッツの殻の炭を-185℃に冷やしたところ、それが真空度を上げる吸着剤として利用できることを発見し、さらに内部を銀メッキして放射を防ぐことを考案しました。これは極低温液体を長く保管できるため、自身の研究にも大きく貢献することになりました。また、1891年には、エーベルと共同で、史上初のひも状の無煙火薬「コルダイト火薬」も発明しています。


「3月27日にあった主なできごと」

1689年 芭蕉「おくの細道」へ出発…松尾芭蕉は弟子の河井曽良(そら)を伴ない、この日江戸・深川の庵を出て「おくの細道」の旅に出発しました。東北・北陸をめぐる旅の日数はおよそ150日間、『奥の細道』は、わが国紀行文学の代表的存在です。

1845年 レントゲン誕生…ドイツの物理学者で陰極線の研究中、物質を通りぬける放射線エックス線を発見したレントゲンが生まれました。

1933年 「国際連盟」脱退…国際連盟は2月24日の総会で、日本軍による満州建国を否認しました。日本はこの日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立し、戦争への道を歩みはじめました。

今日3月26日は、江戸時代初期に朱印船貿易などで活躍した大坂の豪商末吉孫左衛門(すえよし まござえもん)が、1617年に亡くなった日です。

末吉氏は、摂津国平野にあった名族で「平野屋」を名乗り、孫左衛門吉安の父の代に、豊臣秀吉に取り立てられて、河内国(今の大阪東部)1000石の代官となって、諸国廻船業を営んでいました。

1570年、平野(のちの末吉)勘兵衛利方の長男に生まれた孫左衛門は、早くから父の仕事を手伝い、関ヶ原の戦いで徳川方に協力したことで、その功により、1601年に父とともに、京都伏見の銀座設立に加わり、銀座(貨幣の鋳造および銀地金の買売をになった)頭取に任ぜられて、特権的地位を得ました。

1607年には父の死により、家督を継いだ孫左衛門は、1614~15年に大坂の陣が起きると、松平忠明らの徳川軍を平野に先導したり、徳川秀忠本陣の普請に協力して冬・夏の陣に勝利し、河内国志紀・河内両郡を加増され、5万石の代官に任ぜられました。

いっぽう、幕府の重臣土井利勝、酒井忠世、本多忠勝、崇伝らとの知遇により、1607年より連年朱印状を受け、ルソン、トンキン(今のベトナム)など、東南アジア各地に商船を派遣して「朱印船貿易」を行い、巨万の富を得ました。末吉家の朱印船は「末吉船」と呼ばれ、京都清水寺や大阪杭全(くまた)神社には、献納された末吉船絵馬が残っています。

孫左衛門の没後も、鎖国になるまで朱印船貿易に従事し、東末吉家(末吉勘兵衛家)、西末吉家(末吉孫左衛門家)に分かれましたが、両末吉家の子孫は江戸時代を通じて繁栄しました。


「3月26日にあった主なできごと」

1205年 新古今和歌集完成…後鳥羽上皇の命によって編まれた和歌集『新古今和歌集』がまとめられました。

1648年 柳生宗矩死去…江戸時代初期の武将で、将軍家のご流儀としての「柳生新陰流」をきわめた柳生宗矩(むねのり)が亡くなりました。

1827年 ベートーベン死去…『交響曲第5番』(運命)『交響曲第9番』(合唱)などの交響曲、『月光』『悲愴』などのピアノ曲のほか、管弦楽曲、歌劇、声楽曲など各方面にわたるかずかずの作品を残し、クラシック音楽史上最も偉大な作曲家の一人とされるドイツの作曲家ベートーベンが亡くなりました。

1910年 安重根死刑…初代韓国統監を務めていた伊藤博文をハルピンで暗殺した朝鮮の安重根(じゅこん)が死刑になりました。安は、韓国では義士としてたたえられています。

今日3月25日は、東京駅の巨大駅舎、日本銀行本店など、日本近代建築創成期をリードした建築家の辰野金吾(たつの きんご)が、1919年に亡くなった日です。

1854年、肥前国唐津(今の佐賀県唐津市)に下級武士の子として生まれた辰野金吾は、1873年に工部大学校造家学科(現・東大工学部建築科)に第1回生として入学し、明治政府のいわゆるお雇い外国人として着任した英国人建築家コンドルの教えを受け、正統派の西洋建築を基礎から学びました。1879年に主席で卒業すると、訪英してコンドルの師であるバージェスのもとで設計の修行を重ね、1883年に帰国すると、コンドルの後を受けついで、工部大学校教授に就任します。

日本建築の講座を設けて熱血指導し、日本建築史で知られる伊東忠太、数々の銀行建築を残した長野宇平治、文化財の保存に努めた関野貞(ただし)ら、たくさんの人材を育てるかたわら、1886年には、新興建設資本と協力して造家学会(のちの日本建築学会)を設立するなど、明治中期以降のわが国近代建築創成期を主導しました。1898年には同大学学長となり、1902年に退官してからは、建築事務所を東京や大阪に開設してたくさんの作品を設計建築するいっぽう、日本建築学会会長、震災予防調査会委員などもつとめました。

代表作は、1914年に上野と新橋を結ぶ新たな中央駅として誕生した東京駅の巨大駅舎でしょう。赤レンガに白い花崗岩の全長300mの駅舎は、第2次世界大戦で3階部分を消失しますが、保存復原工事で2014年に100年ぶりに完成時の姿が復活、新たな東京の顔として人々を魅了し続けています。その他、日本銀行本店など、赤レンガと石の巧みな構成は「辰野式」とよばれ、その頑丈さから「辰野堅固」といわれました。また、工手学校 (今の工学院大学) の設立に参加し、その運営にも尽力しました。

辰野は、日本の古代建築についての研究にも精通し、そのすばらしさ、芸術性を評価して「建築史」という学問を開拓しましたが、非常な勉強家としてもよく知られています。二人の子どもにいつも「自分は秀才だったことはない。しかし、どんな秀才も自分ほど勉強家ではなかった。秀才が1度聞いて覚えることを、自分は10度たずね、20度ただして覚えた。おまえたちも、その意気で勉強せよ」と語ったといわれています。フランス文学者・随筆家として著名な長男の辰野隆(ゆたか)は、こうして育てられたのでしょう。


「3月25日にあった主なできごと」

1499年 蓮如死去…親鸞が開いた浄土真宗の教えを、わかりやすい言葉で民衆の心をとらえ、真宗を再興させて「中興の祖」といわれる蓮如が亡くなりました。

1872年 樋口一葉誕生…『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』などの名作を残し、わずか24歳で亡くなった作家の樋口一葉が生まれました。

1878年 初の電灯…この日中央電信局が開設され、その祝賀会でわが国初の電灯としてアーク灯が15分ほど灯りました。ただし、一般の人が電灯を見たのは4年半後に銀座通りにアーク灯がついてからでした。一般家庭で電灯がつくようになったのは1887年11月のことです。

1957年 EECの結成…EEC(ヨーロッパ経済共同体)は、この日、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク6か国の代表がローマに集まって、結成のための「ローマ条約」を結びました。1958年1月からEECは正式発足しましたが、その経済面での発展はめざましいもので、ヨーロッパ経済の中心となるばかりでなく、EC(ヨーロッパ共同体)、さらにEU(ヨーロッパ連合)となっていきました。

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