児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年02月

今日2月5日は、官僚政治家として大蔵大臣・内務大臣を歴任し、日本の難局に2度の内閣総理大臣を務めるものの総辞職に追い込まれた若槻礼次�カ(わかつき れいじろう)が、1866年に生まれた日です。

松江藩(島根県)の下級藩士奥村家の次男として生まれた礼次�カは、3歳のときに母を失い、小学校を出てから漢学塾へ通うものの貧しさのために退学、生計をたてるため3年間小学校の代用教員となりました。東京へ出て勉強したいことを叔父の若槻敬(のちに敬の養父)に相談したところ、賛成と資金援助を受け、1884年に上京。司法省法律学校を経て、東京帝国大学仏法科を主席で卒業して大蔵省に入り、おもに税務行政を担当しました。1906年、第1次西園寺公望内閣のとき、阪谷大蔵大臣のもとで大蔵次官として補佐し、翌年は政府財政委員としてロンドン、パリに駐在しました。

1911年に貴族院勅撰議員に推挙され、1912年には、第3次桂太郎の大蔵大臣として入閣をはたすと、桂が創設した立憲同志会に所属して、官僚出身の政党政治家としての歩みを開始します。1914年の第2次大隈重信内閣の大蔵大臣、1924年には、護憲三派(憲政擁護運動を推進する政友会・憲政会・革新倶楽部の3派連合)の加藤高明内閣で内務大臣に就任しました。ここで、懸案とされてきた「普通選挙」と「治安維持法」を成立させる責任者となりました。

1926年1月、加藤の急死に伴い憲政会総裁を引き継いだ若槻が総理となったものの、金融恐慌(台湾銀行・十五銀行などの倒産や取りつけ騒ぎ)に遭遇し、英米と協調外交をすすめましたが枢密院や軍部に否認され、翌年4月に総辞職しました。

1931年4月に若槻は、2度目の内閣を組織しますが、これも浜口雄幸が右翼少年に撃たれた傷がもとで死去したのを受けて、浜口内閣の閣僚を引きついだものでした。この年の9月、「満州事変」がおこり、若槻はこれをひきおこした軍部の行動に対処できず、また内閣内部の対立もまとめきれず、12月に総辞職しました。

以後若槻は、政治の第1線を退き、元老の西園寺公望に信頼されて、後継首相の選定を預かる「重臣」のひとりとなりました。1941年10月の第3次近衛文麿の後継を決める重臣会議で、英米との開戦に否定的な若槻は宇垣一成を推し、木戸幸一らは東条英機を推しましたが、強く反対はしませんでした。

のちに尾崎行雄は、「若槻君は、長年の官吏づとめで、上から叱られると小僧のようにすぐ閉口する癖がある。議会では強腰でも、軍部や枢密院にぐずぐずいわれると、たちまち内閣を放り出して逃げてしまう」と酷評しました。しかし若槻は、日本を終戦に導く努力をした一人であり、極東裁判(東京裁判)の証人となり、キーナン検事から「日本の真の平和愛好者は、あなたがた4人」として、宇垣一成、岡田啓介、米内光政とともに、パーティに招待されたことを誇りとしながら、1949年に亡くなりました。


「2月5日にあった主なできごと」

664年 玄奘死去…中国・唐の時代の高僧で、中国の仏教を発展させた玄奘(げんじょう)が亡くなりました。玄奘三蔵の著した旅行記「大唐西域記」は、のちの民の時代に、三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄をしたがえて、さまざまな苦難を乗り越えて天竺へ経を取りに行く物語『西遊記』として描かれ、世界的に有名になりました。

1597年 26聖人の殉死…豊臣秀吉の命令により、カトリック信徒二十六名が長崎で処刑されました。

1869年 小学校設置の奨励…明治政府は、小学校設置令を公布して小学校を設置するように全国に働きかけました。翌年に学制が発布され、1873年1月設置の東京師範学校附属小学校を皮切りに、1875年には約2万4千校の小学校が全国各地に設置されました。

今日2月4日は、陸軍大将、陸軍大臣などを歴任し、第33代内閣総理大臣となった林銑十郎(はやし せんじゅうろう)が、1943年に亡くなった日です。

1876年、石川県金沢市に旧加賀藩士の子として生まれた林銑十郎は、1894年7月に日清戦争が始まると、旧制四高から陸軍士官学校に転校し、1903年に陸軍大学校を卒業しました。1905年に始まった日露戦争では旅順攻撃に参加した後、参謀本部員を経て、1913年から3年間ドイツに留学しました。ついでイギリス駐在員となり1923年には、国際連盟に陸軍代表として渡仏し、平和条約実施委員を兼任します。帰国後は、陸軍大学校校長、近衛師団長など陸軍の重要ポストをつとめあげ、1930年に朝鮮軍司令官となりました。

翌1931年、中国の関東州に駐屯していた関東軍が「満州事変」をおこすと、関東軍の兵力不足を補うため、林は正式な出兵命令のないまま、独断で朝鮮軍(朝鮮に駐留している日本軍)を、国境を越えて奉天にむかわせ、緒戦の勝利に貢献しました。この行為は、天皇の統帥権を犯す死刑もありうる重罪となる行為でしたが、天皇はじめ軍首脳は、軍の作戦行動が効果的だったために罪はとわれませんでしたが、生涯「越境将軍」の異名がつきまといました。

1932年に陸軍大将に進み、1934年には齋藤内閣、ついで岡田内閣で陸軍大臣を務めました。当時陸軍内部には統制派(政財界と結び、合法的に総力戦体制をめざす現実派)と、皇道派(天皇親政による軍事国家樹立をめざす急進派)が対立していましたが、林は1935年、皇道派の重鎮・真崎甚三郎教育総監らを罷免しました。これは両派の派閥争いを激化させ、皇道派の相沢中佐が統制派の中心人物だった永田鉄山を惨殺、翌1936年には皇道派の青年将校ら1400人ものクーデター「2.26事件」を誘発させることになりました。

以後は予備役とされますが、1937年に石原莞爾らに推されて内閣総理大臣になるものの、「祭政一致」という古風なスローガンを掲げたことで国民の失笑を買い、軍の支持を失ってわずか4か月で総辞職に追い込まれ、公職を退いたのでした。


「2月4日にあった主なできごと」

1181年 平清盛死去…平安時代末期の武将で「平氏にあらざれば人にあらず」といわれる時代を築いた平清盛が亡くなりました。

1703年 赤穂浪士の切腹…前年末、「忠臣蔵」として有名な赤穂浪士46名が、吉良義央(よしなか)邸に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)のあだ討ちをしたことに対し、江戸幕府は大石良雄(内蔵助)ら赤穂浪士46名に切腹を命じました。

1945年 ヤルタ会談…第2次世界大戦でドイツの敗戦が決定的になったことで、ソビエトのクリミヤ半島にあるヤルタに、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソビエト連邦(ソ連)首相スターリンの3国首脳が集まって、「ヤルタ会談」がはじまりました。

今日2月3日は、『草わかば』『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』という4つの詩集を刊行し、薄田泣菫とともに「近代詩を代表する詩人」と評価される蒲原有明(かんばら ありあけ)が、1952年に亡くなった日です。

1875年、東京麹町に役人の子として生まれた蒲原有明(本名・隼雄)は、生まれつき身体が弱かったこと、7歳の時に両親の離婚により後妻に育てられたこと、東京府尋常中学をへて第一高等の受験に失敗したことは、有明の生涯に暗い影響を与えました。神田の国民英学会で英文学を学んで詩に親しむうち、友人たちと同人雑誌「落穂双紙」を発刊しました。1898年、読売新聞の懸賞小説に応募した「大慈悲」が1等当選をはたし、新進作家として名をあげましたが、イギリスのロセッティらロマン派の詩や島崎藤村らの詩に強く魅かれ、小説を捨てて詩作に専念します。

1902年、第1詩集『草わかば』を出版すると、薄田泣菫と並ぶ新進詩人として詩壇に迎えられました。翌年の、上田敏の訳詩に強く影響を受けた第2詩集『独絃哀歌』は、「独弦調」という独自の詩律を創始して時代の流行を生み、1905年の第3詩集『春鳥集』は、34編の詩と翻訳詩3編からなり、序文に初めて象徴主義的志向を表明した詩集として、また近代詩の発展に大きな役割をはたした詩集として知られています。

1908年に刊行した最後の詩集『有明集』は、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴詩の手法を確立したことで、薄田泣菫の『白羊宮』と並んで日本の近代詩の金字塔とされ、北原白秋、三木露風らに大きな影響を与えています。

しかし、時代は自然主義の流れに向かっていたため、大正以後は詩壇を退き、敗戦後に自伝『夢は呼び交わす』を刊行しました。

次の詩は、有明の代表的な詩「牡蠣(かき)の殼」の一部です。

牡蠣の殼なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
独りあやふく限りある
その思ひこそ悲しけれ

身はこれ盲目(めしい)すべもなく
巌のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮のみちひをおぼゆめり

いかに黎明(あさあけ)あさ汐の
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼……

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、蒲原有明の作品24編を読むことができます。


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られるグーテンベルクが亡くなりました。

1637年 本阿弥光悦死去…豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた本阿弥光悦が亡くなりました。

1901年 福沢諭吉死去…『学問のすすめ』『西洋事情』などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が亡くなりました。

今日2月2日は、20世紀前期の最大の巨匠、最も重要な作家の1人と評されるアイルランド出身の作家ジョイスが、1882年に生まれた日です。

ダブリンの南ラスガーに、没落するカトリック家庭の10人兄弟長男として生まれたジェイムズ・ジョイスは、6歳でイエズス会系の寄宿学校に入るものの、父親の失職により退学を余儀なくされました。その後、成績が優秀だったため、学費免除によりベルべデーレ・カレッジを経て、1898年ダブリンのユニバーシティ・コレッジに入学、ラテン語、イタリア語、フランス語を学ぶかたわら、文学に傾倒し、戯曲を書いたり、劇作品などの書評を投稿したりしました。

1902年に卒業後、パリへ赴くものの貧困のために帰国し、私立学校の教師となりました。1904年妻となるノラ・バーナクルと出会って結婚してからは再び祖国を去り、1941年に亡くなるまで、生涯の大半をフランス、イタリア、スイスなどヨーロッパ大陸ですごしました。

ジョイスの代表作は、1922年に発表された大作『ユリシーズ』でしょう。フランスのディジャルダンらの内的独白手法を発展させた作品として、エズラ・パウンド、エリオットらから大きな賞賛を得、20世紀最大の巨匠として、昭和初期のモダニスト文学者たち、とくに伊藤整に代表される心理小説に大きな影響を与えました。

物語はさえない中年の広告取りブルームを中心に、ダブリンでのある1日(1904年6月16日)を多種多様な文体を使って詳細に記録したものです。タイトルの『ユリシーズ』は、ホメロスの『オデュッセイア』を下敷きにし、18章からなる物語全体の構成は、英雄オデュッセウスはさえない中年男ブルームに、息子テレマコスは作家志望の青年スティーブンに、貞淑な妻ペネロペイアは浮気妻モリーに、20年にわたる辛苦の旅路はたった一日の出来ごとに置き換えるという手法がとられ、意識の流れの技法、入念な作品構成、おびただしい数の駄洒落・パロディ・引用などを含む実験的な文章、豊富な人物造形と幅広いユーモアなどによって描かれました……。

もうひとつの代表作『若き芸術家の肖像』は、アイルランド独立運動挫折期に育った少年が、家・祖国・宗教に反逆して、己の運命を文学の世界に切り拓く姿を、ギリシャ神話のダイダロスの姿と重ね合わせて描いた長編小説で、芥川龍之介らに注目されました。また、13年かけた大作『フィネガンズ・ウェイク』は、眠っているときの人間の意識の裏にある世界を扱った作品で、語彙、文章ともに難解なもので、前衛文学の極致といわれています。


「2月2日にあった主なできごと」

962年 神聖ローマ帝国成立…ドイツ王オットー1世は、教皇ヨハネス12世より帝冠を受け、神聖ローマ帝国が成立しました。現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を含む帝国は、ナポレオンによってその名称が消されるまで、844年も存続しました。ただし大小の国家連合体であった期間が長く、この中から後のハプスブルク家が支配するオーストリア帝国、プロイセン王国などドイツ諸国家が成長していきました。

1848年 アメリカ・メキシコ戦争終結…1846年にテキサスの国境線をめぐる紛糾で始まった米墨両国の戦争は、この日アメリカが勝利して終結しました。その結果、ニューメキシコがアメリカの領土となりました。

1907年 メンデレーエフ死去…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成したメンデレーエフが亡くなりました。

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