児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年02月

今日2月13日は、昭和前期に、巨大財閥を形成させ、満州を支配した実業家で、戦後は参議院議員も務めた鮎川義介(あゆかわ よしすけ)が、1967年に亡くなった日です。

1880年、旧長州藩士の子として山口市に生れた鮎川義介は、旧制山口高校を経て、1903年に東京帝国大学機械科を卒業後、芝浦製作所に入社して工員として働きました。当時の技術はすべて西欧の模倣であるのに気づくと、渡米してグルド・カプラー社に鋳物工員として1年余り働いたのち帰国。1910年、習得技術を企業化するため、遠い親戚にあたる井上馨の支援を得て今の北九州市戸畑区に戸畑鋳物株式会社(現・日立金属)を創業しました。

1925年ころ、義弟の久原房之助が経営する久原鉱業が経営危機に陥ったことで再建を引き受け、1928年に会社名を「日本産業」(日産)と改めて公開持株会社としました。さらに、社会的資産を動員させるなど拡大戦略を展開して、傘下に日本鉱業・日立製作所・日立電力・日産化学・日本油脂・日産自動車など多数の有力会社を収める新興財閥の雄ともいえる「鮎川財閥=日産コンツェルン」を形成しました。

1937年ころからは、軍部と提携し、日産を満州重工業開発として初代総裁に就任すると、満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務するようになります。やがて、満州の財界をささえる存在となり、岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)とともに、満州三角同盟といわれるまでになりました。

敗戦により、戦争犯罪人容疑で1945年12月に逮捕されて公職追放、巣鴨拘置所に20か月拘置されましたが、1951年に追放解除後、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立して会長に就任、中小企業の振興に尽力します。いっぽう、1953年には、帝国石油・石油資源開発の社長となり、参議院議員にもなりました。1956年日本中小企業政治連盟を結成して総裁となり、1957年11月の臨時国会では中小企業団体組織法を成立させています。

しかし、1959年に参議院全国区で再選するものの、同時に当選した次男金次郎に選挙違反容疑がかけられ、道義上の責任をとって議員を辞職しました。


「2月13日にあった主なできごと」

1689年 権利宣言の承認…ジェイムズ2世の専制からイングランドを救ったオレンジ公ウィリアムと妻のアンは、即位の前に議会の立法権、課税の同意権、討論の自由などの盛りこまれた「権利宣言」を読み上げ、ウィリアム3世とメアリー2世として共同統治する文書に署名。「権利宣言」は同年12月に「権利章典」として立法化され発布されました。ジェイムズ2世の追放から二人の即位までのクーデターが無血だったことから「名誉革命」ともいわれ、「権利章典」は大憲章(マグナカルタ)・権利請願とともにイギリス国家における基本法として位置づけられています。

1840年 渋沢栄一誕生…明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した渋沢栄一が生れました。

1875年 平民苗字必称義務令の布告…1870年9月に農民や商人など武士以外の平民も苗字(姓)をつけるようにという布告が出ていましたが、まだつけていない者が多くいたため、この日必ずつけなくてはいけないという布告が出されました。文字も書けない人たちは、大変苦労しながら苗字を考えたといわれています。

今日2月12日は、『ピーナツ』という空前の人気を誇る漫画を50年にもわたり連載し続け、世界じゅうで愛されるスヌーピー、チャーリー・ブラウン、ウッドストックなどのキャラクターを生み出したアメリカの漫画家シュルツが、2000年に亡くなった日です。

1922年、ミネソタ州ミネアポリスに理髪師の子に生まれたチャールズ・シュルツは、やがて両親がセントポールに理髪店を開いたことで同地で育ちました。幼いころから漫画を描くのが大好きで、将来は漫画家になりたいと夢を見ていました。

高校3年に在学中、両親はシュルツの夢をかなえさせようと、生計に苦しみながらも高額な学費を捻出して、漫画の通信教育学校で学ばせてあげました。シュルツは講座をやり遂げ、いくつかの雑誌社に自分の描いたギャグ漫画の売りこみにかかりました。しかし、世の中は漫画どころではなく、第2次世界大戦が始まっていました。1943年に徴兵され、陸軍二等軍曹としてヨーロッパ戦線に送られましたが、幸い、直接戦闘に参加することはなく1945年に除隊し、アート・インストラクション・スクールに就職しました。(そこでの同僚だったチャーリー・ブラウンの名は、のちに『ピーナッツ』の主人公の名として使われています)

この学校で働きながら積極的に投稿を続けたところ、1947年地元の新聞に『ピーナッツ』の原型となった『リル・フォークス』が掲載されました。漫画配給大手のユナイテッド・フィーチャー・シンジケーツ(現ユナイテッド・メディア)の目にとまり、1950年10月から『ピーナッツ』(「困った人たち」の意)の新聞連載を開始し、本格的なデビューを果たします。以来、亡くなるまで、約50年間にわたる連載が全米8紙で始まることとなりました。

最初こそ掲載紙数は少なかったものの、やがて世界じゅうの新聞が掲載する空前のヒット漫画に成長。シュルツの描く世界は、自身の人生経験をもとに、身近な子どもたちの行動を暖かい目で観察することによって紡ぎだされ、父が床屋であること、赤毛の女の子への片思い、負け続ける野球チーム、毛布を手放せない男の子……等など、ヒーローが持てはやされる超大国アメリカにありながら、いつも弱い者、小さな者の視点を終始くずしません。だからこそ、『ピーナッツ』は、世界じゅうの人々に読まれ、愛され続けているのでしょう。

なお『ピーナッツ』はテレビアニメ化されて、エミー賞やピーボディ賞を受賞。さらにシュルツは、アメリカの漫画家にとって最高の栄誉であるリューベン賞を受賞しています。また、1984年には『ピーナッツ』の掲載紙は2000誌に到達したことでギネスブックに認定され、一時は世界75か国・21言語で3億5500万人以上の読者を持ち、漫画の総発行部数は3億部以上といわれています。


「2月12日にあった主なできごと」

1603年 江戸幕府開かれる…1600年の関が原の戦いで勝利して全国を制覇した徳川家康は、この日征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。

1809年 リンカーン誕生…第16代アメリカ合衆国大統領となり、「奴隷解放の父」と呼ばれたリンカーンが生まれました。

1809年 ダーウィン誕生…生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に、「自然淘汰説」という新しい学説をとなえ、『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンが生まれました。

1912年 清朝の滅亡…中国清朝最期の皇帝である7歳の宣統帝・溥儀(ふぎ)が退位して、初代の太祖から12世297年にわたる清王朝の統治が終わりました。なお、溥儀は20年後、日本軍に満州国皇帝にされ、はかない役割をになわされました。その生涯は1987年公開の映画「ラストエンペラー」に描かれ、作品は第60回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

1984年 植村直己消息不明…世界初の5大陸最高峰単独登頂をはたした冒険家の植村直己は、北アメリカ最高峰マッキンリーの初厳冬期登山に成功した翌日、消息を絶ちました。この日は、1941年の誕生日でもありました。

1996年 司馬遼太郎死去…『梟の城』で直木賞を受賞した後、『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など戦国・幕末・明治を扱った作品を数多く遺した作家の司馬遼太郎が亡くなりました。『街道をゆく』など文明批評家としての評価も高いものがあります。

今日2月10日は、『実験医学序説』を著し、グリコーゲンの発見をはじめ、肝臓・膵臓・交感神経などの働きを解明したフランスの生理学者ベルナールが、1878年に亡くなった日です。

1813年、フランス東部ローヌ地方のサン・ジュリアン村に、ぶどう作り農家の子として生まれたクロード・ベルナールは、村のイエズス会の学校で初等教育を受けたのち、リヨンに出て薬局で働きました。その余暇に戯曲に親しむうち劇作家を志し、5幕ものの戯曲を書いてバリに出ました。しかし、知り合った評論家から作家より医学の道をめざすよういわれると、べルナールはこの助言に従ってパリ大学医学部に入学。苦学しながら同大学を卒業後、28歳のときコレージュ・ド・フランスの生理学教授マジャンディと知り合って助手となり、2年後の1843年に胃液の生理作用の研究で学位をとりました。

やがてベルナールは、マジャンディの精神を受けつぎながら、実験を注意深く計画し、空想や哲学から独立した「実験生理学」を完成させ、生理学的実験の権威となりました。1854年にはソルボンヌ大学生理学初代教授、翌1855年には、恩師の死去の後を継いでコレージュ・ド・フランスの医学教授に就任し、1868年にはアカデミー・フランセーズ会員に推挙されています。

ベルナールの数々の画期的な業績のひとつは、哺乳類の肝臓の内部に「グリコーゲン」というでんぷん状の物質があることの発見でしょう。これが、炭水化物の保存のために血液中のブドウ糖で作られ、必要に応じて再び糖となることを見つけました。その他、脂肪の消化におけるすい液の働きをふくむ膵臓機能、交感神経の脈管運動などを明快に記した主著『実験医学序説』は、不朽の名著といわれ、今も重要な指導書とされています。

さらに、晩年に著した『動植物に共通の生命現象』は、動物も植物も同じような同化作用があることなど、一般生理学の立場を明らかにした書として、医学界ばかりでなく、文芸や思想界にも多くの影響を与えました。このような考え方は、アメリカの生理学者ウォルター・キャノンらに引きつがれています。


「2月10日にあった主なできごと」

1657年 新井白石誕生…江戸時代中期に活躍した旗本・政治家であり、歴史、文学、言語学、政治、地理、兵法、考古学、民俗学などにも通じる博学の学者となる新井白石が生まれました。

1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。

1851年 水野忠邦死去…江戸時代末期に「天保の改革」を指導した水野忠邦が亡くなりました。

1904年 日露戦争勃発…中国東北部の満州と朝鮮半島の支配権をめぐって紛糾した両国でしたが、日本政府はこの日、大国ロシアに対し宣戦布告をしました。

今日2月9日は、江戸時代中期、石田梅巌の「心学」に学び、文字に親しまない女性や子どものための教本を作るなど、心学の普及に努めた手島堵庵(てじま とあん)が、1786年に亡くなった日です。

1718年、京都の豪商で『商人夜話草』などの教訓書を著した上河宗義の子として生まれた手島堵庵(本名・上河喬房 通称・近江屋源右衛門)は、幼いころから父の薫陶を受け、18歳で「心学」の開祖として知られる石田梅巌の門に入り、3年後の1738年に、師から開悟されました。

その後は家業に打ちこみましたが、1773年ころ家督を長男の和庵(わあん)に譲ると、梅岩門下の兄弟子たちが相ついで亡くなったために後を継ぎ、請われるままに心学の講学を行いました。その後、死去するまでの30数年間を、心学の普及に専心しました。

隠居した当初は、京都富小路三条(今の中京区内)に五楽舎を建てて講学の場としましたが、門弟の増加にともない、1773年に五条東洞院に修正舎を、1779年西陣に時習舎を、1782年に河原町に明倫舎など8舎をあいついで開設し、これらを中心にその門弟の組織を作りました。その間、『坐談随筆』『児女ねむりさまし』など20種類もの小冊子を著し、心学の精髄を、女性や子どもにもわかるように平易な文や絵入りの七五調の歌などにして表現しました。そのため、梅岩の持っていた社会批判の主張がうすめられて幕府に都合のよいものになりましたが、心学は「町人の哲学」として、いっきに庶民の間に広まりました。とくに、「前訓」という7.8歳~14.5歳の子どもを集め、日常的な礼儀作法やしつけを指導したことは、わが国初の幼児教育として注目されています。

堵庵は、京都市中にとどまることなく、大坂、大和、丹波などにもでかけ、どこでも数百人の聴衆を集めたといわれ、心学を修めた者は師・梅岩の門弟とみなしました。ところが、未熟なままに指導する者が出てきたために、門弟への心得書や掟書を作成して自重を促しました。弟子には、布施松翁・中井利安・上河淇水・脇坂義堂・上村賢道らたくさんいますが、関東に「参前舎」を開いた中沢道二は特筆される人物で、武家大名家中にも出入りして、武士階級にも心学を普及させました。


「2月9日にあった主なできごと」

1856年 原敬誕生…日本で初めて政党内閣を組織し、爵位の辞退を表明したため平民宰相といわれた明治の政治家原敬が生まれました。なお、原敬は1921年、首相在任中に暗殺されました。

1881年 ドストエフスキー死去…『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などを著し、トルストイやチェーホフとともに、19世紀後半のロシア文学を代表する文豪で思想家のドストエフスキーが亡くなりました。

1956年 原水爆実験中止決議…第2次世界大戦で広島・長崎に原爆被害を受けたわが国は、1954年南太平洋にあるビキニ環礁で行なわれたアメリカ水爆実験で、第5福竜丸が死の灰をあび、久保山愛吉さんの死亡したビキニ事件がおこりました。これがきっかけとなって、原水爆禁止運動がさかんとなり、国会はこの日原水爆実験中止を決議、アメリカ、ソ連、イギリス政府に実験中止の申し入れをしました。

今日2月6日は、フィリピンの革命家で、フィリピン共和国の初代大統領となったアギナルドが、1964年に亡くなった日です。

フィリピンは16世紀以来スペインの植民地にされており、フィリピンの先住民たちはスペイン人地主による重税と重労働、宣教師の横暴などに苦しんでいました。

1869年、中国系弁護士の子としてルソン島カビテ州カウイトの町に生まれたエミリオ・アギナルドは、マニラの高校に進学したものの、1882年コレラで高校が閉鎖されてからは復学せず、13歳で学校教育を終えました。郷里にもどったアギナルドは、17歳でカウイトのひとつの地区の首長になると、スペインのフィリピン支配と闘う革命秘密結社「カティプナン」に入りました。

1895年カウイト町長になるものの、翌1896年8月にカティプナンの陰謀が新聞紙上で報道されたことを契機に、スペイン植民地政府はカティプナンを検挙する方針を打ち出しました。カティプナン幹部のボニファシオは武装蜂起を宣言し、マニラ北方のスペイン軍基地を襲撃しましたが、スペイン軍に敗北を重ねます。いっぽうアギナルドは、独自の軍を編成して9月に「イムスの戦い」、11月に「ビナヤカンの戦い」でスペイン軍に勝利し、カビテ州を解放しました。

1897年に入ると、本国から4万人の増派を得たスペイン軍の反攻が進み、2月にアギナルドの支配するカビテ州への進軍が始まり、拠点を置いていたイムスの町からアギナルドはナイクに移動します。5月にスペイン軍はナイクの総攻撃を行い、アギナルドは死を覚悟するものの脱出に成功、やがてカティプナンの指導権を握ると、11月にブラカン州に総司令部を置いて革命政府「ビアクナバト共和国」を樹立、大統領を名乗ります。その後もフィリピン各地のゲリラ戦を指導しながら、スペイン軍と交戦を続け、マニラの弁護士の仲介を得てスペイン当局と12月に停戦協定(ビアクナバト協定)に調印しました。

しかし、この協定は名ばかりのもので、カティプナン内部の抗争も激しさを増し、アギナルドら26人のカティプナンはスペイン側から補償金を得て亡命を申請、同年末に香港に到着、自転車業を開業して時期が来るのを待ちました。そして停戦から1年、1898年にスペインとアメリカによる米西戦争が勃発すると、アメリカはアギナルドに接近、スペインに勝利すればフィリピンの独立を認めるとの確約をえて帰国、スペインを相手にふたたび戦いを挑みました。こうして勝利したアギナルドは、カビテ州の自宅で独立を宣言し、翌年には憲法を制定して「フィリピン共和国」の初代大統領に就任したのでした。

ところが、アメリカとスペインの間にはパリ講和条約によって、アメリカにフィリピンの領有権を譲渡されていたため、国際上はフィリピンはアメリカの領土となっていました。明らかにだまされたアギナルドらフィリピン国民はこれに猛反発し、アメリカの支配に抵抗する革命組織を指導し、アギナルドは得意のゲリラ戦で長期戦に挑みましたが、アメリカの執拗な掃討作戦や住民虐殺により少しずつ追いつめられ、1901年に捕えられ敗北しました。

その後のアギナルドは、アメリカに忠誠を誓って独立闘争をあきらめますが、平和的な独立への動きを模索し、日本軍の統治を経た1946年7月、第3次フィリピン共和国が成立。その独立パレードには、フィリピン国旗を高々と掲げるアギナルドの姿がありました。


「2月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が生れたとされる日です。

1972年 日の丸飛行隊…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金メダルのなかった大ニュースに、3人は「日の丸飛行隊」とよばれ話題を独占しました。

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