児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年02月

今日2月20日は、明治時代の後期に「日本電報通信社」(のちの電通)を創業し、通信業の迅速化、広告代理業の近代化につとめて業界トップに押し上げた光永星郎(みつなが ほしお)が、1945年に亡くなった日です。

1866年、今の熊本県八代郡氷川町に酒造業者の子に生まれた光永星郎は、漢学塾に学んだのち、1880年に徳富蘇峰の父が創立した共立学舎に入ったものの、当時高揚していた自由民権運動に共鳴して中途退学しました。軍人を志して熊本の育雄校を経て上京し、有斐校に学びましたが、ひょう疽(そ)を患い右脚の自由を失ったため政治家志望に転じ、国会開設促進運動を展開。しかし1887年に保安条例違反により、尾崎行雄、星亨、中江兆民らとともに東京からの退去命令を受けました。

1889年「大阪朝日新聞」の記者になり、日清戦争時には「めさまし新聞」の従軍記者として台湾に渡り、のちに記者をやめて台湾総督府の役人となります。やがて記者時代に、通信手段の不備が原因で、せっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れた経験を思いおこし、1898年迅速なニュース報道のために、新聞社にニュースを供給する通信社の設立をめざして役人を辞職、再度上京しました。

そして1901年7月、今の銀座4丁目に2階建ての家を借りて2階を住居、1階の6畳と2畳を事務所に、社員8人による「電報通信社」を設立しました。通信業単独では採算がとれそうもないことから、11月には新聞社に広告を取り次ぐ「日本広告」を併設しました。当時の広告業界は、5つの代理店が独占していて、広告を掲載する新聞社を選べるほどの力を持っていました。そこで光永は、手数料を他社より安く、広告取引の透明化、意匠図案サービスの無料提供など調査情報サービスを掲げ、顧客を少しずつ開拓していきました。

5年後の1906年12月、2社を合併して「日本電報通信社」を興すと、1907年には、アメリカで創業したばかりのUP(現在のUPI)と通信契約を締結して、国内外から政治や社会的事件などの最新ニュースをさまざまな新聞社に配給する通信網を拡大させました。

いっぽう、新聞社とのつながりを深めることで、広告代理業でも大きなシェアを占めるようになりました。創業以来社長のいない会社でしたが、1923年に初代社長になった光永は、これまで以上に通信業の迅速化、広告代理業の近代化につとめ、やがて共に業界トップに押し上げていきました。

しかし、1931年の満州事変後、国内の情報通信機関を一元化するため、電通と競合していた新聞聯合社との合併を図る動きが浮上しました。光永は強硬に反発しましたが、軍部の強硬な姿勢に妥協せざるをえず、1936年に新聞聯合社が「同盟通信社」となると、通信部を同盟に譲渡し、電通は広告代理業専業となって再出発したのでした。その間光永は、新聞、通信、広告各団体の設立にも尽力したことで、1933年には、各団体の代表として貴族院議員に任命されています。

なお、敗戦後に「電通」は躍進をとげ、わが国最大の広告会社となったばかりでなく、今や世界有数の広告会社として知られています。


「2月20日にあった主なできごと」

1607年 歌舞伎踊り…出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露、諸大名や庶民から大喝采をあびました。

1886年 石川啄木誕生…たくさんの短歌や詩、評論を残し、「永遠の青年詩人」といわれる石川啄木が生れました。

1928年 初の普通選挙…それまでの選挙権は、国税を3円以上おさめる成人男性に限定されていましたが、大正デモクラシーの勃興や護憲運動によって、納税額による制限選挙は撤廃され、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現しました。

1933年 小林多喜二死去…『蟹工船』『不在地主』『党生活者』などを著し、日本プロレタリア文学の代表作家といわれる小林多喜二が、拷問によって殺されました。

今日2月19日は、現代中国で最も重要な役割を演じた政治家のひとりで、毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中国の再建に取り組み、2度の失脚を乗り越えて市場経済の導入をはかって急成長させたことで知られる�ケ小平(とう しょうへい)が、1997年に亡くなった日です。

1904年、四川省の裕福な地主の子に生まれた�ケ小平は、16歳のときに「勤工倹学」(働きながら学ぶ)に参加してフランスに渡り、鉄鋼工場員、レストランのボーイ、清掃夫など、職を転々としながら資金をたくわえます。1922年にパリ郊外の中等学校に入学して3か月学んだのち、パリ近郊のルノーの自動車工場に工員として勤務しました。1922年に中国少年共産党に入党すると、1925年に中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となりますが、フランス政府から危険分子と見なされたために、1926年モスクワに渡り、中山大学で共産主義を学びました。

1927年に帰国すると、国民党による共産党への激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導しました。やがて長征に参加して毛沢東を支持し、共産党の中枢として抗日戦争、国共内戦を戦い、特に「八路軍」副指揮官としての活躍は広く知られるようになりました。

1949年中華人民共和国が成立すると、西南部の解放戦を指導、1952年政務院総理、1953年財政部長(大臣)を兼任。さらに1955年中央政治局委員、1956年に中央総書記に選出され、党内序列第6位となって党の日常業務を統括するようになりました。�ケ小平は身長150cmの小柄でしたが、毛沢東からも一目置かれ、1957年に�ケ小平らを率いてソ連に行きフルシチョフ首相にあったとき、�ケ小平を「あのチビを甘く見てはいけません。彼は蒋介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したと伝えられています。

しかし、1958年からはじまった「大躍進」運動の総括をめぐって1966年末に毛沢東と対立が始まり、批判が強まることを警戒した毛沢東が「文化大革命」を開始すると、劉少奇と共に資本主義への道を歩む走資派・実権派として激しく批判され、役職を解任されました。

林彪事件後の中国経済立て直しをめざす周恩来の努力で、1973年に副首相として復活しましたが、文化大革命を推進する四人組とは対立が深まり、文化大革命末期の1976年に周恩来が死去したのを機に、北京の民衆が反四人組の声を上げ、第1次天安門事件が起こると、毛沢東および四人組によってその責任をとらされ、再び失脚しました。

1976年9月、毛沢東死去後に�ケ小平の復活への待望論が高まると、翌1977年7月、党は「四人組」の永久追放・�ケ小平の全職務の回復を決定すると、3度目の復活をはたしました。1981年に党の実権を握り、「人民公社の解体」「社会主義市場経済の導入」という積極的な改革開放路線を提唱し、1980年代以降の中国経済の驚異的成長を実現させました。

1987年からは、党の国家軍事委員会主席に専念したものの、第2次天安門事件後に引退。第一線は退きましたが、亡くなるまで江沢民・胡錦涛・温家宝らの後継者に働きかけて、中国の近代化を推進しました。


「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1473年 コペルニクス誕生…宇宙が太陽を中心として回転しているという「地動説」を唱えた天文学者コペルニクスが生まれました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。

今日2月18日は、封建制度下、苦難の末に平明で力強い救済観を展開する天理教を生み出し、新国家の弾圧にもめげず全国的に発展させた中山みきが、1887年に亡くなった日です。

1798年、今の奈良県天理市に、地主前川家の長女に生まれた中山みき(本名・前川美伎)は、幼いころから両親の影響を受けて浄土宗の熱心な信者となりました。1810年、13歳で近郊の裕福な庄屋中山家に嫁ぐと、封建的な家族制度、身持ちの悪い夫、家事や農事などの重労働に苦しみました。その苦しみを浄土宗へ救いを求め、19歳の時に念仏信仰法話の最高段階「五重相伝」を受けたほどでした。

しかし、浄土の信仰によっても、自己犠牲と忍従の暮らしは続き、年ととも苦悩は増すばかりでした。そして1838年、子どもを相ついで亡くし、さらに長男が足の痛みに苦しみはじめました。そのため山伏が呼ばれて祈祷が行われたときのこと。みきは突然神がかりし、「われは天の神、三千世界の助けのために、天から降ってきた」といいはじめたのです。これが、[人間の陽気ぐらしをもとに、喜びと光に満ちた平和な世界を建設] することを信仰の最終目的とする「天理教」のはじまりでした。

生き神様となることで、みきはしばりつけられていた「家」から解放されましたが、神の命に従って、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与えために、中山家は没落の一途をたどります。しかしみきは、安産と病気治しの生き神として評判になり、周辺の農村で布教活動を行うようになりました。

しだいに、みきの教えに従う人の数も増え、1864年に「つとめ場所」を建築したほか、各地に出向いて布教をはじめると、迫害も増え、時には陣屋に呼び出され、神をまつるのを禁止されることもありました。1867年にかぐらのてぶりや鳴り物の入った『みかぐらうた』を書き、京都神祇管領吉田家に願い出て、布教認可を得て公認となったことで、迫害は収まったかにみえました。ところが、1869年から『おふでさき』の執筆を開始し、権力の没落などを歌いはじめると、官憲からたびたび弾圧を受けるようになりました。さらに、1872年新政府が教部省を設置して国民教化がはじまると、民間宗教は厳しい圧迫を受け、これ以降みきは、18回も拘留・投獄されました。

この弾圧にもめげず、天理教は全国的な発展を続け、教団幹部はみきの意に反して、国家神道のわくの中で活動を合法化する工作を進めました。89歳となったみきは、1886年に警察に12日間拘留され、この弾圧により病床につき、信仰が法律にも政治的支配にも優越することを教えながら、90年の生涯を閉じたのでした。


「2月18日にあった主なできごと」

1207年 法然と親鸞流刑…「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然と弟子の親鸞は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。

1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたルターが亡くなりました。

1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが亡くなりました。

1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。

今日2月17日は、わが国初の近代的国語辞典『言海』『大言海』を編さんした国語学者の大槻文彦(おおつき ふみひこ)が、1928年に亡くなった日です。

1847年、儒学者大槻磐渓の3男として江戸に生まれた大槻文彦(本名・清復)は、若いころから開成所、仙台藩校養賢堂、大学南校などで漢学・英学・数学・蘭学を修めたのち、1872年に文部省に入りました。

当時、欧米の列強国では、国語を統一するために辞書作りが行われ、『オックスフォード英語辞典』(英)、『ウェブスター大辞典』(米)、エミール・リトレ『フランス語辞典』、グリム兄弟『ドイツ語辞典』などが知られていました。

1875年、当時の上司西村茂樹から国語辞書の編さんを命じられた大槻は、欧米の辞書を参考にしなから原稿を書き始め、10年の歳月をかけて4万語からなる『言海』を、1886年に完成させました。しかし未刊のままだったため、その後校正をつづけ、文部省の認可をえて1889年から91年にかけ「ことばのうみ」として自費出版をしました。その後、『言海』と名称を変え、画期的な国語辞典として、数百版を重ねています。

やがて大槻は、国語学の権威として「文法会」を同志とともにおこし、1897年に『広日本文典』を著して、後の国文法研究の模範としたほか、1902年には国語調査委員会主査として口語文法の調査研究に当たり、同委員会の『口語法』(1916年)を生み出し、「かな文字」の普及にもつくしました。そのかたわら、宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・仙台第一高校)校長を務めています。

晩年の十数年は、『言海』の増補改訂版である『大言海』の執筆に移りましたが、没後の1937年、弟子たちの手で完成させました。近代的辞書の編さん、文典の著述、国字問題への尽力という分野での大槻の業績は、今も高く評価されています。


「2月17日にあった主なできごと」

1856年 ハイネ死去…『歌の本』などの抒情詩をはじめ、多くの旅行体験をもとにした紀行、批評精神に裏づけされた風刺詩や時事詩を発表したドイツの文学者ハイネが亡くなりました。

1872年 島崎藤村誕生…処女詩集『若菜集』や『落梅集』で近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家の島崎藤村が生まれました。

1925年 ツタンカーメン発掘…イギリスの考古学者カーターはこの日、3000年も昔の古代エジプトのファラオ・ツタンカーメンの、235kgもの黄金の棺に眠るミイラを発見しました。

1946年 金融緊急措置令…第2次世界大戦後の急激なインフレを抑えるため、金融緊急措置令を施行。これにより、銀行預金は封鎖され、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方、旧円の市場流通を停止、新紙幣(新円)との交換を月に世帯主300円、家族一人月100円以内に制限させるなどの金融制限策を実施しました。しかし、この効果は一時的で、1950年ころの物価は戦前の200倍にも達したといわれています。

今日2月16日は、「京大事件」に抗議して「大学の自治・学問の自由」を守るために京大を辞任、戦後は立命館大学総長として護憲・平和運動を指揮した民法学者の末川博(すえかわ ひろし)が、1977年に亡くなった日です。

1892年、今の山口県岩国市に生まれた末川博は、旧制岩国中学、第三高校を経て、1917年に京都帝国大学(京大)法科を卒業すると、同大学院法科修了後に同大講師、助教授となります。1922年には1年間ハーバード大学・プリンストン大学などで法律の研究を深めて帰国後、同大法学部教授に就任しました。やがて、1930年に『権利侵害論-不法行為に関する研究の一部として』を著すなど、不法行為法の研究で「権利濫用の原理」を確立させ、民法学の第一人者といわれるようになります。
 
しかし1933年、当時の文部大臣鳩山一郎が、滝川幸辰(ゆきとき)京大教授の刑法学説を問題にし、一方的に休職処分を強行する事件(滝川事件または京大事件)が起きると、末川は、他の京大法学部教授、助教授、講師、助手、副手とともに、抗議の辞表を提出して辞任しました。末川は「この事件は滝川教授個人に加えられた弾圧ではなく、日本の学問の自由と大学自治に加えられた弾圧だったから『京大事件』と呼ぶべき」と主張し、京大を退官してからは、1940年に大阪商科大学教授となっています。
 
敗戦後の1945年11月、「真の大学の自由は私学にある」という信念のもとに立命館大学総長に就任すると、総長選挙の選挙権を学生に与えるなど、大学運営に学生の意見を反映させる「立命館民主主義」と呼ばれる学園運営を行います。いっぽう末川は、戦後の民主化運動の代表として、世界平和委員会評議員や民主主義科学者会議の会長となり、護憲や平和運動に積極的な発言をし、カリスマ的存在となりました。
 
末川の業績としては、専門の民法分野では、「民商法雑誌」を主宰するとともに、日本で最初の参照条文がついた『六法全書』を刊行したのをはじめ、『法学辞典』『民事判例総覧』などの編集を手がけたほか、上記以外に『所有権・契約その他の研究』『契約法』『物権法』などの著書があります。また、エッセイにも優れ、9巻からなる『末川博随想全集』などを著しました。
 
なお、末川が総長在職中から寄贈していた法律関係の著作集や論文・随筆・講演録ほか12000冊は、立命館大学内の『末川記念会館』に納められています。


「2月16日にあった主なできごと」

1190年 西行死去…平安時代の末期の僧侶で歌人の西行が亡くなりました。西行は、旅のなかにある人間として、また歌と仏道という二つの道を歩んだ人間として、宗祇や芭蕉らに影響を与えました。

1222年 日蓮誕生…鎌倉時代中期の僧侶で、法華経に基づく教えこそが唯一の仏教の真髄と説く日蓮宗(法華宗)を開いた日蓮が生まれました。

1883年 天気図…東京中央気象台が、全国11か所の測候所の観測記録を電報で取りよせ、この日わが国で初めて天気図を作成。3月1日からは毎日(太平洋戦争時を除く)印刷して発行されるようになりました。

1922年 大隈重信死去…明治時代に参議・外相・首相などを歴任した政治家で、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創設させた大隈重信が亡くなりました。

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