児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年02月

今日2月27日は、11歳で映画デビューしてからその美しい容姿で人気を集め、『バターフィールド8』『バージニア・ウルフなんかこわくない』と2度のアカデミー賞主演女優賞に輝き、「リズ」の愛称で親しまれたイギリス出身のアメリカ女優エリザベス・テーラーが、1932年に生まれた日です。

ロンドン近郊に、画商の父と、元舞台女優の母の子として生まれたエリザベス・テーラーは、両親がカンザス州出身のアメリカ人だったことから、戦火を避けるため、1939年にロサンゼルスに移住しました。10歳のころから、驚くほどの美貌が評判になり、映画会社のユニバーサルとMGMの争奪戦となり、ユニバーサルと契約を結ぶものの1作で契約を解消、MGM所属となりました。1943年に出演した映画『家路』の美少女役が話題になると、同年の『名犬ラッシー 家路』も好評で、MGMはテーラーと7年間の出演契約を結びました。イギリスを舞台にした『ジェーン・エア』や『ドーバーの白い崖』に続き、1944年の『緑園の天使』は大ヒット、いちやくテーラーは子役大スターとなりました。

やがて、子役は大成しないというジンクスを破って『花嫁の父』(1950年)『陽のあたる場所』(1951年)『ジャイアンツ』(1956年)などの名作に好演して有名女優となり、大ヒットとなった『熱いトタン屋根の猫』(1958年)や『去年の夏 突然に』(1959年)などに出演して「ハリウッド黄金時代」を代表する大女優といわれるようになります。1960年の『バターフィールド8』では、アカデミー主演女優賞を獲得、この作品は18年間にわたるMGMとの最後の作品となりました。

20世紀フォックスと当時の最高額で契約すると、1963年『クレオパトラ』に主演し、共演者のリチャード・バートンと恋愛関係になったことで、タブロイド紙の大スキャンダルとなり、やがて結婚したことはよく知られています。つづくバートンと共演作『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)は、大ヒットとなり、汚れ役の体当たり演技で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞しました。

しかし、1970年代半ばからテーラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演する程度になりました。1980年代半ばからはエイズ撲滅運動に関わり、1985年に米国エイズ研究財団の創設メンバー、1993年にはエリザベス・テーラー・エイズ基金を創設しています。

テーラーは、2011年79歳で亡くなりますが、私生活では、十代でホテル王のヒルトンと結婚したのをはじめ、離婚と結婚をくりかえし、正式な結婚だけでも8回を数え、生命に関わる長い闘病生活でも知られていました。


「2月27日にあった主なできごと」

1876年 江華条約の締結…鎖国をつづける朝鮮に国交を求めていた明治政府は、前年に日本の軍艦が朝鮮の江華島付近で砲撃を受けたのに対し、猛反撃を加えました(江華島事件)。この日更なる圧力をかけて江華条約を締結させ、念願の朝鮮開国を実現させました。この条約は釜山・江華港を貿易港として開港、朝鮮海航行の自由、江華島事件の謝罪など、日本優位の不平等条約で、日本の朝鮮侵略の第1歩となりました。

1933年 ドイツ国会議事堂炎上…この日の夜突然、首都ベルリンの国会議事堂が燃え上がり、ヒトラー はこれを共産党員のしわざだとして、共産党員をすべて逮捕し、間近にせまった選挙に出られなくさせました。このため、ナチス党は選挙を有利に進め、独裁の足がかりとしました。

1936年 パブロフ死去…消化腺と条件反射の研究で、ノーベル賞を受賞したロシアの科学者パブロフが亡くなりました。

今日2月26日は、日露戦争後に海軍の大御所となり、朝鮮総督、第30代総理大臣、内大臣を務めた斎藤実(さいとう まこと)が、1936年に亡くなった日です。

1858年、仙台藩水沢城下(今の岩手県奥州市水沢)に、武士の子として生まれた斎藤実(幼名・富五郎)は、公務のかたわら寺子屋を開いていた父から漢学を学び、1872年に上京、翌年海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学しました。1884年にアメリカ留学を兼ねながら駐米公使館に務め、この期間中に陸奥宗光、大山巌、山本権兵衛、黒田清隆らと出合えたことは後の資産となりました。1888年に帰国後は、海軍参謀本部員と、「厳島」「富士」などの艦長をくりかえしました。

1898年、第1次大隈内閣で海軍大臣になった山本権兵衛に推されて、海軍総務長官、さらに海軍次官に抜てきされて日清戦争後の海軍拡張計画を作るなど在任7年2か月間に、日英同盟、日露戦争も経験しました。1906年には第1次西園寺公望内閣で海軍大臣となると、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本内閣まで5代、8年以上もつとめあげます。その間に、艦隊(戦艦・巡洋艦)増強計画「八・八艦隊計画」など軍備拡充を推進しました。

1919年、海軍大将となって三・一独立運動後の朝鮮総督に就任すると、従来の「武断政治」から「文化政治」に切りかえて統治の革新につとめました。1927年にはジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年に朝鮮総督に再任され、1931年まで計10年間、比較的柔軟な植民地行政が行われたことは評価されています。

辞任の3か月後に「満州事変」がおこり、1932年に「五・一五事件」が発生すると、殺害された犬養毅首相の後任に斎藤が第30代内閣総理大臣に推されました。「挙国一致内閣」という、政党によらない内閣を組織し、テロ後の混迷した政局をなんとか安静化させ、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げました。いっぽう軍部の要求に従って満州国を承認、国際連盟脱退により、国際的孤立と戦争への道を進むことになりますが、軍部との決定的対立は避けたことで、当時としては長い2年1か月の政権を保ちました。

ところが、陸軍将校の一部に、リベラルな齋藤を嫌って閣僚のスキャンダル暴きにあい、でっち上げといわれる「帝人事件」で大蔵次官ら16人が起訴され、1934年内閣は総辞職に追いこまれました。その後、牧野伸顕の後任で内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす「重臣グループ」のひとりとして、青年将校たちから目の敵にされ、1936年の「二・二六事件」で銃殺されたのでした。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征服しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これ以後は、薩摩藩が独占することになりました。

1802年 ユゴー誕生…フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家のユゴーが生まれました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていたナポレオンは、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。

1936年 二・二六事件…陸軍の青年将校ら1400人以上が首相官邸などを襲撃、天皇を利用して悪政を行う「重臣グループ」(君側の奸)として、岡田啓介首相(別人が殺され難をのがれる)、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを襲撃して暗殺しました。戒厳令が敷かれ、3日後にクーデターは鎮圧されますが、この事件以降、軍部はこの事件の再発をちらつかせ、政・財・言論界を脅迫し、いっきに戦争体制へ歩みはじめました。

今日2月25日は、1951年9月、日本と49か国との平和条約「サンフランシスコ講和」と、同時に結ばれた「日米安全保障条約(安保)」を推進し、アイゼンハワー米大統領の国務長官として活躍したアメリカの外交官で政治家のダレスが、1888年に生まれた日です。

ワシントンに長老教会牧師の子として生まれジョン・フォスター・ダレスは、ニューヨークの公立学校を経て、プリンストン大学とジョージ・ワシントン大学法学校で法律を学びました。1911年にサリバン&クロンウェル国際法律事務所に入ると、第一次世界大戦中には政府の外交問題担当官をつとめ、戦後のパリ平和会議(ベルサイユ会議)では、使節団顧問として賠償問題を担当するなど国際外交の舞台で活躍。1920年には同事務所の共同経営者、1927年には最高責任者となりました。

第二次世界大戦後は、1945年に国連憲章を定めたサンフランシスコ会議の米代表顧問に任命され、1950年に国務省に入り、対日講和の促進役となって政府内の調整、連合国諸政府との交渉、日本政府との対話などを積極的に行動します。そして、ソ連の反対をはじめとするさまざまな難問を強引に切り抜け、1951年9月8日の「サンフランシスコ講和」と、同日に調印された日本とアメリカとの間の「安全保障条約」を実現させました。

1953年には、アイゼンハワー大統領の国務長官にむかえられ、1959年に亡くなるまで、アメリカの重要外交を一手に引受け、任期中に60万マイルを旅行したため「空飛ぶ国務長官」といわれました。その間、朝鮮戦争の休戦を実現させましたが、1957年のスエズ動乱に対しては軍事介入を宣言したアイゼンハワー・ドクトリン、翌年のベルリン紛争への武力行使声明など、積極的な反共主義を主張します。そのため、冷戦時の強硬外交は、「戦争瀬戸際政策」と呼ばれました。


「2月25日にあった主なできごと」

1000年 一条天皇2人の正妻…平安時代中期、政治を支配していた関白の藤原道長は、長女の彰子(しょうし)を一条天皇に嫁がせ、孫を天皇にしようと画策していましたが、この日藤原定子(ていし)を一条天皇の皇后に、彰子を中宮として、ともに天皇の正妻としました。

1670年 箱根用水完成…5年にもわたるノミやツルハシでトンネルを掘る難工事の末、芦ノ湖と現在の裾野市を結ぶ1280mの用水路箱根用水が完成しました。幕府や藩の力を借りずに、延べ人数83万人余という農民や町民の手で作り上げ、現在に至るまで裾野市とその周辺地域に灌漑用水を供給している技術は、高く評価されています。

1841年 ルノアール誕生…フランスの印象派の画家で、風景画や花などの静物画から人物画まで、世界中でもっとも人気の高い画家の一人ルノアールが生まれました。

1953年 斉藤茂吉死去…写実的、生活密着的な歌風を特徴とするアララギ派の歌人の中心だった斎藤茂吉が亡くなりました。

今日2月24日は、1936年のベルリンオリンピック200m平泳ぎで、日本の女子で初めて優勝をとげた前畑秀子(まえはた ひでこ)が、1995年に亡くなった日です。

1914年、今の和歌山県橋本市に豆腐店の子として生まれた前畑秀子は、幼いころから家の前を流れる紀ノ川で泳ぎ、小学校5年生のとき女子50m平泳ぎで学童新記録を出しました。高等小学校2年生のときには汎太平洋女子オリンピックに出場して100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝します。

卒業後は、家業の豆腐屋を手伝うはずでしたが、前畑の水泳の素質をおしがった学校長や関係者が両親を説得、名古屋の椙山(すぎやま)女学校(今の椙山女学園)に編入して水泳を続けることになりました。同校は校内に新しいプールを作るなど全面的に支援しました。1931年に両親が相ついで亡くなる不幸に、前畑の心はくじけそうになりながらも、毎日2万メートルを泳ぎきるという過酷な練習に耐え抜きました。

やがて、1932年に開催された第10回五輪ロサンゼルス大会の200m平泳ぎに出場、0.1秒差の2位で銀メダルを獲得しました。しかし家庭の事情もあって引退を考えましたが、周囲の大きな期待に現役続行を決意。ふたたび猛練習を重ね、翌1933年9月には200m平泳ぎの世界新記録を樹立しました。

そして3年後の1936年、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場。地元ドイツのゲネンゲルとデッドヒートをくりひろげ、1秒差の3分3秒6のオリンピック記録でついに勝利を収め、日本人女性として五輪史上初の金メダルを獲得しました。この試合をラジオで実況したNHKの河西三省アナウンサーは、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ! 前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫する熱涙にむせんだ放送は、当時の日本人を熱狂させ、今も語り草になっています。前畑はその後も世界記録を何度もぬりかえる活躍をし、1937年に結婚、兵頭姓となって引退しました。

その後は、母校の職員として後進の育成に努め、ママさん水泳教室を開くなど一般への普及にも貢献したことで、1990年には文化功労者に選ばれています。


「2月24日にあった主なできごと」

1610年 長谷川等伯死去…『楓図』『松林図屏風』『大涅槃(ねはん)図』などを描き、狩野永徳らとともに安土・桃山時代を代表する画人といわれる長谷川等伯が亡くなりました。

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家のフルトンが亡くなりました。

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。

今日2月23日は、イギリス近代音楽を代表する作曲家で、行進曲『威風堂々』や『エニグマ変奏曲』『ゲロンティアスの夢』などを作曲したエルガーが、1934年に亡くなった日です。

1857年、インクランド中央部ウースター近郊の楽器商の子に生まれたエドワード・エルガーは、幼いころからプロ並みのバイオリニスト・オルガ二ストだった父から音楽を教えこまれて育ちました。しかし、経済的な事情で専門的な音楽教育を受ける機会に恵まれなかったため、バイオリン教師として生計を立てながら、ピアノや作曲は独学によって習得せざるをえませんでした。

そのため、作曲家として広く知られる存在になったのは遅く、1899年42歳の時に指揮者リヒターのロンドン公演で初演された「エニグマ(なぞの)変奏曲」が大成功をおさめてからでした。この作品は、イギリスの管弦楽曲を初めて国際的に認めさせたといわれています。さらに、1900年合唱曲『ゲロンティアスの夢』、翌1901年に作曲した行進曲『威風堂々』(全5番)が発表されると、「イギリス音楽の復興」とされ、パーセルの没後200年にわたるイギリス作曲界の空白を埋めた功績者と讃えられるようになりました。また、エニグマ(なぞ)の作曲家という愛称でも親しまれるようになりました。

その後エルガーは、傑作といわれる『交響曲第1番』『バイオリン協奏曲』『チェロ協奏曲』をはじめ、合唱作品、弦楽合奏曲や歌曲などたくさんの作曲を残し、1924年からは国王の音楽師範を務め、1931年には初代准男爵に叙されています。また、『威風堂々』の第1番は、その中間部のメロディがイギリス国王エドワード7世のために書かれた『戴冠式頌歌』の終曲「希望と栄光の国」に転用され、今ではイギリスの第2の国歌と呼ばれています。

なお、エルガーの人間味あふれる温かさ、内面的な憂愁さを秘めた多くの作品は、没後の第2次世界大戦後に復活をとげ、今でも国際的に人気を保っています。


「2月23日にあった主なできごと」

1685年 ヘンデル誕生…ドイツ生まれでイギリスに帰化し、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれる作曲家ヘンデルが生まれました。

1784年 漢委奴国王の金印…福岡県の小島・志賀島の農民が、田んぼの用水路で金印を発見し、黒田藩に差し出しました。そこには「漢委奴国王」と彫ってあり、金印は、1954年から「国宝」に指定されています。

1836年 アラモの戦い…アラモの砦に立てこもるデイビィ・クロケットら182人のアメリカ・フロンティア義勇軍に対し、3000人ものメキシコ正規軍が攻撃を開始し、義勇軍は13日後に全滅。ただし、メキシコ軍も大打撃を蒙り、この地にテキサス共和国ができ、1845年にはアメリカ合衆国と合併して、テキサス州となりました。

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