児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年01月

今日1月8日は、信長、秀吉にキリシタン大名として仕えたことで知られる高山右近(たかやま うこん)が、江戸幕府の「キリシタン国外追放令」によりマニラに追放され、1615年に同地で亡くなった日です。

イエズス会のザビエルが、1549年に「キリスト教」を伝えたことはよく知られています。それから10年後、布教の任務をになった宣教師のビレラは、京都で布教を開始し、1563年に大和国沢城主高山(飛騨守)友照一族を受洗させました。1552年、友照の長男として生まれた高山右近は、11歳で洗礼を受けました(洗礼名ドン・ジュスト)が、その信仰のために苦難に満ちた生涯を送ることになりました。

1568年、織田信長の強力な軍事力に守られて、足利義昭が15代将軍となると、高山父子は、信長の武将和田惟政に仕え、高槻城に入りました。1571年に惟政が戦死すると、右近は高槻城主となり、同じ信長の武将である荒木村重の配下となって村重の信頼をえます。ところが1578年、村重は、信長と対抗していた毛利氏と手を結び、反旗をひるがえしました。

村重の謀反を知った右近は、妹や息子、家臣たちを人質に出して謀反を阻止しようとしましたが受け入れられません。右近は尊敬していたオルガンティノ神父に助言を求めると、神父は信長に降るのが正義とアドバイスされました。

村重は右近の人質を殺すことはなかったものの、結果的に右近の離脱は村重勢の敗北の大きな要因となり、この功績を認めた信長は、右近を再度高槻城主とし、2万石から4万石に加増、明智光秀の配下としました。ところが1582年6月、光秀の謀反による「本能寺の変」で信長が亡くなると、光秀の期待に反し、右近は秀吉の元にかけつけ、まもなく起こった山崎の戦いでは先鋒をつとめて光秀を敗走させました。

以後、秀吉の武将として、「賤ヶ岳の戦い」「小牧・長久手の戦い」「四国征伐」などにも参戦して功績をあげるいっぽう、牧村政治・蒲生氏郷・黒田官兵衛らをキリシタンに導きました。1585年には明石城12万石の城主となりましたが、1587年に秀吉が「バテレン追放令」を出すと、黒田官兵衛らが棄教するものの、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てる道を選びました。小西行長にかくまわれて小豆島や肥後などに住み、翌1588年には、加賀金沢城主の前田利家に招かれて同地におもむきました。

1590年の「小田原征伐」にも前田軍に属して従軍したばかりか、金沢城修築の際には、右近は見事な築城法を伝授したといわれています。利家亡き後も、嫡男利長に引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になっていましたが、1614年、徳川幕府による「キリシタン国外追放令」を受けてしまいました。

長崎から、マニラに12月に到着。イエズス会やマニラの総督から大歓迎を受けたものの、船旅の疲れや慣れない気候のために病気となり、敬虔な生涯を終えたのでした。


「1月8日にあった主なできごと」

1324年 マルコ・ポーロ死去…ベネチアの商人で、元(中国)に17年も仕え 『東方見聞録』 を遺した旅行家マルコ・ポーロが亡くなりました。

1642年 ガリレオ死去…イタリアの物理学者、天文学者で近代科学を拓いた功績者ガリレオが亡くなりました。

1646年 徳川綱吉誕生…江戸幕府の第5代将軍で、当初はすぐれた政治を行ないましたが、やがて「生類憐みの令」をはじめ、悪政といわれる政治を次々とおこなうようになった徳川綱吉が生まれました。

今日1月7日は、江戸時代後期に松平定信を起用して「寛政の改革」を実施させ、華やかな「化政文化」を生み出すなど、54年の長期にわたり政治を主導した江戸幕府第11代将軍の徳川家斉(とくがわ いえなり)が、1841年に亡くなった日です。

1773年、御三卿(将軍家一族)の1つ一橋治済(はるずみ)の長男として生まれた家斉(幼名・豊千代)は、1781年に第10代将軍家治の養子になって江戸城西の丸に入り、1786年家治の急死を受け、1787年に15歳で第11代将軍に就きました。

まだ若かったことから、白河藩主で名君の誉れの高かった松平定信を老中首座に任命、家治時代に権勢をふるっていた田沼意次を罷免して、積極的に幕府財政の建て直しをはかる「寛政の改革」を実施させました。飢饉に備えて諸大名に備蓄を命ずる「囲米(かこいまい)」の制度、借金に苦しむ旗本らを救済する徳政令の「棄捐(きえん)令」、幕府に都合のよい朱子学だけを奨励する「寛政異学の禁」など、定信の主導する改革は順調にすすみました。

しかし家斉は、方針の相違から定信を6年余りで罷免、定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命して、改革を推進させました。改革そのものはあまりに厳しいものだったために、世間の評判は芳しくなかったものの、次第に幕府の財政は好転していき、町や農村の生活も落ち着いていきました。

1804年ころから家斉自ら政治を行うようになると、文化の中心はこれまでの上方から江戸に移り、その担い手も豪商から一般町人に広がって、新しい遊び・芸能・文学・美術が生まれ、町人や村民が物見遊山の旅行にでかけるなど「化政(文化・文政)文化」がおこりました。家斉もタカ狩りを楽しむなど江戸城中も華やかになり、家斉はたくさんの側妾(そばめ)を大奥におき、17人の女性に56人の子どもを生ませたといわれています。

やがて、大奥の華やかな生活は幕府の財政を悪化させ、天保年間(1830~44年)になると、大飢饉に対応できなくなり、1837年には大坂に「大塩平八郎の乱」がおこり、さらに「生田万の乱」など反乱があいついで幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになりました。また、「モリソン号事件」など、海防への不安もいっきに高まっていきました。

そこで家斉は、1837年に次男の家慶(いえよし)に将軍職をゆずるものの「大御所」として実権を握り続けましたが、その4年後に、15代続いた徳川将軍の中でも最長の54年という在位を記録した生涯を閉じました。


「1月7日はこんな日」

「七草がゆ」を食べる日…[せり/なずな(ぺんぺんぐさ)/ごぎょう(ははこぐさ)/はこべら(はこべ)/ほとけのざ(たびらこ)/すずな(かぶ)/すずしろ(だいこん)/春の七草] と歌われる7種類の草を入れたおかゆを食べれば、無病息災という風習です。平安時代以前に中国から伝わったといわれていますが、単なる迷信ではなく、ちょうど正月料理に飽きたころ、冬枯れの季節に青物を補給するという食生活上の効用が指摘されています。


「1月7日にあった主なできごと」

1490年 足利義政死去…室町幕府第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が亡くなりました。銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は評価されています。

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた前島密が生まれました。

1868年 征討令…1月3日~6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった徳川慶喜に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は西郷隆盛。同年4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

今日1月6日は、アルファベットや数字、楽譜など「6点点字」の開発者として知られるフランスのブライユが、1852年に亡くなった日です。

1809年、パリの西南にあるクーブレという小村に、馬具や革靴などを制作する職人の子として生まれたルイ・ブライユは、3歳の時に工房で遊んでいるうち、誤って父の使っていたキリを眼球に刺して左目を失明してしまいました。その後、感染症にかかって右目も見えなくなり、5歳で全盲となってしまいました。

当時は、盲人が生活をするのはとても困難な時代でしたが、ブライユは指先の感覚が特に優れ、触っただけで物の区別ができたため、母や姉が市場で売る野菜の仕分けを手伝えるほどでした。そのため、両親の努力やまわりの人たちの助力もあって、パリ盲学校に入学することができました。やがて在学中の1824年、ブライユはフランス軍人シャルル・バルビエの開発した12点文字と出会いました。これは、夜間に命令を伝達する暗号方法として、12点の点字を考えつき、パリ盲学校を訪れたものの、文字が複雑すぎてほとんど受け入れらなかったものでした。

しかしブライユは、12点点字に興味を示し、短期間で習得すると、この欠点を改善し、左上から下に1~3番、右上から下に4~6番の「6点点字」を考えつきました。そして、アルファベット26文字のうち、Aは1番、Bは1番と2番、Cは1番と4番というように組合わせると、すべてのアルファベット文字を示すことができ、数字を表に浮き上がらせた文字を、指でさわるようにすればよいことに気がつきました。さらにブライユは、アクセントや句読点、数字や音符の書き方などにも工夫をこらし、1825年に「6点点字」を完成させたのです。

盲学校を卒業してからは、同校の教官になったブライユは、43歳で亡くなるまで教鞭をとり、そのかたわら教会のパイプオルガンを演奏するなどして活躍しました。しかし、ブライユ点字がフランスで共通なものとして認められるのは没後2年経ってからで、世界に広まったのは、さらに100年も経過してからでした。

なお、ブライユの点字を日本語に翻案したのが、石川倉次です。石川は、師範学校を出て千葉県の小学校の教師をした後、「訓盲唖院」(後の東京盲聾学校)に勤め、1890年ルイ・ブライユが考案した6点式点字で日本語を表記することに成功。これが正式に採用されたのが、1890年11月1日のことでした。以来この日が「点字の日」と定められています。石川は「点字器」や「点字ライター」も開発し、「日本点字の父」といわれています。


「1月6日にあった主なできごと」

1215年 北条時政死去…鎌倉時代の初期、源頼朝がうちたてた鎌倉幕府の実権を握り、北条氏の執権政治の基礎を築いた武将・北条時政が亡くなりました。

1412年 ジャンヌ・ダルク誕生…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが生まれました。

1706年 フランクリン誕生…アメリカ独立に多大な貢献をした政治家、外交官、また著述家、物理学者、気象学者として多岐な分野で活躍したフランクリンが生まれました。
 
 
*  このたび、本ブログのサイドメニュー「カテゴリー」に、「伝記人物索引」を設けました。その理由は、「今日はこんな日」 に収録してきた人物が、昨年末までに1273人となり、索引の必要が生じたためです。

五十音順に、人物名・見出し・収録日を掲げてありますので、一番上にあるブログ検索に見つけたい人物名を入力して 「検索」 をクリックするか、「月別アーカイブ」 で収録年・月をクリックし収録日までたどれば、探している人物の記事にたどりつけます。 

今日1月5日は、島村抱月と「芸術座」を結成し、トルストイ原作『復活』の劇中歌「カチューシャ」を大ヒットさせるなど、新劇女優として活躍するものの、急死した抱月を追って自殺した松井須磨子(まつい すまこ)が、1919年に亡くなった日です。

1886年、今の長野市松代町に旧松代藩士の5女として生まれた松井須磨子(本名・小林正子)は、17歳のとき、菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京し、戸板裁縫女学校に入学しました。翌年、千葉県木更津にあった割烹店の経営者と結婚するものの、病気がちを理由に義母にうとまれて半年で離婚、東京にもどって女優を志すと、1909年、坪内逍遥や島村抱月が設立した初の新劇団体「文芸協会」演劇研究所第1期生となりました。抱月らの指導を受けるうちめきめき上達し、演劇にのめりこんでいきました。、

そして1911年、「帝国劇場」で演じた『ハムレット』(シェークスピア作)のオフィーリア役で評判をとり、つづいて抱月の演出による『人形の家』(イプセン作)の主人公ノラを演じて名声をえると、新劇女優として初のスターの座につきました。しかし一方、舞台の上では大胆なラブシーンを演じる須磨子には「みだらな女」というイメージを持たれ、世間の悪評もついてまわりました。やがて、妻子ある抱月との恋におちた須磨子は、それをとがめられたことで「文芸協会」を追放され、1913年、抱月と「芸術座」を旗揚げしました。

以後、芸術座の主演女優として『サロメ』(ワイルド作)『モンナ・バンナ』(メーテルリンク作)などの作品で成功をおさめ、特に『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりとなり、全国的な人気女優となったばかりか、須磨子が歌った主題歌『カチューシャの唄』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時としては異例の2万枚を超える大ヒットとなりました。

カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪 とけぬ間と
神に願いを(ララ)かけましょうか

カチューシャかわいや わかれのつらさ
今宵ひと夜に 降る雪の
あすは野山の(ララ)路かくせ…

須磨子の私生活も、舞台と同じように情熱的で、1918年11月、スペイン風邪で抱月が急死すると、2か後のこの日、有楽座での『カルメン』の公演終了後、芸術座にもどると、遺書をしたため、自殺しました。この死により、須磨子は「みだらな女」から「悲劇のヒロイン」とみなされるようになったのでした。


「1月5日にあった主なできごと」

1867年 夏目漱石誕生…『坊ちゃん』『吾輩は猫である』『草枕』などの小説で、森鴎外と並び近代日本文学界の巨星といわれる夏目漱石が生まれました。

1869年  横井小楠死去……幕末から明治維新にかけて思想家・政治家として活躍し、維新の十傑のひとりとされる横井小楠が、この日暗殺されました。

明けましておめでとうございます。

2005年6月からスタートしたこのブログも、10年目に入り、投稿数2160回となりました。これもひとえに、ご愛読くださる皆さまのおかげで、深く感謝を申し上げます。

さて、私は、昨年4月から、阪急交通社が主催する「東海道五十三次 街道を行く」という日本橋~京都三条大橋までの徒歩距離492kmを、29回に分けて歩くという企画に、毎回参加しております。

第1回「日本橋~品川宿」(4月)、第2回「品川宿~川崎宿」(5月)、第3回「川崎宿~神奈川宿」(6月)、第4回「神奈川宿~戸塚宿」(7月)、第5回「戸塚宿~藤沢宿」(9月)、第6回「藤沢宿~平塚宿」(10月)、第7回「平塚宿~二宮」(11月)、第8回「二宮~小田原宿」(12月)と、ここまで8回分を、無事に制覇してきました。

はじめのうちは、人ごみやビルなどに圧倒されましたが、平塚を過ぎたあたりから少しずつ東海道らしさが感じられ、昔の旅人たちが見た風景も想像でき、面白さが増してきました。

今年は、1月10日から箱根路に入り、7月からはこれまでの「日帰りの旅」から、1泊2日による連日の挑戦となります。1日の徒歩距離は約11kmですが、名所などへ寄り道するため、万歩計を使っている人に聞くと、1日3~5万歩、平均4万歩なのだそうです。

「老いは足からくる」といいます。まだ歩けるうちに、元気で毎回参加し、今年の到達予定地「掛川宿」をめざしたいと決意しております。

この企画のよいところは、35名ほどが1パーティとなり、先頭を「ウォーキングリーダー」と最後尾を添乗員にはさまれて行動し、よく勉強した「ウォーキングリーダー」が道端の見どころのガイド役をつとめ、名所地では地元の案内ガイドによる説明が、無線イヤホンで聞くことができる点です。毎回の昼食に、地元のお弁当とペットボトルのお茶を用意してくれるのもうれしい配慮です。

また、私が一番気に入っているのは、毎回、その回に歩くA5判の「カラー地図」と「名所の歴史一口メモ」をくれることです。これがあれば、気になった場所を、帰宅後に調べることができるためです。

いずれは、この「カラー地図」を参考に、再訪するなどして、このブログに紹介したいと念願しています。

今年も、1月5日から、原則としてウィークデイは毎日書きこんでまいりますので、引き続きご愛読くださいますよう、お願い申し上げます。

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