児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年01月

今日1月16日は、太平洋戦争に情報将校として従軍、戦争終結から29年目の1974年にフィリピン・ルバング島で救出され、帰還を果たした小野田寛郎(おのだ ひろお)が、2014年に亡くなった日です。帰国後は「自然塾」を開き、ブラジルでの牧場経営を成功させています。

1922年、今の和歌山県海南市に県会議員の父と教師の母の4男に生まれた小野田寛郎は、3人の兄がいずれも陸軍将校だった影響を受け、旧海南中学を経て、1944年に久留米第一陸軍予備士官学校へ入校、中国語や英語が得意だったことから抜てきされて陸軍中野学校二俣分校に入り、おもにゲリラ戦や情報戦の教育を受け、予備陸軍少尉としてルパング島に派遣されました。着任してまもない1945年2月にアメリカ軍が上陸します。日本軍の各隊はアメリカ軍による艦砲射撃などの大火力に撃破され山間部に逃げこみ、小野田は友軍を待ちながらも、部下と共にゲリラ戦を展開しました。

そして1945年8月、終戦を知らせる米軍のビラを目にするものの、内容や日本語の表現がおかしかったことで米軍の謀略と判断、ゲリラ戦を持続しました。「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでも頑張ってくれ」と教育を受けていた小野田は小塚金七上等兵と共に戦闘を継続し、ルバング島が再び日本軍の制圧下に戻った時のために密林にこもって、情報収集や諜報活動を続けました。しかし、長年の戦闘と1972年に小塚が射殺されて亡くなったことで孤独を深めていきました。

1974年、小塚の死がきっかけとなって、小野田の捜索活動が開始され、これに触発された冒険家の故・鈴木紀夫が現地を訪れ、2月に小野田との接触に成功。鈴木は日本が敗北した歴史や現代の状況を説明して帰国を促し、小野田も直属の上官命令があれば、任務を離れることを了承、翌3月、かつての上官による「作戦解除・帰国命令」を受けて帰国したのでした。

しかし、帰国後の小野田は、1972年にグアム島から帰国し驚くほど早く適応した横井庄一と異なり、一部マスコミの虚偽報道や、大きく変貌した日本社会になじめず、半年後には、次兄のいるブラジルに永住して小野田牧場を経営することを決意します。帰国後に結婚した妻の町枝と共にブラジルに移住、10年を経て牧場経営を成功させました。

1984年からは日本で生活することも多くなり、山梨県に「小野田自然塾」を開き、ルパング島での体験を元に、小中学生に「生きる意思の大切さ」を伝えたいと、火おこしや米の炊き方、野山で寝袋を使ってどのように寝るかなどを教えました。1991年からは、福島県に作ったキャンプ場を拠点に活動を持続し、晩年は、全国で講演会を開くなど、亡くなる数日前まで積極的に行動をしていました。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡航に失敗し失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官を買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の本格的な戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家の梅原龍三郎が亡くなりました。

今日1月15日は、アインシュタインに学んで相対性理論をわかりやすく紹介するなど、わが国初の世界的レベルの理論物理学者として活躍し、アララギ派の歌人としても知られた石原純(いしわら じゅん)が、1881年に生まれた日です。

日本キリスト教本郷教会の牧師の子として生まれた石原純は、郁文館中学、旧制一高を経て、東京帝国大理科大学に入学し、長岡半太郎や本多光太郎らに学んで物理学の基礎をしっかり身につけました。1906年に卒業後、同大学院で研究を深めるいっぽう、雑誌「理学界」に欧米の自然科学の最新情報の紹介に努めました。

1911年に新設したばかりの東北帝国大(のちの東北大)助教授に就任すると、翌年から2年間ヨーロッパに留学。ミュンヘン大学やベルリン大学、チューリヒ大学ではアインシュタインのもとで学び、帰国後に東北大教授となりました。当時の物理学の世界は、ミクロな物質の運動に関する諸現象の発見が相次ぐ「物理学革命」の時代で、その最先端にいた石原は、相対論、金属電子論、光量子仮説、水素スペクトル理論などに関する40もの国際レベルの論文を発表するなど、わが国初の本格的理論物理学者といわれました。1919年には相対性理論や量子論の研究で、学士院恩賜賞を受けています。

1922年に、「相対性理論」でノーベル賞を受賞したアインシュタインが来日した際には、講演の通訳や解説者をつとめたばかりか、『アインシュタイン全集』の編纂に尽力したり、一般大衆がわかる言葉で理論を解説した『相対性の原理』を刊行するなど、物理学の啓蒙に大きな役割を果たしました。また、1931年からは、雑誌『科学』(岩波書店)の初代編集主任を務めるなど、「科学ジャーナリズムの先駆者」ともいわれています。

いっぽう、一高時代に伊藤左千夫に入門したのがきっかけとなって、短歌雑誌『アララギ』の発刊に参加し、初期の主要同人となりました。ところが1921年、妻子を持つ身ながら女流歌人の原阿佐緒(あさお)と恋愛事件を起こしたことで、やがてアララギを脱会したばかりか、大学も辞職するに至りました。

「満州事変」(1931年)や「2.26事件」(1937年)など、ファシズムがいちだんと強まると、自由主義者として軍部に激しく抵抗し、言論弾圧を受けた岡邦雄らを擁護するなど、科学思想分野での発言を活発におこないました。

石原は、敗戦後の1945年12月、アメリカ軍のジープにはねられて重傷を負い、身元不明のまま留置場に放置され、丸1年以上すぎた1947年1月に亡くなりました。石原の科学的精神を基にする言論活動の先には天皇制批判があるといわれ、ある組織による他殺説も否定できません。


「1月15日にあった主なできごと」

1862年 坂下門外の変…大老の井伊直弼が「桜田門外の変」(1860年)で殺害されたあとを受けて老中となった安藤信正が、江戸城の坂下門外で、水戸浪士ら6人に襲われました。

1918年 ナセル誕生…スエズ運河の国有化、アスワン・ハイ・ダムの建設につとめ、第三世界(アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの発展途上国)の指導者として活躍したエジプトのナセルが生まれました。

1939年 70連勝成らず…大相撲春場所4日目、69連勝中の横綱双葉山はこの日、関脇安芸の海に敗れ、70連勝をのがしました。当時の大相撲は、1月と5月の1年2場所・10日制で、現在の1年6場所・15日制と条件の違いはありますが、69連勝という記録は、いまだに破られていません。

今日1月14日は、マクドナルドをフランチャイズ展開し、世界的企業に育てあげたアメリカの実業家レイ・クロックが、1984年に亡くなった日です。

1902年、シカゴに近いオークパークに生まれたレイ・クロックは、第一次世界大戦がおこったことで、高校を中退すると、志願して救急車のドライバーの訓練を受けて衛生隊に所属しました。終戦後はジャズ演奏家、紙コップのセールスマンなど職を転々としたのち、5種類のミルクセーキを同時に作る業務用ジューサーのセールスマンを経て、1941年に同ジューサーの独占販売権を取得して独立すると、売り込みのために国じゅうを旅してまわりました。

そんな中、カリフォルニア州サンバーナーディーノで、ハンバーガーショップ「マクドナルド」を開いていたマクドナルド兄弟と出あいました。レイ・クロックは、効率化された調理システムに興味を持ち、兄弟と交渉してシステムをチェーン展開するフランチャイズ権を獲得すると、1955年3月に「マクドナルド会社」を設立して社長になり、翌月には、イリノイ州デスプレーンズに最初のフランチャイズ店を出店しました。

1961年には、マクドナルド兄弟から商権を買収し、品質と価格、清潔さとサービスにこだわったレイ・クロックの店は、やがて全米から世界に進出し、世界の食文化に大きな変革を与えました。こうして亡くなる1984年までに、世界34か国で8300店舗を開き、生涯で5億ドルの富を築いて、当時「世界一の金持ち」といわれました。1999年には『タイム』誌の企画「20世紀の最も影響力のある100人」にも選出され、1974年にはプロ野球チームサンディエゴ・パドレスのオーナーとなったことも知られています。

わが国では、レイ・クロックの半生記『成功はゴミ箱の中に』が有名です。成功秘話だけではなく、事業拡大の過程で遭遇した廃業の危機なども語られています。座右の銘だという「未熟でいるうちは成長できる。成熟した途端、腐敗が始まる」とか「社長の指示した通りに現場が実行するような会社は、間違いなくつぶれる。現場の人間が、『社長、それは違います』といえる会社でないと誤った方向に進んでしまう。ただし、現場の社員は社長が本質的に何を指示しているかを理解しておくこと。それを現場の判断で組み替えていく」など、示唆に富む言葉がちりばめられ、さすが「アメリカンドリームをなしとげた事業家」と思わせるものがあります。


「1月14日にあった主なできごと」

1898年 ルイス・キャロル死去…イギリスの数学(幾何学)者でありながら、『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』 などファンタジーあふれる児童文学作品を著したルイス・キャロル(本名ドジソン)が亡くなりました。 

1950年 ベトナム民主共和国再独立宣言…1945年9月、ホーチミンを大統領とするベトナム民主共和国が独立を宣言し、東南アジア最初の共産主義国家として独立しました。しかし、翌年支配国だったフランスが待ったをかけ、8年にもわたる第1次インドシナ戦争に突入、1949年6月、「ベトナム国」(南ベトナム) がサイゴンを首都に成立しました。この日ホーチミンは、ベトナム国に対抗して「ベトナム民主共和国」(首都ハノイ・北ベトナム)として再独立を宣言したものです。なお1976年、北ベトナムは南ベトナムを吸収、ベトナム民主共和国は「ベトナム社会主義共和国」となって統一をはたし、現在に至っています。

1953年 チトー大統領…独立まもないユーゴスラビアは、この日ユーゴ解放の国民的英雄チトーを大統領に選びました。チトーの指導のもとに、非同盟中立という、社会主義国ばかりでなく資本主義国とも手をつなぐという独自の方針を貫き、6つの共和国をまとめあげました。しかし、1980年チトーの死とともに、共和国間の紛争があちこちでおこり、1991年「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」、1992年「ボスニア・ヘルツェゴビナ」が独立、2003年にユーゴスラビアは、セルビア・モンテネグロとなって独立、2006年には「セルビア」と「モンテネグロ」に分離したため、旧ユーゴスラビアは、「クロアチア」「マケドニア」「スロベニア」「ボスニア・ヘルツェゴビナ」「セルビア」「モンテネグロ」の6か国になっています。

今日1月13日は、配偶者の丸木位里とともに15部からなる連作『原爆の図』を描き、『ひろしまのピカ』など数多くの絵本を手がけたことで知られる女流洋画家の丸木俊(まるき とし)が、2000年に亡くなった日です。

1912年、北海道石狩平野の北にある秩父別町の寺の長女として生まれた俊(本名・俊子)は、18歳で上京し、苦学しながら女子美術専門学校(今の女子美術大)で洋画を学びました。1932年に卒業すると、小学校の代用教員をしながら文展や二科展に出品するものの、落選が続きました。1937年、たまたま外交官の子の家庭教師をしたことがきっかけで、モスクワに渡った際に描いたスケッチをもとにした作品が二科展に初入選し、画家をめざす決意を固めました。

1941年に、広島出身の日本画家丸木位里と結婚、美術文化協会に加入して、反戦の絵や平和を願う絵本を描きました。そして、1945年8月6日、原爆が投下された3日後に夫とともに広島に入り、救援活動を行うとともに、その惨状を目撃したことで、2人で墨絵という日本の伝統的な表現で描いた『原爆の図』の制作に取り組みました。1950年のアンデパンダンテ展に『原爆の図』の第1部を「幽霊」として出品したところ、大きな衝撃と反響をもたらしました。

これに力を得た夫妻は、以後「火」「水」と連作を続け、賛否の渦をまきおこしながらも、全国各地を巡って被爆の真実をうっえかけ、1952年の国際平和文化賞金メダルを受賞し、夫妻でソ連芸術アカデミー名誉会員となりました。翌年からは全世界へ巡回展示を開催しはじめ、1970年にはアメリカでも巡回展を開催して、大きな反響を呼びました。この連作は、1982年の第15部「長崎」まで続き、夫妻の代表作となったばかりか、現在「長崎」を長崎原爆資料館が所蔵している他は、埼玉県松山市の「丸木美術館」で常設展示されています。

なお、俊は1980年に記録絵本『ひろしまのピカ』を刊行し、第3回絵本にっぽん大賞受賞しています。字を読まなくても、視覚的に原爆の恐ろしさ・悲惨さ・怒りを訴えかける本として、また戦争の悲惨さ・やり場のない怒りが閉じこめられている本としてロングセラーをつづけている他、「日本の伝説」など、さまざまな絵本を手がけ、この分野でも多くの賞を受賞しています。


「1月13日にあった主なできごと」

1199年 源頼朝死去…武士による初めての政権となった鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が亡くなりました。

1653年 玉川上水建設命令…江戸幕府は急増する江戸市民の水を補うために、町人(玉川)清衛門、庄衛門兄弟に建設を命じました。多摩川上流の羽村から四谷まで約50kmに水を通す大規模な難工事でしたが、翌年6月、江戸市内に流れこんだ清流に、江戸市民は躍り上がって喜んだといわれています。この水のおかげもあり、江戸の人口は、17世紀末には100万人に達し、ロンドンやパリを越えて世界一だったそうです。

1860年 咸臨丸出港…江戸幕府がオランダから購入した洋式軍艦咸臨丸は、この日品川沖からアメリカに向けて出港しました。勝海舟を艦長に、福沢諭吉、中浜万次郎らをのせて、初の太平洋横断に成功しました。
 
1864年 フォスター死去…「オールドブラックジョー」「故郷の人々」など数多くの歌曲を作曲したアメリカを代表する作曲家フォスターが亡くなりました。

1935年 ザールがドイツ復帰…ドイツとフランスの国境にあり良質な石炭に恵まれ鉄鋼業や工業が盛んだったザール地方は、第1次世界大戦後ドイツ本国から分離され、フランスの保護領になっていました。この日の住民投票の結果、ドイツへ復帰、ヒトラーはこれをナチスの勝利として、さらに領土拡大のために軍備を整えていきました。

今日1月9日は、滝沢修らと「劇団民芸」を創設させてわが国の代表的劇団に育て上げ、そのひょうひょうとした演技により、テレビ・映画・演劇で人気を博した宇野重吉(うの じゅうきち)が、1988年に亡くなった日です。

1914年、今の福井市に裕福な農家の子に生まれた宇野重吉(本名・寺尾信夫)は、旧制福井中学を経て上京し、新聞配達のアルバイトをしながら日本大学芸術科に入学するものの中退、1932年にプロレタリア演劇研究所に入り、1938年の久保栄演出『火山灰地』に出演して認められました。しかし、治安維持法違反で検挙されたり、応召されてボルネオで敗戦をむかえるなど、苦しい時期を過ごしました。

1950年、滝沢修らと民衆のための演劇をめざす「劇団民芸」を創設させると、宇野は、俳優・演出家・経営者と一人三役をこなす多忙な日々を送りました。「芝居でメシの食える劇団」をモットーに、その稽古は厳しく、妥協を許しませんでした。ロシアのチェーホフらヨーロッパ各国の劇、中国や近代日本の題材なども扱い、やがて、確かな演技力と斬新な演出により、「民芸」を、新劇界のリーダー的存在に育て上げました。

1953年には、新藤兼人監督『愛妻物語』に主演をして映画デビューをはたすと、翌1954年には、映画製作を開始させたばかりの日活が五社協定の締め出しによって俳優不足に苦しんでいることを知ると、宇野は「民芸」を日活と提携させ、多くの劇団俳優を日活映画に出演させたばかりか、自身も多くの日活映画に出演。石原裕次郎との友情は、この時代から石原の死に至るまで続いたといわれています。

1964年には、大河ドラマ『赤穂浪士』の蜘蛛の陣十郎役で、ひょうひょうとした演技が注目されて茶の間の人気者になってからは、舞台・映画にとどまらず、テレビ界でも大活躍をつづけました。

ところが1978年、胃がんのため、胃の半分以上を切除。それにもめげず、半年後に復帰を果たしましたが、「生で芝居を見たことのない日本のすみずみの人にも感動を与えたい」との思いが強くなり、「宇野重吉一座」という旅回りの一座を旗揚げすると、トラックで全国を回り始めたのでした。一座は行く先々で歓迎を受け、毎日点滴をしながらも100回以上もの地方公演をこなし、これまでにない充実感を感じたといいいます。しかし1987年12月、「石にしがみついてもこの道を歩いていきます」という台詞が宇野の舞台上での最後の言葉となってしまいました。

文筆家としても優れ、エッセー集『光と幕』、『新劇・愉し哀し』(毎日出版文化賞)や、チェーホフ研究書『「桜の園」について』を残しています。演出での受賞も数知れず、芸術祭賞、芸術選奨、テアトロン賞、紀国屋演劇賞などのほかに、1981年には紫綬褒章を受けました。なお、俳優の寺尾聰は宇野の長男で、1968年の『黒部の太陽』や、1976年の『男はつらいよ』第17作「寅次郎夕焼け小焼け」では、親子共演を果たしています。


「1月9日にあった主なできごと」

802年 胆沢城…794年に史上初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、現在の盛岡市近辺に胆沢(いざわ)城を築城。同城は、およそ150年にもわたって東北の蝦夷地政府ともいうべき[鎮守府]として機能しました。

1891年 内村鑑三不敬事件…3年間のアメリカ留学でキリスト教徒となった内村鑑三は、前年から第一高等中学校の講師を務め、この日講堂で挙行された教育勅語奉読式において、天皇親筆の署名に最敬礼をおこないませんでした。それが同僚・生徒などによって非難され、社会問題化しました。

1905年 血の日曜日…ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクの冬宮前広場で行われた労働者によるデモに対し、政府の兵士が発砲、2000人もの死傷者を出しました。この日曜日におきた事件は、ロシア第1次革命の発端となりました。

↑このページのトップヘ