児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2015年01月

今日1月23日は、徹底した民主主義をとなえて『天賦人権弁』『民権自由論』を著すなど、自由民権運動の理論的指導者として活躍した明治期の思想家・植木枝盛(うえき えもり)が、1892年に亡くなった日です。

1857年、土佐藩士の長男として今の高知市中須賀町に生まれた植木枝盛は、藩校の致道館で学び、1873年に上京して海南私塾に入学するもののほどなく帰郷しました。板垣退助の演説を聞いて政治家を志し、1875年19歳で再び上京して明六社の演説会や福沢諭吉の書物などで啓蒙思想にふれるうち、自由民権論者になりました。その考えを『郵便報知新聞』『朝野新聞』『東京日日新聞』などに投書をはじめますが、1876年3月に投書した「猿人君主」が讒謗律(ざんぼうりつ)による筆禍事件として2か月投獄されてしまいました。

1877年板垣退助とともに帰郷すると、立志社に参加して立志社建白書を起草するなど、中心人物として活動し、1878年に民権運動の全国組織「愛国社」の再興のために四国、中国地方に遊説したり、国会期成同盟の結成(1880年)に重要な役割をはたしました。

1881年には、立志社の憲法草案『大日本国憲案』を書き上げますが、当時起草された数十篇の案の中では最も民主主義的なもので、一院制で男女普通選挙による議会の開設、基本的人権の保証、抵抗権や革命権までも認め、地方自治についても明記する画期的なものでした。

同年には、自由党の設立に参加し、機関誌『自由新聞』社説を担当するなど、各地を精力的に遊説して党の勢力を広げることに努めました。ところが、板垣の外遊をめぐる内紛のため1884年10月に解党すると、1886年高知県会議員のかたわら、中江兆民の『東雲新聞』の手伝い、同志社設立のための助力、愛国公党設立などに尽力し、1890年の第1回衆議院議員総選挙に高知県から立候補して当選しました。

しかし、第2回総選挙を前に35歳で亡くなりますが、毒殺の疑いももたれています。主著『民権自由論』(1879年)、『天賦人権弁』(1883年)のほか、その所論は、政治・社会から法律・宗教・文芸など多岐にわたるもので、その夭折が惜しまれています。


「1月23日にあった主なできごと」

1866年 寺田屋騒動…2日前に薩長同盟を締結させた坂本龍馬は、宿泊先の京都・寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍(のちの妻)は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。

1869年 薩長土肥藩の版籍奉還…諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳木戸孝允や大久保利通らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。

1989年 ダリ死去…『記憶の固執』『ゆでたいんげん豆のある柔らかい構造』『燃えるキリン』などを描き、シュールレアリスムを代表するスペインの画家ダリが亡くなりました。

今日1月22日は、『大日本地名辞書』の著者・編纂者、近代能楽研究家として知られる歴史・地理学者の吉田東伍(よしだ とうご)が、1918年に亡くなった日です。

1864年、今の新潟県阿賀野市に農家の子として生まれた吉田東伍は、11歳の時に新潟英語学校を中退してからは学校教育を受けませんでした。1883年に小学校の代用教員になり、1887年には小学校正教員の検定に合格して地元水原小学校訓導となり、このころから歴史学を中心に、地理・天文・考古・人類学の研究を開始しました。

1890年、単身で北海道へ渡り、そこから『史学雑誌』に寄稿した「古代半島興廃概考」が学者の注意を引きはじめ、落後生というペンネームで次々と史論を発表し注目されるようになります。とくに『史海』へ投書した論文は主筆田口卯吉の注目をひき、学界への登竜門となりました。

1892年読売新聞社に招かれて入社すると、『徳川政教考』を同紙に連載しながら、2年ほどで膨大な『日韓古史断』を書き上げ、『徳川政教考』を出版して、歴史家としての地位を固めました。1895年、日清戦争に記者として従軍したころから日本の地名の変遷を記した研究がないことに気づくと、多くの苦難を乗り越えて13年後の1907年に『大日本地名辞書』11冊を完成させました。原稿の厚さ5mに及ぶ質量とも空前の大地誌で、今日でもこれを越えるものはないと評価されています。

歴史・地理学のほか「日本音楽史」の研究にも深くかかわり、とくに能楽研究において、『申楽談儀』を校訂したことで、これが世阿弥伝書の発見につながるきっかけとなりました。その後、吉田が『花伝書』と命名した『風姿花伝』をはじめ,当時発見された世阿弥の著書16部を収めた『世阿弥十六部集』を校注して、これまでの観阿弥・世阿弥像を一新させ、近代能楽研究の出発点となりました。

1889年からは、東京専門学校(今の早稲田大学)史学科講師となり、以後、国史、日本地誌、明治史、日本地理を担当、やがて早稲田大学教授となり理事を兼務しましたが、学内の抗争にまきこまれ、疲労のために亡くなりました。

著書には上記のほかに、『庄園制度之大要』『維新史八講』『倒叙日本史』『宴曲全集』などがあります。


「1月22日はこんな日」

1793年 大塩平八郎誕生…江戸時代後期の儒学者で大坂町奉行所の与力を勤めるも、窮民救済を叫んで反乱(大塩平八郎の乱)をおこして失敗した大塩平八郎が生まれました。

1893年 河竹黙阿弥死去…幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥が亡くなりました。

1905年 血の日曜日事件…ロシアの首都ペテルブルクで、労働者10数万人が皇帝へ請願のデモ行進をしていたところ、軍隊が突然発砲し3千人余りの人たちが死傷しました。当時は、日露戦争のさなかで、年初に旅順が陥落するなど、人々の生活の苦しさはピークに達していました。この事件をきっかけに、各地にソビエトが生まれたことで「ロシア第1革命」ともよばれています。

今日1月21日は、ロシアの女帝エカチェリーナ2世の時代にボルガ川流域で起こった大規模なコサック暴動「プガチョフの乱」を首謀したプガチョフが、1775年に亡くなった日です。

ロシアでは、15世紀から16世紀にかけて、農奴や都市の貧民が東南部の辺境にのがれ、コサック(自由民)となって、国家から武器や食料を与えられ、辺境の守りについていました。

1740年ころ、ロシア帝国のドン河ぞいにあるジモウェイスカと呼ばれる集落に生まれたエメリヤン・プガチョフも、そんな貧しいコサックの一人で、18歳のころからドン・コサック軍で軍役に入り、数度にわたる戦争に従軍して将校にまで出世しました。

ところが1771年、トルコとの戦争に参加したとき、自由を求めてロシア軍から脱走してカフカスに逃亡。逮捕、脱走、放浪をくりかえしながら、1772年8月、ヤイク(今のウラル)河に現れ、死んだはずの「ピョートル3世」(エカチェリーナ2世の元の夫で、ロシア皇帝だったものの奇行が多く退位させられ処刑されたが、生存がうわさされていた)を名乗って、貴族の撲滅と農民の解放を宣言しました。

そして翌1773年9月、ブガチョフは、エカチェリーナの専制に苦しむ農民たちを動かし80人ほどで反乱の進軍を開始し、年末には3万人もの大部隊となって、ロシア西部のオレンブルグを包囲し、カザン、サラトフを占領するなど、その勢力はボルガ河一帯からウラルに及ぶものとなりました。プガチョフは、貴族や地主を処刑し、農奴解放の命令書を出してモスクワに迫りました。

エカチェリーナ2世はこの反乱を、「復活した夫とブガチョフ公爵との戦争」と呼んで士気を高め、対トルコ戦争を終結させて討伐軍を増強させ、1774年の夏、クバンの戦いでブガチョフ軍を破りました。ブガチョフは、逃走途中に味方の裏切りにより逮捕され、この日モスクワで4人の同志とともに処刑されました。

この大規模な農民の反乱は、農民暴動としてはロシア史上最大のもので、ロシアの歴史学界は、「1773-1775年の農民戦争」「ロシア最後の農民戦争」としています。


「1月21日にあった主なできごと」

1530年 上杉謙信誕生…戦国時代に武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰りひろげた越後の武将上杉謙信が生まれました。

1866年 薩長同盟…これまで抗争をくりかえしてきた薩摩藩と長州藩は、坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介により、薩摩の西郷隆盛らと長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が会談、協力して倒幕し新国家建設を進めることを誓いました。

1924年 レーニン死去…ロシアの革命家で、世界で初めて成功した社会主義革命「ロシア革命」を主導し、ソビエト連邦、ソビエト共産党の初代指導者となったレーニンが亡くなりました。

今日1月20日は、平安時代末期の「石橋山の戦い」で、のちに鎌倉幕府を立ちあげた源頼朝を救ったことから頼朝に重用されるものの、頼朝の死後に追放された梶原景時(かじわら かげとき)が、1200年に亡くなった日です。

梶原氏は桓武平氏の流れをくむ豪族の出身。1180年、以仁王の平氏追討の令司を受けて源頼朝が伊豆で挙兵し相模の「石橋山の戦い」に敗れたとき、梶原景時は平氏方の大庭景親の部下でありながら、山中に隠れていた敵将の頼朝を発見するものの、故意にみのがしました。

やがて、景時は頼朝の臣下となり、武勇に長じていたのはもちろん、才知と弁舌に優れ、和歌にも堪能な教養人で、頼朝の妻政子が頼家を出産した時は奉行を命じられ、侍所の所司(次官)として、御家人統制の重職につきました。

1184年には、平氏を追って上洛した源義仲が頼朝に敵対しだすと、頼朝は弟の範頼、義経を上洛させて義仲を滅ぼした際も、景時は、範頼のもとで奮戦しました。さらに、平家追討に大きな功績を残すものの、「屋島の戦い」では、[逆魯の争い](景時が、船の進退を自由にできる魯を提案したのを義経が却下した)で、義経と対立したことがきっかけとなり、景時の頼朝への讒言(ざんげん=悪口)が義経を失脚させたことから、後世に景時の悪名がついてまわりました。

その後、山陽道の5か国の軍政官につき、播磨、美作の守護となるきっかけを作り、侍所別当(最高位)の座にのぼって、将軍に代わって御家人の非違を厳しく糾弾するなど、頼朝の重要な手足となりました。

ところが1199年に頼朝が亡くなり、頼家が2代目として後を継いだ際に頼家に、結城朝光が弟の実朝を将軍に立てようとしていると讒言したところ、日ごろから景時の行動やたび重なる讒言をいまいましく思っていた和田義盛ら66人の御家人たちは、連判し「景時糾弾」を頼家に訴えたため、景時は鎌倉を追われ、失脚してしまいました。

翌1200年、景時は甲斐源氏の武田有義を将軍にし、九州に新政権を樹立する計画を立て、朝廷の許可をえようと上洛する途中、駿河国(静岡)清見関で、一族とともに滅ぼされてしまいました(梶原景時の変)。

なお、「景時悪人説」は、幕府の記録である『吾妻鏡』によるもので、執権の北条氏の立場を正当化するものといわれています。北条氏が、計画遂行の障害となる景時を葬り、3年後に頼家を抹殺することは史実に明らかです。また義経の讒言も、独断専行する義経をたしなめ、一軍の将としては慎重に進退を進める必要性を説いた慧眼として、景時の再評価があることも知っておきたいものです。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。

今日1月19日は、鎌倉時代前期の華厳宗の僧で「中興の祖」といわれ、「高山寺」を開山した明恵(みょうえ)が、1232年に亡くなった日です。明恵は、明恵上人・栂尾(とがのお)上人ともいわれ、公武の崇敬をあつめました。

1173年、紀伊国(和歌山県)有田郡(今の有田川町)に、高倉上皇へ仕えた平重国の子として生まれた明恵(幼名・薬師丸)でしたが、1180年に両親を失い、翌年、京都・高雄の神護寺に母方の叔父で文覚の弟子だった行慈(ぎょうじ)に預けられて修行し、1188年に出家して、東大寺戒壇院で具足戒(ぐそくかい=遵守すべき戒を受けて初めて出家者の集団に入る)を受け、真言密教の行法や、栄西に禅を学ぶうち、華厳宗を究めようと決意しました。

やがて、寺僧間の争いにいやけをさし、俗縁を絶ち、故郷に近い白上峰に庵室を作って、3年ほどこもり修行をかさねました。26歳のころ、高雄神護寺の文覚の勧めで栂尾(とがのお)に住み、華厳の教学を講じるようになりました。その後、10余名の弟子とともにふたたび白上の庵室に入り、そこを拠点に、紀伊国内を転々としながら修行と学問を深めていきました。そのころ明恵は、天竺(インド)の仏跡の巡礼を考えましたが、春日明神の神託のため、これを断念したといわれています。

遁世(とんせい)僧となった明恵でしたが、1206年、後鳥羽上皇から、華厳宗の復興のためにと栂尾の地を下賜されると、弟子の義林房らを伴って移り、華厳経の「日出でて先ず高山を照らす」からとった「高山寺」を開山しました。金堂を作り、運慶・湛慶による釈迦像や四天王像が作られ、金堂の裏山に草庵を設けて、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじる仏教の復興に尽力しました。

明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳・真言密教と称され、高山寺は両宗の道場とされました。のちに、後鳥羽上皇が討幕の命を出して敗れた「承久の乱」(1221年)では、公家の妻女をかくまったことで明恵は捕われることになりますが、これが縁となって北条泰時の帰依を受けるようになります。それだけ明恵の人柄が、無欲無私にして清廉、なおかつ世俗権力・権勢を怖れるところがすこしもない上、打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようにさまざまに工夫されたものだったからなのでしょう。

著書には、高山寺尼経といわれ小冊子40巻からなる『華厳経』、法然の『選択(せんじゃく)本願念仏集』を批判し『摧邪輪』などがあり、交友のあった栄西から茶の実をもらい、栂尾の地に植えて、「栂尾茶」の基をこしらえたことでも知られています。


「1月19日にあった主なできごと」

1736年 ワット誕生…18世紀末頃からイギリスにおこった産業革命の原動力ともいえる、蒸気機関の改良をおしすすめたワットが生まれました。

1839年 セザンヌ誕生…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが生まれました。

1862年 森鴎外誕生…安寿と厨子王の美しい愛情をえがいた『山椒太夫』、安楽死させた罪に問題をなげかけた『高瀬舟』、ドイツで交際した女性をモデルした『舞姫』など数々の名作を著した文豪森鴎外が生まれました。

1899年 勝海舟死去…江戸幕府末期の開明的な幕臣として坂本竜馬ら幕末の志士を教育したり、咸臨丸で日本人だけの太平洋横断を指揮したほか、幕府側代表として西郷隆盛と会見し江戸無血開城を実現させた勝海舟が亡くなりました。

1969年 東大安田講堂の封鎖解除…全共闘の学生によって、半年前から占拠されていた東大安田講堂へ、8500人の機動隊が前日から出動。2日間35時間にわたる激しい攻防の末、封鎖が解除されました。

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