児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年12月

今日12月26日は、『古寺巡礼』『風土』『倫理学』など多数の書を著した哲学者の和辻哲郎(わつじ てつろう)が、1960年に亡くなった日です。

1889年、今の兵庫県姫路市に医師の子に生まれた和辻哲郎は、旧制姫路中学時代から文学や芸術に関心をいだきはじめ、第一高校を経て東京帝国大学哲学科に入学後は、谷崎潤一郎らと耽美的な小説や戯曲をさかんに書きました。同大学院に進学すると本格的に哲学に取り組み、師のケーベルの指導を受け、特にニーチェとキェルケゴールの実存主義を研究しました。

その後、東洋大、法政大で教鞭をとりながら、阿部次郎、安倍能成、夏目漱石らと深く交わり、仏教、キリスト教、古代日本の研究など幅広い研究に挑み、1919年に『古寺巡礼』を刊行。この著書は、奈良の古寺にある仏像の美しさを広く世間に知らせて大きな反響を呼び、今も続く「古寺めぐり」ブームの先駆けとなっています。

1925年から京都帝国大助教授となり、2年間のドイツ留学から帰国後に同大教授、1934年からは東京帝大教授となってその講義をまとめた『風土』を1935年に発表しました。これは、東・南・西アジアやヨーロッパ各地域の風土的特性や伝統的文化の関係を考察した研究書で、宗教では、南アジアは熱暑と湿潤によって大地の恵みを受ける、母性的で汎神論的宗教であるヒンズー教や仏教が栄え、西アジアの砂漠では暑熱と乾燥によって、支配する自然の上に立つ絶対的一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教が興ったなど、独自の文化史理論を展開しました。これは世界的な視野で文化を論じた書として、今も高く評価されています。

やがて「倫理学」の確立にむかい、「人間とは間がらである」という考え方に立ち、「人間学=和辻倫理学」と呼ばれる独自の体系を、1949年『倫理学』(3巻)という大著に完成させました。1950年には日本倫理学会を創設して、亡くなるまで会長を務め、1955年には文化勲章を受賞しています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『古寺巡礼』など和辻の著作48編を読むことができます。


「12月26日にあった主なできごと」

1542年 徳川家康誕生…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、さらに磐石なものとする江戸幕府を開いた徳川家康が生まれました。

1758年 松平定信誕生…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」を行った松平定信が生まれました。

1888年 菊池寛誕生…『屋上の狂人』『父帰る』『恩讐の彼方に』などを著した作家で、文芸春秋社を創業し、芥川賞・直木賞をを創設した菊池寛が誕生しました。

1890年 シュリーマン死去…ホメロスが紀元前800年ころに書いたといわれる『イリアス』『オデュッセイア』に出てくる伝説の都市トロヤが、実在することを発掘によって証明したドイツの考古学者で実業家のシュリーマンが亡くなりました。

今日12月25日は、わが国の舞踊界の先覚者として独自の「創作舞踊」に取り組み、たくさんの後継者を育てた石井漠(いしい ばく)が、1886年に生まれた日です。

いまの秋田県三種町に生まれた石井漠(本名・忠純)は、旧秋田中学時代にストライキに連座して退学になり、小坂鉱山の庶務課に短期間勤務後、文学を志して1907年に上京しました。大町桂月や小松耕輔の門をたたくものの受け入れられず、同郷の小説家小杉天外に弟子入りしました。しかし、自ら文学的才能に見切りをつけると、音楽家になろうと帝国劇場管弦楽団の団員見習いとなり、帝国劇場の歌劇部開設に伴って第1期生として歌劇部に入部しました。三浦環から声楽を、イタリア人ローシーから古典バレーの基礎を学び、帝劇オペラに出演するようになります。やがて舞踊に興味を持ち、創作舞踊をはじめました。

1915年、ヨーロッパから帰国していた小山内薫や山田耕筰とともに劇団「新劇場」をつくると、創作舞踊を「舞踊詩」と名づけて本格的な舞踊研究に取り組みはじめました。1917年には浅草オペラ旗揚げに尽力し、大衆向けの喜歌劇で成功をおさめます。しかしそれに飽きたらず、さらなる高みをめざして1922年から4年間、義妹を連れてヨーロッパやアメリカで発表会を開くうち、納得できる成功をおさめて帰国しました。

1928年には、日本人に適した新しい舞踊を創りあげるため、自由が丘に「石井漠舞踊研究所」を開設し、谷桃子、石井みどり、大野一雄、崔承喜ら優れた門下生を多数輩出させ、眼を患いながらも、『山を登る』『人間釈迦』『囚われた人』『日記の一頁』など数多くの作品を残しています。

1955年には、舞踊界の発展に尽くした功績により、新設された紫綬褒章の第1号受章者となり、1962年に75年の生涯を閉じました。作曲家の石井歓や石井真木は、漠の息子です。


「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇死去…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。

今日12月24日は、大正期に活躍した洋画家で、『エロシェンコ像』『田中館博士の肖像』などの肖像、『女』『少女裸像』の連作などで知られる中村彝(なかむら つね)が、1924年に亡くなった日です。

1887年、今の水戸市に旧下級武士の子として5人兄弟の末子に生まれた中村彝は、1歳のときに父を亡くしたことから、家計は職業軍人となった長兄に依存することになりました。11歳のときに母親も亡くしたことから、1900年に一家は長兄の住む東京に移住しました。彝は幼いころから軍人になるように教育され、早稲田中学を卒業後は、陸軍幼年学校に入学しました。ところが長兄が日露戦争で戦死し、彝は肺結核を病んで学校を中退し、千葉の館山で転地療養しながら水彩スケッチを始めました。これが画家への道につながることになりました。

各地で闘病しながらスケッチの修行をかさねるうち、画集で知ったレンブラントにあこがれ、洋画家になる決心をかためました。1906年に黒田清輝の白馬研究所に入るもののものたりず、翌年デッサンを重視する太平洋画家研究所に学びました。そして1909年、第3回文展(文部省美術展覧会)に初入選をはたすと、翌年には同展で『海辺の村』が3等賞となりました。このころ、パリから帰国した彫刻家の荻原碌山と知り合い、ロダンを紹介されて強い衝撃を受けました。またルノアールの画集に刺激されて描いた1911年に発表した『女』も連続3等賞をとり、技法ばかりでなく、女性の官能美に惹きつけられるようになったようです。

いっぽう、碌山を通して新宿中村屋の経営者相馬愛蔵と黒光夫妻を紹介され、その援助を受けるようになり、碌山亡き後は、中村屋の裏にある碌山が使用していた画室に住むことになりました。そして、1911年~14年にかけて、相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像を数点描きました。当時俊子はミッションスクールに在学中で、世間の噂が騒がしくなったことや、結核に苦しむ彝が俊子に求婚するものの夫妻に反対され、この失恋で狂気のように煩悶することになりました。

1916年、新宿下落合にアトリエを構え、1920年には彝の代表作『エロシェンコ像』(東京国立近代美術館)を第2回帝展で発表、この作品は肖像画の傑作と高く評価され、重要文化財となっています。エロシェンコはロシアの盲目の童話作家・詩人で、アジア各地を放浪した後、新宿中村屋の世話になっていました。

ところが1921年、彝の病状が悪化し、37歳の若さで亡くなりました。


「12月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した「最後の元老」といわれる西園寺公望が亡くなりました。 

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を行いました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

今日12月22日は、第一次世界大戦後、フランスから「米仏間の戦争放棄」の提案を受け、日本を含む15か国による「不戦条約」につなげたアメリカの政治家ケロッグが、1937年に亡くなった日です。

1856年、ニューヨーク州ポツダムに生まれたフランク・ケロッグは、9歳のときミネソタ州に移住し、農場で働きながら法律の勉強をして20歳で弁護士資格をとり、1877年同州のロチェスター市で弁護士を開業、同市の法律顧問を務めるなど、弁護士としてかなりの成功をおさめました。

1904年に司法長官の顧問となり、独占禁止法の制定に活躍し、1911年にはスタンダード石油の反トラスト法訴追を指揮、この業績が評価され、翌1912年にはアメリカ弁護士会会長になりました。さらに、1917年アメリカ合衆国上院にミネソタ州から共和党議員として選出されて6年間議員をつとめ、1923年からイギリス駐在大使となりました。

1925年にクーリッジ大統領の国務長官に任命されたケロッグは、革命を経たメキシコと石油利権に関する紛糾を収め、チリとペルーの領土紛争を調停したりしました。そして、ケロッグの最大の功績は、1928年にフランスの外務大臣ブリアンとともに「ケロッグ・ブリアン協定(パリ不戦条約)」を調印したことでしょう。

これは、ブリアンからアメリカ合衆国との間で、戦争放棄を申し出られたことがきっかけになって、平和維持のためには世界的な協定を結ぼうと提案。同年8月に、日本を含む15か国が「紛争解決の手段として戦争をおこしてはならない」という内容の不戦条約に調印しました。しかし、この条約には違反した場合の制裁規定がなく、不完全なものでしたが、ケロッグは1929年にノーベル平和賞を受賞しました。

その後、1930年からハーグの国際司法裁判所に判事として、国際紛争の解決に活躍しました。「不戦条約」は結果的に、ケロッグの没後「第二次世界大戦」のぼっ発を防ぐことができませんでしたが、大戦後のニュールンベルグや東京で行われた戦争犯罪人に対する裁判で、「不戦条約に違反した侵略戦争が平和に当たる罪」とされ、歴史的な意味をもつことになりました。


「12月22日にあった主なできごと」

1572年 三方が原の戦い…甲斐の武田信玄は、三方が原(浜松市付近)で、徳川家康・織田信長軍と戦い、勝利をおさめました。家康の一生で唯一の敗戦といわれています。

1885年 伊藤博文初代内閣総理大臣…明治政府は、太政大臣制を廃止して内閣制度を開始し、初代の内閣総理大臣に伊藤博文が就任しました。

今日12月19日は、「世界のソニー」を盛田昭夫とともに創りあげ、そのかたわら「幼児開発協会」を設立して幼児教育の大切さを普及させた井深大(いぶか まさる)が、1997年に亡くなった日です。

1908年、今の栃木県日光市に科学技師者の子として生まれた井深大でしたが、2歳の時に父が亡くなったため、両親の実家のある愛知県安城市や東京に移り住みました。幼いころから、祖父や母から父親がいかに優れた科学者だったかを聞かされ、小学時代から自転車を分解したり電信機をこしらえたりするなど、探求心旺盛な少年に成長しました。やがて再婚した母の嫁ぎ先の神戸市に転居し、神戸第一中学のころはアマチュア無線に夢中になり、早稲田第一高等学院を経て、早稲田大理工学部に入学すると、さまざまな奇抜な発明をして有名になりました。とくに「走るネオン」は、1933年のパリ万博で優秀発明賞を受賞するほどでした。

卒業後は、写真化学研究所や日本光音工業で研究職につき、日本測定器(株)を立ち上げました。同社が軍需電子機器の開発を行っていた会社だったことで、戦時中に海軍技術中尉として熱線誘導兵器を開発中の盛田昭夫と知りあいました。終戦まもなく、疎開先の長野県須坂町から上京すると、1945年10月に日本橋に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げ、翌年そのユニークな活動ぶりが朝日新聞に掲載されると、その記事が盛田の目にとまって再会をはたし、同年5月「東京通信工業」(のちのソニー)を設立、井深が専務(技術担当)、盛田が常務(営業担当)となって社員20数人の会社を創業させました。

1951年に日本初のテープレコーダー発売にはじまり、トランジスターラジオ(1955年)、トランジスターテレビ(1961年)、家庭用ビデオテープレコーダー(1964年)、ウォークマン(1979年)など、これまでにない独自の技術の開発に挑戦して次々に革新的な商品を創りだし、戦後日本経済の奇跡的な復興、急成長を象徴する世界的な大企業に成長させたことはよく知られています。

いっぽう井深は、次女が障害児として生まれたのを機に幼児教育の大切さを痛感、1969年「幼児開発協会」を設立し、自らその理事長になりました。そしてその思いを、1971年に『幼稚園では遅すぎる』に著し、つぎのように記しています。

「母親の役目は何にもまさる貴重なものです。母親こそ子どもをどんな人間にでも育てることができます。言葉をかえれば母親は偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。そして何よりもすぐれた教育者であってほしいものです。母親は子どもを授かった瞬間からその子の人間形成にしかっりした目的意識を持ち、できるだけの環境を整えて子育てを実行することが大切なことだといえましょう。次の世代を担って立つ子どもたちがすぐれた人材に育つよう、世の中の母親一人ひとりに胎児から始まっている幼児教育の重要性をよく知ってほしいと思います……」

その理論は、国内ばかりでなく海外でも高い評価をえて、その後『0歳からの母親作戦』などを著し、現役を退いたあとも、亡くなるまで教育問題に関心をいだき続けました。

なお、次女がりっぱに成長した1978年、井深は大分県に知的障害者や身体障害者が働ける工場「ソニー太陽」を建設しました。その食堂で働くようになった次女でしたが、井深は娘を特別扱いはせず、その工場に働く一人の労働者として、見守り続けました。ある時井深は、数もかぞえられないわが子が、みんなの食事の世話をてきぱきとこなしている姿を見た時、娘がわいく、そして誇らしいと思った、と語ったということです。

なお、井深が1970年代に開発した、幼児用の英語教材「トーキングカード」は、当時としては画期的なものでした。子どもたちの好きなカード形式で、機械の溝に通すだけで、ネイティブの音声が再生されるため、幼児でも、簡単に楽しく英語に親しめるというのが人気の理由でした。


「12月19日にあった主なできごと」

1614年 大坂冬の陣の和約…徳川家康は豊臣家を滅ぼそうと20万もの大兵で大坂城を取り囲みましたが、短期間で滅ぼすことはできないと和平を持ちかけました。その後、約束の外堀ばかりか内堀までうずめて本丸だけにし、半年後の「大坂夏の陣」で滅ぼしました。

1751年 大岡忠相死去…「大岡政談」の越前守として有名な大岡忠相が亡くなりました。ただし、名裁判官ぶりはほとんど作り話で、江戸市民に愛され尊敬されていた忠相の人柄が、人情味あふれる庶民の味方として認識され、講談や演劇、落語などで広く知られるようになりました。

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