児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年10月

今日10月2日は、室町時代末期の連歌師・俳諧作家で、ユニークな句を作ったことで知られる伝説的人物の山崎宗鑑(やまざき そうかん)が、1554年に亡くなったとされる日です。

1465年、近江国(今の草津市)に生まれた山崎宗鑑(本名・支那範重)は、幼少時から室町幕府9代将軍足利義尚(よしひさ)の小姓として仕え、一休禅師とも親しくしていたと伝えられています。義尚が1489年に亡くなると、出家して淀川河畔の山城国(京都)山崎に庵を結んだことから、山崎宗鑑と呼ばれるようになりました。当時山崎は、菜種油の産地のため油の取引が盛んで、宗鑑は竹で油筒を作り生活の資にしながら、連歌(5・7・7の上句と7・7の下句を交互に読み合う文芸)の達人として知られていました。こんなエピソードが残されています。

ある人に「切りたくもあり 切りたくもなし」という下の句に上の句を付けてみよといわれ、「ぬすびとを 捕へて見ればわが子なり 切りたくもあり 切りたくもなし」と即座に読んで、かっさいを浴びたという話。また、ある公家が、古歌の上の句につけて、どんな歌にでも、なるほどと思わせる便利な下の句があるといわれました。それは「といひし昔の しのばるるかな」いうのを聞いて宗鑑は、それは、衣食住の足りているあなた方のもの。われら卑賤の者は「それにつけても金の欲しさよ」となりますな、と笑い飛ばしたといった話が、長く語り伝えられています。

1523年ごろに山崎の地を去り、1528年に讃岐国(今の香川県観音寺)の興昌寺に「一夜庵」を結び、そこで生涯を終えました。「一夜庵」の名は、次のような額が入口に掲げられたからでした。「1.上の客人立かへり 1.中の客人日がえり 1.とまり客人下の下」として、宿泊を断ったからとされ、建物は修復を重ねながら現地に残されています。

こっけいや機智を誰よりも好み、天性ともいえる洒落気を持つ宗鑑には、貴族的で伝統を重んじる連歌には今一つ気に入らないところがあったようで、「一夜庵」に移ってからは、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れました。俳諧選集「犬筑波集」の選者といわれ、荒木田守武とともに、俳諧の祖とされています。でも、神官だった荒木田が、正統派の俳諧を多く詠んだのに対し、「月に柄をさしたらば よき団扇かな」「にがにがし いつまで嵐ふきの塔」など、ひと癖あるような句が多く、「としくれて 人ものくれぬ こよひかな」の句を詠んだときは、周囲の人があわれがって、正月道具を持ち寄ったと『寒川入道筆記』に記されています。

一夜庵で「腫れ物(よう)」を患い、死の直前に、「宗鑑は いづくへと人の問うならば ちとようありて あの世へといへ」と詠みました。江戸時代初期の談林俳諧に大きな影響を与えた宗鑑にふさわしい、辞世の句といえそうです。


「10月2日にあった主なできごと」

755年 吉備真備死去…奈良時代に輩出した最大の知識人・政治家といわれる吉備真備が亡くなりました。

1943年 学徒出陣公布…太平洋戦争での兵力不足を補うため、また戦局悪化により下級将校の不足も顕著になったため、26歳までは徴兵猶予されていた20歳以上の学生を、在学途中で徴兵し出征させると公布しました。そして、10月と11月に徴兵検査を実施して合格者を12月に入隊させることになりました。

1961年 柏鵬時代の始まり…大相撲の柏戸・大鵬両大関が、この日そろって横綱に昇進。前年までの栃錦と若乃花による「栃若時代」にかわって、大型若手横綱の登場に大相撲は大きな盛り上がりをみせました。

今日10月1日は、大正時代から晩年までトップ女優として演じ続け、杉村春子、山田五十鈴とともに3大女優と讃えられた水谷八重子(みずたに やえこ)初代が、1979年に亡くなった日です。

1905年、東京神楽坂に時計商の次女として生まれた水谷(本名・松野)八重子は、生まれてまもなく、姉が作家の水谷竹紫(ちくし)と結婚し、5歳のときに父が亡くなったため、八重子は母とともに姉と義兄のもとに身を寄せました。竹紫が島村抱月らと、劇団芸術座の設立に中心的な役割を果たしたこともあって、1914年8歳で子役で出演しました。その演技は小山内薫に認められ、1916年には芸術座帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で、松井須磨子演じるアンナの息子役で正式な初舞台をふみました。

1918年、雙葉高等女学校に入学しますが、その後も芸術座解散後の1920年、新協劇団公演『青い鳥』で兄のチルチル役を演じたことで、本格的に女優の道を歩む決意をします。同舞台で共演した友田恭助らと劇団「わかもの座」を作って、野外劇などを上演し、1921年には『寒椿』で映画デビューをしましたが、雙葉高女から校則違反の圧力がかかり、匿名で出演したことも話題になりました。卒業後は「研究座」に入り、新劇、大衆劇の双方から引っ張りだこになりました。1923年御国座での『大尉の娘』は八重子の当たり役となり、この作品で演技に目覚めたと後日語っています。

1924年には水谷竹紫が第2次芸術座を創立すると、その旗揚げ公演『人形の家』では主人公ノラを見事に演じて、その中心メンバーとなります。1928年には松竹と契約して新派にも加わり、花柳正太郎と名コンビを組んで看板女優となり、井上正夫とともに本郷座で公演するなど、新派劇は全盛期を迎えました。1937年に、14代目守田勘彌と結婚し良重(のちの2代目水谷八重子)をもうけますが、戦争がはじまると自宅を空襲で焼かれ、第2次芸術座も解散せざるをえませんでした。

戦後は1949年、花柳章太郎らの「劇団新派」の結成に参加し、新派演目を継承しながら、新劇の演出家菅原卓により、新派劇と新劇の融合をめざす舞台で注目されました。1974年には、「舞台生活60年」を記念して自らの当たり役の中から代表作「八重子十種」を選定しました。『大尉の娘』を筆頭に、『風流深川唄』『瀧の白糸』『花の生涯』『明日の幸福』『十三夜』『皇女和の宮』『鹿鳴館』『明治の雪』『寺田屋お登勢』──、これらはそのまま、日本演劇史に残る秀作ぞろいといえそうです。


「10月1日にあった主なできごと」

1847年 中江兆民誕生…「東洋のルソー」とよばれ、自由民権思想を広めた明治期の思想家の中江兆民が生まれました。

1949年 中華人民共和国成立…第2次世界大戦中、共産党の毛沢東は国民党の蒋介石と力を合わせて、日本との戦争に勝ちました。ところが蒋介石はアメリカと組んで共産党をしりぞけようとしたため、3年にわたる内戦がはじまりました。その結果、蒋介石は台湾に逃れ、この日毛沢東を主席とする新しい中国(中華人民共和国)が生まれました。中国の人たちはこの日を「国慶節」(建国記念日)と決めて、毎年にぎやかなお祭りを行ないます。

1964年 東海道新幹線開業…10日にはじまる「東京オリンピック」に間に合わせるために、この日開業。それまで東京─大阪間は特急で6時間50分かかっていた時間を3時間も短縮しました。

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