児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年10月

今日10月9日は、詩集『暮笛集』『白羊宮』など文語定型詩を確立した詩人として、「茶話」などの随筆家として知られる薄田泣菫(すすきだ きゅうきん)が、1945年に亡くなった日です。

1877年、今の岡山県倉敷市に村役場の書記の子として生れた薄田泣菫(本名・淳介)は、旧制第一岡山中学を中退してからは独学し1894年に18歳で上京。塾の教師をしながら上野図書館に日参して内外の古典や西欧近代文学の英訳本を読破し、文学的教養を確実に身につけていきました。

1897年に帰郷すると、杜甫の詩13編を「新著月刊」に投稿したところ、編集担当の島村抱月らに絶賛されて、詩欄の第一席に掲載され、詩壇の注目を集めました。翌年処女詩集『暮笛集』を刊行すると、14行からなる定型詩ソネットが評判となって初版を短期間に売り切り、1901年に刊行した 第2詩集『ゆく春』も発売即日売り切れるほどでした。

1905年の第3詩集『二十五絃』、1906年の第4詩集『白羊宮』を刊行したころは、古語や漢語を巧みに用いたロマン的な作風は、与謝野晶子らに大きな影響を与え、島崎藤村や土井晩翠後の明治後期の詩壇の中心となって、蒲原有明とともに泣菫・有明時代を築きました。

明治の終わりごろから詩作はへりはじめ、大正に入ると随筆家に転じ、1912年には「大阪毎日新聞社」の記者となって、1915年から「茶話」の連載を開始しました。まさに「茶を飲みながら気軽におしゃべりする話」は、古今東西の噂話などを、面白おかしく紹介して評判となりました。総数811編の随筆集は、新聞コラムのはじめであり、その後のお手本ともなっています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、泣菫の代表的な詩を「泣菫詩抄」で読むことができるほか、「茶話」など40編以上の随筆を読むことができます。


「10月9日にあった主なできごと」

1547年 セルバンテス誕生…ユーモア、風刺、空想に満ちた作品『ドン・キホーテ』を著したスペインの作家セルバンテスが生れました。

1874年 万国郵便連合スタート…さまざまな国の人々が、国際交流や協力ができるように、世界の加盟国間に安い料金で郵便が送れる「万国郵便連合」(UPU)ができました。日本は1877年2月にUPUに加盟しました。

1946年 男女共学の実施…文部省(現・文部科学省)は、「国民学校令」の一部を改め、男女共学の実施を指示しました。それまでは別々にされていた男子と女子の授業は、同じ教室で受けるようになりました。

今日10月8日は、李氏朝鮮の第26代王・高宗の皇后で、義父大院君との20年以上にわたる権力闘争の末、乙未(いつび)事変で暗殺された閔妃(びんひ/ミンビ)が、1895年に亡くなった日です。

1851年、閔致禄の子として京畿道に生まれた閔妃は、15歳の時に高宗の実父で摂政・大院君の夫人の推挙で、同い歳の高宗の妃として王宮に入りました。しかし、高宗は政治と妃に全く関心を持たず、多数の宮女や妓生たちを相手に放蕩三昧をする人物でした。高宗が愛人とのあいだに長子をもうけると、祖父の大院君は世継ぎにしようとしました。しかし、閔妃が自身の子純宗を出産すると、宗主国である清に賄賂を贈り、嫡子として承認してもらうことに成功しました。

当時は、大院君が政治の実権を握っており、外にたいしては鎖国攘夷を守り、日本の開国要求を拒否し続け、内には王朝権力拡大のために王宮造営の大工事を行い、政治を批判する儒者たちに弾圧を加えていました。閔妃一派は1873年、高宗がすでに20歳を越え、親政の年齢に達したとして大院君を権力から追い出し、実権を握ってしまいました。そして大院君を隠居させ、大院君系列の人々を追放・流刑・処刑にしました。その後、1875年に日本と朝鮮の間で起こった武力衝突「江華島事件」が起こり、翌年に日朝修好条規が結ばれ、領事裁判権や関税自主権のない不平等条約ながら、李朝と日本の間に正式な国交が結ばれました。

閔妃派と大院君の抗争は依然続き、一時大院君が政権を奪取しましたが、閔妃は清に援軍を求め、再び大院君は天津に幽閉されました。そのような状況を見た開化派の金玉均や朴泳孝らは、閔妃を追放しない限り、朝鮮の近代化は実現しないとして1884年には、大院君を奉じてクーデターを決行。しかし、再々度閔妃は袁世凱率いる清国軍に援軍を求め、わずか3日で政権を取り返しました。1885年になると閔妃は、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親ロシア政策もとりはじめ、1894年に農民内乱(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になりました。

日清戦争後は、日本側の推す大院君派の勢力が強くなったことで閔妃の勢力は衰退していき、閔妃は親ロシア政策をさらに推し進め、ロシア軍の助力を得て権力奪還に成功しました。そんな動きは、閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国から警戒され、1895年10月8日の早朝、日本軍守備隊、領事館警察官、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使らが侵入する事件が発生、その混乱の中で殺害されたのでした(乙未事変)。


「10月8日にあった主なできごと」

1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。

今日10月7日は、オランダ人医学教師として幕末の長崎に来日し、日本初の近代的洋式病院と医学校をこしらえ、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たしたポンぺが、1908年に亡くなった日です。

1829年、ベルギーのブルージェで生まれたヨハネス・ポンぺは、1849年にオランダにあるユトレヒトの陸軍軍医学校で医学を学び、卒業後オランダ海軍の軍医としてオランダ領東インドで勤務ののち、長崎海軍伝習所の教授としてオランダ医学を系統だてて教えることになり、咸臨丸で1857年に来日しました。

ポンぺは、長崎奉行所西役所で、医学の土台となる基礎科学から教え始め、幕府医官でのちに初代陸軍軍医総監となる松本良順ら12名に初講義を行いました。そして、物理学、化学、解剖学、生理学、病理学といった医学関連科目をすべて教えますが、これはポンペがユトレヒト医学校で学んだ最新医学そのままで、内容は臨床的で実学的なものでした。やがて、学生数の増加にともない、大村町の高島秋帆邸に教室を移すと、1859年には人体解剖実習を行い、このときにはシーボルトの娘・楠本イネら46名の学生が参加したといわれています。

コレラ予防、性病予防、種痘にも従事したほか、ポンぺは、本格的な医学教育のためには、病院を建設することを幕府に訴え、1861年に長崎養生所と長崎医学所が完成しました。これは、124のベッドを持った日本初の近代的洋式病院と、医学校であり、長崎大学医学部の原点でもありました。松本良順をはじめ、司馬凌海、岩佐純、長与専斎、佐藤尚中、関寛斎、佐々木東洋、入沢恭平らが学び、近代西洋医学の定着に大きな役割を果たしました。また、ポンペの診療は相手の身分や貧富にこだわらないきわめて民主的なもので、日本において民主主義的な制度が初めて採り入れられたのは、この医療の場であったともいわれています。

1862年、長崎を去ってからのポンぺは、オランダのハーグで開業するかたわら、『ポンぺ日本滞在見聞記』を著して幕末の日本を紹介しました。その後赤十字委員となり、ペテルブルクの日本大使館に勤務し、ロシア日本公使だった榎本武揚の顧問となって、日本の赤十字加盟に尽力しました。のちに、森鴎外がヨーロッパに留学中に赤十字の国際会議でポンペに出会い、日本時代の感想を聞いた時、「ほとんど夢のようであった」と語ったといわれています。


「10月7日にあった主なできごと」

1674年 狩野探幽死去…江戸幕府代々の御用絵師として、日本画を代表する狩野派の栄える基礎を築いた狩野探幽が亡くなりました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生。ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。なお、41年後の1990年10月3日に両ドイツは統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。

今日10月6日は、江戸時代前期の天文暦学者で、日本初の暦「貞享(じょうきょう)暦」を作りあげた渋川春海(しぶかわ はるみ/しゅんかい)が、1715年に亡くなった日です。

1639年、京都四条室町に生まれた渋川春海は、幼くして江戸幕府の囲碁棋士安井参哲の養子となり、幼いころから父の指導により、めきめき上達して囲碁妙手として知られるようになります。1652年父の死のあとをついで2代目安井参哲として囲碁棋士となり、のちに七段位を得ています。

春海が高く評価されているのは、幕府の碁所に努めるかたわら研究をつづけた「天文暦学」の分野です。暦学を松田順承に、天文学を中国・元の「授時暦」に詳しい岡野井玄貞に学ぶと、1659年21歳の時に授時暦に基づいて山陰、山陽、四国各地の緯度・経度を計測しました。当時の日本の暦は、中国の唐の時代の822年に作成され862年に日本にもたらされた「宣明(せんみょう)暦」を用いていました。しかし、月食・日食の予報が2日も遅れるなど、かなりの誤差が生じていました。そのため、春海は計測結果を元にして、授時暦に改めるよう朝廷に申し出ました。ところが、1675年に春海が授時暦に基づいて算出した日食予報が失敗したことから、申請は却下されてしまいました。

春海は失敗の原因を研究していくうちに、中国と日本には経度差と時差があることに気づき、中国の暦をそのまま用いるより、日本に適応した改暦をあらためて主張し、1683年、自己の観測データを元にして授時暦に改良を加えた「大和(だいわ)暦」の採用を求めました。

こうして新暦をどうするべきかの論争がおこり、多くの意見は、授時暦を改良した明の「大統暦」に傾きはじめました。春海は暦道の最高責任者に大統暦の誤りを改めて指摘して、大和暦の採用に同意させ、1684年3度目の上申をこころみ、大和暦は朝廷により採用されて、初の国産暦「貞享暦」となったのでした。そして翌1685年5月の月食を見事に合致させ、その正確さを讃えられました。

この功績により、幕府の天文方に任じられ、以後暦の暦日など科学的な部分は幕府天文方が作り、朝廷の暦道と天文道を司る土御門家が暦注を加えて印刷・配布されるようになりました。

なお、春海は儒学や神道にも優れ、師である山崎闇斎より「天下の逸材」と激賞されるほどの総合力のある人物で、『天象列次之図』『春秋長暦』などの著書を多数残しているほか、地球儀をはじめ、天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)などの天文機器を作成しています。


「10月6日にあった主なできごと」

1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導し、「国父」 と呼ばれている孫文が生まれました。

1954年 尾崎行雄死去…明治・大正・昭和の3代にわたり、憲法に基づく議会政治を擁護し、清廉な政治家として活躍した尾崎行雄が亡くなりました。

今日10月3日は、井深大と共にソニーを創業し、世界最大級のエレクトロニクス企業に育て上げた盛田昭夫(もりた あきお)が、1999年に亡くなった日です。

1921年、名古屋近郊の酒造業の子に生まれた盛田昭夫は、家業にはほとんど興味を示さず、電子機器をいじるのが好きでした。旧制愛知第一中学や第八高校時代には、熱心なアマチュアの電子機器マニアになり、学業よりもラジオやレコードプレーヤーなどの電子機器を製作していました。大阪帝国大物理学科に入学後は、エレクトロニクスに対する関心をさらに深め、第2次世界大戦では海軍に入り、1943年海軍技術中尉時代に、技術研究会で井深大と知り合い、終戦後、朝日新聞に載った井深の作った短波受信機の記事により消息を知ったことで、再会を果たしました。

そして1946年、井深とソニーの前身となる、東京通信工業(東通工)を日本橋に設立し、事業を開始しました。同社を有名にしたのは、独自の小型化技術で、その第1号が1950年に発売した日本初のテープレコーダー「G型」でした。そして1953年、アメリカでトランジスタラジオが完成したことを知った盛田は、すぐにアメリカへ渡り、ベル研究所からトランジスタ技術のライセンスを受けようとしたものの、他社に先んじられてしまいました。これにひるむことなく独自の技術研究を重ね、1955年日本初のトランジスタラジオ(TR-55)を発売しました。さらに1957年、世界最小のポケット型トランジスターラジオを発売すると、自らそのラジオを流通業者に持って回り、ニューヨークの電器店の経営者に店に置いてくれるよう、熱心に売り込みに歩きました。

その過程で、東京通信工業の社名が海外マーケットに進出する場合の障害になるということを察知し、1958年、社名を「ソニー」に変更、翌年副社長に就任しました。1960年にはアメリカ販社「ソニーアメリカ」を設立して社長に就任、同年世界初のトランジスタテレビを発売しました。1961年には、日本企業初のアメリカでの新株を発行したところ、わずか2時間で完売するという「ソニー神話」を生んでいます。

1963年、盛田は家族とともにアメリカに移住し、ソニーアメリカの経営に専念します。こうしてソニー製品は、アメリカ全土で販売されるようになり、1971年にはソニーの社長に就任、1976年に会長就任してからは、自ら企画した「ウォークマン」で大ヒットを飛ばすいっぽう、家庭用ビデオ規格を巡り、 自社が率いるベータマックス陣営と、日本ビクター率いるVHS陣営との激しい争いを繰り広げました。ソニーを1兆円企業に育て上げても決して仕事の手を休めず、その余暇をスキューバダイビングやスキー、テニスなどですごしていましたが、1993年テニスのプレー中に脳卒中に見舞われ、引退を余儀なくされてしまいました。

1998年、米誌「タイム」(11月発売号)は、、ビジネスの世界で「今世紀最も影響力のあった経済人20人」として、米自動車王のヘンリー・フォード、マイクロソフトのビル・ゲイツ会長らと並び、日本ではただ1人、盛田を「メード・イン・ジャパンの名声を築いた」人物として選んでいます。


「10月3日にあった主なできごと」

1804年 ハリス誕生…アメリカ合衆国の外交官で、江戸時代後期に初代駐日本公使となり、日米修好通商条約を締結したハリスが生れました。

1990年 東西ドイツ統一…第2次世界大戦後、東西に分裂していたドイツは、45年ぶりに統一されました。

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