児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年10月

今日10月17日は、海軍の長老としてロンドン海軍軍縮会議の調印につなげ、「二・二六事件」で襲撃された当時の首相をつとめ、太平洋戦争終結の道筋をこしらえた岡田啓介(おかだ けいすけ)が、1952年に亡くなった日です。

1868年、福井藩士の長男として生まれた岡田啓介は、1884年に旧制福井中学を卒業後に上京し、陸軍軍人をめざしましたが、親類の海軍士官に勧められて海軍兵学校に入りました。日清戦争では、東郷平八郎の艦長の浪速に搭乗、豊島沖海戦に参加。1901年海軍大学校を卒業後、日露戦争にも出征、第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに参戦しました。1923年に海軍次官、1924年に連合艦隊司令長官に任じられ、1927年に田中義一内閣で海軍大臣となりました。

岡田が元老の西園寺公望や政界に注目されるのは、1929年に軍事参議官になってからです。1930年に浜田雄幸内閣は、補助艦に関する軍備制限を取り決めるロンドン海軍軍縮会議に参加しますが、海軍内の条約調印反対派の抵抗にてこずっていました。これを「軍拡による米英との戦いは避け、国力の充実に努めるべし」と調停し、条約調印にこぎつけたのが岡田でした。

1932年「五・一五事件」後の斎藤実内閣でも海軍大臣に就任、1933年に65歳の停年となって後備役となりましたが、1934年、西園寺の推挙を受けて内閣総理大臣となり、疑獄事件「帝人事件」後に倒れた斎藤実の後継として挙国一致内閣を組織しました。しかし、多数派の立憲政友会が入閣した高橋是清らを除名して対決姿勢に回ったり、天皇機関説をめぐる問題で岡田内閣が機関説支持とみられたため、陸軍皇道派や、国家主義勢力から攻撃されることになりました。

1936年1月に野党の立憲政友会による内閣不信任案の提出が行われ、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた第19回衆議院議員総選挙で与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎の落選などの大打撃を受けました。そして6日後、青年将校たちが1483名もの部隊を率いるクーデター(二・二六事件)をおこし、反乱軍は岡田の殺害をねらって首相官邸を襲撃しますが、顔の似ていた首相秘書官で義弟の松尾伝蔵が身代わりとなって殺害され、2週間後に岡田内閣は総辞職しました。

以後は閑居していましたが、1937年重臣の列に加わり、1941年には対米戦争反対を説いたものの近衛内閣に一蹴され、太平洋戦争末期の1944年には、東条内閣打倒の運動を行い、若槻礼次郎、近衛文麿、米内光政、かつての政敵だった平沼騏一郎ら重臣を説きふせて総辞職に追い込み、終戦への道筋を作りました。

戦後、極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたキーナンは、岡田、米内、若槻、宇垣一成の四人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、パーティーに招待して歓待しています。そして1952年に岡田は、サンフランシスコ平和条約が発効してGHQによる占領を終え、日本の主権回復を見届けながら、85年の生涯の幕を閉じたのでした。


「10月17日にあった主なできごと」

1849年 ショパン死去…ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開き「ピアノの詩人」と呼ばれた作曲家ショパンが亡くなりました。

1887年 横浜に日本初の水道…江戸時代末に開港したものの人口の急増のために水不足となり、コレラが流行したこともあって、近代的な水道が急がれ、この日横浜で使用されるようになりました。

今日10月16日は、アメリカ陸軍参謀総長として第二次世界大戦を勝利に結びつけ、戦後の西ヨーロッパ復興に大きな貢献を果たした軍人・政治家のマーシャルが、1959年に亡くなった日です。

1880年、ペンシルベニア州ユニオンタウンに生まれたジョージ・マーシャルは、1901年にバージニア陸軍仕官学校を卒業し、翌年陸軍に入隊しました。フィリピン勤務等を経て、1914年に第一次世界大戦が始まると作戦参謀となり、1917年には第1歩兵師団作戦・教練担当少佐としてフランスに派遣されました。1918年にはヨーロッパ派遣軍最高司令官副官として活躍し、大戦を終結させました。

大戦後、1924年から3年間中国での任務につき、第二次世界大戦勃発によって1939年に少将となり、フランクリン・ルーズベルト大統領より第15代陸軍参謀総長に指名されると大将に昇進し、ヨーロッパ侵攻作戦の最高責任者となって勝利に導いたことで、1943年タイム誌の「マン・オブ・ザ・イヤー」にも選ばれ、1944年には元帥に昇りつめました。

終戦後に軍を退くと、1945年12月、トルーマン大統領から中国における全権特使として中国を訪れ、国民党と共産党との争い(国共内戦)の調停にあたるものの大きな成果はえられず、1947年、国務長官に就任しました。そして同年6月、ハーバード大学の卒業式講演で「ヨーロッパ復興計画」を提唱します。これが、のちに「マーシャルプラン」として知られるもので、ソ連圏に対する西ヨーロッパの復興援助を供与する内容で、西欧諸国は、援助受け入れのために「ヨーロッパ経済機構」を設置し、1952年ころまでに130億ドルが供与されました。この援助は、アメリカの西欧諸国への影響力を強化し、NATO成立への経済的基盤となっていきました。

1949年国務省を退き、1952年に公務を引退。1953年にはマーシャルプランの立案と実行により、ノーベル平和賞を受賞しています。


「10月16日にあった主なできごと」

1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇の、次女を三条天皇それぞれの皇后にし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。

1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。

1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺)

今日10月15日は、イギリス出身の軍人・貿易商・探検家・博物学者で、「津軽海峡が動物学的分布の境界線」と指摘したブラキストンが、1891年に亡くなった日です。
 
1832年、南イングランドのリミントンに生まれたトーマス・ブラキストンは、少年時代から博物学、特に鳥類に関心をもつ子どもでした。陸軍士官学校を卒業後、クリミア戦争で武勲をあげて大尉に昇進したあと、1857年から1858年にかけて「北アメリカ学術探検隊」に加わり、カナダの鳥類の標本採集や地磁気の観測、ロッキー山脈探検などを行いました。1860年には軍務により中国へ派遣され、揚子江上流域の探検を行うと、暑さを避けるために1862年、3か月間箱館に滞在、探検結果の記録を整理して帰国しました。

除隊したブラキストンは、1863年に再び箱館を訪れ、製材業を志し、日本初となる蒸気機関を用いた製材所を設立しました。しかし、蝦夷地では輸送手段が未開発なために苦戦をしいられたことで、1867年、友人とともにブラキストン・マル商会を設立し、数隻の帆船を所有して国内外の物資輸送に活躍します。こうして貿易商として20年以上にわたって函館で暮し、市の発展にも貢献。函館上水道や、函館港第一桟橋の設計を手がけたり、気象観測の開始にも寄与しています。

ブラキストンは商売の余暇に、北海道、南千島、本州各地の鳥の採集調査を行い、日本の鳥の分布上、「本州と北海道の間の津軽海峡が、動物学的境界線」と考えました。そして、北海道の鳥類・動物は、アムール川(黒龍江)から津軽海峡を境としてシベリア亜区に属すること、本州と北海道では生そく生物に違いのあることを1880年、東京のアジア協会例会で発表し、注目されました。この境界線の発見は、その後、お雇い外国人の工部大学校地震学教師ミルンの提案により、「ブラキストン線」と呼ばれるようになりました。

1884年に帰国、のちにアメリカへ移住したブラキストンは、カリフォルニア州サンディエゴで亡くなりました。函館山の山頂には、「ブラキストン線発見」を記念して、ブラキストンのレリーフをはめこんだ石碑が残されています。


「10月15日にあった主なできごと」

1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが亡くなりました。

1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく「ユリウス暦」は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されている「グレゴリオ暦」で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。

1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。

今日10月14日は、童謡『青い眼の人形』をはじめ『七つの子』『赤い靴』『十五夜お月さん』『めえめえ小山羊』など、今も親しまれる歌をたくさん作曲した本居長世(もとおり ながよ)が、1945年に亡くなった日です。

1885年、東京御徒町に生まれた本居長世は、生後1年で母と死別。養子だった父が家を出たため、国学者の祖父に育てられました。やがて音楽家を志すようになり、1908年東京音楽学校(のちの東京芸術大)を首席で卒業すると、同期の山田耕筰とともに母校に残りました。

1909年ピアノ授業補助、翌年にはピアノ科助教授となり、中山晋平や弘田龍太郎らを育てています。邦楽を好んだ長世の関心は浄瑠璃、琉球歌謡、流行歌にまで及び、1920年には弘田龍太郎らと「如月社」を結成して、洋楽と邦楽の融合を模索するようになりました。この活動を通して、のちに尺八の吉田晴風や箏の宮城道雄と組んでの新日本音楽運動へと発展させ、民謡興隆の原動力となっています。

また当時、鈴木三重吉による児童雑誌「赤い鳥」が創刊されたことがきっかけとなって、これまでの唱歌に代わる「童謡」と呼ばれる新しい歌が人気を博していました。活躍する山田耕筰や中山晋平らに刺激されてこの童謡運動に加わると、1920年、雑誌「金の船」に『葱坊主』を発表。つづいて同年に発表した『十五夜お月さん』は、初の童謡歌手でレコード吹き込み第1号となる長女みどりの歌によって一躍有名となり、 以後は作詞の野口雨情と組んで、『七つの子』『青い眼の人形』(1921年)、『赤い靴』(1922年) などを次々と発表していきました。

その後、みどりや次女貴美子らとともに日本各地で公演を行い、1923年関東大震災により甚大な被害が発生すると、日系米国人を中心に、たくさんの援助物資が贈られました。その返礼として日本音楽の演奏旅行が企画され、長世も2人の娘とともに参加し、アメリカ各地で公演を行ったところ、特に『青い眼の人形』は絶賛を浴びたと伝えられています。(♪ 私は言葉がわからない 迷子になったらなんとしょう……) 遠い異国で、差別や苦難に耐えた日系1世、2世の人たちにとって、まるで自分自身の歌のように感じたのかもしれません。

長世の主要作品は、上記のほかに、おとぎ歌劇『月の国』、ピアノ曲『数え唄バリエーション』、童謡『めえめえ小山羊』『汽車ポッポ』などがあります。


「10月14日にあった主なできごと」

1867年 大政奉還…江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜は明治天皇に、統治権を返上することを申し出ました。

1872年 日本初の鉄道開通…東京・新橋と横浜の間29kmに、わが国初の鉄道が開通しました。この日(旧暦9月12日=新暦10月14日)を記念して国鉄(今のJR)は、1922年から「鉄道記念日」として制定しました。1992年、運輸省(今の国土交通省)は「鉄道の日」と改め、私鉄も含め、全国各地で鉄道に関する行事を行っています。

今日10月10日は、上野公園の「西郷隆盛像」の作者として名高い彫刻家で、木彫技術の伝統を近代につなげる役割を果たした高村光雲(たかむら こううん)が、1934年に亡くなった日です。

1852年、今の東京台東区に町人の子として生まれた光雲(本名・光蔵)は、1863年12歳から仏像彫刻家(仏師)の高村東雲の徒弟となり、職人としての修行を積むうち認められ、1874年に東雲の姉エツの養子となって高村姓を名乗り独立しました。

ところが明治維新後に、廃仏毀釈運動の影響から神仏分離令によって寺が廃止されたり、仏像が燃やされていきます。そのため仏師としての仕事はなく、輸出用の象牙彫刻の流行で木彫も衰え、光雲は玩具や酉の市の熊手を作るなど苦しい生活を強いられましたが、頑固なまでに木彫の伝統を守り続けました。いっぽう、西洋の彫刻にも関心を寄せ、石膏の研究をしたり、蝋型鋳物の仕事にたずさわるなど、西洋の様式を採り入れた写生風の一派を開きました。

初めて発表した作品は、1877年に師の名前で第1回内国勧業博覧会に出品した『白衣観音像』で、同会の最高賞を受けて美術界に認められ、1889年の龍池会(のちの日本美術協会)に出品した『矮鶏(ちゃぼ)』は、明治天皇の買上げに選ばれるほどでした。同年は東京美術学校(のちの東京芸術大)開校の年に当たり、岡倉天心やフェノロサらの強い要望により、木彫科の教授となり、以後30年にもわたり後進を育てました。

光雲のもっとも有名な作品は、1892年に製作された上野公園の「西郷隆盛像」でしょう。下絵を何枚も描き、「あの偉大な西郷さんに似ているか」と、西郷の友人だった人に聞いて歩いたり、わざわざ九州の桜島をたずねて犬を連れ帰ってモデルにして製作しました。1893年に、シカゴ万博に出品した『老猿』(東京国立博物館蔵)も有名で、1本の栃の巨木を彫り上げ、その木目を毛並に生かした力作は話題を独占したといわれています。その他、皇居前広場にある『楠公(楠正成)像』のほか、たくさんの仏像の小品を残しました。

光雲の弟子には山崎朝雲、山本瑞雲、米原雲海ら近代日本彫刻を代表する彫刻家がおり、平櫛田中らもその門に学びました。なお、詩人で彫刻家の高村光太郎や、彫金家の高村豊周は光雲の子です。


「10月10日にあった主なできごと」

1911年 辛亥革命…中国の清に対し、湖北省の武昌で兵士による反乱(辛亥革命)がおこりました。これがきっとかけとなり、翌年1月に古代から続いた君主制が廃止され、孫文を臨時大総統とする共和制国家「中華民国」が南京に成立しました。

1964年 東京オリンピック開催…第18回オリンピックが、東京・国立競技場で開会式が行われ、この日から15日間、94の国と地域から選ばれた5558人の選手が競いあいました。日本は、重量挙げ、体操男子、レスリング、柔道、女子バレーなどで過去最高の金16、銀5、銅6のメダルを獲得、国民の多くはテレビに釘付けとなりました。

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