児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年10月

今日10月24日は、戦前は「婦人セツルメント」を全国に広め、戦後は「主婦連」を設立、初の参議院議員となるなど、消費者・婦人運動を終生にわたり指導した奥(おく)むめおが、1895年に生まれた日です。

福井県福井市に、鍛冶屋の子として生まれた奥むめおは、少女のころから婦人労働問題に強い関心を示し、1916年に日本女子大を卒業後、労働組合期成会の機関紙『労働世界』の記者となると、ある紡績会社に一女工として潜入取材したレポートは、大きな反響を呼びおこしました。

1920年、平塚らいてう、市川房枝らと初の婦人団体となる「新婦人協会」を設立して理事に就任、女性の参政権獲得をめざす運動をくりひろげました。しかし翌年、中心となっていた市川と平塚があいついで協会運営から退いたため、奥の自宅を機関誌『女性同盟』編集部にあて、育児をしながら、刊行を引きつぎました。1922年、同協会がまずめざした、女性の集会の自由をはばんだ治安警察法改正にこぎ着けたものの、協会内に路線対立が激しくなって解散せざるをえませんでした。

翌1923年、奥は自ら「職業婦人社」をおこすと、雑誌『職業婦人』(のちの「婦人運動」)を創刊して、働く婦人たちの自覚や地位の向上をめざしました。また、1928年には婦人消責組合協会を立ち上げて消費者運動にのりだし、1930年には貧しい人々が住む地区に、生活改善や職業指導を目的とする公益施設「婦人セツルメント」(のちの「働く婦人の家」)を東京・大阪を手はじめに、全国に展開しました。

敗戦後の1947年には、第1回参議院議員選挙に国民協同党公認で全国区から出馬し、抜群の知名度から上位当選をはたすと、それ以後も院内会派緑風会所属議員として、1965年に勇退するまで3期18年を務めました。

いっぽう、1948年に「主婦連合会」(主婦連)を結成して会長に就任すると、割烹着としゃもじをシンボルマークに、不良品追放、物価値上げ反対など、消費者利益を守る運動の先頭に立ちました。1956年には主婦連の活動拠点となる「主婦会館」を建設して初代館長となり、1997年7月に満101歳9か月で亡くなるまで、消費者・婦人運動を指導し続けました。


「10月24日にあった主なできごと」

1708年 関孝和死去…江戸時代前期の数学者で、「和算」とよばれる数学の理論を世界的なレベルまで発展させた関孝和が亡くなりました。

1929年 暗黒の木曜日…アメリカのニューヨークにある株式市場で、株が史上最大の暴落をしました。その日が木曜日だったため「暗黒の木曜日」といわれています。5日後にもまた値下がりが続き、わずか2週間ほどで株価が半分以下となって、アメリカ経済は大混乱となりました。多くの人が財産を失い、失業者があふれ、自殺者もでる騒ぎになりました。こうしてアメリカではじまった大恐慌は、全世界をまきこむ「世界恐慌」へつながっていきました。

今日10月23日は、山形、福島、栃木の各県令を歴任し、警視総監となって「保安条例」の執行を指揮して、自由民権派に憎悪された三島通庸(みしま みちつね)が、1888年に亡くなった日です。

1835年、薩摩(鹿児島県)藩士の長男として生まれた三島通庸(幼名・弥兵衛)は、少年のころから示現流剣術や兵学を学び、1862年には有馬新七らの寺田屋事件にかかわって謹慎を命じられるものの、やがて藩主島津忠義によって人馬奉行に抜てきされ、鳥羽・伏見の戦いから、東北征伐の戊辰戦争に従軍しました。1871年、大久保利通の計らいによって新政府に出仕すると東京府の役人になったのを皮切りに、1874年酒田県令(いまの山形県知事)、1882年福島県令、1883年栃木県令(福島と兼任)を歴任しました。

この県令時代に、酒田では「ワッパ騒動」という長期間にわたる農民闘争を鎮圧し、福島では山形、新潟、栃木にわたる三方道路など大土木工事を計画し課税したことで、福島の自民党員や農民たちが反対運動をおこすと、2千人もの指導者を逮捕・投獄しました(福島事件)。また栃木でも、土木工事を計画し、反対住民や自由民権運動家を弾圧する「加波山事件」を引き起こすなど、その強引な手法に「鬼県令」とか「土木県令」といわれ、住民たちからの反発をかいました。

さらに、内務省土木局長(県令と兼任)、1885年には警視総監となると、高まりはじめた自由民権運動に対抗するため、1887年に「保安条例」を出して、旧自由党員や改進党員ら3千人を逮捕し、尾崎行雄ら570人に皇居から3里(約12km)外に退去させました。
 
この条例が施行されると、伊藤博文総理からあまりに厳格すぎるのでしばらく中止せよといわれると、三島は辞表を提出、伊藤が折れて辞表を撤回されたといわれるほど、典型的な明治官僚でした。その後三島は、政府内の発言力を増し、大隈重信の入閣問題がおきると、入閣反対運動をおこすものの、病に倒れました。


「10月23日にあった主なできごと」

1849年 西園寺公望誕生…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した政治家の西園寺公望が生れました。

1873年 征韓論争勃発…朝鮮への派兵をめぐって、この日政府内に激しい論争がおこりました。西郷隆盛や板垣退助らは鎖国を続ける朝鮮を武力で開国させようと主張したのに対し、岩倉具視や大久保利通らが内政を優先させることが先決とこれに反対しました。結局、西郷と板垣らは論争に敗れて、翌日要職を辞任して政府を離れました。

1973年 オイルショック…10月はじめに第四次中東戦争が勃発。石油輸出国機構(OPEC)に加盟しているペルシア湾岸産油6か国は、原油公示価格の21%引き上げ、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸をこの日に発表、第1次オイルショックの引き金となりました。日本では、原油価格と直接関係のないトイレットペーパーや洗剤などの買占め騒動がおきたり、デパートのエスカレータの運転中止などの社会現象も発生するなど、高度成長にストップがかかる事態に陥りました。

今日10月22日は、「スペイン内乱」「ノルマンディー上陸作戦」など、たくさんの戦争を報道した写真家のキャパが、1913年に生まれた日です。

ハンガリーのブダペストに、ユダヤ家系の子として生まれたロバート・キャパ(本名・フリードマン・アンドレイ)は、地元のギムナジウム(中高一貫校)を卒業後、言葉を越えて自己を主張できる写真ジャーナリストをめざし、ドイツのベルリンで写真通信社の暗室係となりました。1933年ユダヤ人排斥が激しくなったためベルリンを脱出してブダペストにもどり、旅行社のカメラマンをしたり、通信社に努めながら写真を撮るもののほとんど売れません。

生活に困って、同国の写真家ケルテスを頼ってパリに出ると、戦乱の第一線におもむいて写真を撮ることを勧められ、1936年のスペイン内乱では、ファシズムに反対して人民戦線に加わりながら写真報道活動に従事しました。写真の仕事を通じて知り合ったユダヤ人仲間から、すでに偉大な業績のあるカメラマン「ロバート・キャパ」という人物がいることにして売りこむことをアドバイスされ、たくさんの写真の中の1枚が、フランスの写真週刊誌『ヴュ』に採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付されて掲載されたのでした。

さらにこの写真は、翌1937年7月、大部数を誇るアメリカのグラフ誌『ライフ』に「ロバート・キャパ」撮影と記されたことで、キャパの名は、いちやく世界的なものになりました。タイトルは「崩れ落ちる兵士」で、[1936年7月スペイン内戦勃発した時期に従軍、9月コルドバ戦線で頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮ったもの] とコメントされ、戦争写真家としての出世作となったのでした。

その後キャパは、1938年に初の写真集『生み出される死』を刊行。同年、日中戦争を取材後にアメリカ合衆国に移って永住権を得ると、1943年に第2次世界大戦の北アフリカ戦線、イタリア戦線、1944年にはノルマンディー上陸作戦を従軍しながら取材し、最大の戦死者を出したオマハ・ビーチでは、連合軍とドイツ軍が交戦する中、100枚以上の写真を撮影しました。

1948年にはイスラエルの建国と第一次中東戦争を取材。その姿勢は、どこまでも人間尊重、平和愛好の立場を貫き通し、激烈な戦闘場面を撮影しつづけ、雑誌『ライフ』『コリアーズ』などに提供つづけました。しかし、1954年、第一次インドシナ戦争の取材中、地雷にふれ、41年の生涯を閉じてしまいました。上記のほかに、写真集『ちょっとピンぼけ』や『戦争─そのイメージ』があります。


「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、東京に移るまで1100年近くも続きました。

1906年 セザンヌ死去…ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが亡くなりました。

1962年 キューバ危機…「ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中」との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

今日10月21日は、『帆・ランプ・鴎』『幼年』『仙境』『月渡る』などの詩集で知られる詩人の丸山薫(まるやま かおる)が、1974年に亡くなった日です。

1899年、大分県大分市で生まれた丸山薫は、幼いころから父の転勤の影響で各地を転々とし、12歳で母方の祖父の住む愛知県豊橋市に移りました。冒険小説を読んで海にあこがれるようになり、船乗りになろうと周囲の反対を押し切って東京高等商船学校に入るものの、脚気のため1年で退学しました。その後、旧制第三高校(今の京都大)では桑原武夫、三好達治、梶井基次郎らと親交を持って卒業後、東京帝国大学国文科に入学すると、詩作を開始し、「新思潮」の同人となって船や海、異国へのあこがれの詩を発表して注目されるようになりました。

1928年、詩の活動に専念しようと大学を中退、1932年に第1詩集『帆・ランプ・鴎』を刊行しました。これは34編からなるわかりやすい散文詩の体裁をとり、少年や動物たちを描写したことで、「昭和の抒情詩」のひとつの方向性を示したとして津村信夫や立原道造らに影響を与えました。1933年に堀辰雄や三好達治らと雑誌「四季」を創刊し、多くの作品を発表して詩壇に新風を吹きこみ、1935年には『鶴の葬式』『幼年』で文芸汎論詩集賞を受賞しています。

終戦をはさんで1944年~48年までは、山形県西川町岩根沢に疎開し、そこで岩根沢国民学校の代用教員をしました。教壇に立つかたわら地域の住人と深いかかわりをもちながら詩作活動を続け、この地を舞台に『北国』『仙境』など4冊の詩集を出しました。この地で丸山が灯した文化の灯は絶えることなく、1972年に教鞭をとった小学校の校庭に次の詩碑が建てられました。

人目をよそに
春はいのちの花を飾り
秋には深紅の炎と燃え
あれら山ふかく
寂莫に生きる木々の姿が
いまは私になった

さらに没後の1990年には、同地に「丸山薫記念館」が開館され、書籍や遺品などを展示しています。

その後丸山は、1948年に豊橋市に移り、愛知大学講師、客員教授を務めました。生涯に発表した詩集は16冊、代表作は上記の他に『物象詩集』『月渡る』『青春不在』。他に短編小説集『蝙蝠館』やエッセイ『蝉川襍記』があります。


「10月21日にあった主なできごと」

1520年 マゼラン海峡発見…スペイン王の協力を得て、西回りで東洋への航路をめざしたポルトガルの探検家マゼランは、出発からすでに1年が経過していました。そしてこの日、南アメリカ大陸の南端に海峡(マゼラン海峡)を発見、7日後の28日に南太平洋に到達しました。マゼランは、翌年3月にフィリピンで原住民の襲撃にあって死亡。9月に乗組員が世界一周を終えてスペインに到着したときは、5隻の船は1隻に、256名の乗組員はわずか18名になっていました。

1684年 徳川吉宗誕生…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が生まれました。

1805年 トラファルガーの海戦…スペインのトラファルガー岬の沖で、ネルソン率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊に勝利しました。しかし、旗艦ビクトリア号で指揮していたネルソンは、狙撃されて死亡しました。

1871年 志賀直哉死去…長編小説「暗夜行路」などを著し、武者小路実篤とともに「白樺派」を代表する作家の志賀直哉が亡くなりました。

今日10月20日は、歴代のアメリカ大統領たちに能力を高く評価され、第31代大統領を務めたフーバーが1964年に亡くなった日です。

1874年、アイオワ州ウェストブランチに鍛冶屋の子として生まれたハーバート・フーバーは、9歳のころまでに両親を失い、おじ夫妻に育てられました。15歳で簿記とタイピングをマスターして独立すると、夜にはビジネススクールに通うなど苦学して1891年、カリフォルニア州に新設したばかりのスタンフォード大学に入学し、採鉱学を学びました。卒業後に、オーストラリアの鉱山で鉱山技師として働き始め、その後中国で鉱山の開発に従事するなど、1913年まで海外での鉱山開発に当たり、経営面でも成功して、世界屈指の鉱山事業家になりました。

第一次世界大戦時には、海外アメリカ救済委員会の委員長となって、ベルギー救済機関を組織して食糧供給を実施して名声をあげ、1917年にはその実務的手腕をウィルソン大統領に買われて、食糧庁長官として国家食物管理に当たりました。1921年からは、ヘーディング大統領の商務長官となり、ロシア革命後の混乱で飢饉で苦しむソ連や大戦後のドイツへ食糧支援を行ったことで、ニューヨーク・タイムズは「10人の最も重要なアメリカ人」にフーバーを選んでいます。続くクーリッジ大統領の政権でも商務長官を担当し、企業が成長し、貿易を増やすための政策を次々に打ち出して、アメリカの繁栄に大いに貢献しました。

1928年、大統領選挙に共和党から立候補したフーバーは、「どの鍋にも鶏1羽を、どのガレージにも車2台を」というスローガンを掲げて圧勝、翌年第31代大統領に就任したときは「アメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている」と語りました。しかしその見通しとは異なり、わずか半年後の1929年10月の経済恐慌(世界大恐慌)で、未曾有の大不況に突入してしまいました。フーバーは、融資した資金の返済を1年間猶予する「フーバーモラトリアム」を実施すれば不景気は1年ほどで自然に回復すると考え、国内的には政府による経済介入を最小限に抑える政策をとったことは、世界恐慌をますます深刻化させ、失業者救済事業や復興金融公社の設立などに手をつけたものの、効果はあがりませんでした。

こうして、フーバーは、1932年の大統領選に出馬しましたが、対立候補の民主党フランクリン・ルーズベルト(第32代大統領)に40州以上で敗北するという歴史的大敗を喫し、1933年の任期満了をもって一時引退します。フーバーは、ルーズベルトとは相いれることはありませんでしたが、次のトルーマン大統領のもとでは、世界の食糧事情の改善、難民救済、行政改革に力を貸しました。

なお、1946年5月に占領下の日本を視察したフーバーは、GHQのマッカーサーと会談し、「太平洋戦争は、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、開戦前の1941年7月に在米日本資産の凍結などの経済制裁を行い、日本を破滅的な戦争に引きずり込んだ……」と語ったといわれています。


「10月20日にあった主なできごと」

1180年 富士川の合戦…源頼朝率いる源氏と平氏軍が駿河の富士川で合戦を行いました。この戦いで、平氏軍は水鳥が飛びったった水音を夜襲と勘違いして敗走しました。

1856年 二宮尊徳死去…幼い頃に両親を失いながらも刻苦して小田原藩士となり、各地の農村の復興や改革につくした江戸後期の農政家・二宮尊徳が亡くなりました。

1879年 河上肇誕生…『貧乏物語』『資本論入門』『自叙伝』などの著作で知られ、日本におけるマルクス主義の考えを推し進めた経済学者の河上肇が生まれました。

1967年 吉田茂死去…太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した吉田茂が亡くなりました。

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