児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年10月

今日10月31日は、政治結社「立志社」などを創設して、国会開設を求め、民主主義をめざす反政府運動を展開した片岡健吉(かたおか けんきち)が、1903年に亡くなった日です。

1843年、土佐(高知県)藩の上士(上級武士)の長男として高知城下生まれた片岡健吉は、乾(のちの板垣)退助に少年時代から目をかけられて、藩の役人として順調に出世し、1863年には御普請奉行となっています。明治新政府と旧幕府軍との戦い「戊辰戦争」では、大軍監に任ぜられ、板垣に従って会津若松城攻略などの功を立てました。

維新後は新政府に出仕し、1871年から2年間アメリカやイギリスなどの軍隊を中心に視察、帰国後に海軍中佐となるものの、政府内で征韓論を主張したことで敗れ、板垣とともに、1874年職を辞して帰郷しました。同年、板垣や植木枝盛、林有造らと政治結社「立志社」を創設して代表となると、翌1875年大阪に全国組織「愛国社」(のちの国会期成同盟)の設立に加わり、これらの結社を通して、「自由民権運動」を推進しました。1877年6月には、立志社として「国会開設建白書」を提出しています。

ところが、西南戦争の最中だったことから建白書は受け入れられず、立志社の中に西南戦争をおこした西郷隆盛に呼応して兵を上げる計画が露見して8月に逮捕され、禁錮100日の刑を受けてしまいました(立志社の獄)。これにめげず、1880年、河野広中と共に国会期成同盟の代表として「国会開設建白書」を元老院に再提出するものの、またも不受理となりました。

1881年、自由党の結成に加わり、1884年に自由党解党後は、言論の自由・地租(税金)軽減・自由外交の回復の3項目を要求する「建白運動」をおこし、1887年にその代表として建白書を元老院に提出したところ、政府は、「保安条例」を発布して退去命令を下しました。片岡がこれに従わなかったことから、保安条例違反で逮捕され、禁錮2年6か月の刑に処せされてしまいました。

しかし、1890年の第1回衆議院選挙に高知から立候補して当選をはたし、以後、自由党土佐派の最高幹部として議会運営の中心となり、第8回まで連続で当選しただけでなく、1898年から亡くなるまで衆議院議長を務めました。また、1885年から敬虔なキリスト教徒となり、晩年は、同志社第5代代表(現総長)に就任しています。


「10月31日の行事」

ハロウィン…カトリックの諸聖人の祝日である「万聖節」の前夜祭で、古くはケルト人の行っていた収穫感謝祭が、他民族の間にも行事として浸透していったものとされています。ハロウィンをアメリカに伝えたのは、1840年代のアイルランド移民でした。名物のおばけちょうちんは、カブで作っていましたが、アメリカには大きなカブがなかったためにカボチャを使うようになったようです。おばけちょうちんを持ち、魔女や妖精、お化けなどに仮装した子どもたちが、近くの家を1軒ずつ訪ねては Trick or treat. (お菓子をくれないといたずらをするよ)と大声をたてます。子どもたちがきた家では、用意しておいたお菓子をわたして、仮装をほめてあげるという楽しいお祭りです。最近は、日本でもよく目にするようになりました。


「10月31日にあった主なできごと」

1517年 95か条の論題…ドイツの神学者ルターは、ローマ教会の免罪符の発行などを批判する「95か条の論題」を、ビッテンベルク城教会の扉にはりだしました。これがきっかけとなって、キリスト教の「宗教改革」がはじまりました。

今日10月30日は、『豫譲』『刈草』『堅田の一休』など、「やまと絵」「文人画」の新しい解釈から独自の画風を創りあげた日本画家で、アララギ派歌人としても活躍した平福百穂(ひらふく ひゃくすい)が、1933年に亡くなった日です。

1877年、秋田県角館町(今の仙北市)に、四条派の日本画家平福穂庵(すいあん)の4男として生まれた平福百穂(本名・貞蔵)は、幼いころから地元の豪商のコレクションなどで、和洋折衷絵画の「秋田蘭画」に親しみ、1890年から父の手ほどきを受け、画家をめざすようになりました。ところが同年末に父が急死したために、父の後援者の援助を受け本格的に絵を学び始め、雅号を百穂として地元の絵画展に出品するようになりました。

さらに研鑚にはげもうと、1894年17歳で上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となり、1897年川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学。日本画や西洋画の基礎となるデッサンを学ぶと1899年に卒業後、素明らと无声(むせい)会を結成して「自然主義」をとなえ、日本画の線描とデッサンを融合した新しい写実的な日本画をめざしました。これは、日本美術院の理想主義とは対照的な絵画活動でした。しかし生活は苦しく、新聞記者をやったり、新聞や雑誌に時事スケッチや風刺漫画を書いたりしました。おおらかな性格で、絵画仲間ばかりでなく、ジャーナリズム界など、さまざまなジャンルの交友を持ちました。

やがて百穂は、日本や東洋の古典的な作品を再認識するようになり、特に俵屋宗達や尾形光琳の日本的装飾性と一体になった現実感にめざめ、いっぽう中国の文人画のおもむきを採り入れた独自の画風をつくりあげると、そのころの集大成ともいえる『豫譲』(永青文庫蔵)を、1917年第11回文展に出品し、特選となりました。『史記』の刺客伝にテーマをとった迫力に満ちた六曲一双の屏風絵は大評判となり、画家としての地位を確立しました。

1929年、ローマで開かれた日本美術展の見学をかねて、念願のヨーロッパ美術に多くふれたものの不満が残り、改めて東洋美術の奥深さを識った百穂は、帰国後にもうひとつの代表作ともいえる『刈草』を発表しました。生い茂るくさむらのなかで1頭の馬が無心に草をはむ作品は、百穂の晩年の境地を描いたといわれています。1932年には、東京美術学校教授に就任しました。

代表作には上記以外に、『朝露』 『荒磯』『玉柏』『堅田の一休』『七面鳥』『猟』などがあります。いっぽう、1903年頃から、伊藤左千夫や正岡子規らと知り合って短歌に親しむようになり、斎藤茂吉や島木赤彦らとともにアララギ派の歌人としても活躍し、歌集『寒竹』を残しています。


「10月30日にあった主なできごと」

1850年 高野長英死去…『夢物語』を著して江戸幕府批判の罪で捕らえられるものの脱獄、自ら顔を焼き人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英が、幕府の役人に見つかって自殺をはかりました。

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ主演『宇宙戦争』(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

今日10月29日は、平安時代の末期、奥州平泉に君臨した藤原家第3代目当主で、源義経をかくまったことで知られる藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)が、1187年に亡くなった日です。

1122年、奥州藤原家2代目基衡の長男に生まれた秀衡は、1157年に父基衡の死去を受けて家督を相続しました。奥州藤原家は祖父の清衡が、後三年の役(1083~87)後に奥羽両国(陸奥・出羽国…今の青森・秋田・山形県と岩手の1部)を支配し、平泉に居を構え、以後3代100年にわたる栄華をほこりましたが、秀衡の時代にその頂点をきわめました。

黄金と鉄、財力をバックに、武士団17万騎の兵を誇る王者として貢馬や貢金で朝廷としっかりつながり、祖父清衡の中尊寺、父基衡の毛越(もうつう)寺に対し、宇治平等院を手本に無量光院を建て、仏教鎮護国家としての平泉の都をより充実させ、大都市に発展させていきました。

当時京の都では、保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えていましたが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保ちながら、鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司の源義経をかくまって、たくましい武将に育て上げました。1180年、義経の兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、兄の元へ向かおうとする義経を強く引き止めたものの、義経の意が変わらないことを知ると、秀衡は伴を義経につけて送り出しました。こうして源平争乱のさなか、1181年には朝廷や平氏から「陸奥守」という東北一体をおさめる長官を任じられ、頼朝の背後をつくことを期待されましたが、鎌倉の頼朝を牽制するだけで、態度を明らかにしませんでした。

1185年に源氏が平家を滅ぼしたことで、翌年勢力を拡大してきた頼朝の呼びかけに、表面的には勢力下に入ったものの独立性を保ち、1187年2月、頼朝と対立して追われた義経を、頼朝との関係が悪化するのを覚悟で保護しました。その後、秀衡は病に倒れ、死にのぞんで国衡、泰衡の2子を呼び、義経を主君に仕えるようにと遺言して亡くなりました。

ところが、その後わずか1年半後に、泰衡は義経を討ち、まもなく頼朝により奥州藤原家は滅亡させられたのでした。


「10月29日にあった主なできごと」

1815年 井伊直弼誕生…江戸時代末期に大老となり、開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、1860年の「桜田門外の変」で水戸浪士らに殺害された井伊直弼が生まれました。

1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。

1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていきました。

1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には1等賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。

今日10月28日は、プロ野球「巨人軍」選手として、20年間の通算打率3割1分3厘という記録を残し、同軍の監督となってからは14年間に11度のリーグ優勝と日本一、特に1965年から9年間連続で日本一に導いた川上哲治(かわかみ てつはる)が、2013年に亡くなった日です。

1920年、熊本県人吉市に生まれた川上哲治は、熊本工業学校(現熊本工高)時代に、投手として夏の甲子園(全国中等学校野球選手権大会)で2度準優勝し、優秀選手に選ばれたことで、1938年に巨人軍に入団しました。入団後まもなく、当時の監督藤本定義から打撃の才能を見込まれて打者に転向すると、1939年には史上最年少の19歳で首位打者を獲得しました。

以来、1958年に引退するまでの20年間で、7500打席に立ち、2351安打という高い数字を残しました。内野手の頭上30cmを越える絶妙のライナーは「弾丸ライナー」と呼ばれ、青田昇、千葉茂らと共に第1次巨人黄金時代の打の中心選手として大活躍をしました。また、「ボールが止まって見えた」とか「無駄になる努力はない」など数多く名言を残し、1956年5月に通算2千安打を最初に達成したほか、首位打者5回、本塁打王2回、打点王4回、最高殊勲選手に3回選ばれています。

現役引退後はコーチを経て、1961年に巨人軍監督に就任すると、王貞治・長嶋茂雄というスーパースターの他、堀内恒夫、森昌彦(森祇晶)らを率いて巨人の第2次黄金時代を築き上げ、プロ野球史上空前絶後の「V9」(9年連続日本一)を達成しました。1974年も順位は2位と悪くはないものの、手堅い川上体制に対するマンネリや、長嶋に監督をつがせようとする流れもあって、通算1066勝739敗61分、勝率7割近いという驚異的記録を残し、この年で監督を退任しました。

巨人退団後は野球解説者、野球評論家のかたわら少年野球教室を開いて、後進の指導と普及に努めました。なお、背番号「16」は巨人軍の永久欠番。1965年には、南海ホークスの監督を23年にわたって務めた鶴岡一人とともに野球殿堂入りしています。


「10月28日にあった主なできごと」

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

今日10月27日は、梶田半古に学び、今村紫紅、安田靫彦、小林古径らと腕を競いあいながら大成した日本画家の前田青邨(まえだ せいそん)が、1977年に亡くなった日です。

1885年、岐阜県中津川市に食料品店の子に生まれた前田青邨(本名・廉造)は、1898年母の死をきっかけに下宿を営む叔父を頼って上京し、京華中学に入学するものの身体をこわして帰郷しました。1901年、父の反対を押し切り画家をめざして再上京すると、叔父のつてで尾崎紅葉を紹介され、当時紅葉が新聞連載していた『金色夜叉』の挿絵を担当していた梶田半古に入門することになりました。兄弟子だった小林古径や同門となった奥村土牛らと歴史画を模写したり、有職故実を学びながら実力をつけると、1902年日本絵画協会と日本美術院の連合展に『金子家忠』を初出品し、三等褒状を受けたことで、半古から青邨の号をもらい受けたのでした。

わずか17歳で幸先よいスタートを切った青邨は、翌1903年にも内国勧業博覧会でも褒状を受けると、1年間国学院大の聴講生となって古典文学を学んだことは、のちの青邨の知識や教養の基になりました。そして1907年、 青年画家グループ「紅児会」に入り今村紫紅、安田靫彦、古径らの俊英とともに新しい歴史画の研究を推し進め、絵巻物になっている『御輿振り』(東京国立博物館蔵)は、青邨20代の代表作といわれています。

1914年 再興された日本美術院に参加し、第1回院展に『竹取物語』と『湯治場』を出品すると、たちまち評判となって会期中に古径とともに同人に推挙され、このころから個性的な感覚と、俯瞰図など画面構成の面白さが特に注目されるようになり、シリーズ『京都名所八題』など、院展の中心メンバーとなっていきます。

1922年からは、古径とともに1年間渡欧して見聞を広げたことがきっかけとなって、帰国後は相次いで秀作を発表。『羅馬使節』(1927年)や、青邨芸術のピークといわれる代表的大作『洞窟の頼朝』(1929年・大倉文化財団蔵)は、伊豆に挙兵した頼朝が、石橋山の戦いに敗れ、わずかな手勢で洞窟に逃れ、息を殺して外をうかがうシーンを描いた作品で、武者絵と鎧兜の精密な描写に優れ、第1回朝日文化賞を受賞しています。 (2010年に重要文化財に指定)

終戦後も、青邨の創作意欲は衰えず、1951年東京芸術大日本画科主任教授に就任して平山郁夫らを指導するかたわら、大和絵の伝統を軸に安井曽太郎をモデルにした『Y氏像』らの肖像、多くの『紅白梅図』や、歴史画にも新しい描き方に挑戦するなど作域をさらに広げていきました。1955年には文化勲章受賞。生誕地の中津川市には、青邨から寄贈された本画や下図などを展示する青邨記念館があります。


「10月27日にあった主なできごと」

1728年 クック誕生…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、オーストラリアやニュージーランドの探検・調査などさまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家のクックが生まれました。

1859年 吉田松陰死去…「松下村塾」を開き、高杉晋作、木戸孝允ら幕末に活躍した多くの志士を育て、「安政の大獄」で逮捕された長州藩(山口県)の学者吉田松陰が処刑されました。

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