児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年09月

今日9月30日は、映画『エデンの東』『理由なき反抗』『ジャイアンツ』の3作品の主役を演じ、ジミーの愛称で親しまれたジェームズ・ディーンが、1955年になぞに満ちた自動車事故により、24歳の若さで亡くなった日です。

1931年、インディアナ州マリオンに退役軍人病院の歯科技工士の子として生まれたジェームズ・ディーンは、幼いころから身体が弱く、そのため母親から過保護に育てられたために神経質な性格になったようです。その母が9歳の時に亡くなり、農場を営む伯母夫婦に預けられたことが、心に暗い影を落とすことになりました。

高校時代に演劇に興味をもち、地元のスピーチコンテストに優勝したのを機に役者の道を志し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の演劇科で本格的に演技を学びはじめました。舞台やコマーシャルなどに出演しますが、さらに俳優としてのキャリアを追い求めて大学を中退し、ニューヨークで1950年代のテレビ番組のいくつかに出演するものの、仕事のない日々が続きました。

しかし、1954年にブロードウェイの舞台『背徳者』で、アラブの青年役を演じて絶賛を浴びたことで、ジェームズに決定的なチャンスが訪れました。エリア・カザン監督は、スタインベックの小説『エデンの東』を映画化しようと主役を探していたところ、ジェームズを一目見て主役に決めたのです。こうして1955年の新作映画『エデンの東』の主役に抜擢されたジェームズは、父親の愛に飢え、反抗的で孤独感に打ちのめされた息子キャルを熱演すると、若者たちの熱狂的な支持を得て、一大センセーションを巻き起こし、いちやく人気スターに昇りつめました。

続く、同年に映画化されたニコラス・レイ監督の『理由なき反抗』でも、キャル役の延長ともいえる悩み多きティーン・エイジャーのジムを、個性的な演技力で見事に演じきりました。さらに翌1556年に公開される『ジャイアンツ』に出演し、ひねくれ者の牧童ジェット役を演じ切って、演技派俳優としての才能の片鱗を見せながらも、映画完成直前に原因不明の自動車事故にあい、24年の短い生涯を終えてしまいました。

こうしてジェームズは、彗星のようにあらわれ、彗星のように消えてしまいましたが、死後、青春の孤独・絶望・反逆のシンボルとして偶像化されたばかりか、1970年代半ばからは、再びジェームズ・ディーンに関する著作や映画が公開されました。また、屈折した心情、挫折感、死への願望といったテーマは、世界じゅうの青春映画に受け継がれています。


「9月30日にあった主なできごと」

1472年 王陽明誕生…中国が明とよばれていたころ、儒教の流れをくむ「朱子学」に対し、日常生活の中での実践を通して人の生きるべき道をもとめる「陽明学」という学問の大きな流れを作った思想家の王陽明が生まれました。

1913年 ディーゼル死去…空気を強く圧縮すると高い温度になります。この原理を応用して、空気を圧縮した筒のなかに液体の燃料を噴射して自然発火させ、爆発力でピストンを動かすエンジンを発明したディーゼルが亡くなりました。

1999年 東海村で臨界事故…茨城県東海村の核燃料施設で臨界事故が発生、至近距離で中性子線を浴びた作業員3名のうち、2名が死亡、1名が重症となったほか、667名の被曝者を出しました。

今日9月29日は、『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『大地の子』など、社会問題に鋭く切り込んだベストセラー小説を著した作家として知られる山崎豊子(やまざき とよこ)が、2013年に亡くなった日です。

1924年、大阪船場に老舗昆布屋の子として生まれた山崎(本名・杉本)豊子は、旧制相愛女学校をへて、1944年旧制京都女子専門学校(今の京都女子大学)国文学科を卒業後、毎日新聞大阪本社に入社しました。当時学芸副部長だった井上靖のもとで、記者としての訓練を受けました。

勤務のかたわら小説を書きはじめ、1957年に生家の昆布屋をモデルにした親子の物語『暖簾』を刊行して作家デビューを果たすと、翌年お笑い界をリードする吉本興業を創業した吉本せいをモデルに大阪芸能史を描いた『花のれん』により直木賞を受賞し、新聞社を退職して作家生活に入りました。その後、大阪の風俗に密着した『女系家族』『花紋』などを書き、特に道楽に走る足袋問屋の息子の放蕩や成長を描いた『ぼんち』は、市川雷蔵主演により映画化されて話題になりました。

転機となったのは、1963年から雑誌に連載を始めた『白い巨塔』でしょう。大学病院の現実を描きながら医学界の暗部や医療過誤問題に鋭いメスを入れるという社会性で話題を呼び、65年に単行本化され、田宮二郎主演で映画化されて大ヒット。その後も数回にわたってテレビドラマ化されています。

この作品以後も、現実にあった事件や社会問題を題材にした大作を次々に発表していきました。銀行を中心に政財官界の癒着をあばいた経済小説『華麗なる一族』、戦争3部作といわれる  �@ シベリア帰還兵の将校が商社マンとして国際商戦で闘うことを通し、戦争の非人間性などを訴える『不毛地帯』 �A 日系アメリカ人の悲劇を浮き彫りにした『二つの祖国』 �B 中国残留日本人孤児を描いた『大地の子』は、重厚な構成と人間ドラマが人気となりました。さらに、日本を代表する航空会社の腐敗や航空機事故を扱った『沈まぬ太陽』、沖縄返還交渉の密約報道事件を描いた『運命の人』を発表しました。

綿密な調査に基づく豊かな構成、大胆な脚色による大スケールの長編小説のほとんどは、映画やテレビドラマで映像化され話題になったことから、物議をかもしだされ、盗用が指摘されて訴訟に持ち込まれることがありました。しかし、そのどれも和解するか勝訴しています。

持前の好奇心と正義感あふれる取材力、骨太なエンターテイナーの88年の生涯でした。


「9月29日にあった主なできごと」

1801年 本居宣長死去…35年かけて完成させた『古事記』注釈の集大成『古事記伝』44巻など、数多くの古代日本を探る研究書を著した江戸時代中期の国学者・本居宣長が亡くなりました。

1805年 ネルソン死去…トラファルガル沖海戦で、フランス・スペイン連合艦隊をうちくだいたイギリス海軍の提督ネルソンが戦死しました。

今日9月26日は、イギリス出身でアメリカで活動した児童文学者・さし絵作家のロフティングが、1947年に亡くなった日です。

1886年、イングランド南東部のメイデンヘッドに、時計職人の子として生まれたヒュー・ロフティングは、少年時代から動物や昆虫が好きで、戸棚に小動物を飼って「ミニ動物園」を作ったりしました。8歳で、寄宿学校に入って18歳までここで生活し、1904年に渡米してマサチューセッツ工科大学へ入学しますが、翌年帰国してウエストミンスター大学へ編入後1907年に同校を卒業しました。米国やカナダで鉱山の測量、キューバや西アフリカの鉄道建設に従事後の1912年、アメリカ女性と結婚してニューヨークへ移り住み、イギリス情報省の駐在員のかたわら、新聞や雑誌に短編小説やコラムを投稿しました。

1916年にイギリス陸軍の志願兵となって、第一次世界大戦の西部戦線におもむいた際、自分の帰りを待つニューヨークに残した幼い2人の子どもに、自身が創作した動物の言葉が話せる町医師「ドリトル先生の物語」を毎日のように書き送りました。1917年、戦地で負傷して米国行きの船内で、ロフティングは、作家のセシル・ロバーツと知り合い、ロバーツは毎日ロフティングが、午後6時になると必ず船室へもどることに気づき、理由をたずねたところ、「ドリトル先生」に会いにいくと、『ドリトル先生』シリーズの原型となる物語の原稿とおもしろい挿絵を見せられました。感銘を受けたロバーツは出版社を紹介し、1920年に処女作『ドリトル先生アフリカゆき』が刊行されたのでした。物語は、こんなきっかけから展開します。

町医者のドリトル先生は、動物が大好きで、部屋じゅうにたくさんの動物を飼っています。ある日老婆が、待合室のソファで居眠りしていたハリネズミの上に腰かけてしまうといった騒動が続き、人間の患者は寄りつかなくなって、すっかり貧乏になってしまいました。そんなある日、アフリカ生まれのポリネシア(オウム)が先生に話しかけ、「動物の言葉を覚え、動物のお医者になりなさい」とアドバイスします。こうして動物言葉をマスターした先生の評判はたちまち国内外に広まり、急に忙しくなります。ある冬の晩、アフリカからツバメがやってきて、アフリカにいるサルたちがおおぜい病気にかかって苦しんでいるので、先生に来てほしいという使いでした。ドリトル先生は、すぐにダブダブ(アヒル)、ジップ(イヌ)、ガブガブ(小ブタ)たちをつれて出発。これが、抱腹絶倒・奇想天外な冒険のはじまりでした……。

コネチカット州へ転居したロフティングは児童文学作家として本格的に活動を開始し、1923年にシリーズ第2作『ドリトル先生航海記』でニューベリー賞を受賞すると、「サーカス」「キャラバン」「動物園」「庭園」など、つぎつぎと刊行し、高い人気を維持し続けました。しかし、マンネリを感じたロフティングは、1929年刊の第8巻『ドリトル先生月へゆく』でドリトル先生を月世界へ置き去りにしたまま完結しようとしました。ところが、多くの読者は納得せず、シリーズの再開を求める要望が殺到したために、1933年刊の第9巻『ドリトル先生月から帰る』でシリーズを再開し、「秘密の湖」「緑のカナリア」「楽しい家」まで、全12巻を残したのでした。


「9月26日にあった主なできごと」

1904年 小泉八雲死去…「耳なし芳一」「雪女」他を収録した『怪談』などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン) が亡くなりました。

1943年 木村栄死去…日本の天文観察技術の高さを世界に知らせた天文学者の木村栄が亡くなりました。

今日9月25日は、ヘミングウェイと並び「20世紀アメリカ文学の巨匠」と称されるフォークナーが、1897年に生まれた日です。

アメリカ南部ミシシッピ州のニューオールズバニーに、曽祖父が開業した地方鉄道の駅長の長男として生まれたウィリアム・フォークナーは、5歳のとき一家が同州の郡都オックスフォードに移り住み、以後生涯のほとんどをこの地で過ごしました。幼いころから、身内の人たちのおしゃべりを聞くのが好きで、とくに弁護士だった曽祖父が、南北戦争の際に義勇軍の隊長として出征し、戦後は議員になったり、小説や紀行を書いてベストセラーを連発するなど傑出した大物だった話を聞くのは大好きでした。

10歳の頃から詩作をはじめたものの、学校での勉強には興味が持てずに高校を1年で中退、第1次世界大戦末期にはカナダのイギリス空軍に入隊するものの休戦をむかえ、郷里にもどって特別学生としてミシシッピー大学に入学しました。しかし、ここも中退しますが、フィル・ストーンという4歳年上の法学生との交友により文学への関心が深まって、豊かな文学的教養を身につけることができたのは幸いでした。

1921年にミシシッピの郵便長となるものの、3年で離職して文筆活動に専念する決意を固め、1924年にストーンの尽力で第一詩集『大理石の牧神』を出版します。また、ストーンの勧めでヨーロッパ旅行を思い立ち、その準備のために滞在したニューオーリンズで、シャーウッド・アンダーソンと親しくなりました。そのつてで、この地の雑誌や新聞に作品を発表するいっぽう長編小説に着手し、1926年に帰還兵士の悲劇『兵士の報酬』を、翌27年に風刺的な長編『蚊』を刊行しました。

さらに、故郷をモデルにした架空の町を舞台に、南北戦争前の南部の華やかな時代に執着しながら、没落する南部人の人間模様と、アメリカ文明の暗黒面を描いた連作を発表するようになり、29年に『サートリス』を刊行、同年に代表作となる『響きと怒り』を完成させました。書き方にもさまざまな工夫をこらし、現代と過去を交錯させたり内的独白など、これまでにない手法に、読者はとまどったのでしょう。作品はあまり売れず、発表当時、ごく一部の批評家から賞賛を受けただけでした。

以後中短編とともに、『死の床に横たわって』(1930年)、『聖域』(1931年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)など、のちに傑作といわれる作品群を発表していくものの評価は相変わらずで、生活のためにハリウッド映画の脚本書きにたずさわるほどでした。

転機となったはマルカム・カウリーによって1946年に編まれた『フォークナー選』でした。この本によっていちやく注目されると、絶版になっていた著書が次々に復刊され、1949年にノーベル文学賞を受賞、1955年には日本を訪れ、井上光晴、大江健三郎、中上健次らに大きな影響を与えました。1962年に亡くなるまで精力的に作品を書き続け、最後の作品『自動車泥棒』は、没後の1969年に『華麗なる週末』として映画化されています。


「9月25日にあった主なできごと」

1829年 シーボルト国外追放…1年ほど前に、幕府禁制品とされていた日本地図などを国外に持ち出そうとしたこと(シーボルト事件)で、捕えられていたシーボルトが、国外追放・再渡航禁止処分となりました。

1936年 魯迅死去…20世紀初頭の旧中国のありかた・みにくさを鋭く批判した『狂人日記』『阿Q正伝』を著した魯迅が亡くなりました。

今日9月24日は、絵本作家・漫画家・エッセイストとしてユニークな作品を数多く発表し、「ナンセンスの神様」の異名を持った長新太(ちょう しんた)が、1927年に生まれた日です。

東京羽田に生まれた長新太(本名・鈴木しゅう治)は、蒲田に育ち、東京市立蒲田工業(今の都立一橋高)を卒業後に、空襲被害を受け、横浜市に移り住みました。戦後は、映画が好きだったことで映画館の看板かきの仕事をしていました。1948年、東京日日新聞の漫画コンクールに応募した「ロングスカート」が一等入選を機に同新聞社に入社すると、まもなく「長新太」のペンネームで、同紙に4コマ漫画『ロング狂』を連載するようになりました。

1955年に退社すると、本格的に作家活動を始め、1958年『がんばれさるのさらんくん』で絵本作家としてデビューをはたすと、1959年に発表した卵焼きの大好きな王様のユーモラスな作品『おしゃべりなたまごやき』(文・寺村輝夫)は、鮮やかな色彩を駆使した絵で、文芸春秋漫画賞を受けました。この作品は1974年に国際アンデルセン賞優良作品となったばかりか、続編として『ぞうのたまごのたまごやき』(小学館絵画賞) があります。

そのほか、文も絵も担当した『はるですよふくろうおばさん』で講談社出版文化賞絵本賞、『ぼくのくれよん』で厚生省児童福祉文化奨励賞、『キャベツくん』で絵本にっぽん大賞、『ゴムあたまポンたろう』で日本絵本賞を受賞するなど、他に類を見ないユニークな発想と画風で「長新太の世界」をつくりあげ、主だった賞を総なめにしています。

エッセーにも優れ、『海のビー玉』『キャベツだより』『長新太のチチンプイプイ旅行』『ユーモアの発見』など、この分野でもユニークな「長新太の世界」を大いに発揮しています。

2005年6月に亡くなりますが、この年に刊行した 『ないた』(作・中川ひろたか)も日本絵本賞大賞を受賞しています。


「9月24日にあった主なできごと」

1744年 石田梅岩死去…正直、倹約、堪忍という徳目をわかりやすく示し、町人の道を教える「心学」をはじめて説いた江戸時代中期の学者石田梅岩が亡くなりました。

1877年 西郷隆盛自刃…木戸孝允と大久保利通とともに倒幕・維新に尽力し「維新の三傑」の一人とうたわれた西郷隆盛は、士族(もと武士)たちの不満を解消させるために征韓論を主張しましたが、木戸、大久保らに反対されたため、明治政府の要職をすてて郷里鹿児島へかえりました。私塾を開いているうち、やがて下級士族たちにかつがれて8か月にわたる「西南戦争」をおこしました。西郷軍は政府軍と奮闘しましたが、最新式武装をした政府軍の力に及ばす、最期をさとった西郷は、たてこもった城山で腹心に介錯を頼み自刃しました。

1965年 みどりの窓口開設…国鉄(いまのJR)は、コンピューターを使った指定券発売の窓口「みどりの窓口」を全国152の主要駅と日本交通公社の83営業所に設置しました。これにより、長い時間待たされたり、ダブルブッキングがほとんど解消されました。

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