児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年08月

今日8月5日は、「20世紀最大の映画女優」「セックス・シンボル」といわれた映画女優のマリリン・モンローが、1962年に亡くなった日です。

1926年、アメリカの西海岸ロサンゼルスに私生児として生まれたマリリン・モンロー(本名 ノーマ・ジーン・モーテンソン)でしたが、母は娘を育てる余裕がなく、短期間いっしょに暮らしただけで知人の家に転々と預けられ、9歳のときに孤児院に引き取られました。

わずか16歳で最初の結婚をするものの2年で別れると、たまたま知り合ったカメラマンに写真をとられ、それが陸軍の機関誌に掲載されたことが、女優への道のきっかけとなりました。新進の写真家アンドレ・ディーンズにモデルとしての才能を見いだされると、ピンナップ・ガールが売物の雑誌に、髪をゴールデン・ブロンドに染めたマリリンは次第に人気を高めていきました。

マリリンの名が世界に知れるようになったのは、1953年の映画『ナイアガラ』で、ヒロインを演じてからでした。不倫相手と夫の殺害を計画する悪女役でしたが、肩の開いた赤いドレスで豊かな胸をのぞかせ、腰を振って歩く姿は「モンロー・ウォーク」といわれ、世の男性の注目を集めると、仕事が続々と舞い込み、『紳士は金髪がお好き』『百万長者と結婚する方法』も大ヒットして、いちやくトップスターの座に昇りつめます。1954年1月には、ニューヨーク・ヤンキースに所属し、最も知名度の高いプロ野球選手だったジョー・ディマジオと結婚すると、2月には読売ジャイアンツの招きもあって新婚旅行を兼ねて日本を訪れ、大歓迎を受けました。好奇な目で見つめる記者たちに「夜寝るときは何を身につけるか」と質問され、「シャネルの5番よ」(香水)といった名セリフはよく知られています。

もっとも名高い映画は、1955年に公開された『七年目の浮気』でしょう。地下鉄の通風口からの風でスカートがめくりあがるシーンは、「セックス・シンボル」としてのマリリンの人気を決定づけました。わずか9か月でディマジオと離婚すると、1956年には劇作家のアーサー・ミラーと結婚するものの、2度も流産を経験して精神的な不安定な状態が続き、睡眠薬を飲み過ぎて精神病院に入ったりしました。

それでも、1959年にはマリリンの最高傑作といわれるコメディ映画『お熱いのがお好き』が公開されますが、ハリウッドの体制になじむことができず、1961年にミラーと離婚するなど精神的に追い詰められ、1962年のこの日、ロサンゼルス郊外の自宅寝室で、自殺とも他殺ともつかぬ死体姿で発見されました。まだ36歳、人気絶頂にあっただけに、世界じゅうに衝撃がかけめぐりました。


「8月5日にあった主なできごと」

1864年 下関戦争…イギリス・フランス・オランダ・アメリカ4か国の連合艦隊が、長州藩(山口県)に戦争をいどみました。3日間の戦いの末に連合艦隊が完勝しました。攘夷の無謀さをはっきりと知った長州は、イギリスに接近し、欧米から新知識や技術を積極的に導入して、軍備を近代化していきました。同時期に近代化路線に転換した薩摩藩とともに、倒幕への道を一気に進むことになりました。

1895年 エンゲルス死去…マルクスと協力し、科学的社会主義を創始したドイツのエンゲルスが亡くなりました。

今日8月4日は、人情あふれる車寅次郎(フーテンの寅)を、27年間48作品に渡って演じた国民的スターの渥美清(あつみ きよし)が、1996年に亡くなった日です。

1928年、いまの東京上野に生まれた渥美清(本名・田所康雄)は、貧しく病弱な幼・少年時代をすごしました。そのため学校は欠席がちで、欠席の日は一日じゅうラジオを聞いて落語に興味を持ち、覚えた落語を学校で披露すると大変な評判になったとのちに語っています。1942年に巣鴨中学に入学したころは、不良少年として知られるようになり、学徒動員で板橋の軍需工場へかり出され、不良仲間の親分格として仲間を率いていたようです。

1945年3月の東京大空襲で自宅が被災して焼け出されると、終戦直後から上野に通い、テキ屋(独特の口上や芸で商う露天商)の手伝いや、チンピラ気取で闇屋の買い出し係をつとめたりしました。1946年、知り合いのつてで旅回りの軽演劇一座の幕引きとなり、やがて端役ながら舞台に立って喜劇役者の道を歩みました。いくつかの劇団を転々とした後、1953年、ストリップ劇場として有名な浅草フランス座専属になります。当時のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六らのちに第一線で活躍するコメディアンがおり、コント作家としては井上ひさしも出入りしていました。

ところが1954年、肺結核のため右肺を切除する大手術を受けました。約2年間の療養生活を経て復帰すると、フランス座での活躍が認められ、1958年『おトラさん大繁盛』での映画デビューにつづき、1959年『すいれん夫人とバラ娘』でテレビデビューをはたします。1961年からはNHKのバラエティー番組『夢であいましょう』やコメディ『若い季節』に出演するようになると、コメディアン渥美清の名は、いっきに全国に広まりました。やがて、映画『あいつばかりが何故もてる』『拝啓天皇陛下様』『喜劇列車シリーズ』『ブワナ・トシの歌』、フジテレビ連続ドラマ『大番』、TBSテレビドラマ『渥美清の泣いてたまるか』など、渥美を主人公にした作品がつぎつぎにヒットします。

そして1968年10月、フジテレビで山田洋次脚本のドラマ『男はつらいよ』が翌年3月までの半年間放送されると、渥美演じるユニークな寅は、爆発的な人気者となりました。渥美のテキ屋時代の思い出をヒントに生まれた作品でしたが、最終回で「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到します。脚本を書いた山田は、1969年に本人いわく「罪滅ぼしの意味も含めて」松竹で『男はつらいよ』の映画を公開します。これが予想に反し空前の大ヒットとなり、続く『続・男はつらいよ』も大好評で、以降、正月とお盆の季節に1作ずつ公開される人情喜劇としてシリーズ化され、1995年『男はつらいよ・寅次郎紅の花』まで、渥美は27年間48作にわたって「寅」を演じつづけました。まさに、「国民的映画」として日本じゅうの老若男女に親しまれ、映画シリーズとしては世界最多の作品として、ギネスブックにも載る記録をなしとげたのでした。


「8月4日にあった主なできごと」

1830年 吉田松陰誕生…佐久間象山らに学び、1857年に私塾「松下村塾」を主宰し、1859年の「安政の大獄」で刑死した長州藩士の吉田松陰が生まれました。松陰は、幕末から明治にかけて活躍した高杉晋作、伊藤博文らおよそ80人の門下生を育てました。

1875年 アンデルセン死去…『マッチうりの少女』『みにくいあひるの子』『人魚姫』など150編以上の童話を生み出し、「童話の王様」と讃えられるアンデルセンが亡くなりました。

1944年 アンネ一家逮捕される…『アンネの日記』を書いたドイツ系ユダヤ人アンネ・フランクの一家が、オランダ・アムステルダムの隠れ家に潜行生活中、ナチスの秘密警察ゲシュタボに逮捕されました。

今日8月1日は、船乗りとして波乱万丈の体験をたくさんの作品に残したアメリカの作家メルビルが、1819年に生まれた日です。

ニューヨークの裕福な輸入商の3男に生まれたハーマン・メルビルは、父の蔵書をよく読む少年でしたが、11歳のころに事業の失敗をきっかけに父が亡くなったため、学校を中退するとニューヨーク州立銀行で働きました。16歳で教員の資格を取って小学校の教員になったり、測量土木の技師を志したりするものの、父の借金に家計がひっぱくし、債権者の目から逃れるために夜逃げをすることもありました。

やむなく1839年にイギリス行の水夫になると、1840年、捕鯨船アクシュネット号の乗組員となって太平洋への航海に出ました。しかし、あまりのきびしい環境に嫌けがさし、船がマルキーズ諸島に寄港したとき仲間と脱走。食人種タイピー族に捕らえられて辛酸をなめながらも、オーストラリアの捕鯨船に救われ、タヒチ島で乗組員の暴動に巻きこまれてイギリス領事館に逮捕されるものの、ここも脱走してエイメオ島にのがれるなど、冒険に満ちみちた航海は、1843年4月にイギリス軍艦に救われてハワイへ到着するまで続きました。

同年8月、アメリカ海軍の水兵に採用され、翌1844年に帰郷すると、留守中に家計もよくなり兄たちも独立していて、暮らしに余裕ができたメルビルは、波乱万丈の体験をもとに、1845年に処女作『タイピー』を発表しました。翌年に続編として、主としてタヒチの貧しい人たちの暮らしぶりを描いた『オムー』を発表すると、野蛮といわれる人々の無垢な幸福と、堕落した西洋文明と対比されて注目をあびたことに自信をえて、作家生活に入りました。そして1851年、代表作『白鯨』を発表しました。この作品は、次のような内容です。

モビィ・ディックとあだ名される白いマッコウクジラに片足を食いちぎられたエイハブ船長は、復讐の鬼となって白鯨を追い、数年にわたる捜索の末、ついに日本近海の太平洋でモビィ・ディックを発見・追跡します。3日間の死闘の末、ついに船長はモリを白鯨の巨体に打ち込むことに成功しますが、白鯨に、船とともにも海底に引きずり込まれていくのでした……。

その後も、傑作と評価の高い、人間の心の深淵を掘り下げる『ピエール』、無垢な水夫の物語『ビリー・バッド』などたくさんの作品を残すものの、ごく一部の人たちに評価されただけで生活に困り、ニューヨークの税官吏として1891年に亡くなりました。

ところが、死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこり、レイモンド・ウィーバが『ハーマン・メルビル 航海者にして神秘家』が発表されると、いちやく評価が高まり、『メルビル著作集』全16巻の刊行、『白鯨』がグレゴリー・ペック主演で映画化されるなど、アメリカを代表する文学者として世界じゅうに知れわたり、『白鯨』は、世界10大小説に数えられるほどになりました。


「8月1日にあった主なできごと」

1590年 家康江戸城へ…豊臣秀吉から関東4国をもらった徳川家康が、太田道灌の建てた江戸城へ入城。粗末だった城を、じょじょに様式のある城に整えていきました。

1931年 初のトーキー映画…これまでの日本映画はサイレント映画で、スクリーンの横に弁士がついてストーリーを語るものでしたが、初のトーキー映画『マダムと女房』(五所平之助監督) が封切られました。

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