児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年08月

今日8月12日は、『SUKIYAKI(すきやき)』と改題されて世界的に大ヒットした『上を向いて歩こう』をはじめ、『見上げてごらん夜の星を』『幸せなら手をたたこう』など数多くのヒット曲を送り出した歌手、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など「九ちゃん」の愛称で親しまれた坂本九(さかもと きゅう)が、1985年の日本航空123便墜落事故にまきこまれて亡くなった日です。

1941年、川崎市の荷役請負業の第9子として生まれた坂本九は、母の実家のある茨城県笠間市に疎開して幼年期を過ごしました。小学校から川崎市にもどり、日大横浜学園中学・高校に進学します。高校時代に両親が離婚したため、下の兄弟たちは母親に引き取られ大島姓になりましたが、その前後からエルビス・プレスリーにあこがれ、芸能界入りを志すようになって高校を休学、ウェスタン・バンド「ドリフターズ」のバンドボーイとして、ジャズ喫茶や進駐軍のキャンプまわりをはじめました。

1958年5月、日劇の「ウェスタン・カーニバル」で坂本九の芸名で歌手デビューをはたすと、やがて「ダニー飯田とパラダイス・キング」のボーカルとしてアメリカンポップスを歌っていましたが、1960年8月に発売した『悲しき六十才』が10万枚のヒットとなり、つづく『ステキなタイミング』もヒットしていちやく人気歌手となりました。

坂本九の運命を変えたのは、何といっても『上を向いて歩こう』でしょう。この曲は、1961年にNHKの人気番組「夢であいましょう」の今月の歌として紹介されたもので、九が歌うと大ヒットし、永六輔作詞・中村八大作曲・坂本九歌唱の「六・八・九トリオ」といわれ、多くの曲を生み出しました。とくに『上を向いて歩こう』は、1963年に『SUKIYAKI』のタイトルでアメリカで発売されるや、アメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌「ビルボード」で、3週連続1位を獲得しただけでなく、1964年に米国内でのレコード販売枚数が100万枚を超えてアジア初の「ゴールドディスク」を受賞しました。歌ばかりでなく、俳優や司会者などでも人気者になった九は、1971年に女優の柏木由紀子と結婚し、二人の娘に恵まれ、長女の大島花子は歌手として活躍しています。

その後も、ミュージカや芝居、テレビにと楽しいおしゃべりと感動的な歌で大活躍をつづけるいっぽう、「あゆみの箱」運動、手話を広げる運動、チャリティコンサートに無報酬で出演するなど、福祉活動に力を貸してきただけに、やさしさに満ち溢れた九の突然の死は、航空事故最悪の520人死亡という惨事とともに、多くの日本人の心に忘れられない記憶を残しました。


「8月12日にあった主なできごと」

1643年 俵屋宗達死去…江戸時代の日本画の最高けっ作といわれる『風神雷神図』 などを描いた江戸時代初期の画家の俵屋宗達が亡くなりました。

1893年 「君が代」「日の丸」制定…「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 太平洋単独横断…堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の単独太平洋横断に成功しました。

1985年 日航ジャンボ機墜落…日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。
 
 
* 13日から夏季休暇のため、次回は18日となります。

今日8月11日は、織田信長、豊臣秀吉に従い、大和郡山城主となった武将の筒井順慶(つつい じゅんけい)1584年に亡くなった日です。

1549年、大和国(今の奈良県)の戦国大名の子として筒井城に生まれた筒井順慶(幼名・藤勝)は、父の病死により、わずか2歳で家督を継ぎました。当時の大和は松永久秀が隆盛を極めており、1564年に後見人だった叔父が亡くなると、松永軍に攻め込まれ、筒井城を追われてしまいました。

1566年、順慶は反撃を開始し一時は筒井城を奪還するものの、台頭してきた織田信長に近づいて勢力を強めた久秀に敗れて、大和国や河内国(今の大阪)を流浪しながら、興福寺宗徒となるなど、久秀と渡り合うための布石を打っていきます。そして1571年8月、久秀軍と大規模な合戦に挑み、順慶はふたたび筒井城を奪還することに成功しました。

1574年ころには織田信長と近づき、信長と久秀の間が不和になるにしたがって、大和における立場を逆転します。1576年信貴山城で久秀を破った手柄により大和一国を与えられ、1580年には大和郡山城を築きました。同年、信長の命により大和郡山城以外の城をすべて破却し、大和一帯の検地を、上使の明智光秀とともに尽力しました。その功により、郡山城を引き渡され、改めて大和一国の城主を確認されました。

1582年6月、光秀が信長を討った「本能寺の変」がおこり、まもなく秀吉が光秀を破る「山崎の戦い」がはじまり、順慶は「洞(ほら)ヶ峠」(大阪と京都との府境)に陣をとって戦況を見守って、光秀の援助要請に応じませんでした。そのため、「洞ヶ峠の順慶」といわれ、二股をかけて有利なほうに味方をすることを「洞ヶ峠」という故事が生まれました。しかし、日和見主義の代名詞として後世に用いられた事実はなく、順慶は茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人で、仏教への信仰も厚く大和の寺院を手厚く保護したといわれています。


「8月11日にあった主なできごと」

1338年 室町幕府誕生…足利尊氏は、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。いっぽう、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を建てて、その正当性を主張していました。そのため、政権としての室町幕府はなかなか安定せず、3代将軍足利義満の時代になって、ようやく機構的な体裁が整いました。

1892年 吉川英治誕生…『宮本武蔵』『新・平家物語』『新書太閤記』など人生を深く見つめる大衆文芸作品を数多く生み出して、国民的作家として高く評価されている吉川英治が生まれました。

1919年 カーネギー死去…「鋼鉄王」とよばれた大実業家であり、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが亡くなりました。

今日8月8日は、日本楽器製造(現・ヤマハ)を創業し、洋楽器の国産化に尽くした山葉寅楠(やまは とらくす)が、1916年に亡くなった日です。

1851年、紀州(和歌山)藩士の子として和歌山城下に生まれ山葉寅楠は、父が天文係を務めていたこともあり、幼少のころから父の器具や機械に触れたことで機械に関心を持つようになりました。明治維新後の1871年、長崎に出て英国人のもとで時計の修繕法を学び、その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働きはじめました。1884年に浜松支店に移ると、医療器具の修理だけではなく、時計をはじめとした機械器具全般の修理を請け負うようになります。

そんなある日、浜松尋常小学校からオルガン修理の依頼がきました。小学校教育に唱歌が必須科目となり、購入した高価な輸入オルガンが突然鳴らなくなったというのです。オルガンを慎重に分解して修理をした寅楠は、その構造を図面に写すと、オルガンの国産化を決意しました。飾り職人(貴金属加工職人)の河合喜三郎と協同してオルガンの製作に取りかかり、ありあわせの材料を使って2か月後、国産第1号となるオルガンを完成させました。それを音楽教育の総本山である音楽取調所(のちの東京芸大音楽部)へ持ちこむことにしました。鉄道のない時代です。二人は、東京までの250kmを天秤棒でオルガンをかついで運び、音楽取調所の伊沢修二(のちに芸大初代学長)に審査をたのみました。

ところが、「調律が不正確で、使用できない」といわれてしまいました。正式に音楽を学んだことのなかった寅楠には、音階の知識がなかったためでした。寅楠の情熱にうたれた伊沢は、寅楠に1か月間音楽理論を教えてくれました。浜松にもどって再挑戦し、完成したオルガン第2号を試奏した伊沢は「前回の欠点はすべて修正された。舶来に代わる」と高く評価したのです。──これがヤマハオルガン誕生の瞬間でした。

1889年に山葉風琴(ふうきん)製造所を設立。1891年には河合喜三郎らと共同で山葉楽器製造所を設立、1897年には製造所を「日本楽器製造」に改組して初代社長となったばかりか、同年にはピアノの国産化にも成功し、日本の音楽教育に大きな功績を残しました。

なお、現在の「ヤマハ」は、1987年に「日本楽器製造創業100年」を記念して、社名変更されたものです。


「8月8日にあった主なできごと」

1506年 雪舟死去…日本水墨画の大成者として知られる室町時代の画僧・雪舟が亡くなりました。

1962年 柳田国男死去… 『遠野物語』『雪国の春』『海南小記』などを著し、日本民俗学を樹立した柳田国男が亡くなりました。

1973年 金大中事件…韓国の政治家で、後に第15代韓国大統領となる金大中が、宿泊している東京のホテルから拉致される事件がおこりました。5日後、ソウル市内の自宅前で発見されました。

今日8月7日は、オリンピックのマラソン史上初の2大会連続優勝を果たしたエチオピアのアベベが、1932年に生まれた日です。

エチオピアの貧しい農家に生まれたアベベ・ビキラは、小学校に1年通っただけで家業の手伝いをしました。19歳の時、貧しさから抜け出そうと皇帝の親衛隊に入り、首都アディスアベバの部隊で訓練を受けるうち、初めて陸上競技にであいました。足の速さが上官から注目されるようになると、1957年5月の陸上競技大会に出場し、マラソンで2位に入賞したことで、ローマオリンピックの陸上強化選手に選ばれます。スウェーデン出身の専任コーチのニスカネンのもとで科学的な練習を重ね、同年7月のローマオリンピックの国内予選会でも2位となり、マラソン代表に選出されました。

1960年9月、ローマオリンピックのマラソンがはじまったとき、観客はアベベが裸足(はだし)で走っているのにびっくりしました。さらにびっくりしたのは、そのアベベが15kmを過ぎると先頭集団に入り、30kmでトップに出たことでした。「あれは何者だ」という声が沿道からあがり、プロフィールにもほとんど記載のないアベベが、ゴールのコンスタンティヌス凱旋門に入ってきたときは、世界各国の報道関係者を騒然とさせました。当時の世界最高記録となる2時間15分16秒2で優勝したアベベは、ゴール後も平然と「余力はある。もっと走れといわれれば、まだ20kmぐらい走れる」と語り、いちやく「裸足の王者」として、世界じゅうにその名をとどろかせました。

そして4年後の1964年10月21日、アジア初の東京オリンピックのフィナーレを飾るマラソンが始まりました。68人の選手が代々木の国立競技場をスタートします。アベベは前回と違って、世界じゅうから注目が集まっていましたが、競技場を出たときは最下位でした。ところが、10kmあたりでトップグループに入ると、20km付近からは独走態勢に入り、当時の世界最高記録を1分44秒もちぢめる2時間12分11秒2の世界最高記録で再び金メダルを獲得しました。マラソン種目での二連覇はアベベが初の快挙だっただけでなく、それ以後のオリンピックのマラソンで世界最高記録を樹立したランナーは出ていません。アベベはゴール後に整理体操をはじめ、7万人の観衆を驚かせたのでした。苦しそうな表情をまったく見せず、淡々と走る姿から「走る哲人」といわれ、後にアベベは「まだあと10kmは走れた」と語っています。

その後のアベベは、体調の悪さからメキシコ五輪で途中棄権してから半年後の1969年、自動車事故で下半身不随となってしまいました。その後パラリンピックに出場して話題となりましたが、4年間の車いす生活の末、1973年10月、41年の生涯を閉じました。


「8月7日にあった主なできごと」

1831年 十返舎一九死去…弥次郎兵衛と喜多八(やじさん・きたさん)の旅行記『東海道中膝栗毛』などで知られる江戸時代後期の戯作者・十返舎一九が亡くなりました。

1941年 タゴール死去…『ギーターンジャリ』の詩でアジア初のノーベル文学賞を受賞し、東洋最大の詩人と讃えられたタゴールが亡くなりました。

1942年 ガナルカナル島の戦い…アメリカ軍の海兵隊が西太平洋ソロモン諸島のガナルカナル島とツラギ島に上陸し、日本軍との戦いがはじまりました。激しい闘いのすえ日本軍は21日までにほぼ壊滅し、ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘といわれています。

今日8月6日は、シビル・ハン国(西シベリア)を滅ぼしてモスクワ公国の領土とするものの、志なかばに倒れたロシアの伝説的英雄エルマークが、1585年に亡くなった日です。

エルマークは、ロシアの辺境開発や防備に活躍していた屯田兵(兵士にもなる農民)として知られるコサックでしたが、ボルガ川上流を航行する船を襲う「略奪コサックの首領」として知られるまでの経歴は、まったく不明です。

当時、ロシア帝国形成の中心となるモスクワ公国は、オビ地方の開発を進めていて、15世紀から勃興した大地主のストロガノフ家は、ウラル地区の製塩業・鉱山業を中心に勢力を広げた商工業者でもありました。イワン4世(雷帝)の特許状を得て、シベリア開発を本格的に着手したたストロガノフ家は、1577年ころからエルマークらたくさんのコサックを雇い入れ、カマ川上流の要塞に派遣して、敵対するシビル・ハン国から同家の領地を守る仕事に就かせました。

そして1581年、同家より派遣された「シベリア遠征隊」の隊長に抜てきされたエルマークは、1600名(3000名説もある)を引き連れ、ウラル山脈を越えて迎えうつシビル・ハン国軍を「イルトゥイシ河畔の戦い」で激戦のすえに打ち破り、翌82年にはハン国の首都シビルを占領、征服地をイワン4世に献じてその援助を求めました。しかしエルマークは、援軍がくる前に夜襲を受けて負傷し、イルトゥイシ河支流に追いつめられて溺死してしまいました。

のちにエルマークの大遠征は、ロシア民謡に「シベリアの聖者」としてあがめられ、戯曲にもなっています。


「8月6日にあった主なできごと」

1660年 ベラスケス死去…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが亡くなりました。

1881年 フレミング誕生…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが生まれました。

1945年 広島に原爆投下…アメリカ空軍B29爆撃機が、人類史上はじめて原子爆弾を広島市に投下しました。爆心地から半径500m以内の人々はほとんどが即死、2km以内の建物は全壊、爆発とそののちの火災で、市内95000戸の9割が灰となりました。市民およそ31万人のうち、罹災者は17万人をこえ、死者および行方不明者92000人以上、重軽傷者123000人以上と、日本占領軍総司令部(GHQ)は翌年発表しましたが、じっさいの死者は1945末までに14万人をこえていたといわれます。

↑このページのトップヘ