児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年08月

今日8月22日は、司法の官僚政治家として検事総長、大審院長を歴任後、右翼団体「国本社」を結成して政界の黒幕的存在となり、内閣総理大臣も務めた平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)が、1952年に亡くなった日です。

1867年、美作国(岡山県)津山藩士の子として津山城下に生まれた平沼騏一郎は、1872年に上京して同郷の洋学者箕作秋坪が主宰する三叉(さんさ)学舎で英語や算術を学び、大学予備門を経て1888年帝国大学法学部を卒業、司法省に入りました。

順調に出世し、注目されたのは1910年におきた「大逆事件」のとき、今の最高裁にあたる大審院検事として裁判の総指揮にあたったときです。この事件(幸徳事件)は、明治天皇の爆殺を計画していたという理由で26名の社会主義者が逮捕され、翌年幸徳秋水ら12名が死刑となりましたが、政府主導で社会主義者根絶をねらったねつ造事件といわれています。 以後の平沼は、1912年検事総長、1922年大審院長をへて、1923年には第2次山本権兵衛内閣で司法大臣となって、司法界の第一人者にのぼりつめました。

1924年には、摂政(昭和天皇)狙撃未遂事件(虎ノ門事件)に大きな衝撃を受けて、右翼団体「国本社」を結成しました。軍人、財界人、官僚、学者などを主な会員とした組織で、社会主義運動の高まりに対抗したものでしたが、まさに「日本ファシズムの総本山」ともいえる団体になっていきました。会長の平沼は、しだいに政界の黒幕的な存在となり、1936年に枢密院(重要な国務につき天皇の相談に答える合議制機関)の議長に任ぜられたのを機に会長をやめるまで続きました。

1939年1月には、第35代内閣総理大臣となって日独伊三国同盟の推進と戦時体制の強化をはかりますが、満州と外モンゴルの国境に近いノモンハンで日ソ両軍が武力衝突して交戦中(ノモンハン事件)に、日本と防共協定を結んでいたドイツが、ソ連と不可侵条約を結んだことで「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残し、わずか7か月で総辞職しました。太平洋戦争の末期に、近衛文麿、岡田啓介、若槻礼次郎らと東条英機批判派として戦時下の重臣会議をリードし、ポツダム宣言受諾への道筋をこしらえたことは評価されています。

敗戦後の1945年12月、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定されて巣鴨刑務所に収監され、1948年に終身禁固刑の判決を受け、服役中に病死しました。徹底した国体擁護論者、日本主義者としての生涯でした。


「8月22日にあった主なできごと」

1358年 足利義満誕生…室町幕府第3代将軍で、南北朝の合一を果たし、「金閣寺」を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた足利義満が生れました。

1910年 日韓併合…日本は明治のはじめころから、朝鮮半島を勢力範囲にしようと乗りだしていましたが、日清戦争・日露戦争に勝利してから、じょじょに植民地化していました。やがて軍事、外交、警察権を奪い内政にまで干渉するようになったことに対し、反日運動が強まり、1909年に初代統監となった伊藤博文射殺事件がおきました。日本政府はこれを期に、朝鮮政府に圧力をかけ、日韓併合の条約に調印をさせました。

1943年 島崎藤村死去…詩集『若菜集』『落梅集』で、近代詩に新しい道を開き、のちに『破戒』や『夜明け前』などを著した作家の島崎藤村が亡くなりました。

1981年 向田邦子死去…『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』『阿修羅のごとく』などのテレビドラマ脚本家、『父の詫び状』などのエッセイスト、作家としても活躍した向田邦子が取材中、台湾・遠東航空機墜落事故で亡くなった日です。

今日8月21日は、『フランス史』『フランス革命史』などを著し、歴史における民衆の役割を高く評価したフランスの歴史家ミシュレが、1798年に生まれた日です。

パリの零細な印刷業者の子に生まれたジュール・ミシュレは、幼少年期を、父の仕事を手伝いながらうす暗い地下室で勉強に励みました。1810年にはナポレオンが印刷統制制度を発表したため、父が廃業を決意したことで極貧生活を強いられるものの懸命に学び、21歳で新設したばかりの教授資格試験に合格しました。

1827年、エコール・ノルマル(高等師範学校)の歴史と哲学の教授につくと、近代歴史哲学の先駆といわれるイタリア人ヴィーコのフランス語訳をするうちにその歴史論・哲学の影響を強く受けます。1830年の七月革命を境として自由主義に転じると、1831年に国立古文書館の歴史部長、1834年には『ヨーロッパ文明史』で名高いギゾーの後任としてソルボンヌ大学の教授となると、以後24年をかけて完成する『フランス史』(全17巻)の執筆を開始しました。

1838年から、コレージュ・ド・フランスで教鞭をとるうちに、民主主義的になり、保守化した当時の支配者ルイ・フィリップや、体制側のギゾー批判を行うようになります。そして1847年から執筆しはじめた『フランス革命史』(全7巻)では、イエズス会の教育方針を批判し、常に国民の側に立って、これまで注目されなかった民衆の役割を重要視したことで、「二月革命」が1848年に起きると、これを熱狂的に支持しました。

ところが革命は挫折し、1851年のクーデターによって権力を握ったルイ・ナポレオンが、ナポレオン3世として即位すると、その宣誓を拒否したことで弾圧を受け、コレージュ・ド・フランスの教授の地位を追放されてしまいました。しかし、民衆の役割を中心としたミシュレの歴史感は、以後の歴史科学のもっとも重要な視点とされ、ヨーロッパじゅうの共和派の青年層に大きな影響を与えました。

晩年の散文詩的4点シリーズ『鳥』『昆虫』『海』『山』、心のシリーズ『愛』『女』や中世の魔女を評価した『魔女』なども高く評価され、今も読みつがれています。また、『フランス史』第7巻の中で、フランスのルネサンス(フランソワ1世以降)について記述し、これは「ルネサンス」という用語を学問的に使用した最初の例とされています。


「8月21日にあった主なできごと」

1862年 生麦事件…今の横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩の島津久光一行の前を4人のイギリス人が乗馬のまま横切ったことで、一部の藩士が4人を殺傷、これが原因で、翌年8月に薩英戦争がおこりました。

1911年 「モナリザ」盗難…パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。

今日8月20日は、マラリヤ、結核、梅毒、ジフテリアなどさまざまな病原体を研究するうち、「化学療法」「特効薬」という概念を考え出したドイツの細菌学者・生化学者エールリヒが、1915年に亡くなった日です。

1854年、ドイツ(現在はポーランド)のブレセラウに化学や医者など学者の家系に生まれたパウル・エールリヒは、ライプツィヒ大学の医学生だったころから細菌を染料で染めて顕微鏡で調べる研究をするうち、染料により細菌がよく染まるものとそうでないものがあることに気づきます。そこで、殺菌性のある染料を作れば、細菌を殺して病気を治すことができると学術論文に記しました。

ストラスブール大学やベルリン大学などいくつかの大学で医学を修めた後、ベルリンのシャリテー病院の助手をへて、1889年にベルリン大学内科学の講師になります。その後1891年にコッホの伝染病研究所助教授となると、青い色素のひとつメチレンブルーが、マラリア原虫によく効くことを発見しました。ところが、免疫血清を研究中に結核菌の染色法を開発したところ結核に感染し、転地療養のため2年間をエジプトで過ごしました。

帰国後、1899年にフランクフルトの実験治療研究所所長となると、血液や免疫学の研究を行い、1907年には日本からの留学生の志賀潔と共同で初の化学療法剤トリパンロートを開発し、熱帯性眠り病に有効であることを証明しました。しかし、この化合物は毒性が強いため、その構造をいろいろ変えて、毒性の少ない化合物に替えるうち、1910年日本人留学生の秦佐八郎とともに606番目に作った化合物で梅毒によく効く「サルバルサン」を発見し、化学療法の道を開きました。

なおエールリヒは、免疫現象を研究するうち、抗体反応を理論づけた「側鎖説」を発表し、1908年にノーベル生理・医学賞を受けています。


「8月20日にあった主なできごと」

1241年 藤原定家死去…「小倉百人一首」の編さんや、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ「新古今和歌集」を編さんした鎌倉時代の歌人の藤原定家が亡くなりました。

1839年 高杉晋作誕生…吉田松陰の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士の高杉晋作が生まれました。

1988年 イラ・イラ戦争停戦…1980年ペルシャ湾岸地域を優位に支配しようとするイラクのフセイン大統領が、革命後の不安定なイランへ攻撃を開始して、イラン・イラク戦争(イラ・イラ戦争)が始まりました。一進一退のくりかえしだったため、国連の即時停戦の要請を受けて、停戦が実現しました。双方の犠牲者は100万人を超えたといわれています。

今日8月19日は、鼠のように身軽に盗みを働いたことから鼠小僧(ねずみこぞう)といわれ、武家屋敷専門に荒らした次郎吉(じろきち)が、1832年に小塚原で処刑された日です。

1797年、歌舞伎・中村座の木戸番の子として、今の日本橋人形町に生まれた次郎吉は、10歳前後で建具職人の家へ奉公に上がり、16歳で鳶職となるものの長続きせず、職を転々としました。やがて博打をおぼえるうちに小遣い銭にも困り、1823年ごろから武家屋敷に忍びこむようになり、1825年に土浦藩上屋敷に忍びこんだところを捕まりました。

武家屋敷をねらったのは、被害にあっても届け出れば「盗賊などにやられるとは不届き」とおとがめを受ける可能性があるためで、身のこなしが軽く、人を傷つけることなく、足のつかない現金だけをねらいました。南町奉行の尋問を受けるものの「初めて盗みに入った」とうそをついて切り抜け、入墨を入れられた上での追放の刑を受けました。

十両盗めば首が飛ぶ時代にこの刑は、やはり被害届が出ていなかったためでしょう。しかし彼はこれで足を洗うことなく、更に盗みを続け、とうとう1832年5月、浜町の松平宮内少輔の屋敷に忍びこんだところを、夜番の武士にあっけなく捕まりました。

北町奉行の取調べに対する自白によると、10年間に荒らした屋敷は99か所120回、盗んだ金3120両。なぜ武家屋敷をねらったかとの問いには、「警戒は厳重にみえても、奥向きの警備は女中のみで手薄だったから」と答えたそうです。

裁定通り、3か月後のこの日に市中引き回しの上、小塚原でさらし首となった鼠小僧次郎吉ですが、死後に小説・講談・芝居の題材に取り上げられ、大名屋敷から盗んだ金は自ら使わず、貧乏人に分け与える「義賊」として描かれ、幕末から明治にかけて英雄視されるようになりました。やがて、両国・回向院にある次郎吉墓の墓石を削ってお守りに持つと縁起がよいという風習が生まれ、「賭けごとに勝つ」「運がつく」などともに、受験生などには「するりと入れる」ご利益があるといわれるようになりました。そのため今では、墓前に欠き取り用の墓石が置かれています。


「8月19日にあった主なできごと」

1662年 パスカル死去…液体の圧力に関する「パスカルの法則」や、随想録『パンセ』の著書で有名な物理学者・哲学者のパスカルが亡くなりました。

1937年 北一輝死刑…陸軍青年将校たちのおこした「2.26事件」の理論的指導者(皇道派)として、反対派(統制派)陸軍中枢部に軍法会議にかけられた国家主義者の北一輝が、死刑になりました。皮肉なことに以後の日本は皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいきました。

今日8月18日は、大正時代の紡績工場で働く女工の実態を記録した『女工哀史』などを著した作家の細井和喜蔵(ほそい わきぞう)が、1925年に亡くなった日です。

1897年、京都府に生まれた細井和喜蔵は、幼いときに両親の離婚や母の自殺にあい、家庭的にも経済的にもめぐまれない幼少年期を送りました。小学5年のとき、たったひとりの保護者だった祖母にも死なれ、学校を中退して近くの機屋の住み込み工員になりました。その後、いろいろと職場を変えますが、当時の工業労働者はどこも、低賃金で長時間労働、身分保障もない悲惨なものでした。

1916年に大阪に出て、紡績工場に勤めながら草創期の労働組合に参加するようになります。機械に左手の小指をつぶされながらも、職工学校でキリスト教や社会主義に接するうち、友愛会という組合に入会したために職場を追われ、1920年に上京します。亀戸の紡績工場に勤めながら、雑誌「種蒔く人」グループの人たちと知り合い、人間らしい生活を求めて文学の道を志し、小説や詩、戯曲などを雑誌に発表。まもなく、女工をしていた高井としをと結婚しました。

そして1924年、藤森成吉のあっせんで紡績工場の現実をルポルタージュにした『女工哀史』を雑誌「改造」に発表して注目を浴び、翌年単行本として改造社から刊行されると大ベストセラーになりました。細井の長い職場経験に基づくリアルな観察、妻としをの職場経験、妻との討論などが生かされ、今も当時の女工の実態を知るうえで貴重な資料になっています。

ところが細井は、長時間労働後に執筆活動を続けたことで身体をこわし、刊行2か月後に急死してしまいました。没後まもなく小説『奴隷』『工場』が出版され、のちに全集にまとめられました。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、細井の作品2点を読むことができます。


「8月18日にあった主なできごと」

1598年 豊臣秀吉死去…織田信長の後をついで天下統一を果たし、絢爛豪華な安土桃山時代を築いた武将豊臣秀吉が亡くなりました。

1850年 バルザック死去…『谷間の百合』や『ゴリオ爺さん』など、「人間喜劇」と名づけた作品群を遺したフランスの作家バルザックが亡くなりました。

1930年 細君譲渡騒動…作家の谷崎潤一郎と、その妻千代子が離婚し、谷崎の友人の作家佐藤春夫が千代子と再婚するという細君譲渡騒動がおきました。このことを書いた挨拶状が関係者に送られたため、一大センセーションがまきおこりました。

1949年 フジヤマの飛び魚…ロサンゼルスで開かれた全米水上選手権大会に出場した古橋広之進は、1500mと400m自由形他で世界新記録を連発。アメリカの新聞は「フジヤマの飛び魚」とたたえ、敗戦でうち沈んでいた日本人を勇気づけました。

1966年 中国文化大革命…中国の首都北京で、中学生や大学生を中心とする紅衛兵100万人が文化大革命の勝利を祝う大集会を開きました。この文化大革命運動は、共産党内の反毛沢東分子や親ソ連派を「資本主義の復活をはかる実務派」として打倒、翌年4月の九全大会で、毛沢東、林彪路線を確定することになりました。

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