児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年08月

今日8月29日は、大正・昭和期に、日本のマルクス経済学の一大グループをリードし、統計制度や社会保障制度の整備に尽力した大内兵衛(おおうち ひょうえ)が、1888年に生まれた日です。

兵庫県淡路島に生まれた大内兵衛は、旧制洲本中学、第五高校(熊本)を経て、1913年東京帝国大学経済学科を首席で卒業すると、大蔵省に入って書記官をつとめましたが、1919年に、新設されたばかりの東大経済学部助教授として財政学を担当しました。

ところが1920年、大内が編集責任をする経済学部機関誌『経済学研究』に、森戸辰男がロシアの無政府主義者クロポトキンに関する研究を発表したところ、学内の右翼団体から攻撃を受けて、雑誌が回収処分となっただけでなく、新聞紙法違反として森戸は起訴・休職処分となり、大内も連座責任を問われて失職しました(森戸事件)。

私費でヨーロッパ留学後の1922年、多くの学生や大山郁夫、吉野作造ら文化人に支えられて同大経済学部に復職しましたが、1938年には「教授グループ事件」(人民戦線事件)という、共産主義インターナショナルの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応して、日本で人民戦線の結成を企てたとして労農派系の大学教授・学者グループが一斉に検挙された事件で検挙されるなど多難でしたが、1949年の定年まで財政学を講じつづけ、向坂(さきさか)逸郎や有沢広巳ら弟子たちとともに、日本のマルクス経済学の一大グループを形成しました。

退官後は、1950年より1959年まで法政大学総長をつとめ、そのかたわら、統計制度や社会保障制度の整備に尽力し、憲法改正反対運動や平和運動でも活躍しました。主著『経済学大綱』のほか多くの経済書、アダム・スミス『国富論』などの翻訳のほか、平明な文章を綴る随筆家としても知られています。


「8月29日にあった主なできごと」

1708年 シドッチ屋久島へ上陸…イタリア人宣教師シドッチが屋久島に上陸。鎖国中だったため捕えられて江戸に送られ、新井白石の訊問を受け幽閉されましたが、このときのやりとりは後に『西洋紀聞』にまとめられました。

1862年 メーテルリンク誕生…『青い鳥』などの劇作家・エッセイスト・詩人で、ノーベル文学賞を受賞したメーテルリンクが生まれました。

1929年 ツェッペリング号世界一周…全長236mものドイツの飛行船ツェッペリング号は、約12日間かけて世界一周に成功しました。しかし飛行船は、実用的には飛行機にかなわず、現在では、遅い速度や人目につきやすい特長をいかして、広告宣伝用として使われています。

今日8月28日は、江戸幕府前期の将軍 3代家光・4代家綱をささえ、大老として5代綱吉初期の政治を主導した堀田正俊(ほった まさとし)が、1684年に亡くなった日です。

1634年、江戸幕府第3代将軍徳川家光の腹心だった武蔵国川越城主・堀田正盛の子として生まれた正俊は、1635年に家光の乳母にあたる春日局の養子となります。1641年、家光の嫡男竹千代(のちの徳川家綱)の小姓に任じられると、1643年、家光の命により、春日局の遺領3000石を相続しました。

1651年、家光の死去にともない父正盛が殉死すると、下野新田1万石が加増され、守谷城1万3000石の大名となると、下備中守に叙任されました。4代将軍家綱の時代になっても順調に昇進し、1656年に稲葉正則の娘と結婚すると、正則の後見を受けて、1660年には老中を補佐する奏者番となり、上野安中藩2万石の城主となりました。1670年に若年寄となり、1679年に老中に就任し、2万石の加増を受けて4万石の領主となります。

1680年、家綱の死去により5代将軍となった綱吉からも厚い信任をえて、家綱時代に大老だった酒井忠清の大手門前の邸宅を与えられ、1681年末には大老に任ぜられ、下総国古河(いまの茨城県古河市)城主13万石を領有しました。就任後は、「天和の治」と呼ばれる綱吉初期の優れた政治をささえ、特に財政面においては大きな成果を上げました。

その権勢は並ぶ者がないほどでしたが、正俊の剛直な性格が、綱吉に敬遠されるようになり、幕臣たちにもうとまれるようになって、1684年8月、若年寄の美濃青野藩主稲葉正休に江戸城内で刺され、重体のまま自邸で息を引き取りました。正休の私怨説、正俊専権への公憤説、大坂の淀川の治水事業に関する意見対立による将軍綱吉の関与もささやかれています。


「8月28日にあった主なできごと」

1573年 浅井長政死去…織田信長と同盟を結び、近江一帯をおさめる戦国大名となった浅井長政でしたが、信長と不和になって「姉川の合戦」に敗れ、自刃しました。

1583年 大坂城完成…豊臣秀吉が「大坂(いまの大阪)城」を築きました。1598年の秀吉死後は、遺児・豊臣秀頼が城に留まりましたが、1615年の大坂夏の陣で落城、豊臣氏は滅亡しました。

1749年 ゲーテ誕生…『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』など数多くの名作を生みだし、シラーと共にドイツ古典主義文学の全盛期を築いた文豪ゲーテが生れました。

1953年 民放テレビ開始…日本初の民放テレビとして「日本テレビ」が放送を開始しました。当時は受像機の台数が少なく、人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には、街頭テレビに観衆が殺到し、黒山のような人だかりになりました。

今日8月27日は、写真草創期の日本で、プロのカメラマンとして活躍した上野彦馬(うえの ひこま)が、1838年に生まれた日です。

長崎奉行所の蘭学者で時計御用師上野俊之丞の子として生まれた彦馬は、化学や医学にも通じた父のもとで育ち、豊後日田藩(大分県)の広瀬淡窓の私塾咸宜園で学び、1858年、20歳でオランダ軍医ボンベを教官とする長崎・医学伝習所で、舎密学(せいみがく=化学)や自然科学を学びました。このとき、蘭書から湿板写真術を知り、同僚で津藩士の堀江鍬次郎とともに蘭書を頼りに研究を重ねました。

やがて、材料の揃わなかった写真機や感光剤に用いられる化学薬品も自分たちで作り、写真術の研究を深めていたところ、ちょうど来日したプロの写真家であるロッシェにも学び、堀江とともに江戸に出て、津藩主の屋敷を拠点に撮影修行を重ねました。1862年には、堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を著しました。この本は、日本初の西洋化学入門書で、明治初期まで化学教科書として使用されました。

1863年、長崎にもどった彦馬は、日本初の写真館「上野写真撮影処」を開業すると、はじめのうちは、写真をとられると魂をとられると警戒されたものの、外国人客の評判を聞きつけるうち、なじみとなる人もふえて繁盛しました。私たちがよく目にする、坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士をはじめ、伊藤博文ら明治時代の高官、名士の肖像写真の多くは、彦馬が撮影したものです。また、維新後の1874年、金星の太陽面通過の観測写真 (日本初の天体写真)、1877年の西南戦争従軍撮影(日本初の戦争写真)など、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されています。

また、ウラジオストク、上海、香港など海外にも支店を置き、写真業を繁栄させたほか、後進の指導にも積極的に取り組み、富重利平や田本研造ら多くの門人を育てました。


「8月27日にあった主なできごと」

紀元前551年 孔子誕生…古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱え、たくさんの弟子を育てた孔子が生まれました。

663年 白村江の戦い…当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘するものの、翌日に敗れてしまいました。

1714年 貝原益軒死去…江戸時代の初期、独学で儒学、国文学、医学、博物学を学び、わが国はじめての博物誌 「大和本草」 などを著わした貝原益軒が亡くなりました。

今日8月26日は、1830年フランス「七月革命」後に即位し、1848年の「二月革命」まで、イギリス型立憲君主制「七月王政」をおこなったルイ・フィリップが、1850年に亡くなった日です。

1773年、オルレアン地方に公領を有する貴族「オルレアン家」のフィリップ・エガリテ [平等公] の長男として生まれたルイ・フィリップは、文筆家で教育者のジャンリス夫人から自由主義教育を受け、1789年にフランス革命がおこると、進歩的王族として革命派につきました。1792年からジロンド派のデュムーリエ将軍のもとで従軍し、将軍がルイ・フィリップを国王にする陰謀の失敗や、国王ルイ16世、父エガリテが相ついで処刑されると、国外に逃れました。

スイスでは、地理学・数学・近代文学の教師としてすごし、1795年にハンブルク、1795年からスカンジナビア諸国、1797年からアメリカ合衆国、1801年からはロンドン郊外で暮らし、1815年に、ナポレオン1世が失脚してブルボン王朝が復活したことで帰国するものの、王党には加わらず、平民的にふるまっていました。

ルイ・フィリップが再登場するのは、1830年の「七月革命」後で、シャルル10世の出版の制限や選挙法の改悪などに反発した市民革命が、ブルボン朝の反動王政を倒してからでした。ラ・ファイエットら自由主義ブルジョア(市民)勢力に擁立され、「市民の王」として即位すると、イギリス型の絶対王政を否定した立憲君主制(王の権限を弱め、議会中心の政治)を採りました。また責任内閣制を導入してティエールやギゾーらを首相に登用し、国内の安定と繁栄をはかるために経済の奨励を行って、フランスに産業革命をもたらしました。

対外政策においては、1834年にはアルジェリアを併合し、のちのフランス帝国主義政策に先鞭をつけました。ラテンアメリカでは、メキシコに介入し、1838年に菓子戦争を起こして勝利させています。アジアでは、アヘン戦争で敗れた清に対して、1844年に自国に有利な形で締結したり、インドシナへ介入したりしています。

しかし、自由主義の確立と資本主義の発達をうながしたものの、選挙権を上層ブルジョワジーに限る制限選挙を維持したことで、産業革命によって形成された小ブルジョアやプロレタリアートによる普通選挙の要求が高まるようになっても、40年代に入ってギゾーが保守政治をおこなってこれを弾圧したこと、1846年以来の恐慌の影響もあって社会不安が高まったことなどへの反発が高まり、1848年2月、「二月革命」がぼっ発しました。

ルイ・フィリップは、ただちにギゾー首相を更迭して対処したものの、事態の収拾にはいたらずイギリスへ亡命。亡命先のイギリスで客死したのでした。


「8月26日にあった主なできごと」

1743年 ラボアジエ誕生…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明して「近代化学の父」と称されるフランスのラボアジエが生まれました。

1789年 フランス人権宣言の採択…フランス革命で、バスティーユ牢獄の襲撃やその後の動乱が落ち着いたこの日、国民議会は憲法の前文にあたる「人間と市民の権利宣言」(人間宣言)を採択しました。アメリカの独立宣言を範としたこの宣言は17条からなり、権利の平等、人間が当然の権利として持つ自由、主権在民、思想・言論の自由、所有権、安全、圧政に対する抵抗権の確認などの原則が示されています。この民主主義の考え方は、新しい市民社会の原理となりました。

今日8月25日は、天王星の発見をはじめ、天文学における数多くの業績で知られるドイツ出身でイギリスの天文学者ハーシェルが、1822年に亡くなった日です。

1738年、ドイツのハノーバーに生まれたウィリアム・ハーシェルは、軍楽隊に所属する父から音楽の指導を受け、オルガンやオーボーの名手になりました。そのかたわら父に数学を学び、やがて天文学の本を熟読するようになります。フランスとの戦いに従軍して敗れると、19歳のときにイギリスに渡り、各地を放浪した末に教会のオルガン奏者となって、ようやく生計がたてられるようになりました。

ゆとりの出た1773年になると、ドイツから妹のカロリンを呼び寄せ、反射鏡を磨くのを手伝わせ、つぎつぎと大きな反射望遠鏡をこしらえて、妹と共に少年時代にあこがれた天体観測を開始しました。恒星・星雲・星団のほか、月面図を作成したり、変光星の研究をしたり、惑星の観測をするうち、火星の極冠が季節によって変化することなどを見つけました。

そして1781年3月、土星の外側を回っている新惑星「天王星」を発見。この快挙により、国王ジョージ1世の宮廷付天文学者となったハーシェルは、直径1.2mという大反射望遠鏡をつくり、星の運動や分布を調べました。その結果、土星と天王星にあるそれぞれ2つの衛星、800以上の二重星、2500もの星団・星雲を発見し記録したばかりか、太陽が運動をしていること、初めて宇宙の形を論ずるなど、恒星天文学の発展に大きな貢献をしました。

妹のカロリンも、8個の彗星を発見して初の著名な女性天文学者となったほか、息子のジョンも父のあとをついで天文学者となって、星の明るさや輝きの研究で業績をあげたほか、写真技術研究家としても知られ、定着液「ハイポ」を発見しています。


「8月25日にあった主なできごと」

1543年 鉄砲伝来…ポルトガル人二人をふくむ100人以上も乗せた大きな船が九州の種子島に漂着し、日本に鉄砲を伝えました。

1819年 ワット死去…イギリスの産業革命で最大のできごとといわれる、蒸気機関を発明したワットが亡くなりました。

1830年 ベルギー独立革命…ベルギーの中心都市ブリュッセルの劇場で演じられていたナポリの独立闘争のオペラに刺激されて、ベルギーのオランダからの独立革命がおこりました。たちまち各地に運動が飛び火して10月に独立宣言がなされ、年末までにオランダをのぞくヨーロッパの列強は、ベルギーの独立を認めました。

1868年 中江藤樹死去…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」といわれ、その徳望が慕われた江戸時代の儒学者・中江藤樹 が亡くなりました。

1944年 連合軍パリ解放…北フランスのノルマンディー上陸に成功した連合国は、ドイツ軍と激しくたたかいフランスの首都パリに入るとドイツ軍は降伏、パリは4年ぶりに解放されました。

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