児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年07月

今日7月31日は、美容師の育成と社会的地位向上に生涯をかけたヤマノグループ創始者の山野愛子(やまの あいこ)が、1995年に亡くなった日です。

1909年、東京・向島の洋食屋の一人娘として育った山野愛子が、自立を考えるようになったのには、愛人の家に入りびたる父の存在がありました。関東大震災で店を失った母は、髪結いになりたいという愛子の夢に賭けようと、焼け残った店の厨房道具を売り払い、その資金で、上野に出来たばかりの美容学校に愛子を入学させました。母の頭を実験台に、日本髪、洋髪の訓練をし、美顔術から花嫁衣裳の着付けまでを夢中で学んだ愛子は、わずか半年でマスターすると、焼け跡の一角に「松の家」を開業し、花街の芸者らを相手に仕事を始めました。持ち前の腕と巧みな話術ですこしずつお客を集めはじめました。

やがて洋装が普及しだすと、愛子は、アイロンごてを使って仕上げるマーセルウエーブに注目。すぐさま、この技術を習得すると、1925年「美容の殿堂・山野美粧室」の看板をかかげ、モダンな建物と日本初のパーマを売りにした店は、「お客を断る髪結い」といわれるほど大繁盛しました。

まもなく、東京の街にアメリカで開発されたパーマネントが登場すると、養子として結婚した逓信省に勤める夫治一は役人を辞め、退職金で、愛子にパーマの機械をプレゼント。さらに、電気主任技術者の資格を取得すると、中古のパーマ機を分解してその構造を調べ、国産パーマ機を開発しました。愛子と治一は、美容院経営のほか、1934年には山野美容講習所を開設し、それまで洋髪の手法を知らなかった髪結いたちにパーマ機を売り、合わせてその技術も教えることを始めました。ところが、太平洋戦争がはじまると、電髪と呼ぶように強制されたパーマはやがて禁止となり、パーマ機も軍に供出せざるを得なくなりました。さらに空襲で店を破壊された愛子は、母まで亡くしてしまいました。

戦後、一からのスタートとなった愛子でしたが、1949年に山野高等美容学校を開校すると、同年、治一の努力もあって理美容師法が制定されたことで、美容師の社会的地位が大きく向上しました。その後はラジオやテレビに出演したり、「山野愛子ビューティブック」などの出版や、1961年ロサンゼルスにヤマノ・ビューティカレッジを開設して海外でのショーも活発に行い、晩年の1992年には、山野美容芸術短期大学を設立して初代学長に就任しています。


「7月31日にあった主なできごと」

1875年 柳田国男誕生…『遠野物語』を著すなど日本民俗学の開拓者といわれる柳田国男が生まれました。

1905年 日露戦争終結…5月末に「日本海海戦」に勝利し、ロシアに講和を受け入れるようアメリカに仲裁を申し入れていた日本に、この日樺太占領に成功したことでロシア軍が降伏、「日露戦争」が終結しました。

1944年 サン・テグジュペリ死去…『星の王子さま』をはじめ、『夜間飛行』『人間の土地』などを著した作家で飛行家のサン・テグジュペリが亡くなりました。

今日7月30日は、イギリスの植民地だったアメリカに、ペンシルベニアを創立させたペンが、1718年に亡くなった日です。

1644年、イギリス海軍提督の子としてロンドンに生まれたウィリアム・ペン(父と同姓同名)は、1660年に入学したオックスフォード大学在学中、クエーカー教に心を寄せて国教に従わなかったことから、1662年に退学させられてしまいました。フランスに渡って見聞を広めたのちロンドンのリンカンズ・イン法学院で学び、1666年自家の領地経営のためにアイルランドへ渡りました。

この地で1667年、正式にクエーカー教徒となると、クエーカーとして説教やパンフレット作成にはげんだことで、数回の逮捕・入獄させられる弾圧にあいました。しかしこれに屈せず、信教の自由と、立憲主義をかかげて闘いました。クエーカーに対する迫害がさらに厳しくなると、ペンは北アメリカに自由な新天地を求める気持ちを強めました。しかし、北米に移住したクエーカーはいたものの、ニューイングランドに拠点をおいた清教徒(ピュリタン)は、クエーカーの移住に否定的でした。

1670年に父親の死により財産をついだペンは、宮廷に出入りするようになり、国王チャールズ2世や王弟(のちのジェームズ2世)と親しくなると、1677年、ペンを含む著名なクエーカーの一団が西ニュージャージー地区の経営に参加することが許され、およそ200人の開拓者が移住して、バーリントンを建設します。ペンはロンドンに残り、開拓地のための自由憲章の草稿を書き上げました。

チャールズ2世はペンの父親に借金があり、1681年3月、ニュージャージーの広大な西部地区と南部地区を弁済に当てることで決着させると、ペンはこの領地を「シルベニア(森の国)」とすると、チャールズ2世はペンの父親に敬意を評して「ペンシルベニア」とするようにアドバイスしたといわれています。

こうしてペンは、1682年にこの地に渡り、「信教の自由」「公正な裁判」「主権を持つ人民により選ばれた代表」「三権分立」など、のちにアメリカ合衆国憲法の基本になる考えを打ち出し、民主的な統治制度の確立に努力をしました。しかし、名誉革命後のジェームズ2世と親交に嫌疑がかけられて領主権を奪われたり、復権後に植民地を再訪して民主的な「権利の憲章」を結ぶものの、晩年は植民地との関係に円滑さを欠き、家族との不和もあって、亡くなったときは無一文だったといわれています。


「7月30日にあった主なできごと」

1502年 宗祇死去…室町時代の連歌師で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊の人といわれる宗祇が亡くなりました。

1863年 フォード誕生…流れ作業による自動車の大量生産に成功し「世界の自動車王」といわれる実業家フォードが生まれました。

1898年 ビスマルク死去…プロイセン王の右腕として鉄血政策を推進し、1871年ドイツ統一の立役者となったビスマルクが亡くなりました。

1911年 明治天皇死去…王政復古をなしとげ、近代国家の形を整えた明治天皇が亡くなり、大正天皇が即位しました。

1947年 幸田露伴死去…『五重塔』などを著し、尾崎紅葉とともに「紅露時代」と呼ばれる時代を築いた作家幸田露伴が亡くなりました。

1965年 谷崎潤一郎死去……『細雪』『春琴抄』『痴人の愛』などの小説や『源氏物語』現代語訳を著した作家の谷崎潤一郎が亡くなりました。

今日7月29日は、昭和の激動期に、外交官・外務大臣として力を尽くした重光葵(しげみつ まもる)が、1887年に生まれた日です。

今の大分県豊後大野市に生まれた重光葵は、旧制第五高校を経て、1911年東京帝国大法科を卒業後に外務省に入りました。ドイツ、イギリス、アメリカ、ポーランド各国に公使として勤務後、1931年に中国公使となりました。まもなく、日本陸軍の一部が中国東北部を制圧しようと「満州事変」をおこしたことで、重光は外交による協調路線によって収めようと奔走します。

しかし翌1932年1月、日本軍は上海に攻め込んだことで(第1次上海事変)、重光は欧米諸国の協力を得て中国との停戦交渉を行っている最中、朝鮮独立運動家に爆弾を投げつけられ、片足を失ってしまいました(上海爆弾事件)。第1次上海事変を中国が国際連盟に提訴したことがきっかけとなり、1933年2月、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする決議案(リットン報告書)が圧倒的多数で採択され、これを不服とする日本は、国際連盟から脱退を宣言し、国際社会から孤立していくことはよく知られています。

その後重光は、1936年に駐ソ公使、38年には駐英大使を務め、欧州事情に関して多くの報告を本国に送り「欧州戦争に日本は絶対に介入するな」と再三東京に打電したにもかかわらず、日本政府は1940年、日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまいました。

1941年12月に太平洋戦争が始まると、1943年の東條英機内閣で外相となり、続く44年の小磯国昭内閣でも留任して、戦時内閣の外交を担当するとともに、「大東亜大臣」を兼任して、人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言しています。

敗戦直後に組閣された東久邇稔彦内閣でも外相に再任され、1945年9月2日に東京湾上に停泊した米国の戦艦ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式に、日本全権として署名を行いました。外相辞任後は、極東国際軍事裁判にA級戦犯として禁固7年の判決を受けました。この判決は、日本ばかりでなく当時の欧米メディアも無罪を予想していただけに、有罪判決はソ連を満足させるためのGHQによる政治的妥協といわれています。

4年7か月の服役後、1950年恩赦により釈放され、1952年には改進党総裁に選ばれます。1954年12月には鳩山一郎らと日本民主党を結成し副総裁となり、第1~3次鳩山内閣では副総理および外務大臣として、鳩山と共に、日ソ国交回復や日本の国際連合加盟に力を尽くしました。そして、1956年12月に「日本の国連加盟」を実現しますが、そのわずか1か月後、69年の生涯を閉じたのでした。


「7月29日にあった主なできごと」

1856年 シューマン死去…『謝肉祭』『子どもの情景』 などを作曲し、ドイツ・ロマン派のリーダーといわれるシューマンが亡くなりました。なお、有名な「トロイメライ」は、全13曲からなる『子どもの情景』の7曲目に登場する曲です。

1890年 ゴッホ死去…明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが亡くなりました。

今日7月28日は、『怪人二十面相』『少年探偵団』などでよく知られる推理作家・評論家の江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)が、1965年に亡くなった日です。

1894年、いまの三重県名張市に役人の子として生まれた江戸川乱歩(本名・平井太郎)は、幼少のころから父の転勤のために亀山市や名古屋市に移り住みましたが、小学生のころに母の影響で探偵小説を読み出し、愛知県立旧第五中学時代は、夏目漱石、幸田露伴、泉鏡花、黒岩涙香らの小説を読みあさるいっぽう、自ら会員制雑誌を発行するほど文学に傾倒しました。

早稲田大学政治経済学部に入学すると、イギリスの作家「シャーロックホームズ」で名高いコナン・ドイルやアメリカのエドガー・アラン・ポーらの推理小説に出合って翻訳をしたり、自作小説を書くものの認められるまでにはいたりませんでした。卒業後は、貿易会社、古本屋、屋台のそば屋など十数種もの職業を転々としました。探偵事務所に勤務したこともあったようです。

そして1923年、ポーの名をもじった江戸川乱歩のペンネームで、暗号のトリックを解読する『二銭銅貨』を「新青年」に発表しました。この作品は、わが国初の本格的創作推理小説といわれ、小酒井不木らに激賞されて鮮烈なデビューをはたすと、『心理試験』『石榴(ざくろ)』『一枚の切符』などを次々に送り出して、「探偵小説」という新分野を確立しました。いっぽう、『蜘蛛(くも)男』『黄金仮面』など長編スリラーを発表し、サスペンス小説という分野も熱狂的に支持されました。

また、『D坂の殺人事件』で初めて名探偵明智小五郎を登場させ、少年たちに人気の高い雑誌「少年倶楽部」には名探偵明智と小林少年や少年探偵団が活躍する『怪人二十面相』『少年探偵団』を連載させて、全国の少年たちにその名を広めました。

太平洋戦争がはじまると執筆を中止し、戦後は創作よりも評論やプロデューサーとして活動しながら推理小説の普及につとめ、1954年には私財100万円を基金として「江戸川乱歩賞」を制定し、新人の登竜門の役割を果たしています。1957年には経営難に陥った探偵小説雑誌「宝石」の編集・経営に参画したり、1963年には「日本探偵作家協会」の創立と財団法人化に尽力しました。


「7月28日にあった主なできごと」

1750年 バッハ死去…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが亡くなりました。

1866年 ポター誕生…世界で一番有名なうさぎ「ピーターラビット」シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが生まれました。

1914年 第1次世界大戦勃発…オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから、第1次世界大戦がはじまりました。三国同盟を結んだドイツ、オーストリア、イタリアと、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国が対立して、戦争はヨーロッパ中に広がりました。イギリスと同盟を結んでいた日本や、アメリカも連合国側に加わり、30か国以上が参戦して、4年以上にわたる戦いをつづけ、連合国側の勝利に終わりました。

今日7月25日は、大正期から昭和の高度成長期まで、「しゃべくり漫才」や役者として喜劇界をリードした花菱(はなびし)アチャコが、1974年に亡くなった日です。

1897年、福井県勝山市の寺の子として生まれ花菱アチャコ(本名・藤木徳郎)は、幼くして両親とともに大阪に移り住み、映画や演劇に興味を持つようになりました。15歳のとき新派の俳優になりたいと山田五十鈴の父山田九州男(くすお)一座に入門しましたが、「喜劇向きの顔」といわれて、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に移ると、幕間にやった菅原家千代丸とのおしゃべりが好評だったために、「花菱アチャコ」を名乗って二人の漫才コンピが誕生しました。1915年には、千歳家今男とのコンビが人気を呼び、吉本興業にスカウトされます。

やがて喜劇一座を組んで活躍していた横山エンタツが、1930年に吉本興業会長の吉本せいに招かれて、アチャコとの新コンビが結成されるや、エンタツ・アチャコの軽妙な会話を中心とした漫才は「近代漫才」「しゃべくり漫才」といわれて爆発的な人気となりました。とくに、当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)や『僕の結婚』などはラジオでも放送され、いちやく全国的なスターとなります。1934年にアチャコが中耳炎にかかったことでコンビを解消しますが、映画では『あきれた連中』などの喜劇映画でコンビを継続しました。

戦後は、NHKのラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒットして映画化されたばかりか、後発の『お父さんはお人好し』も浪花千栄子との共演が人気を呼んで、これも映画化されるなど、戦前の漫才時代をしのぐほどの人気となります。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、アチャコは吉本一の看板役者として初期吉本バラエティの土台を支えました。

テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期には、「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」などのセリフで一世を風靡するなど、77年の生涯に、コメディ役者として100本以上もの映画出演をふくめ、その後の漫才界や演芸界に大きな影響を与えた人物でした。


「7月25日にあった主なできごと」

1801年 伊能忠敬死去…江戸時代後期の測量家で、日本全土の実測地図『大日本沿海輿地全図』を、中心となって完成させた伊能忠敬が亡くなりました。

1894年 日清戦争始まる…日本軍は朝鮮の豊島(ほうとう)沖で中国の清艦隊を攻撃し、日清戦争がはじまりました。朝鮮を属国化する清と、朝鮮を清から奪おうとする日本との対立が原因でした。

1978年 古賀政男死去…『丘を越えて』『影を慕いて』『青い背広』など、日本人の心にふれるメロディで、今も口ずさまれているたくさんの歌謡曲を作った作曲家古賀政男が亡くなりました。

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