児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年06月

今日6月9日は、『アンノルフィー二夫妻の肖像』『赤いターバンの男』などを描いたフランドル(ベルギー)の画家ファン・アイクが、1441年に亡くなったとされる日です。

イタリアに興ったルネサンスは、アルプスを越え、ドイツやネーデルランド地方(現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクなど)にもひろがっていきました。その波は「北方ルネサンス」とよばれ、デューラーやブリューゲルらを輩出して独自のスタイルを創りあげていきましたが、その初期には、フランドル派の芸術家たちが油彩画をあみだし、絵画の表現力を飛躍的に高めました。その代表とされるのがファン・アイクです。

1390年ころに生まれましたが、幼少期についてはほとんどわかっていません。若いころに自身の工房を経営し、ハーグのホラント伯の宮廷に出入りしながらビネンホフ城の装飾の仕事に従事していました。1425年ころからブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の宮廷画家に抜てきされ、外交官として遠国に派遣されたりしました。とくに1428~29年にはポルトガルに滞在し、同国のイサベラ王女とフィリップ3世との結婚をとりまとめ、王女の肖像画を残しています。

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ファン・アイクの画家としての能力はきわめて高度なもので、とくに1434年に描かれたとされる『アンノルフィー二夫妻の肖像』(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵・上の絵)は、名作として有名です。イタリア人商人アルノルフィーニとその妻が、邸宅の一室に手をとりあってたたずむ姿を描いた作品ですが、幾何学的遠近の正確な表現や質感、左方からさしこむ光線の効果による人物の肉付けやその迫真性、背面の壁にかけられた凸面鏡に映し出される反転した情景など、西洋美術史上でもきわめて独創的で複雑な構成を持った作品とされています。婚姻契約の場面を記録するために描かれたきわめてめずらしい作品とする美術史家もいます。

ファン・アイクの代表作としては、ほかに『宰相ロランの聖母』『ルッカの聖母』『ファン・デル・パーレの聖母子』などが知られていて、その名がブルゴーニュ公国ばかりでなく、諸外国にまで名声が広まっていたのは、当時のブルゴーニュ公国が政治、芸術の中心地だったことが影響していたといわれています。


「6月9日にあった主なできごと」

1671年 ピョートル大帝誕生…ロシアをヨーロッパ列強の一員とし、バルト海交易ルートを確保したピョートル大帝が生まれました。

1781年 スチーブンソン誕生…蒸気機関車の実用化に成功したイギリスの技術者スチーブンソンが生まれました。

1870年 ディッケンズ死去…『オリバー・ツイスト』『クリスマスキャロル』『二都物語』 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるディケンズが、亡くなりました。

1886年 山田耕筰誕生…『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの作曲をはじめ、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家山田耕筰が生まれました。
1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した有島武郎は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーションをまきおこしました。

今日6月6日は、映画の撮影機と映写機を兼ねた「シネマトグラフ」を開発し、世界初の実写映画を公開したフランスの発明家で製作者・リュミエール兄弟の弟ルイが、1948年に亡くなった日です。

1864年、フランス東部のブザンソンに写真館の子として生まれたルイ・リュミエールは、1881年に父の仕事を手伝いはじめ、やがて感光剤やガラス乾板の研究・改良を行うようになりました。ルイの研究が評判になると、父はリヨンにガラス乾板の工場を開設しました。さらに1890年ころ、ルイが開発した乾板感光剤「エチケット・ブルー」が大ヒットすると、アメリカのイーストマンが興したコダック社と世界の覇権を争うほどになりました。

1894年、パリで公開されたエジソンの開発したのぞき回転盤「キネトスコープ」に刺激されたルイは、2歳上の兄オーギュストの協力をえて、一度に多くの人々がスクリーンに投影された動画を鑑賞できる撮影機と映写機を兼ねた「シネマトグラフ」を開発しました。翌95年に特許をとると、同年末に世界最初の実写映画『リュミエール工場の出口』など10本を有料公開しました。映写時間はわずか20分程度でしたが、とくに『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が大騒ぎしたという話が伝わっています。

その後、兄弟は「リュミエール協会」を作ってたくさんのカメラマンを養成すると、世界じゅうにカメラマンを派遣し、モスクワでは『帝政ロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式』を、ワシントンでは『マッキンリー大統領の戴冠式』などを制作しています。兄弟が制作した60本を含め、同協会が制作した総本数は2000本をこえるといわれています。

その後兄弟は、1900年のパリ万博で自作を大型スクリーンに上映してからは、特許を売り渡して映画事業から撤退、フィルムの改良に取組んで、1907年には世界初の実用カラー写真「オートクローム」を発売しますが、1920年には引退しています。いっぽう、兄弟の活動に刺激を受けたエジソンが、劇映画製作に乗り出していったのとは対照的な生き方でした。


「6月6日にあった主なできごと」

1281年 弘安の役…モンゴル(中国・元)の皇帝フビライの軍は、文永の役から7年後のこの日、再び大軍を率いて北九州の志賀島に上陸しました。苦戦していた日本軍でしたが、折からの暴風雨により元軍は総崩れとなって7月初めに退散しました。日本を救ったこの暴風雨は「神風」といわれますが、鎌倉幕府は手柄のあった者に恩賞を与えることができず、衰退を速めることになりました。

1599年 ベラスケス誕生…スペイン絵画の黄金時代を築いた17世紀を代表する巨匠ベラスケスが生まれました。

1944年 ノルマンディ上陸作戦…第2次世界大戦中、ドイツが占領していた北フランスの海岸ノルマンディに、17万6千人の連合国軍が上陸に成功、これがきっかけになってフランス各地のドイツ軍を打ち破り、8月25日にパリ解放に成功しました。

今日6月5日は、「アメリカのモーパッサン」といわれる短編の名手で、生涯に300編以上も著した作家のオー・ヘンリーが、1910年に亡くなった日です。

1862年、ノースカロライナ州グリーンズボロに医師の子として生まれたオー・ヘンリー(本名・ウィリアム・シドニー・ポーター)は、3歳の時に母を失い、叔母によって育てられました。15歳で学業を離れると、テキサスに移り住んで牧場で働いたり、店員、薬剤師、ジャーナリスト、銀行の出納係などさまざまな職を転々とかえながら過ごしました。

ところが1896年、以前に働いていた銀行の金を横領した疑いで起訴されると、裁判中にホンジュラスへ逃亡したことで、8年間服役することになってしまいました。獄中で書いた小説をひそかに新聞社や雑誌社に送ったところ、3作品が採用されて出版されたこと、獄中でも薬剤師として働くなど模範囚だったことから3年に減刑され、1901年に釈放されたのでした。

1902年にニューヨークへ移ると、『ニューヨーク・ワールド』紙に毎週1編の作品を掲載するなど、作品を次々に発表するうち、どこにもいるような人々が暮らしの中で感じる悲哀をたくみな筆運びでひきつけ、意外な結末で読者をあっといわせる手法は、大評判となりました。代表作『最後の一葉』もそのひとつです。

古びたアパートの3階に、画家をめざす娘のジョンジーとスーが住んでいました。ある日ジョンジーは重い肺炎にかかってしまいます。
スーは、医者から「このままでは助かる可能性は十のうち一つ」と告げられました。心身ともに疲れ、人生になかば投げやりになっていたジョンジーは、窓の外に見えるレンガの壁をはう蔦(つた)の葉を数え、「あの葉がみんな落ちたら、自分も死ぬ」とつぶやきます。
スーは、そのことを階下に住む老画家で、いつか傑作を描いてみせると豪語しているものの酒ばかり飲んでいるベアマンに伝えます。
その夜、一晩中激しい風雨が吹き荒れ、朝には蔦の葉は最後の一枚になっていました。その次の夜も激しい風雨が吹きつけたもののの、翌朝になっても最後の一枚がとどまっているのを見たジョンジーは、自分の弱気な思いをあらため、生きる気力を取りもどします。
最後に残った葉は、ベアマンが嵐の中はしごに昇り、レンガの壁に絵筆で描いたものでした。ジョンジーは奇跡的に快方にむかうの対し、ベアマンは肺炎になり、最後の一葉を描いた2日後に亡くなってしまいます。
真相をさとったスーは、「あの最後の一葉こそ、ベアマンさんがいつか描いてみせるといい続けていた傑作だったのよ」と、ジョンジーに語るのでした……。

その後のオー・ヘンリーは、流行作家になるものの過度の飲酒から身体をこわし、肝硬変により47年の生涯を閉じました。小説を書き始めてからわずか10年ほどのことでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、オー・ヘンリーの『最後の一枚の葉』(結城浩訳)ほか3編を読むことができます。 


「6月5日にあった主なできごと」

1215年 栄西死去…鎌倉時代の初期、禅宗の日本臨済宗をひらいた僧・栄西が亡くなりました。栄西は、茶の習慣を日本に伝え、茶の湯のもとをきずいたことでも知られています。

1864年 池田屋騒動…京都三条木屋町の旅館・池田屋に、京都の治安組織で近藤勇の率いる新選組が、公武合体派の守護職松平容保(会津藩主)らの暗殺を計画していた尊皇攘夷派の志士を襲撃、およそ2時間にわたり斬り合い、志士数名を殺害しました。

1882年 柔道道場…嘉納治五郎は、東京下谷の永昌寺に柔道の道場(のちの講道館)を開きました。

今日6月4日は、世界最大の漢和辞典『大漢和辞典』や『広漢和辞典』などを著した諸橋轍次(もろはし てつじ)が、1883年に生まれた日です。

いまの新潟県三条市に生まれた諸橋轍次は、幼いころから父に「三字経」の素読を学んだり、地元の小学校卒業後は独学で「漢学」を学ぶなど、幼少年期から漢字に深く親しみました。新潟第一師範学校をへて、1908年に東京高等師範学校(現・筑波大)国語漢文科を卒業すると母校の教師となり、1919年には文部省の命を受けて中国哲学・文学研究のため2年間中国留学をしましたが、満足な辞書がなかったことが、のちの辞書づくりに反映されたようです。

帰国後に、同校教授となって漢学の指導に当たるいっぽう、岩崎弥太郎・小弥太父子が創設した世界的な漢文図書館「静嘉堂文庫」の責任者となりました。1925年に大修館書店社長の鈴木一平から巨大な漢和辞典の構想を持ちかけられると、これを受けて1928年から取り組みを開始し、1943年に『大漢和辞典』の第1巻目を完成させました。しかし、1945年3月の東京大空襲で大修館が罹災して組み上がっていた印刷用の版をすべて失ったことで中断、1からのやりなおしの作業に取り組みながらも、ついに1960年、『大漢和辞典』全13巻を完結させました。右目の失明を乗り越えた30年間の苦闘の成果でした。収録された漢字約5万、熟語約53万、用例数が豊富なだけでなく、それぞれの語の出所を明記した作業は、本場中国でも並ぶものがありません。

この功績により、1965年に文化勲章を受章。その後も追補・改訂作業をすすめたほか、1972年に『中国古典名言事典』、1982年には大漢和の縮小版である『広漢和辞典』を刊行すると、この年の12月、99年の生涯を閉じました。


「6月4日にあった主なできごと」

822年 最澄死去…平安時代の初期に、天台宗をひらいた僧の最澄が亡くなりました。

1928年 張作霖爆殺…軍閥政治家で、中国東北部奉天派の首領だった張作霖が、日本の関東軍によって爆殺されました。

1989年 六四天安門事件…言論の自由化を推進し「開明的指導者」として国民の支持を集めた胡耀邦の死がきっかけとなって、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対して、「中国人民解放軍」は戦車、装甲車を出動させ無差別発砲を行なって武力弾圧。中国共産党の発表は、死者は319人としていますが、数百人から数万人の多数におよんだといわれます。

今日6月3日は、明治中期に生きる下層民の実態を克明に記録したジャーナリストの横山源之助(よこやま げんのすけ)が、1915年に亡くなった日です。

1871年、いまの富山県魚津市に網元の私生児として生まれた源之助は、生後まもなく左官職人横山伝兵衛の養子となりました。地元の小学校を卒業後、商家に住みこみ奉公をしながら独学して県立富山中学に入学しましたが2年で中退、弁護士をめざして上京しました。英吉利(いぎりす)法律学校(現・中央大)に学びながら、弁護士試験を数回受験するものの失敗してしまいます。その間、二葉亭四迷、内田魯庵、幸田露伴ら文学者と知り合ううち、とくに二葉亭四迷の影響を受けて、貧民問題に強い関心を持つようになりました。

1894年、横浜毎日新聞に記者として採用されると、東京の下町で働く手工業や機械工業の労働者、貧しい庶民の生活を調べあげ、ルポルタージュにして連載するうち評判になりました。車夫、日雇い人足、職工、大道芸人など少しずつ取材範囲を広げ、1896年から翌年にかけては足利(栃木)や桐生(群馬)の女工やマッチ工場の工員、郷里の魚津から阪神地方の小作農たちの実態まで記録しました。そして1899年、『日本之下層社会』のタイトルで出版しました。この著書は、これまでのルポルタージュをまとめただけでなく、貧民たちの生活費の実情、職人の賃金形態、労働時間、女子・年少労働者問題などがきめこまかく記されていることで、明治中期の貧民の実態や労働事情を知る貴重な資料として、今も高く評価されています。

その後も、常に庶民の立場にたってその暮らしぶりを記すいっぽう、社会運動にも関心を寄せ、高野房太郎や片山潜と労働組合期成会に関与しますが、過労に倒れて新聞社を退社し、帰郷しました。健康を回復し再度上京すると、社会運動から離れ、大井憲太郎と労働者の海外出稼ぎ計画をたてましたがうまくいきません。晩年は、移民問題に関心をよせ『海外活動之日本人』『南米渡航案内』を著し、1912年にはブラジルに渡航して『南米ブラジル』を書いています。しかし、帰国後は肺結核に苦しみ、貧窮のうちに、自ら下層民のひとりとして生涯を閉じたのでした。


「6月3日にあった主なできごと」

1853年 黒船来航…アメリカ海軍に所属する東インド艦隊司令長官ペリーは、日本に開国をせまる大統領の親書をたずさえて、この日4隻の黒船で江戸湾浦賀(横須賀市浦賀)に来航。「黒船あらわる」というニュースに、幕府や江戸の町は大騒ぎとなりました。翌年、ペリーは7隻の艦隊を率いて再来航、幕府はペリーの威圧に日米和親条約を締結して、200年余り続いた鎖国が終わりをつげることになりました。

1875年 ビゼー死去…歌劇『カルメン』『アルルの女』『真珠採り』などを作曲したフランスの作曲家ビゼーが亡くなりました。

1899年 ヨハンシュトラウス(2世)死去…ウインナーワルツの代表曲として有名な『美しき青きドナウ』『ウィーンの森の物語』『春の声』など168曲のワルツを作曲したオーストリアの作曲家ヨハンシュトラウス(2世)が亡くなりました。

1961年 ウィーン会談…アメリカ大統領ケネディとソ連最高指導者フルシチョフは、オーストリアのウィーンで、東西ドイツに分裂・対立するドイツ問題についての会談を行ないました。

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