児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年06月

今日6月16日は、17世紀のツァーリ専制時代のロシア南部で、大がかりな農民による抵抗運動を指揮したステンカ・ラージンが、1671年に亡くなった日です。その名は、ロシア民謡『ステンカ・ラージン』や、グラズノフの交響詩『ステンカ・ラージン』などに歌いつがれています。

1630年、ロシア帝国のドン・コサック(ウクライナと南ロシアなどに生活していた軍事的共同体)の豊かな家に生まれたステンカ(ステンパ)・ラージンは、1661年に修道院へ巡礼の旅に出た後に消息がとだえ、6年後に盗賊団のリーダーとなって再登場しました。ドン川を行きかう船を脅して金品を巻き上げるのです。しかしこの行為は、ドン・コサックの自由が、ミハイル・ロマノフの圧制によっておかされ、農民たちが悲惨な生活を強いられたことへの反発からでした。

1667年ラージンは、下層農民たちを組織すると、その海賊行為はドン川からボルガ川に移り、金持ちの商人の積荷を積んだ船団などを撃破しながら、カスピ海に達し、政府の穀物倉庫や船を襲いました。1670年には、再び数千人の仲間をしたがえて、ツァリーツィン(今のボルゴグラード)などボルガ川中・下流域の諸都市を陥落させ、アストラハンに進軍し、コサックの共和国としました。

さらに、モスクワに攻めこもうとアストラハンを発つと、抑圧されていた農民たちばかりでなく政府軍の一部も加わったロシア史上最大の農民一揆となって、、サラトフとサマーラを陥落させ、シンビルスク(現・ウリヤノフスク)に達しました。しかし、ドルゴルーキー公率いるロシア政府の大軍に苦戦して負傷したため、軍勢をととのえるためにドンに退却します。しかし翌4月、兄の裏切りにあい、モスクワに連行され、ひどい拷問の末、赤の広場で生きたまま四つ裂きの刑に処せられてしまったのでした。


「6月16日にあった主なできごと」

756年 楊貴妃死去…中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こした「傾国の美女」と呼ばれる楊貴妃が亡くなりました。

1699年 河村瑞賢死去…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した河村瑞賢が亡くなりました。

1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる孫文は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論の講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。

1963年 女性初の宇宙旅行…ソ連(ロシア)の宇宙飛行士テレシコワは、ボストーク6号で地球を48周、70時間以上の宇宙飛行に成功しました。

今日6月13日は、鎌倉幕府を創始した源頼朝の妻北条政子の弟で、政子や大江広元らに支えられて執権政治の基盤をこしらえた第2代執権の北条義時(ほうじょう よしとき)が、1224年に亡くなった日です。

1163年、初代執権北条時政の次男として生まれた北条義時は、1180年に父とともに源頼朝の平氏追討の旗揚げに加わり、石橋山合戦に敗れるものの安房に逃れ、房総や武蔵の武士団を組織化することに成功して、鎌倉を本拠とする鎌倉幕府の原型をつくりあげました。

頼朝存命中は、側近として仕えるものの表だったものはありませんでした。ところが、1199年に頼朝が亡くなると、跡を継いだ2代将軍源頼家の権限を制限し、政務を十三人の合議制で行うことになり、37歳の義時もこれに加わりました。

やがて頼朝の腹心だった梶原景時を失脚させ、1203年には頼家の後見人の比企能員(ひきよしかず)を謀殺、頼家を追放して12歳の実朝を3代将軍に擁立、政所(まんどころ)別当(べっとう=長官)となりました。さらに1205年、時政の後妻である牧の方が、3代将軍実朝を暗殺しようとする陰謀に時政がかかわったとして父を追放し、代って執権となりました。常に姉の政子と実朝を表面に立てながら、ともに政所別当となっていた大江広元、頼朝の流人時代以来の近臣安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者としての実権を握りました。

その後も有力武士への攻撃は続き、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を1213年に滅ぼし、義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と合わせて幕府の要職を独占、北条氏の幕府指導者としての地位を定めました。

1219年に実朝が鶴岡八幡宮で、頼家の子公暁(くぎょう)に暗殺されると、皇族将軍を後鳥羽上皇に働きかけたものの、上皇は留保しただけでなく、1221年に義時追討の院宣を諸国に発しました。義時は、子息泰時や弟時房らを京都に出兵させて上皇軍に大勝しました(承久の乱)。この乱後に、後鳥羽上皇を隠岐の島に配流したのをはじめ、土御門・順徳上皇を配流、仲恭天皇を退位させ、京都に幕府の出先機関である六波羅探題をおきました。また、上皇方についた3000か所もの貴族や武士らの所領を没収して、御家人に分配して「新補地頭」としたことで、幕府の権力は畿内や西国にも広く及ぶようなりました。

なお、義時への戦前の評価は、3人の上皇の配流をはじめ、実朝暗殺をしくみ、父時政ら有力御家人を次々に失脚させて権力を握った悪らつな人物とされてきました。しかし、中世には、北畠親房が『神皇正統記』で、後鳥羽上皇の義時追討を非難し、義時には失政がなかったとし、『建武式目』には「義時・泰時父子の行状こそ近代の師となす」と高く評価されていました。戦後は、中世の評価に近いものとなり、実朝暗殺をしくんだという通説にも、義時にはその口実がないという説が有力になっています。


「6月13日にあった主なできごと」

1931年 北里柴三郎死去…ドイツのコッホに学び、ジフテリアや破傷風の血清療法の完成やペスト菌の発見など、日本細菌学の開拓者 北里柴三郎が亡くなりました。

1948年 太宰治死去…『人間失格』『走れメロス』『斜陽』『晩年』 などを著した作家・太宰治が、玉川上水で心中しました。

今日6月12日は、中華民国・新中国の政治家であり、文学者・歴史家として活躍した郭沫若(かく まつじゃく)が、1978年に亡くなった日です。

1892年、四川省の楽山県に生まれた郭沫若は、成都の中学を卒業後の1914年に日本へ留学、第一高校予科、岡山の第六高校を経て、九州帝国大学医学部を卒業しました。しかし、耳の病のために医者の道をあきらめ、高校時代から親しんできた文学活動を志し、1921年に郁達夫(いく たつふ)らと文学団体「創造社」を設立し、「創造季刊」を発行しました。まもなく、旧社会への反逆と個性の解放、芸術至上主義をかかげるうち、中国近代文学におけるロマン主義の旗手といわれるようになります。

やがて、ロシア革命の影響を受けて1926年に帰国すると、蒋介石率いる国民党に参加し、北伐軍の総政治部主任となりました。ところが、国民党と中国共産党の合同がやぶれて抗争をはじめると、共産党に入党して南昌蜂起に参加したため国民党に追われ、1928年2月日本へ亡命します。千葉県市川市に居を構えて、中国の古代社会の研究や文学活動に力をそそぎました。1937年に日中戦争が勃発すると、日本人妻らを残して帰国。上海や重慶などで国民政府の下で、抗日反戦運動を展開するいっぽう、戯曲『屈原』を発表して、大きな反響を呼びました。

1945年に日中戦争が集結し、内戦を回避したいと努力するもの及ばず、1948年中華人民共和国に参画して、新中国の副総理・科学院院長などの要職に就くいっぽう、『蔡文姫』『武則天』などが北京人民芸術劇院で上演されて人気をよび、特に『蔡文姫』は、21世紀の今日までくりかえし上演されています。

1958年に中国共産党へ入党後は、発言や作風が毛沢東に迎合するようになり、文化大革命発生直後の1966年には「私が以前に書いた全ての作品は焼き捨てるべきで少しの価値も無い」との自己批判を行って、数々の文学者が抹殺されるなか、知識人の思想改造の成功例として毛沢東の庇護を受けたことはよく知られています。また毛沢東や江青らの詩を賛美したり、批林批孔運動に乗って『李白と杜甫』で杜甫をおとしめたり、四人組の逮捕後は一転して彼らを批判するなど、文革期の郭沫若の言動には、疑問を投げかける識者が多いのも事実です。


「6月12日にあった主なできごと」

1827年 シュピリ誕生…『アルプスの少女ハイジ』を著したスイスの女流児童文学者シュピリが生まれました。

1942年 アンネの日記…ナチスのユダヤ人迫害により、ドイツのフランクフルトからのがれ、オランダのアムステルダムの隠れ家で暮していたアンネ・フランクは、両親からこの日の誕生日に日記帳をプレゼントされました。密告されて一家は捕えられ、アンネは1945年15歳でユダヤ人収容所で病死しますが、1944年8月までのおよそ2年間綴られた日記は、戦争の恐ろしさと、つらい生活の中でもけなげに成長してゆく内容に、今も世界じゅうの人たちを感動させています。

今日6月11日は、ロシア革命の指導者の1人で、臨時政府首相を務めたロシアの政治家ケレンスキーが、1970年に亡くなった日です。

1881年、ボルガ川中流域にあるシンビルスク(現・ウリヤノフスク)に、中学校長の子として生まれたアレクサンドル・ケレンスキーは、1904年にペテルブルク大学法学部を卒業後、弁護士となりました。主として政治犯の弁護に当たるうちに評判となり、1912年に社会革命党議員になります。同年、東シベリアにあるレナ川流域の金鉱で労働者らが軍に射殺された「レナ虐殺事件」が起こりると、真相調査団長として活躍して有名になりました。

第一次世界大戦がはじまると、秘密政治結社に所属してロシアの民主化のために行動しながら、国会でも名演説家として定評をえました。1917年2月、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)のデモをきっかけに「2月革命」がおこると、ケレンスキーは国会に革命を引き込んで「臨時政府」をおこし、ソビエト(労働者・兵士協議会)副議長となるいっぽう、臨時政府の司法大臣、5月には陸軍大臣となり、市民改革および第一次世界大戦の戦争継続を主張、7月には臨時政府首相と最高司令官を兼ねるまでになります。連合国や資本家と協力して軍隊の増強をはかり、穏健な社会主義政党や立憲民主党とともに、勃興してきたボルシェビキ(レーニンを指導者とするのちのソ連共産党)と敵対しました。

10月上旬、レーニンが臨時政府の打倒を呼びかけると、ケレンスキーはボリシェビキの機関誌印刷所などを襲撃させました。しかしトロツキー率いる赤軍は、印刷所を回復すると、郵便局、発電所、銀行を占領、10月25日にはペトログラードで全面的な蜂起を行いました(十月革命)。不利をさとったケレンスキーは、ペトログラードの冬宮を女装してアメリカ大使館の車でプスコフにのがれ、この地のコサックを率いて再び首都奪還を試みるものの敗退、隠れ家に数週間過ごした後、フランスに亡命しました。

その後アメリカに移り、1940年代以降は米国内で大学講師となって「ロシア革命史」を教えたり、研究所の職員などをしながら臨時政府時代の資料を整理し、回想記を数冊残しました。特に最晩年に著した『ケレンスキー回想録』は、資料的に高く評価されています。


「6月11日にあった主なできごと」

1873年 わが国初の銀行…「第一国立銀行」が日本橋兜町に創立し、初代頭取に渋沢栄一が就任、立派な西洋建築は、東京の名所となりました。その後国立銀行は、1879年までに全国各府県に153行が設立されていきました。

1899年 川端康成誕生…『伊豆の踊り子』『雪国』 など、「生」の悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづった功績により、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家・川端康成が生まれました。

1916年 ジーン・ウェブスター死去…手紙形式で書かれた名作『あしながおじさん』などを著した、アメリカの女流作家ジーン・ウェブスターが亡くなりました。

今日6月10日は、『舞妓林泉』『三人の舞妓』『湯女(ゆな)』『島の女』など、はなやかで大胆な構図を得意とした日本画家の土田麦僊(つちだ ばくせん)が、1936年に亡くなった日です。

1887年、新潟県佐渡島の農家に生まれた土田麦僊(本名・金二)は、子どものころから絵の上手な少年として注目され、小学校の先生は父に画家をめざすように勧めるほどでした。ところが画家など旅の貧乏絵師くらいにしか考えなかった父はこれを許さず、当時貧しい家の子弟が高等教育を受けさせるための通例だった地元の寺に預けられました。1903年には、寺の本山である京都の智積院に入り、中学をめざしました。

ところが麦僊は、都会の堕落した僧侶の姿に失望し、画家として立つことを決意。「坊さんになる気はありません。画家をめざします」という書き置きを残して寺をぬけ出すと、鈴木松年の門に入りました。しかし松年塾からはだれも展覧会に入選する者がいないことを知ると、同志を誘って1904年暮れ、竹内栖鳳に弟子入りし、麦僊の号を得ました。70数人の弟子たちが、月1回の研究会でお互いの作品を批評しあい、写生会や運筆会、美学講義などのある栖鳳塾は、田舎出の麦僊にとって希望に燃える日々で、精進に精進を重ねていきました。そしてわずか半年後、春の新古美術展に出品した『清暑』が4等賞となって、いちやく京都画壇に登場しました。

以後麦僊は、毎年のように新古美術展で賞を受け、1908年の文部省主催の第2回「文展」では『罰』が3等賞とを受け、多くの先輩たちを尻目に京都画壇の新鋭として、全国的に注目されるようになります。1909年には発足したばかりの京都市立絵画専門学校(今の京都市立芸術大)に入学すると、西洋絵画を学んだことに刺激され、1912~13年には『島の女』『海女』を文展に発表し、大きな話題を呼びました。これらは主題的にも個性を強く表明する点でもゴーギャンと対決した作品といわれています。

1918年、麦僊は同絵画専門学校の仲間だった村上華岳らと国画創作協会を旗揚げし、西洋美術と東洋美術を融合した新しい日本画の創造をめざす「日本画革新運動」をおこしました。同会は1918年の第1回展にはじまり、1928年までに東京および京都で計7回の展覧会を開催しますが、麦僊は第1回展に出品した『湯女』、第2回の『三人の舞妓』をはじめ毎回意欲作を出品し、国画創作協会の中心的な存在となりました。

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麦僊はとくに「舞妓の画家」といわれるように、数多くの舞妓の作品を描いています。『舞妓林泉』(東京国立近代美術館蔵・上の絵)が特に有名です。1927年には、フランス政府から、レジョン・ドヌーブ勲章と、文部省教育美術賞を授与されています。

なお、1921年~23年に1年半の渡欧の旅にでて、ルノワールやセザンヌなどの西洋絵画を収集していて、現在、大原美術館にあるセザンヌの『水浴』は麦僊が常に画室の壁に掛けていたものだそうです。


「6月10日にあった主なできごと」

1017年 源信死去…平安時代中ごろの天台宗の僧で、『往生要集』を著して浄土教を広め「恵心僧都(えしんそうず)」と讃えられた源信が亡くなりました。

1628年 徳川光圀誕生…水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康の孫にあたる第2代水戸藩主の徳川光圀が生まれました。

1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き、福沢諭吉や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した緒方洪庵が亡くなりました。

1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。

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