児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年06月

今日6月23日は、大正末期から昭和初期に盛んとなった、プロレタリア文学の理論的指導者として活躍した文芸評論家の青野季吉(あおの すえきち)が、 1961年に亡くなった日です。

1890年、新潟県佐渡ヶ島の廻船問屋兼酒造業「青野屋」に10人兄弟の末子として生まれた青野季吉でしたが、この年に大規模な米騒動があり、持船は焼かれ、家も打ちこわしにあいました。生まれたばかりの季吉は母に背負われて山へ逃げたと、のちに回想しています。近くの漁師にもらわれて育つと、旧制佐渡中学に入学。同校で先輩の北一輝から社会主義思想を知り、深い関心をもつようになりました。地元の小学校教師を務めたのちに上京、早稲田大学英文科で坪内逍遥らの指導を受け、卒業後に読売新聞の記者となるものの、労働争議を指導したことで辞めさせられてしまいました。

1921年、市川正一や平林初之輔らと雑誌「無産階級」を発行。堺利彦や山川均らと接触するうち、翌1922年に『心霊の滅亡』を出版して、プロレタリア文学評論家として文筆活動を開始しました。評論活動のかたわら、日本共産党員として実践活動をおこないましたが、1924年には共産党との関係を断ち、1926年に最初の評論集『解放の芸術』を刊行するうち、「プロレタリア文学の理論的指導者」といわれるようになりました。1931年に『自然成長と目的意識論』を発表してからは政治活動から離れ、穏健な人道主義的な評論活動をするようになります。

第2次世界大戦後は、日本ペンクラブの再建に尽力し、日本文芸家協会会長を務めたほか、1949年に『現代文学論』で第1回読売文学賞、1958年には『文学五十年』で毎日出版文化賞を受賞しています。主著には、上記のほかに『転換期の文学』『実践的文学論』があります。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、青野の「百万人のそして唯一人の文学」を読むことができます。


「6月23日にあった主なできごと」

1794年 水野忠邦誕生…江戸時代の末期に「天保の改革」を指導したことで知られる政治家・水野忠邦が生まれました。

1908年 国木田独歩死去…『武蔵野』『牛肉と馬鈴薯』『源叔父』 などの著作をはじめ、詩人、ジャーナリスト、編集者として明治期に活躍した国木田独歩が亡くなりました。

1967年 壺井栄死去…『二十四の瞳』『坂道』『母のない子と子のない母と』などを著した女流作家の壺井栄が亡くなりました。

今日6月20日は、1935年に100m10秒3の「世界タイ記録」を達成し、戦後はコーチとして飯島秀雄や依田郁子らを育てた吉岡隆徳(よしおか たかよし)が、1909年に生まれた日です。

いまの島根県出雲市に神官の子として生まれた隆徳は、小学校卒業後に吉岡家の養子となりました。杵築(きつき)中学(今の大社高校)時代に、駅まで4kmの距離を走って通学するなどの努力が実り、1925年の山陰陸上選手権の100m走で11秒6を記録しました。このころから、人見絹枝選手を育てたことで知られる谷三三五(ささご)の指導を受けながら本格的な訓練を開始すると、たちまち日本を代表するスプリンターに成長しました。

そして、高等師範学校(今の筑波大学)に在学中の1932年8月、第10回「ロサンゼルスオリンピック」で、1位とわずか0秒3差の10秒6を記録、東洋人初の100mで6位入賞を果たしました。特にスタートダッシュの速さは素晴しく、新聞記者から「暁の超特急」と呼ばれて有名になりました。

さらに、1935年6月の「関東近畿フィリピン対抗陸上競技大会」と「日比対抗戦」では、10秒3の世界タイ記録を2度にわたって達成する快挙をなしとげました。これは、1964年に飯島秀雄が破るまで29年間も「日本記録」でした。

1941年に現役を退くと、広島高等師範学校に招かれて教授に就任し、戦後は広島県庁保健体育課長となって、1950年の国民体育大会広島開催に尽力するなど体育行政にたずさわり、1952年には、広島カープの初代トレーナーとなって当地のスポーツ界に功績を残しました。1963年にリッカーミシン陸上部監督として陸上の現場に復帰すると、飯島秀雄や依田郁子らを指導し、飯島は1964年の西ベルリン国際陸上大会で10秒1の日本新記録を、依田は同年の東京オリンピック80mハードルで5位入賞をはたしました。

その後の吉岡は、学習院や東京女子体育大学で教職につきますが、生涯にわたって100mを走ることにこだわり、1984年に亡くなるまで走り続けたといわれています。


「6月20日にあった主なできごと」

1751年 徳川吉宗死去…江戸幕府第8代将軍で、「享保の改革」という幕政改革を断行した徳川吉宗が亡くなりました。

1837年 ビクトリア女王即位…イギリス史上65年という最長の王となり「大英帝国」の絶頂期を築いたビクトリア女王が即位しました。

今日6月19日は、初めて院政をはじめ、43年間もその地位についた白河天皇(上皇・法皇)が、1129年に亡くなった日です。

1053年、後三条天皇の第一皇子として生まれた白河天皇は、1069年に立太子、1072年20歳で即位しました。しかし当時は、天皇に代って政治をおこなっていたのは、摂政や関白となっていた藤原家で、これに対抗するために後三条天皇は、上皇となって「院」で政治を行う意志を固めました。ところが、これを実施する前の1073年に、亡くなってしまいました。

父の遺志をうけついだ白河天皇は、荘園整理などに力を入れ、1081年には八幡宇佐神宮境内地に神宝塔院を建立するなど、摂関家の権勢を弱める努力をしました。やがて1086年11月、藤原家の意向を無視して、実子である8歳の善仁(たるひと)親王を皇太子(のちの堀河天皇)に立て、同日位を譲りました。

白河上皇となると、幼帝を後見すると称して「院庁(いんのちょう)」で政務を執る、いわゆる「院政」がはじまりました。摂政や関白は置かれたものの以前の勢いはなくなっていました。皇太子が堀河天皇になると、上皇の政治介入に反発する関白の藤原師通とともに政治を行いましたが、師通の急逝による摂関家内部の混乱と、それに続いて堀河天皇が亡くなったために、上皇の孫で幼帝の鳥羽天皇を立てました。こうして天皇の補佐を行うようになったのと、若く政治的に未熟な摂政・藤原忠実の登場によって、結果的に白河上皇に権力が集中していきました。

権限を掌握した白河上皇は、受領(ずりょう)という地方に下った中流貴族を院庁に集め、荘園を認めない方針を打ち出したことで、結果的に皇室所有の荘園が増えていき、これを受領層に与えました。これに不平や反発する者をおさえるために「北面の武士」をおき、院の警備にあたらせました。

1096年には、出家して「法皇」となり、法勝寺などの多くの寺院や仏像をつくらせたことで、財政が悪化しました。僧兵の強訴が多くなったことで、「賀茂の水、双六の賽(さい)、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」といった白河法皇の言葉は有名です。なお、白河上皇は奔放な女性関係でもよく知られ、平清盛は上皇の子であるといわれています。


「6月19日にあった主なできごと」

645年 元号のはじまり…元号とは、明治・大正・昭和・平成のような年代の数え方で、645年のこの日、蘇我氏を倒した中大兄皇子(のちの天智天皇)が、わが国初の元号「大化」を定めました。江戸時代以前は、大きなできごとがあるたびに元号が変わっていましたが、明治から、天皇の即位から亡くなるまでを一つの元号とする「一世一元制」となりました。

1909年 太宰治誕生…『人間失格』『走れメロス』『斜陽』『晩年』『ヴィヨンの妻』などを著した作家太宰治が生れました。なお、この日は、1948年に入水自殺した太宰の遺体が発見された日でもあり、「桜桃忌(おうとうき)」とよばれて、太宰をしのぶ人たちが、三鷹市禅林寺にあるお墓の前に集うことで知られています。

今日6月18日は、「郵便報知新聞」の社長を務めながら政治小説の先駆的な作品を発表し、政治家・官吏・民権運動家としても活躍した矢野龍渓(やの りゅうけい)が、1931年に亡くなった日です。

1851年、豊後国(今の大分県)佐伯藩の中級武士の長男として生まれた矢野龍渓(本名・文雄)は、幼いころから父や祖父から儒教や西洋の知識を授けられ、藩校に学んで攘夷の精神を身につけました。1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、藩主にしたがって京都に上り、朝廷側の分隊長として禁裏御門の警護に当たりました。明治維新後に一家で上京すると、洋学を志し、1871年に慶応義塾へ入門して英米の憲法史を研究しました。

1873年に卒業後は、義塾の講師をつとめながら、翌年『西洋偉人言行録』を出版、義塾の大阪分校校長などを歴任します。1879年には福沢諭吉に推されて大隈重信のいる大蔵省に入ると、大蔵書記官や会計検査局員に抜てきされ、1880年には小幡篤次郎らと私擬憲法の起草に加わりました。1881年に大隈が「郵便報知新聞」を買収すると、同社の副主筆に就任するいっぽう、大隈らが中心となった立憲改進党の結成にも参画しています。1911年の「明治十四年の政変」で参議をやめさせられた大隈とともに政界を追われると、「郵便報知新聞」にもどり、社長となって健筆をふるいました。

ところが、立憲改進党の運営にもたずさわるなど過労がたたって病床につくと、憲政を打ち立てるのに役立つような政治小説を作ろうと構想、1883年に『経国美談』を「郵便報知新聞」紙上に連載を開始すると好評で、前編をまとめて刊行したところ、大評判となって版を重ねました。

この著は、紀元前4世紀の古代ギリシャに題材をもとめた作品で、当時はスパルタが権力を握っており、小さな都市国家のテーベもその支配下に入りました。これに対し、テーベの独立と民政を願う青年政治家ペロビダスとエパミノンダスは、力をあわせてスパルタと闘い、民政を回復するまでを描いたものが前編、後編はスパルタの侵略を退け、テーベがギリシャの盟主となる過程を描いたものでした。

特に前編第11回目の「春の花」は、民権運動家たちを鼓舞し、松林伯圓や川上音二郎が講談として演じたと伝えられています。1884年2月に出された後編もよく売れて、翌年から新聞事業視察のために欧米を訪れ、帰国後は購読料の引き下げ、記事の充実、文体の平易化、配達の敏速化といった改革を進めました。

1888年に新聞経営の第一線から身を引いて、宮内省式部官となりますが、1897年に外務大臣となった大隈の要請で清国特命全権公使となり、2年間北京に滞在して、日清戦争後における清国外債借入問題を処理しました。

その他の矢野の著作として、資本主義と社会主義の調和を説いたユートピア小説『新社会』、海外雄飛の夢を抱く日本人がインドネシアの民族独立運動に加わる冒険小説『浮城物語』、文体の改良を説いた『日本文体文字新論』などがあります。


「6月18日にあった主なできごと」

1815年 ワーテルローの戦い…エルバ島から脱出したフランス皇帝ナポレオン1世は、イギリス・オランダ連合軍およびプロイセン軍に、「ワーテルローの戦い」で敗れました。

1940年 レジスタンス…ヒトラー率いるドイツとの戦いに敗れ、首都パリが陥落すると、フランス軍将軍のド・ゴールはイギリスへ亡命することを決断。ロンドンのBBCラジオを通じて、対独抗戦の継続と抵抗(レジスタンス)をフランス国民に呼びかけました。

1945年 ひめゆり学徒隊集団自決…太平洋戦争の末期、沖縄では一般市民を巻きこんだ地上戦が行なわれていました。この戦いで、負傷兵の看護を行なってい女子学徒隊は、軍に解散命令を出されたことでアメリカ軍に包囲された洞窟内で、49名が集団自決をしました。さらに沖縄戦終了までに、生徒123人、教師13人が亡くなりました。その霊をなぐさめ、悲劇を二度とくりかえしてはならないという願いをこめた「ひめゆりの塔」が、沖縄県糸満市に建てられています。

今日6月17日は、倒産寸前だった王子製紙を再建し、巨大製紙企業につくりあげた実業家で、政界、教育界にも力を尽くした藤原銀次郎(ふじわら ぎんじろう)が、1869年に生まれた日です。

現在の長野市に、藍問屋を営む豊かな農家に生まれた藤原銀次郎は、16歳のとき医者になることを条件に上京しました。しかし、医学の道には進まず慶応義塾に入って1889年に卒業後、島根県の地方紙「松江新報」の新聞記者になりました。ところが社が経営不振におちいったことで、藤原は社を引き受けて社長兼主筆となったものの、用紙の入手にてこずって再建に失敗し、帰京しました。

1895年三井銀行に入社すると、大津支店を皮切りに東京深川出張所長となるうち、「三井中興の祖」といわれた中上川彦次郎にその経営能力を評価され、1897年に三井グループが経営する富岡製糸場支配人となると、工員の賃金を出来高払いにして生産効率を高めました。1898年には同グループの王子製紙で、経営陣の対立からストライキが起こると、臨時支配人に就任してストライキを収め、翌1899年に三井物産に移って上海支店長、木材部長などで活躍しました。

1911年、経営不振で倒産寸前に陥った王子製紙の専務に就任すると、優秀な人材を抜てきして起用、苫小牧の新工場建設計画を機に、徹底した合理化につとめました。第一次世界大戦のぼっ発による紙不足と値上がり、需要の伸びもあって再建に成功すると、海外から技術顧問を招いたり、自ら欧米の最新技術の導入に積極的に取り組みました。そうした努力が実って、1933年には王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社合併を実現させ、日本国内市場の占有率8割以上という巨大製紙企業をつくりあげました。藤原が「製紙王」といわれたのは、新生した王子製紙の社長に就任した、このころのことです。

1938年、社長職を譲って会長になると、理想的な実践技術を重視する工業大学の設立を決意。私財800万円を投じて横浜に藤原工業大学(のちの慶応大学工学部)を、70歳の誕生日にあたる1939年6月17日に開校しました。

いっぽう政界にも進出し、1940年に米内光政内閣の商工大臣、1943年東條英機内閣の国務大臣、1944年小磯国昭内閣の軍需大臣に就任しています。そのため戦後は、連合国軍最高司令部 (GHQ) よりA級戦犯容疑で出頭命令を受け、巣鴨刑務所に収監されましたが、まもなく不起訴となっています。晩年は、製紙により長年にわたって森林伐採をしてきたことへの償いのために、植林運動を奨励し、1960年90歳で亡くなりましたが、前年に藤原科学財団を設立し、同財団に1億円を寄付しています。


「6月17日にあった主なできごと」

1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。

1877年 モース来日…アメリカの動物学者のモースが来日し、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。

1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。

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