児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年06月

今日6月30日は、「二日月」「行く春」「彩雨」など、詩情豊かな独自の日本画を数多く残した川合玉堂(かわい ぎょくどう)が、1957年に亡くなった日です。

1873年、いまの愛知県一宮市の豪農で筆墨紙商の長男として生まれた川合玉堂(本名・芳三郎 玉堂=号)は、幼いころから絵が上手な子として知られ、14歳のときに京都に出て望月玉泉の門下になって本格的に学びました。1890年、17歳で幸野楳嶺の画塾に入って同門の竹内栖鳳らから大きな刺激を受けました。その間、「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」が第3回内国勧業博覧会に入選を果たし、京都の新進として注目を集めるようになります。

1896年、23歳のとき上京すると橋本雅邦に師事し、1898年岡倉天心、雅邦、横山大観らが創立した日本美術院に当初から参加すると、日本美術院展覧会(院展)に次々と作品を発表して画名を高めていきました。1900年頃からは私塾「長流画塾」を主宰し、自然をおだやかに描く作風をはぐくみ、1907年に発表した「二日月」(東京国立近代美術館蔵) は大好評で出世作となったばかりか、同年の第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、1915年からは東京美術学校(のちの東京芸術大)日本画科教授となり、日本画壇の中心的存在となっていきます。

1916年第10回文展に発表した「行く春」(東京国立近代美術館蔵) は、長瀞を主題にした大画面に切り立つ崖と清流、華やかな桜など覇気あふれる作品で、玉堂壮年期の六曲一双の力作といわれ、重要文化財に指定されています。また、1940年に発表した「彩雨」(東京国立近代美術館蔵)は、静かに降る秋雨にけむる色づいた雑木林、水車や古びた農家の藁葺屋根、二人の農婦などがさりげなくちりばめられ、詩情豊かに仕上げられているこの作品は、玉堂円熟期の代表作と讃えられています。

1931年にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年には文化勲章を受章しました。太平洋戦争中の1944年、かねてからひんぱんに写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村(現青梅市)に疎開すると、亡くなるまで定住したことで、現在も、旧住居は「玉堂美術館」として保存されています。気前のよい人だったようで、何かをもらうたびにお礼に絵をあげたらしく、佳作が散逸してしまったのはいささか残念な気がします。


「6月30日にあった主なできごと」

1898年 日本初の政党内閣…それまでの内閣は、長州藩や薩摩藩などの藩閥が政権を担当していましたが、自由党と進歩党がひとつになった憲政党が、大隈重信を首相に、板垣退助を内務大臣に内閣が組織されたため、大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板(わいはん)内閣といわれました。しかし憲政党に分裂騒ぎがおき、組閣後4か月余りで総辞職を余儀なくされました。

1905年 相対性理論…20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが、相対性理論に関する最初の論文「運動物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌に発表しました。

今日6月27日は、イタリア・ルネサンス期の画家・建築家で、ルネサンス期の芸術家百数十人の評伝を著した文筆家として知られるバザーリが、1574年に亡くなった日です。

1511年、イタリア中央部の都市アレッツォに生まれたジョルジョ・バザーリは、フランス人画家のマルシラ工房に入って修行したのちフィレンツェに出て、バンディネリらに学び、1529年サルビアーティと共同で工房を開きました。1531年、メディチ家の枢機卿に伴ってローマを訪れ、ミケランとジェロやラファエロらの作品にふれ、大きな感銘を受けました。のちにメディチ家のトスカーナ大公コジモ1世の宮廷につかえる「お抱え美術家」となりました。

画家としては、パラッツォ・ペッキオの五百人広間の壁画や、フィレンツェ大聖堂のドーム天井に『最後の審判』のフレスコ画を手がけたほか、5巻にのぼる素描のコレクションを残し、現在はルーブル美術館とウフィツィ美術館に収蔵されています。

建築家としては、パラッツォ・べッキオの改装や、のちに美術館となるウフィツィ宮殿の建築、さらにここからピッティ宮殿につながる空中回廊を設計しました。、

バザーリのもっとも重要な業績は、チマブーエからミケランジェロまで、ルネサンス期に活躍した芸術家163人の作品と生涯を記した『芸術家列伝』(正確には「もっとも著名な画家・彫刻家・建築家列伝」)でしょう。1550年に出版され、1568年に改訂されたもので、資料としては疑問を持たれる部分はあるものの、この時代を知るためには、唯一ともいえる美術史の貴重な文献になっています。


「6月27日にあった主なできごと」

1809年 上田秋成死去…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が亡くなりました。

1850年 小泉八雲誕生…「耳なし芳一」 や 「雪女」 などを収録した 『怪談』 などを著し、日本の文化や日本の美しさを世界に紹介した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンが生まれました。

1880年 ヘレンケラー誕生…生後19か月で目・耳・口の機能を失いながらも、著述家、社会福祉事業家として活躍したアメリカのヘレンケラーが生まれました。

今日6月26日は、絶対温度(-273度)の概念を打ち出すなど、熱力学の基礎を確立したイギリスの物理学者・数学者のケルビンが、1824年に生まれた日です。

アイルランド北東部のベルファストでグラスゴー大学教授の子として生まれたケルビン(本名・ウィリアム・トムソン)は、兄とともに父から家庭で教育を受けました。幼い頃から神童ぶりを発揮したトムソンは、わずか10歳でグラスゴー大学への入学を許可され、1841年からはケンブリッジ大学ピーターハウス・カレッジで学び、1845年に卒業すると、パリのルニョーのもとで物理や化学の実験法を学びました。そして翌1846年、22歳の若さでグラスゴー大学の物理学教授に就任し、53年間もその職にあって、1904年には同大学の総長になっています。

トムソンの研究分野は多岐にわたっており、熱力学、電気磁気学をはじめ、当時の古典的物理学のほぼ全分野にわたり、発表した論文は600を超えるといわれています。特に熱力学では、クラウジウスやラスキンとともに、開拓者の一人とされています。1847年のジュールの熱の仕事当量に関する研究を高く評価し、熱と仕事はおなじもので、エネルギー保存則を熱現象にまで広げる「熱力学の第1法則」としました。また、1816年ごろにフランスのカルノーが行った熱機関に関する研究価値を認め、クラウジウスの研究とは別の角度から、絶対温度(-273度 分子の運動が完全に停止するためこれ以下にはならない)の概念をうちたてる「熱力学の第2法則」を確立しました。

電気磁気学に関しては、電気伝導や電気放電の振動性などの理論的な業績のほか、さまざまな電気測定器具を考案・発明をし、1866年には大西洋横断ケーブル敷設を指導して、完成させています。そのほか、羅針盤の改良やジャイロコンパスを発明して、航海技術の向上につとめ、地球の年齢の推算など地球物理学の分野や、流体力学の研究、原子構造論を展開して原子論にまで深い関心を示しました。

1892年、こうしたたくさんの業績に対し、初代ケルビン卿を贈られたことで、「ケルビン」の通称が一般化しました。1907年に亡くなるまで多くの物理学者を指導しましたが、日本人では、田中館愛橘がよく知られています。


「6月26日にあった主なできごと」

1833年 木戸孝允誕生…大久保利通、西郷隆盛と並び、徳川幕府を倒すために大きな功績のあった「維新の三傑」の一人木戸孝允が生れました。

1945年 国際連合憲章の調印…4月25日からドイツや日本に宣戦していた連合国50か国の代表がサンフランシスコに集まり、国際連合設立のためのサンフランシスコ会議を開き、この日国際連合憲章が採択されました。国際連合の発足は、同年10月24日で、最初の加盟国は51か国。主な活動目的は国際平和の維持、経済や社会などに関する国際協力の実現です。日本が国際連合に加盟したのは1956年12月、80番目の加盟国でした。

今日6月25日は、風刺辞書『悪魔の辞典』を著したことで知られるアメリカのジャーナリストで作家のビアスが、1842年に生まれた日です。

オハイオ州ホースケイブ・クリークの貧しい農家の12番目の子として生まれたアンブローズ・ビアスは、両親が文学的素養があったことから、読書と作文が好きな少年に育ちました。しかし宗教上のしつけの厳しい家庭になじめず、15歳のときに家を出て『ノーザン・インディアナン』という小さな新聞の植字工見習いとなって自活しました。

南北戦争が勃発すると、1861年にビアスは北軍に志願し、数々の戦果をあげたことで、翌1862年2月には少尉となり、4月の「シャイローの戦」での凄惨な体験が、後の回想記『私がシャイローで見たもの』の下地となりました。

1866年に除隊すると、西海岸のサンフランシスコにわたり、『サンフランシスコ・ニューズレター』など数々の地方紙の寄稿者・編集者として活動。1872年にはイギリスで執筆活動を行い、初の著書『魔物の愉悦』は、これまでの評論をまとめたもので、1873年にロンドンで出版されて評判となりました。1875年に帰国すると、ふたたびサンフランシスコに居を構え、冷笑的な視点で世の中をとらえるユニークな視点は健在で、1887年に開始した「サンフランシスコ・エグザミナー」紙の連載コラム『プラットル』は、当時の西海岸でもっとも影響力の強いライターに数えられるほど、華々しいジャーナリスト活動を展開し続けました。

ピアスの代表作は、なんといっても1906年に刊行した『冷笑家用語集』で、これは1911年に増補して『悪魔の辞典』として刊行すると、人間の本質を冷笑的にみすえ、毒舌をふるった用語の数々は大評判となり、全米はもちろんのこと世界じゅうに知れ渡り、今もたくさんの人たちに愛読されています。芥川龍之介は早くからビアスに注目し、日本へ紹介したのも、自らの資質に似たものを感じ取ったのだろうといわれています。

ビアスは1913年10月、かつて関わった南北戦争の旧戦場をめぐる旅に出ると、当時メキシコ革命のために混乱状態にあったメキシコに入国しました。ところが、友人にあてた12月の手紙を最後に消息を絶ってしまいました。ビアスの失踪は、アメリカ文学史上もっとも有名な失踪事件のひとつとなっています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、ビアス『世界怪談名作集』「妖物」(岡本綺堂訳) を読むことができます。


「6月25日にあった主なできごと」

845年 菅原道真誕生…幼少の頃から学問の誉れが高く、学者から右大臣にまでのぼりつめたものの、政敵に陥れられて九州の大宰府へ左遷された「学問の神」として信仰されるようになった菅原道真が生まれました。

1734年 上田秋成誕生…わが国怪奇文学の最高傑作といわれる『雨月物語』を著した江戸時代後期の小説家・国学者・歌人の上田秋成が生まれました。

1956年 宮城道雄死去…琴を主楽器とする日本特有の楽曲「箏曲(そうきょく)」の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が亡くなりました。

今日6月24日は、川崎造船所(今の川崎重工)を30年以上経営して造船界の基礎をこしらえた実業家、国際的に活躍した政治家、絵画・彫刻・浮世絵などを収集した美術収集家として知られる松方幸次郎(まつかた こうじろう)が、1950年に亡くなった日です。

1866年、第6代内閣総理大臣をつとめた松方正義の3男として薩摩国(鹿児島)に生まれた幸次郎は、1884年に東京帝国大を中退後、アメリカのエール大学、フランスのソルボンヌ大学に留学して1890年に帰国。学習院大学の講師になりますが、1891年第1次松方内閣が成立したときから、父の首相秘書官となりました。

1896年父の同郷の友で、「川崎造船所」を創業した川崎正蔵に要請され、31歳の若さで神戸にあった同社の社長に就任します。当時は日清戦争後ということもあり、日本の海運業は著しく発展したものの、造船の大半は海外に発注するのが常でした。松方は積極的に設備投資をし、1905年に第1船台を完成させると、1912年までに4つの船台を設置したばかりか、海外からの技術導入を積極的に進め、船舶用タービンなど特許を所有する欧米の会社と次々と契約し、高度の技術を造船に取り入れて、世界に誇る日本の造船界の基礎を築きました。

ところが、1920年ころからはじまった不況期に、無謀ともいえる多角化戦略のため、1927年の金融恐慌で多額の融資を受けていた主要取引銀行の十五銀行が臨時休業になり、資金繰りが急速に悪化したことで、川崎造船所は破綻してしまいました。この責任をとって松方は退社しますが、同社は1933年に和議成立の手続きを完了し、新社として満州事変を境に景気も上向きとなり会社の再建は軌道にのっています。その後松方は、1936年から衆議院議員を連続3期務め、国民使節として渡米するなどで国際的に活動しました。

でも、松方幸次郎の名を決定づけているのは、松方が大正初期から昭和初期にかけて収集したぼう大な「松方コレクション」でしょう。イギリス、フランス、ドイツ等で収集した美術コレクションは、モネやルノアールらの西洋絵画、ロダンの「考える人」「地獄の門」「カレーの市民」「バルザック」などの彫刻、日本の浮世絵が中心です。松方コレクションのうち、近代フランスの絵画・彫刻等約370点は、東京・上野にある国立西洋美術館に収蔵されて公開されていますが、同美術館の収蔵品は、松方の収集品全体からみればごく一部で、多くは散逸してしまったといわれています。また、約8000点の浮世絵コレクションは、東京国立博物館の所蔵となっています。


「6月24日にあった主なできごと」

672年 壬申の乱…古代最大の内乱といわれる「壬申の乱」が始まりました。大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の争いで、およそ1か月続きました。

1611年 加藤清正死去…豊臣秀吉の家臣として仕え、秀吉没後は徳川家康の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって熊本藩主となった加藤清正が亡くなりました。1562年に誕生した日でもあります。

1788年 田沼意次死去…江戸時代の中ごろ、足軽の子に生まれながら、側用人から老中までのぼりつめ、1767年から1786年まで 「田沼時代」 とよばれるほど権勢をふるった田沼意次が亡くなりました。

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