児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年05月

今日5月9日は、加賀前田家第5代藩主で80年近い優れた治世により、徳川光圀や池田光政と並び、江戸時代前期の名君として讃えられた前田綱紀(まえだ つなのり)が、1724年に亡くなった日です。

1643年、第4代加賀(石川県)前田家藩主前田光高の子として江戸藩邸に生まれた前田綱紀(幼名・犬千代)は、3歳の時に父の死により家督を相続すると、幕命により、隠居していた祖父の利常が後見することになりました。1658年、4代将軍徳川家綱の補佐役で声望のある保科正之(会津藩主)の10歳の娘摩須(ます)と結婚、18歳の若さで妻は亡くなりますが、その間綱紀は、正之の思想に大きな影響を受け、その後のさまざまな政策に反映させていきました。

綱紀の藩政改革は、まず農業方面から着手されました。「改作法」を作り、1村の農民はすべて同じ税率で税を納める「一村平均免」、豊作凶作によって税率を変えない「定免法」、有力な農民を十村(とむら)として農村全体を管理監督し徴税を円滑に進める「十村制」を定めました。これらは、時代によって多少の改変があるものの、明治維新で廃藩されるまで継承されています。

また民政では、飢饉の際には生活困窮者を助けるための「御救い小屋」と呼ばれる施設を設置して、後に授産施設も併置しました。この施設は2千人も収容可能で、飢餓の際にここで米を支給したばかりか、医療体制も整えています。

定評のある学問振興策は、綱紀自身が学問好きで和漢の学問に通じ、武芸から書画・能楽から割烹にいたるまで幅広く修めたこともあり、藩内に学問や文芸を奨励し、書物奉行を設け、工芸の標本や古書収集にあてたことで、のちに新井白石が「加賀藩は天下の書府」と礼賛されたほど、書庫には豊富な書籍が収蔵されていたようです。さらに、木下順庵、室鳩巣、稲生若水ら100名もの諸学諸芸の達人を招へいして学び、綱紀自らが編さんした百科事典『桑華学苑』など、122部もの著書を残しています。

1689年には第5代将軍徳川綱吉から100万石を誇る最大の大藩として、御三家に準ずる待遇を与えられてその権威を頂点にまで高め、荻生徂徠からは、「加賀侯非人小屋(御救い小屋)を設けしを以て、加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と讃えられたほか、町方から地方の統制、防火施設の整備に至るまで、他の大名たちから羨望されるほどでした。しかし、財政は元禄期以降、100万石の家格を維持するための出費が増大し、1723年5月、家督を四男の吉徳に譲って隠居後亡くなりますが、「加賀騒動」という不祥事をひきおこす要因を残してしまいました。


「5月9日にあった主なできごと」

1903年 ゴーガン死去…ゴッホやセザンヌと並び、後期印象派の代表的な画家として評価の高いフランスの画家ゴーガンが亡くなりました。

1994年 南アに初黒人大統領…アパルトヘイト(人種隔離)政策が長くすすめられてきた南アフリカ共和国に、国民全体が参加した選挙で、人種差別とたたかってきた黒人解放運動の闘士マンデラが大統領に選出されました。

今日5月8日は、ロングセラー絵本『かいじゅうたちのいるところ』『まよなかのだいどころ』など80点以上ものファンタジー絵本を著し、現代絵本界を代表するアメリカのセンダックが、2012年に亡くなった日です。

1928年、ニューヨークのブルックリンにあるユダヤ人コミュニティーの中で生まれたモーリス・センダックは、翌年にウォール街で株が大暴落し、大不況が起きたことで父が友人と経営していた会社は倒産、センダックの家族は貧困の底においやられました。子どものころのセンダックは病弱で友だちもなく、母親のいる台所が唯一の遊び場所で、絵を書くのが大好きでした。

高等時代に抜群の画才で頭角をあらわすと、卒業後にマンハッタンの玩具店でウィンドウを装飾する職人の仕事につきました。やがてからくり人形を考案したことで、玩具店主に紹介されてハーパーランド・ブラザーズの名編集者と知り合い、1951年にマルセル・エーメの童話『おにごっこ物語』などに挿絵を描くようになりました。1952年に発表された『あなはほるもの おっこちるとこ』はニューヨーク・タイムズ年間最優秀図書に選ばれています。

1956年に『ケニーのまど』を出版してからは、文・絵ともすべて自作の絵本を出版するようになり、1964年に『かいじゅうたちのいるところ』を発表すると、その評価をめぐって大論争がおこりましたが、全米で年間最優秀作品に授与されるコールデコット賞を翌年に受賞し、世界的なベストセラーとなりました。これまでに、2千万部以上といわれるこの絵本は、つぎのような内容です。

オオカミのぬいぐみを着たマックスは、ある日いたずらをして母親に叱られます。「この かいじゅう!」とおこる母親に「おまえをたべちゃうぞ」と大暴れしたため、おしおきとして夕食抜きで寝室に放り込まれます。やがて暗くなるとマックスは家出をし、ヨットで長い航海のすえ、不思議な森のある島に着きます。そこはかいじゅうたちのいるところで、かいじゅうたちは恐ろしい顔つきをしていたものの、マックスは彼らのギラギラ光る恐ろしい目を見すえることができたため、「かいじゅうの王様」になり、かいじゅうたちと大騒ぎして楽しいひとときをすごします。心が解放されて家が恋しくなって再び航海して部屋にもどると、そこにはほっかほかの夕食が置かれていました……。

センダックは生涯に80点以上の作品を残していますが、自作品には他に『まよなかのだいどころ』『ロージーちゃんのひみつ』『まどのそとのそのまたむこう』などがあり、絵だけの作品に『こぐまのくまくん』『シャーロットのしろい馬』『そんなときなんていう?』などがあります。1970年には、子どもの心とすがたをいきいきと描き出す絵本作家として、国際アンデルセン賞を受賞しています。


「5月8日にあった主なできごと」

1615年 大坂夏の陣…豊臣秀頼の生母で、秀吉亡きあと秀頼の後見人として豊臣家一族を盛りたてた淀君が、家康のはかりごとに屈し、「大坂夏の陣」に敗れて秀頼とともに自害しました。豊臣家が滅亡した日でもあります。

1794年 ラボアジェ死去…従来の化学理論を次々と正し、実験で証明したことで「近代化学の父」と称されたフランスの科学者ラボアジェが、ある時期に徴税請負人をしていたことがわかり、ギロチンで処刑されました。

1859年 デュナン誕生…負傷兵を敵味方を問わずに助ける「国際赤十字」のしくみをこしらえたスイスの社会事業家デュナンが生れました。この誕生日を記念して、5月8日は「世界赤十字デー」として、1948年から国際的な記念日となっています。

今日5月7日は、安土桃山時代から江戸初期の豊臣方の武将で、大坂の陣で大活躍した真田幸村(さなだ ゆきむら)が、1615年に亡くなった日です。

1567年、信濃国(長野県)上田城主の真田昌幸の次男として生まれた真田幸村(信繁)は、幼少のころは真田家が越後の上杉景勝にしたがっていたため人質として上杉家におかれました。羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると父昌幸は豊臣政権に帰属して独立した大名として自立するものの、幸村は人質として大坂に移り、のちに徳川家康の家臣本多忠勝の娘を正妻に迎えています。1590年の小田原征伐には、父と共に従軍、石田三成指揮下で手柄をたてたほか、秀吉の最初の朝鮮征伐(文禄の役・1592~93年)では、前線基地の名護屋城(佐賀県)の警備に貢献しています。

秀吉死後の1600年、徳川家康が会津に移った上杉景勝討伐の兵を起こすとこれに従軍、石田三成ら(西軍)が挙兵して家康軍(東軍)と「関ヶ原の戦い」となると、父と共に西軍についたことで、兄信之と敵対することになりました。父と幸村は上田城にこもって、のちに2代将軍となる徳川秀忠率いる3万5千の大軍を防ぎましたが、三成らの西軍が、徳川軍の主力といえる秀忠の到着前に関ヶ原で敗北をきっしたため、幸村と父は、本来なら敗軍の将として切腹を命じられるところでしたが、兄信之と舅の本多忠勝の取りなしで、紀伊国九度山に配流を命じられるだけですみました。

ちっ居中の1611年に父が亡くなって幸村は出家するものの、1614年に豊臣秀頼が兵をあげて大坂冬の陣がはじまったことを聞くと、幸村はすぐに大坂城に入り、城の東南の隅に真田丸というとりでを築いて奮戦し、徳川連合軍を悩ませました。翌年の大坂夏の陣では、徳川軍よりはるかに少ない3500の兵で、茶臼山の本陣まで家康を追いつめましたが、力つき、この日戦死したのでした。

のちに真田幸村は、この合戦に参戦した将兵たちによる記録や証言が基になり、真田十勇士をしたがえ、宿敵・徳川家康に果敢に挑戦する英雄的武将として講談や小説などに描かれたことで有名ですが、真田十勇士はまったくの創作です。


「5月7日にあった主なできごと」

1730年 本居宣長誕生…35年かけて完成させた『古事記伝』など数多くの古代日本を探る研究書を著した、江戸時代中期の国学者・本居宣長が生れました。

1824年 第九の初演…ベートーベンの交響曲第九番(合唱付)が、この日オーストリアのウィーンで初めて演奏されました。約80人のオーケストラと100人の合唱によるもので、すでに耳がきこえなくなっていた54歳のベートーベン自身も指揮台にたって、各楽章のテンポを指示しました。熱狂した観客はアンコールをくりかえし、3度目のアンコールを警官に止められたという逸話が残っています。この曲は日本でも「第九」として親しまれ、第4楽章は「歓喜(よろこび)の歌」という名で知られています。

1840年 チャイコフスキー誕生…バレー組曲『白鳥の湖』『くるみ割り人形』『眠りの森の美女』、交響曲『悲愴』、弦楽四重奏曲『アンダンテカンタービレ』などを作曲したロシアの作曲家チャイコフスキーが生まれました。

今日5月2日は、アメリカの上院議員で、1950年代前半に「マッカーシズム」といわれる共産主義者への攻撃旋風をまきおこしたマッカーシーが、1957年に亡くなった日です。

1908年、ウィスコンシン州グランド・チュウトに農場経営者の子として生まれたジョセフ・マッカーシーは、ミルウォーキーのマーケット大学で法律を学びました。1935年卒業後に弁護士の資格を取ると、法律事務所で働きながら1936年に民主党員として治安判事になるための運動に乗り出すものの成功せず、1939年に巡回裁判官に当選しました。

1942年アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、海兵隊の大尉とし南太平洋の戦闘に参加しました。1945年4月に除隊後、再選出された巡回裁判官のかたわら、上院議員選挙のための組織的な運動を開始したことが功を奏し、1946年に共和党上院議員となりました。

当初は目だたない存在でしたが、再選挙がせまる1950年2月、「国務省には共産党党員が25名以上もいる。20年もの民主党政権で、共産主義スパイ網が形成されて、彼らが外交政策にたずさわっている」と爆弾発言すると、当時、ソ連が原爆開発に成功し、中国に共産党政権が成立したこと、いくつかのスパイ事件が摘発されたことなどで、冷戦初期の国際情勢に不安をいだいていたアメリカ市民の注目をあびました。

これ以後マッカーシーは、トルーマン政権の中国政策の失敗や朝鮮戦争の始まりを背景に、リベラル派や共産主義者の個人攻撃を開始しました。実態的な証拠のないものだったにもかかわらず、次々と指弾することで、新聞やテレビの注目をあび、共和党の一部指導者の後押しもあって、いちやく有名議員となりました。この「赤狩り旋風」により、1952年の選挙に再選されたばかりか、アイゼンハワー政権の政府内機能審査委員長になって、CIAや陸軍にまで赤狩りは広がり、アメリカ政界を不安と恐怖におとしいれ、一時その権勢は、大統領に匹敵するといわれるほどでした。

しかし1954年春、テレビ中継された陸軍議会聴聞会で、マッカーシーの政治家らへの攻撃が根拠のないものだったことがわかると、人々の非難を浴びるようになって、同年末には上院がメンバーにふさわしくない人物として譴責処分を下し、「マッカーシズム」は終えん、政治生命を絶たれました。


「5月2日にあった主なできごと」

756年 聖武天皇死去…仏教を深く信仰し、全国に国分寺を建て、奈良の大仏を造った聖武天皇が亡くなりました。

1519年 レオナルド・ダ・ビンチ死去…『モナリザ』『最後の晩餐』など絵画の名作を描いたばかりでなく、万能の天才といわれるイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ビンチが亡くなりました。

1948年 サマー・タイムの実施…欧米の政策を採り入れて、時計を1時間早めるサマー・タイムが実施されました。しかし、日本の生活習慣に合わなかったため、4年後に廃止されました。最近になって、エネルギーの節約と時間の有効活用のために、導入すべきだという声もきかれるようになっています。

今日5月1日は、自ら被爆したにもかかわらず、献身的な被爆者治療にあたった医師として知られる永井隆(ながい たかし)が、1951年に亡くなった日です。

1908年、島根県松江市の医者の子として生まれた永井隆は、県立松江中学、松江高校を優秀な成績で卒業すると医者をめざし、1928年長崎医科大学に学びました。浦上天主堂に近い、代々隠れクリスチャンだった森山家に下宿したことで、カトリックに関心をいだくようになり、内科医をめざして勉学にはげみました。努力が実って、1932年の卒業式で総代として答辞を読むことになっていたところ、事前に急性中耳炎にかかって重症に陥ったことで、当初志望した内科をやめて放射線医学を専攻することになり、研究室助手として放射線物理療法の研究に取り組みました。

1933年に広島歩兵連隊の軍医として満州事変に従軍、戦地で救護活動にあたりました。翌年帰国後助手に復帰すると、カトリックの洗礼を受けて森山家のひとり娘の緑と結婚。信徒組織ヴィンセンシオ会に入会すると、無料診断・無料奉仕活動などを行いました。1937年、長崎医科大学の講師に就任後、同年におこった日支事変(日中戦争)により、ふたたび軍医として出征すると、日本軍のみならず中国人への医療にも従事し、ヴィンセンシオ会から送ってもらった物資を分配するなどの活動をします。

1940年に帰国、同大学助教授・物理的療法科部長に就任するものの、長期間のレントゲン照射により1944年骨髄性白血病と診断されました。追い打ちをかけるように1945年8月9日、原子爆弾が長崎に投下され、爆心地から700mしか離れていない長崎医大の診察室で被爆。頭動脈切断という重傷を負うものの、布を頭に巻いただけで救護活動にあたりました。

3日後に帰宅すると、台所跡から骨片だけになった妻の遺骸を発見、その骨片を拾って埋葬します。その後子どもたちと義母が疎開していた西浦上の家に救護本部を設置して被爆者救護に当るものの、9月はじめに突然傷口からの失血のため死を覚悟します。ところが奇跡的に回復し、1946年1月には同大教授となって、多くの被爆者の治療を献身的に行ったことで「浦上の聖者」といわれました。しかし7月に長崎駅近くで倒れ、その後は病床に伏すこととなりました。

闘病中に書いた『長崎の鐘』や『この子を残して』はベストセラーとなり、特に『長崎の鐘』は、1949年に永井の原作をヒントにサトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎の歌でレコード発売され、藤山は、永井が白血病で亡くなる前の第1回NHK紅白歌合戦1月3日の大トリにこの曲をうたい、以後紅白歌合戦に3回うたった他、1950年の同名映画の主題歌になって、長く親しまれ続けました。

♪ こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ
 * なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ 別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの 鎖に白き わが涙
  (* くりかえし)             「以下略」

なお、永井の著書『長崎の鐘』は、オンライン図書館「青空文庫」で読むことができます。


「5月1日はこんな日」

メーデー…世界各地の労働者が、国際的に統一して権利要求と国際連帯の活動を行なう「労働者のお祭りの日」のメーデーです。


「5月1日にあった主なできごと」

1873年 リビングストン死去…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが亡くなりました。

1904年 ドボルザーク死去…『スラブ舞曲』や『新世界より』などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが亡くなりました。

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