児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年05月

今日5月16日は、ポーランド出身でイギリスを中心に活躍した人類学者のマリノフスキーが、1942年に亡くなった日です。

1884年、当時オーストリア・ハンガリー帝国領だったポーランドのクラクフに生まれたブロニスワフ・カスペル・マリノフスキーは、幼いころに父を亡くし母との2人暮らしをしながら勉学にはげみ、クラクフ大学で物理学を専攻、1908年に学位を取得しました。ちょうどそのころ、社会人類学者のフレイザーによって著された未開社会の神話・呪術・信仰に関する大著『金枝篇』を読んで感銘を受けると、研究分野を人類学に移し、ライプツィヒ大学で民族心理学を2年間学んだ後イギリスへの渡航を決意して、1910年にロンドン大学に入学しました。すでに着手していたオーストラリアの原住民に関する研究を深め、1913年に『オーストラリア・アボリジニの家族』という論文を発表しています。

そして翌1914年に、ニューギニア島の東にあるトロブリアンド諸島のフィールドワークに取り組み、4年間にわたって現地の人々と行動を共にし、その生活の詳細な観察を行いました。このマリノフスキーが行った調査法は「参与観察」と呼ばれる手法で、現在に至るまで文化人類学の野外調査の基本型となっています。

この調査からロンドンにもどったマリノフスキーは、調査資料をもとに、1921年『西太平洋の遠洋航海者』を著したのをきっかけに、「島民の儀礼的交換」「性をめぐる慣習」「農耕などの呪術」「法と慣習」などの著作や論文を次々に発表し、1924年からロンドン大学で人類学講座を担当すると、1927年には初代の社会人類学教授に就任しました。当時のロンドンの自宅には毎日のように学生や知人が訪問したため、妻は睡眠をとるため知人の家へ出かけるほどの人気だったといわれています。

その後、第二次世界大戦がはじまると、1938年にアメリカに移住し、イェール大学の客員教授となって、大学のある地で亡くなりました。


「5月16日にあった主なできごと」

1703年 ペロー死去…『がちょうおばさんの話』(「長靴をはいた猫」「眠れる森の美女」「赤ずきん」「シンデレラ」など名高い民話を語り直した話を収録)を著わしたフランスの童話作家ペローが亡くなりました。

1975年 女性初のエベレスト登頂…日本女子エベレスト登山隊の田部井淳子が、世界で初となる女子世界最高峰登頂に成功しました。さらに田部井は、1992年に女子世界初の7大陸最高峰登頂をなしとげています。

今日5月15日は、室町時代中期の茶人で「わび茶」を創始したとされる村田珠光(むらた じゅこう)が、1502年に亡くなった日です。

1422年、琵琶法師の村田杢市(もくいち)検校の子として奈良に生まれた珠光(幼名・茂吉)は、11歳のとき奈良称名寺に入れられますが、18歳のころ、寺の雑用を嫌い法業を怠け、座禅すると居眠りするくせが治らないことで寺をを追われてしまいました。両親にも勘当されて漂泊の身になり、諸国を放浪しました。

30歳のころに上洛し、京都大徳寺の一休宗純のもとで禅の修行をしました。座禅をすると眠くなることを医者に相談したところ、抹茶が眠気をさますことを知り、この茶を中国から日本に持ち寄った栄西の著書『喫茶養生記』を読むうち茶のあり方に興味を持ちました。やがて一休から「仏法も茶の湯の中にあり」の語を得てからは、[茶禅一味] の境地に至り、これまでの格式ばった書院座敷の茶の湯に対し、禅の精神をこめた民衆向け草庵ふうのわび茶を確立しました。四畳半の茶室を考案したのも珠光だといわれています。

やがて能阿弥と出合って生け花の弟子となり、茶の湯に使用する手前の台子など喫茶に使用する道具類の鑑定法を学びました。その後、能阿弥の引き立てにより室町幕府8代将軍足利義政と知りあい、茶の湯の師匠となり、義政から「珠光庵」の額を与えられ、晩年には郷里の奈良に茶室を設けたといわれています。

珠光には堺や京都に弟子を多く輩出し、堺の豪商で茶人の武野紹鴎(じょうおう)をへて、千利休によって「わび茶」が完成されたことはよく知られています。 


「5月15日にあった主なできごと」

1932年 5・15事件…海軍の若い将校や右翼の若者たちが、政党や財閥をたおし、軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相官邸や警視庁などを襲撃、犬養毅首相を射殺する事件が起こりました。この惨劇により、14年間続いた政党内閣は断絶し、わが国はファッシズムへの道をまっしぐらに進むことになります。

1972年 沖縄本土復帰…第2次世界大戦後アメリカに占領されていた沖縄が、26年ぶりに返還され、沖縄県として日本に復帰しました。

今日5月14日は、絶対王政に君臨したルイ14世の父で、絶対王権を確立する基礎を築いたルイ13世が、1643年に亡くなった日です。

1601年、ブルボン朝初代フランス王アンリ4世とイタリアの大財閥メディチ家の娘マリーの長男として生まれたルイは、1610年、父が狂信的なカトリック教徒に暗殺されたことにより、ルイ13世として8歳で即位しました。摂政となった母マリーは、イタリア人のコンチーニを重用して政治の実権を握ると、1615年にカトリック国スペインとの同盟強化をはかるため、スペイン王フェリペ3世の王女アンナと結婚させました。

成人に達したルイ13世は、1617年に寵臣リュイヌにコンチーニを暗殺させ、母も中部フランスのブロアに追放するものの、以前から忠実な臣下でなかった大貴族やフランス新教徒(ユグノー)が古い特権をとりもどそうと反抗するなど、若いルイには厳しい状況がつづきましたが、1624年に、リシュリュー枢機卿を重用して王の権力を強め、国力を充実させる仕事にあたらせました。

1630年母マリーと取り巻きの大貴族がリシュリューの罷免を要求したのに対し、ルイは改めてリシュリュー信任を表明し、母を国外亡命させ、何度もおこした大貴族たちの反乱や陰謀もすべて失敗に終わらせました。ユグノー教徒たちとも、10か月にわたる包囲戦に勝利して、彼らの政治特権をはく奪して、国内の反対勢力をほぼおさえました。

対外的には、重商主義を掲げ、海外貿易と海軍を強化しました。また神聖ローマ帝国を独占するハプスブルク家の力を弱めようと、1635年、ドイツで新教徒とカトリック教徒が争う三十年戦争に参戦し、劣性だった新教徒を支援して挽回をはかり、絶対王権を確立する基礎を築いたのでした。

なお、ルイ13世は30歳のころに髪がなくなったため、大きなかつらをかぶっていました。これを貴族たちがまねをしたことで、当時かつらが大流行するはしりになりました。


「5月14日にあった主なできごと」

1221年 承久(じょうきゅう)の乱…後鳥羽上皇は、京都近隣の武士1万7千人に対し、鎌倉幕府執権の北条義時追討の命令を出しました。幕府軍は19万の軍勢でこれをむかえ討ち、上皇を隠岐島へ流しました。鎌倉幕府成立後、京都の公家政権との二頭政治が続いていましたが、この乱以降は幕府が優勢となり、皇位継承にまで影響力を持つようになりました。

1796年 ジェンナーの種痘…イギリスの外科医ジェンナー は、牛痘にかかった人の膿を少年に接種 (種痘) し、天然痘という伝染病を根絶させるキッカケとしました。そのため、5月14日は「種痘記念日」に制定されています。

1839年 蛮社の獄…江戸幕府目付の鳥居耀蔵は、田原藩士渡辺崋山、高野長英らを逮捕しました。蛮社とは、洋学者を中心に町医者・藩士・幕臣等有志の者が海防目的で蘭学や内外の情勢を研究していた尚歯会(しょうしかい)を「野蛮な結社」と国学者たちがさげすんだことによります。浦賀沖へ来航したアメリカ船モリソン号に砲撃を加えたことを、崋山や長英らが非難したことへの反感からの逮捕でした。

1878年 大久保利通死去…明治維新をおしすすめた西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新の三傑」とよばれ、明治新政府の土台をささえた指導者大久保利通が暗殺されました。

今日5月13日は、西南戦争で政府軍の熊本鎮台司令官として熊本城にたてこもり、西郷軍の猛攻に耐えて勝利するなど、幕末から明治にかけて活躍した陸軍軍人・政治家の谷干城(たに たてき)が、1911年に亡くなった日です。

1837年、土佐(高知県)藩士の子として生まれた谷干城は、のちに父が土佐藩の武道師範(上士)として取り立てられたことから1859年、江戸へ出て儒学をおさめ、帰国途中に武市半平太と知り合って尊王攘夷に傾倒しました。しかし1866年に藩命で長崎や上海を視察をするうち攘夷論をすて、後藤象二郎や坂本龍馬と交わり、1867年5月中岡慎太郎の仲介によって、板垣退助らとともに京都の小松帯刀邸で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通らと会い、討幕の密約「薩土同盟」を結び、討幕に成功しました。

1868年、新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」では、板垣退助率いる土佐藩兵の大軍監として北関東・会津戦線で活躍したことで、1871年には新政府の兵部省に入り、1873年には熊本鎮台司令官となって、佐賀の乱を鎮め、1874年には台湾出兵に参加するなど実績を残すと、1877年の西南戦争の際には52日にわたって西郷軍1万2千の攻撃から熊本城を死守して、政府軍の勝利に貢献したことで名声をあげました。

この功績により陸軍中将に昇進し、陸軍士官学校長となった谷でしたが、伝統的家族制度や旧臣の心情をかえりみない政府の官僚主義や、1881年に先の台湾出兵で戦死・病死した将兵の遺体を一部の地方官が粗末に扱った事実を政府・陸軍首脳部が放置していたことに抗議、受け入れられないと憤慨して辞任、土佐に帰省しました。

その後、学習院院長から政治家に転身し、1885年第1次伊藤内閣の初代農商務大臣に就任し、翌年欧州視察を命じられて帰国後、伊藤内閣の欧化政策、条約改正問題に反対し、情実の弊・内閣の弊・軽佻の弊・行政の弊・倹約・立憲政体の7項目からなる政府を弾劾する「国家の大要」を提出後に辞任しました。

のちに貴族院議員となって、地租増徴策に反対して農民の負担軽減を主張するなど、独自の政治運動を展開し、薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的中正主義、平和主義を押し通し、土佐派の重鎮として慕われる75年の生涯を終えました。


「5月13日にあった主なできごと」

1401年 日明貿易…室町幕府第3代将軍の足利義満は、明(中国)に使節を派遣し、明との貿易要請をしました。明は、遣唐使以来、長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、明の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易」とも呼ばれています。

1717年 マリア・テレジア誕生…ハプスブルク家の女帝として40年間君臨し、現在のオーストリアの基盤を築いたマリア・テレジアが生まれました。

1894年 松平定信死去…江戸時代中期、田沼意次一族の放漫財政を批判して「寛政の改革」とよばれる幕政改革おこなった松平定信が亡くなりました。

今日5月12日は、創始した「少林寺拳法」を通じ、将来をになう青少年育成をめざした教育家の宗道臣(そう どうしん)が、1980年に亡くなった日です。

1911年、現在の岡山県美作市に税関吏の子として生まれた道臣(本名・中野理男)は、幼いころに両親を亡くしたため、柔術家の祖父宗重遠の養子となり、古流柔術や剣道を学びました。1928年、日本軍の特務工作員として渡った満州で、中国武術の達人たちから秘伝を学びました。当時の中国は、義和団の乱の影響から拳法が禁止されていたことで、わずかに生き残った武術家たちは、こころよく指導をしてくれたようです。

そんな武術家のなかに、70歳をこえる少林義和門拳20代師父の文太宗がいて、道臣は弟子入りすると中国河南省にある高山少林寺に入って修行を重ね、ついに21代の伝法印可を授けられました。

終戦後の1947年に満州から帰国した道臣は、文太宗をはじめ中国の武術家たちから受けついだ技を整理し、創意工夫をこらして体系化し、突き・蹴りなどの「剛法」、抜き技・逆技・投げ技などの「柔法」、整骨などの「整法」の三法からなる「少林寺拳法」の名をつけ、香川県多度津町に道場を開きました。

当時の治安の悪い社会情勢下で、自警団的な役割をになうことになり、人数が増えるにつれて周辺地域の暴力団をしのぐ組織となっていきました。すると、武術修行を禁止していたGHQに目をつけられたことで宗教法人とし、精神修養と護身を旨とする体操の一種として禁令を回避しました。

その後現代化をはかり、金剛禅と一体化させて調和のある生き方を身につけるための原理を、組手主体の訓練によって実現させようと勝負を目的とせず、2人で交互に法形という技をかけあいながらその原理を習得していく過程を修行の中心においています。いまも武道団体としての結束力が強く、日本ばかりでなく、世界じゅうに多くの支部をもっています。

なお、オンライン映像「ユーチューブ」では、開祖宗道臣の映像ほか、たくさんの技を見ることができます。


「5月12日にあった主なできごと」

1534年 織田信長誕生…群雄割拠といわれる戦国時代を走りぬけ、全国統一を目の前にして家臣明智光秀の謀反に倒れた武将・織田信長 が生まれました。

1698年 青木昆陽誕生…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な青木昆陽が生まれました。

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力したナイチンゲールが生まれました。5月12日は国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」とされています。

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。

↑このページのトップヘ