児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年05月

今日5月23日は、イタリアのドミニコ会修道士として、フィレンツェで神権政治を行ったサボナローラが、1498年に処刑された日です。

1452年、ベネチアとボローニャの中間にあるフェラーラで、内科医・博学者だった祖父の孫としてに生まれたジローラモ・サボナローラは、祖父のあとを継ごうとフェラーラ大学で医学を修めました。ところが、1475年のころ、失恋したのがきっかけでボローニャにあるドミニコ派修道院会に入って神学を学び、修道士となりました。1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に移ると、説教壇からメディチ家独裁体制にあるフィレンツェの腐敗ぶりを激しい言葉で批判し、一部の市民たちを感激させました。

やがて信奉者は次第に増えはじめました。数年間各地を回った後、1490年にふたたびフィレンツェにもどると、メディチ家当主のロレンツォ・デ・メディチにも信任されて、サン・マルコ修道院の院長になりました。そして、社会的不公正や、宗教や風俗の乱れをさらにはげしい言葉で非難し、「快楽を求めて浮かれていると、神のおそろしい罰を受けるだろう」と予言しました。

1494年、フランスのシャルル8世軍がフィレンツェに侵攻してくると、それが彼の予言だとして市民たちの信望がいっそう高まり、メディチ家がフランスへの対応を誤ったことでフィレンツェを追放されると、熱狂的な支持を受けてフィレンツェ共和国の政治顧問となり、その提言により大評議会が設置され、税制改革など神権政治が実施されました。いっぽう、サボナローラは教皇アレクサンデル6世と教皇庁の堕落を厳しく非難しました。そのため、1497年に教皇から破門されると、サボナローラの説教に踊らされた少年たちが、家々に押し入って異教的な本や美術、ぜいたく品をシニョリーア広場に集めて焼き払う「虚栄の焼却」を行ったことは、一部の市民から反対が叫ばれはじめ、その勢いは一気に高まっていきました。

そして、翌1498年4月8日、サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサボナローラを拘束しました。教皇庁の審問官による裁判の結果、火あぶりの刑をいいわたされ、市庁舎前の広場で実施され、遺骨はアルノ川に捨てられたのでした。しかし、ローマ教皇庁の堕落を批判して神権政治を行い、「虚栄の焼却」を指導したことなどから、ルターやカルバンらに先立つ、宗教改革の先駆といわれています。


「5月23日にあった主なできごと」

811年 坂上田村麻呂死去…平安時代初期の武将で、初の征夷大将軍となった坂上田村麻呂が亡くなりました。

1663年 殉死の禁止…徳川4代将軍家綱は「武家諸法度」を改訂し、古くから武士の美徳とされてきた「殉死」(じゅんし・家来などが主君の後を追って自決すること)を禁止しました。

1707年 リンネ誕生…スウェーデンの博物学者で、動植物の分類を学問的に行って「分類学の父」といわれるリンネが生れました。

1848年 リリエンタール誕生…大型ハングライダーを開発して自ら操縦し、航空工学の発展に貢献したドイツのリリエンタールが生まれました。

今日5月22日は、日本初の女医養成機関の「東京女医学校」を設立させ、女性医の養成や医学の教育・研究の振興に尽くした吉岡弥生(よしおか やよい)が、1959年に亡くなった日です。

1871年、いまの静岡県掛川市に、漢方医鷲山養斎の長女として生まれた弥生は、父が西洋医学にも興味を持っていたことから、地元の小学校を卒業すると上京、1889年に当時唯一の医学校だった湯島の済生学舎(現・日本医科大)に入学しました。男女共学になって間がなかったためか、男子が女子の授業を妨害するようなことがたびたびありました。弥生は「女医学生懇談会」を作り、卒業生の女子医師を顧問にして対抗し、1892年には、内務省医術開業試験に合格して、日本で27人目の女医となっています。

卒業後は帰省して、父の仕事を手伝いましたが、1895年に再上京し、昼間は開業をしながら夜はドイツ語を教える私塾・東京至誠学院に通学、同年秋に院長の吉岡荒太と結婚すると、2年後同学院校内に至誠医院を開院しました。

1900年、済生学舎が女性の入学を拒否したことを知ると、すぐに女子学生の医学校を作る決意をし、同年年末には、わが国初となる東京女医学校(現・東京女子医大)を創立しました。設備や教材が足りないため、弥生は自分の出産を教材に使用したと伝えられています。1906年に医師法が制定され、専門学校だけが医師試験に受験できると定められると、努力を重ねて、1912年に同校を東京女子医学専門学校に昇格させ、1920年には文部省指定校となって、同校の卒業生は国家試験を受けることなく医師資格が取れるようになりました。

ところが、太平洋戦争中にさまざまな婦人・青年団組織の要職について社会活動を指導したことから、敗戦後にGHQから、その行為が戦争協力とされ、1947~51年まで公職追放されてしまいました。しかし、解除後の1952年に、81歳で念願の「東京女子医科大」の学頭に就任しています。


「5月22日にあった主なできごと」

1333年 鎌倉幕府滅亡…新田義貞が鎌倉幕府の執権北条高時を討ち、鎌倉幕府が滅びました。

1775年 蒸気機関の特許…イギリスのエンジニアであるワットは、凝縮機、調速機、変速機の発明など蒸気機関の改良をおこなって、この日特許を取得しました。ワットの蒸気機関は、鉱山や工場で広く用いられ、産業革命の原動力となりました。

今日5月21日は、江戸時代の中・後期に活躍した浮世絵師で、独自の美人風俗画を完成させた鳥居清長(とりい きよなが)が、1815年に亡くなった日です。

1752年、江戸本材木町(いまの東京日本橋)に生まれた通称市兵衛は、幼いころから家業が書肆だったことから浮世絵版画や草双紙や絵本などに接することが多く、芝居絵の大家だった鳥居清満に弟子入りしました。1767年に役者の紅摺絵でデビューすると清長を名のり、役者絵を中心に活動をしていきます。

やがて、当時流行していた黄表紙の挿絵を描くかたわら、鈴木春信や磯田湖竜斎風の美人画や、北屋重政や勝川春草らから写実の描き方を吸収すると、諸家の画風から離れ、写生に基づく江戸風景を背景に、八頭身の明るく健康的な独自の美人画を創り上げるようになりました。さらに大判二枚続き三枚続きの大画面を使いこなし、美人を群像的に配する「美人風俗画」を完成させました。それは、春信らの描く夢幻的な美人画に対し、現実的な身近に感じられる美人画でした。一般家庭の女性の日常のひとときを描いた『化粧と張物』、茶店で床机に腰を掛け満月の清光を浴びる女性を描いた『大川端の夕涼』、『真崎の月見図』や『女湯の図』など、のちに喜多川歌麿が登場するまでの浮世絵画壇を席巻しました。

また役者絵では、浄瑠璃の太夫たちを登場させた「出語り図」という新方式をあみだして、より現実感のある舞台を描くことにも成功しています。1787年ころに師の清満が亡くなると、乞われて鳥居派4代目を継いだころから、家業である看板絵や番付などの仕事に専念し、晩年になると黄表紙、芝居本、絵本などに力を注ぎ、錦絵への作画から遠ざかりました。

代表作には、上記以外に「3大揃いもの(シリーズ)」といわれる『当世遊里美人合』『風俗東之錦』『美南見十二候』のほか、『柳下納涼図』など多くの肉筆画があり、門下には、鳥居清峰(清満2世)、子の鳥居清政、鳥居清元らがいます。

なお清長は、春信、歌麿、写楽、北斎、広重と並び六大浮世絵師のひとりとして、今も世界的に高く評価されています。


「5月21日にあった主なできごと」

1575年 長篠の戦い…甲斐の武田勝頼と、織田信長・徳川家康軍との間で、三河の長篠城をめぐる戦いがありました。この「長篠の戦い」で武田軍は、信長・家康の連合軍に完膚なきまでにやられてしまい、多くの勇将を失いました。

1927年 大西洋無着陸横断飛行…アメリカの飛行家リンドバーグは、前日ニューヨークを飛び立ち、この日の夜パリに到着しました。所要時間33時間30分、世界初の大西洋無着陸単独飛行でした。リンドバーグは、1931年には北太平洋を横断して日本にも到達し、大歓迎を受けました。

1928年 野口英世死去…世界的な細菌学者として活躍した野口英世がアフリカで黄熱病の研究中に発病して亡くなりました。

今日5月20日は、飛鳥時代の政治家で、敏達(びたつ)・用明・崇峻(すしゅん)・推古の4代の天皇に仕え、54年の長期にわたって権勢をふるった蘇我馬子(そがの うまこ)が、626年に亡くなった日です。

大和朝廷の最高位である大臣(おおおみ)だった豪族・蘇我稲目の子として生まれた蘇我馬子ですが、成年になるまでの詳細は不明です。敏達天皇が572年に即位したとき、父の後を受けて大臣となり、以前から対立関係にあった大連(おおむらじ)の物部(もののべ)守屋とともに国政に参加しました。馬子は、渡来人を使って外交を推し進め、天皇が直接おさめる屯倉(みやけ)を経営したり、戸籍調査を綿密に行って人民支配するなど、進歩的な人物だったようです。

538年に渡来した仏教はまだ蘇我氏や渡来人たちに信仰されている程度でしたが、馬子は自分の屋敷に仏殿をつくるなど仏教を積極的に広めました。そのころ、疫病が流行しはじめると、物部守屋は蘇我氏の仏像礼拝するのが原因と、仏像を破壊するなどの行動に出ると、587年に敏達天皇のあとをうけた用明天皇が亡くなったのを機に、馬子は物部氏へ兵をあげると、激しい闘いのすえ、物部守屋を殺して一族を滅ぼし、親戚関係にある崇峻天皇をたてました。

こうして国政の主導権を握った馬子は、いっそう仏教を広めようと、わが国初の本格的寺院である飛鳥寺(法興寺)を建立しました。その後、崇峻天皇が取りまきの家臣とともに蘇我氏の行為に異をとなえはじめるや、592年に天皇を殺害させ、姪にあたる初の女帝推古天皇をたて、天皇の摂政となった聖徳太子とともに、本格的国家の基礎づくりをはじめました。

馬子は聖徳太子と合議しながら政治を運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入したことはよく知られています。620年には太子とともに『天皇記』『国記』などの歴史書の編さんにつとめたとされていますが、現存はしていません。

622年に聖徳太子が亡くなると、馬子は再び皇室以上の力をふるいだし、その勢力は亡くなったあとも子の蝦夷(えみし)に引き継がれました。なお、馬子の墓は奈良県明日香村にある「石舞台古墳」、同古墳の西にある「島庄遺跡」は邸宅の一部だったといわれ、そのぼう大な権力をうかがわせます。


「5月20日にあった主なできごと」

1498年 バスコ・ダ・ガマ新航路発見…ポルトガル国王にインド航路を開拓するよう求められていたバスコ・ダ・ガマは、アフリカ南端の喜望峰を経て、この日インドのカリカットに到達しました。リスボンを出発からおよそ10か月でした。この航路発見により、ヨーロッパとアジアは船で行き来できるようになり、ポルトガルはアジアへ植民地を広げていきました。

1506年 コロンブス死去…スペインのイザベラ女王の援助を得て、ヨーロッパ人として最初にアメリカ海域へ到達したイタリア出身の探検家・航海者のコロンブスが亡くなりました。

1799年 バルザック誕生…『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』『従妹ベット』など、90数編に及ぶぼう大な小説を書き上げ、その小説群を「人間喜劇」と総称したフランスの文豪バルザックが生まれました。

今日5月19日は、戦国時代に駿河国・遠江国(静岡県)から三河・尾張(愛知県)にまで拡大支配するものの、織田信長に敗れた戦国大名の今川義元(いまがわ よしもと)が、1560年に戦死した日です。

1519年、駿河・遠江国を支配していた今川氏親の3男として生まれ義元は、4歳で仏門に出されて臨済宗の寺に預けられましたが、1536年、兄たちの死により家督を継ぎました。当時、今川の勢力圏の北には武田氏、東に北条氏、西に松平氏(のちの徳川氏)をはさんで織田氏という群雄がおり、戦国大名となった義元は、領国をまとめ、群雄をしのいで領土を拡大しなくてはなりません。

そこで、1537年、敵対していた甲斐の武田信虎の娘を正室に迎えて武田氏と同盟を結び(のちに長男を北条氏の娘と縁組させて同盟)、老臣太原雪斎や岡部親綱ら家臣団に支えられながら、1542年に尾張国(愛知県西部)の織田信秀を破り、三河(愛知県東部)の松平広忠を従わせて、長男竹千代(後の徳川家康)を人質に迎え入れました。1548年、義元の三河進出に危機感を覚えた織田信秀が再度侵入してくると、今川軍はまたも織田軍に大勝し、東海地区をほぼ勢力下におさめました。

義元は、検地をおこない商人を保護するなど経済力を高めると、京都の貴族たちが駿府(静岡市)に来訪したことで、京都風の文化が花開きました。そのためか、これまで諸大名の誰も考えなかった京都への進出を構想するようになります。

そして1560年、2万余の大群を率いて京都をめざし、まず尾張国への侵攻を開始しました。織田信秀亡き後織田家をついだ信長のとりでをせめ落として進軍中、桶狭間北東の田楽狭間(いまの豊明市内)で休息していたところ、信長の奇襲を受け、あえなく戦死してしまったのでした。この結果、今川家は急速に衰え、戦国大名の地位からすべり落ちてしまいました。

なお義元は、父氏親の定めた分国法を33か条に、財産相続、金の貸し借りなど21条を追加した「今川仮名目録」を制定しました。これは、信玄家宝(武田家)、塵芥集(伊達家)、大内家壁書とともに家法として知られています。


「5月19日にあった主なできごと」

1645年 宮本武蔵死去…江戸時代初期の剣豪で、書画でも優れた作品を残した宮本武蔵が亡くなりました。

1725年 新井白石死去…徳川幕府6代将軍家宣(いえのぶ)に仕え、優れた文治政治を行なった儒学者の新井白石が亡くなりました。

↑このページのトップヘ