児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年05月

今日5月30日は、江戸時代中期の儒学者で、荻生徂徠に学び、やがて独自の体系を築いた太宰春台(だざい しゅんだい)が、1747年に亡くなった日です。

1680年、信濃国(長野県)飯田藩士の子として飯田城下生まれた春台(本名・純)は、9歳のとき父が過失によって罷免されたことで江戸へ出て学問を修めると、1694年に、但馬(兵庫県)出石藩の松平氏に仕えました。その間儒学者に師事して朱子学を学ぶものの、1700年に許可なく官職を辞したことで藩主の怒りをかって他家へ仕えることを禁止されたため、その後10年間畿内を放浪しながら、漢詩・天文学・地学・朱子学などを学びました。

1711年に江戸へもどると、下総生実(おいみ)藩に仕官しながら、1713年放浪時代に知り合った荻生徂徠門下の安藤東野の紹介で徂徠の門に入ると、ほどなく学力と見識が認められて、服部南郭とともに「古文辞学派」(徂徠を祖とする儒学の一派)の双璧といわれるようになりました。1715年には、藩を辞して本格的に研究・執筆活動に入ると、江戸小石川に塾を開いて多くの門人を集めて指導しながら、亡くなるまでにたくさんの書を著しています。

とくに有名なのは、『経済録』(10巻)と『経済録拾遺』で、初めて「経済」という用語を使い、経済学を「経世済民」の学問と位置づけ、国産開発・専売政策を積極的に強調する理論は、世界にも通用する先進性を持ち、のちの本田利明や海保青陵らの政治経済説の先駆をなすと評価されています。

いっぽう、古注の校訂にこつこつと取り組み、『論語古訓』(10巻)『論語古訓外伝』(20巻)『史書古伝』(34巻)などを著しています。おおらかで豪放的な性格だった徂徠に対し、春台はきまじめだったことからか、『聖学問答』などでは徂徠の学説を受けつぎながらも、より道徳的な行いを重視しています。また春台は、将軍を「日本国王」とし、鎌倉・室町・江戸の3時代は、それぞれに国家が異なると主張したことでも知られています。


「5月30日にあった主なできごと」

1265年 ダンテ誕生…イタリアの都市国家フィレンツェ出身の詩人で、彼岸の国の旅を描いた叙事詩『神曲』や詩集『新生』などを著し、ルネサンスの先駆者といわれるダンテが生まれました。

1431年 ジャンヌダルク死去…「百年戦争」 でイギリス軍からフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクが 「魔女」 の汚名をきせられ、処刑されました。

今日5月29日は、江戸時代後期の蘭学者で、植物学、動物学、化学などを、新造語をこしらえて初めて体系的に紹介した宇田川榕庵(うだがわ ようあん)が、1846年に亡くなった日です。

1798年、大垣(岐阜県)藩医の長男として江戸で生まれ育った榕庵は、14歳の時に、父の師匠である津山(岡山県)藩医宇田川玄真にその才能を見出されて養子となりました。養父の手ほどきを受けて漢方医学を学ぶかたわら、山野を歩いて本草学に親しみ、1814年にはオランダ通詞(通訳)から本格的に蘭学を学びはじめ、1817年に津山藩医となります。

1822年にお経形式で書いた初の植物学書『菩多尼訶(ぼたにか=植物学)経』を著し、幕府に重用されて1826年には天文台の翻訳員になってフランスのショーメル百科事典のオランダ語版訳書『厚生新編』を作成したひとりとして、亡くなる直前までこの仕事に取り組みました。

その間、養父玄真との共著で和漢にない西洋薬の『遠西医方名物考』、和漢にある薬の西洋式利用法をとく『新訂増補和蘭薬鏡』などの薬学書を出版したほか、動物学の項目を集めて整理した『動学啓原』や、リンネの分類による植物学のテキスト『植物啓原』、日本初の近代化学を体系的に紹介する大著『舎密(せいみ=化学)開宗』(内編18巻・外編3巻)を著しました。ここには、学術用語に新しい造語をこしらえて、酸素、水素、窒素、炭素、白金といった元素名を記すなど、後世に大きな影響を与えているばかりか、実験を行って確かめ、すでに近代的な論文、研究書のていをなしていると高く評価されています。

榕庵はこれらの出版に際し、上記以外にも元素、酸化、還元、溶解、分析といった化学用語、細胞、属といった生物学用語を考えだし、コーヒーを「珈琲」としたのも、榕庵が考案した『蘭和対訳辞典』で使われたのが最初といわれています。


「5月29日にあった主なできごと」

1917年 ケネディ誕生…わずか43歳で第35代アメリカ大統領となり、対ソ連に対し平和共存を訴え、こころざし半ばで暗殺されたケネディが生まれました。

1942年 与謝野晶子死去…明治から昭和にかけて歌人・詩人・作家・思想家として活躍した与謝野晶子が亡くなりました。

1953年 エベレスト初登頂…イギリス登山隊のヒラリーとシェルパのノルゲイが、世界最高峰のエベレスト(チョモランマ)の初登頂に成功しました。

今日5月28日は、『アメリカ版英語辞書』をはじめ『スペリング』などの教科書を著し、「アメリカの学問・教育の父」といわれるウェブスターが、1843年に亡くなった日です。

1758年、アメリカ建国13州のひとつコネティカット州ハートフォードの農園に生まれたノア・ウェブスターは、読書の好きな子どもで、独立戦争のさなかにエール大学に通学を始めるものの順調に授業が進まなかったため、独立戦争に参戦します。この体験から政治的な独立とともに、言語も独立すべきという精神基盤が作られました。1781年に法学位をとると、アメリカ各地の小学校に教師として勤務してみると、どの学校も、教科書の数が十分でない上に、イギリスの教科書で使いづらいことに気づきました。

そこでウェブスターは、1783~85年に「スペラー」(つづり)、「グラマー」(文法)、「リーダー」(読本)の3巻で構成された教科書を出版すると、アメリカじゅうで使われるようになり、1861年までに年間の販売数が100万部に到達したといわれています。とくに1巻目の「スペラー」は、1890年までに7千万部も売れ、聖書につぐベストセラーを記録するほどでした。

1793年にウェブスターは、ワシントン新政府との交流を深めるためニューヨークに移住して日刊紙や隔週誌を発刊しましたが、1800年以降は、コネチカット州ニューヘブンにもどって、『アメリカ版英語辞書』を書き始め、語源の調査のために、アングロサクソン語やサンスクリット語など26の言語を学びながら、地域によってまちまちなスペリングや発音、語法などを標準化することを願って、1828年に初版を刊行しました。収録語7万語のうち、1万2千語がこれまで辞書に収録されたことのない単語でした。

その後もたびたび改訂され、辞書の代名詞ともいえる『ウェブスター辞典』の基になり、今も改訂・増補されています。


「5月28日にあった主なできごと」

1634年 出島の建設開始…キリスト教の信者が増えることを恐れた江戸幕府は、ポルトガル人をまとめて住まわせるために、長崎港の一部を埋めたてた出島の建設を開始、2年後に完成させました。1639年にポルトガル人の来航を禁止してから無人になりましたが、1641年幕府はオランダ商館を平戸から出島に移転させ、オランダ人だけがこの島に住むことが許されました。鎖国中は、オランダ船が入港できた出島がヨーロッパとの唯一の窓口となりました。

1871年 パリ・コミューン崩壊…普仏戦争の敗戦後、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されましたが、この日政府軍の反撃にあい、わずか72日間でつぶれてしまいました。しかし、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえています。

今日5月27日は、フランスの革命家で、平等社会の実現をめざしたバブーフが、1797年に処刑された日です。

1760年、フランス北部にあるピカルディの貧しい農家の子として生まれたフランソワ・バブーフは、学校へ通うことができないため父に読み書きを教わると、さまざまな分野の本を読みあさるほど向学心の旺盛な少年でした。家計を支えるため、14歳で家に近いロアの土地台帳管理の職について自立しました。

この仕事を通じて、領主の不正をまのあたりにしたことで、土地私有制の弊害を痛感し、封建制度のまちがいを実感するようになりました。同時にルソーやディドロ、マブリー、モレリーらの啓蒙家の思想にふれて、社会を見る広い眼を育てると、1785年にアラスのアカデミー通信会員となり、しだいに急進的な改革思想をいだくようになります。そして2年間かけて、農地の再分配による富の平等化と租税制度の改革をめざす『永久土地台帳』を、1789年にパリで出版しました。

同年7月14日、パリ市民らがバスティーユ監獄を襲撃して「フランス革命」が勃発すると、時代の激動を直感したバブーフは、ロアにもどると農民運動を指導して、1792年には地区の行政官に選出されました。しかし、政敵と対立したことから職を投げすて、1793年に再びパリに出て、食糧委員会の書記官となりました。信奉者であったものの恐怖政治と化したロベスピエールに反対し、エベール派に加担する過激分子として活躍しました。

1794年には『出版自由新聞』(のちに『護民官』に改題)を発刊し、「平民派宣言」と題する一文を掲載、土地は万人のものであり、個人が必要以上の土地を私有する行為を「社会的窃盗」と指弾。これに代わる制度として物品の共同管理に基づく配給行政にあると主張しました。

また、秘密結社「パンテオン・クラブ」に加わってインフレと食糧不足に悩むパリ民衆の蜂起を計画したことから、1796年に反逆罪で総裁政府に逮捕されてしまいました。獄中でブオナロッテと知り合って、平等社会を作り出す計画を練り上げ、釈放後に同志とともに、政府を倒して権力を握る準備をすすめました。ところが、決起する直前に仲間のひとりに密告されて計画はつぶされ、長い裁判の末、1797年5月に死刑を宣告され、短剣で自殺をはかるものの果たせず、この日処刑されました。

バブーフの思想や行動は、のちにマルクス、ブランキ、レーニンらに大きな影響を与えたといわれています。


「5月27日にあった主なできごと」

743年 墾田永年私財法…奈良時代中ごろ、聖武天皇 は、墾田(自分で新しく開墾した耕地)永年私財法を発布しました。それまでは、3代まで私有地を認める「三世一身の法」を実施していましたが、開墾がなかなか進まないため、永久に所有を認めるものでした。これにより、貴族や寺社、神社などが積極的に開墾をすすめ、「荘園」といわれる私有地が増えていきました。

1564年 カルバン死去…ルターと並び評されるキリスト教宗教改革・新教(プロテスタント)の指導者カルバンが亡くなりました。

1910年 コッホ死去…炭疽(たんそ)菌、結核菌、コレラ菌などを発見し、細菌培養法の基礎を確立したドイツの細菌学者コッホが亡くなりました。

今日5月26日は、日本で初めて国際的な名声をつかんだ女性オペラ歌手の三浦環(みうら たまき)が、1946年に亡くなった日です。

1884年、東京・芝に公証人の子として生まれた環は、幼いころから母に長唄、琴、日本舞踊などを学ぶうちに音楽の才能を見せ始め、1900年に東京音楽学校(東京芸術大の前身)に入学して無理のない発声法を身につけると、1903年日本初のオペラ公演でグルック作『オルフェウス』のエウリディーチェを歌って高く評価されました。卒業後は母校の助教授を務めて、関谷敏子や山田耕筰らを育て、1911年に創立した帝国劇場の声楽指導兼専属プリマドンナとなって『熊野』などの創作オペラで活躍しました。

1914年にドイツへ留学するものの第1次世界大戦がはじまったために戦禍をさけてイギリスに移ると、世界的指揮者ヘンリー・ウッドに見いだされ、1915年にロンドン・オペラハウスで、プッチーニ作『蝶々夫人』(明治初期の長崎を舞台に、没落藩士の令嬢「蝶々さん」とアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛悲劇を描いた作品)を演じて大成功をおさめました。

英国デビューの成功を受けて翌年、アメリカのシカゴ・オペラに招かれて渡米すると、シカゴを皮切りにし、ボストン、ニューヨーク、サンフランシスコなど全米各地で、『蝶々夫人』ばかりでなく、『お菊さん』『あやめ』『ラ・ボエーム』などで主演し、熱狂的に迎えられました。

以後アメリカを中心に、21年間も世界を舞台に大活躍し、『蝶々夫人』は欧米各地で演じられ、1935年イタリアのシチリア島パレルモ公演では、『蝶々夫人』出演2000回を達成したといわれています。

1936年に帰国、歌舞伎座での『蝶々夫人』の上演を成功させるものの、第2次世界大戦の勃発により音楽活動を禁じられると、山中湖付近に移住して『歌劇お蝶夫人』を著したり、ラジオ出演するなど戦火を逃れて余生を送りました。


「5月26日にあった主なできごと」

1180年 以仁王・源頼政の死…保元の乱、平治の乱を経て平清盛 が台頭し、平氏政権が形成されたことに対し、後白河天皇の皇子以仁王(もちひとおう)と源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画。これが露見して追討を受け、宇治平等院の戦いで敗死しました。しかしこれを契機に諸国の反平氏勢力が兵を挙げ、治承・寿永の乱が6年間にわたって続き、鎌倉幕府誕生の前哨戦となりました。

1467年 応仁の乱…10年以上も続いた日本最大の内乱といわれる応仁の乱が、本格的な戦闘に入りました。

1877年 木戸孝允死去…西郷隆盛、大久保利通と並ぶ「維新の三傑」の一人で、明治新政府でも活躍した木戸孝允が亡くなりました。

1933年  滝川事件…京都帝国大学の滝川(たきがわ)教授の休職を、国が一方的に下す思想弾圧事件「滝川事件」がおきました。京大事件とも呼ばれます。

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