児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年04月

今日4月8日は、イギリス初の女性首相を11年間つとめ、「新自由主義」に基づく独自の政治を行ったサッチャーが、2013年に亡くなった日です。

1925年、イングランド東部リンカンシャー州のグランサムに食糧雑貨商でメソジストの敬けんな信徒の子として生まれたマーガレット・サッチャー(旧姓・ロバーツ)は、家訓の「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神のもとに育てられました。地元の高校を卒業後、奨学金をえてオックスフォード大学のカレッジで化学や自然科学を学び、在学中に同大の保守党連盟議長をつとめました。

1947年に卒業すると、研究者の道に進みますがその間も政治活動をつづけ、1951年に結婚したころから法律の勉強をはじめ、1954年に弁護士免許を取得しました。1959年に下院議員に初当選を果たすと、年金・国民保険省の政務次官をへて、1970年からヒース内閣で教育科学相として入閣を果たしました。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは、学校での牛乳無償配給の廃止を決めたことで、「ミルク泥棒」とののしられながらも、断固方針をまげませんでした。

1975年2月の保守党大会で、対立候補のヒースを破って保守党党首に就任すると、政権をにぎる労働党の内外にわたる政策を、実践とイデオロギー両面から徹底的に攻撃したことで、ソ連国防省機関紙から「鉄の女・サッチャー」と非難されました。ところがサッチャー自身はこの呼び名が気に入り、メディアでも取り上げられたことでサッチャーの代名詞として定着しています。そして、イギリス全土で、広範なストライキがおこり、公務がマヒするという状況のもとで行われた1979年の選挙で、経済の規制緩和、水道、電気、ガス、通信、鉄道、航空の民営化によるイギリス経済の競争力を強化するという公約を掲げたサッチャーは、保守党を大勝に導き、首相の座につきました。

サッチャーは、国営企業の民営移管推進、公共投資の削減、政府の市場への介入の抑制、インフレ抑制などの基本方針 (この方針は「新自由主義」とよばれています) を実施しましたが、失業の大幅な増大や企業倒産を招いたうえ、多くのストライキ打破を強行したことで、1981年には支持率が低下し、25%を下回るまでに急落してしまいます。ところが、1982年4月、南大西洋でフォークランド紛争がおこり、アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーはすぐさま艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多くの艦艇を失ったものの、宣戦後わずか10週間でアルゼンチン軍を降服させたことで、支持率はいっきに73%にはねあがり、国民の信頼を取りもどしました。1983年の総選挙でも圧勝して2期目に入り、1979年の基本方針を断行しました。1987年の総選挙でも圧勝して、イギリス史上初の3選をはたしますが、3期目に入ってからは閣僚間の意見の不一致がめだちはじめ、1990年11月に引責辞任し、1992年からは貴族院議員となるものの、政治の表舞台から退きました。


「4月8日の行事」

花まつり (シャカの誕生日)…今日4月8日は、今から二千数百年も昔、仏教を開いたシャカ(釈迦)が誕生した日と伝えられ、灌仏会(かんぶつえ)、降誕会(ごうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)などといわれます。また、花の咲きにおう春に行なわれたことから「花まつり」とよばれて、日本各地のお寺では、花で飾った小さなお堂の中に、釈迦の誕生仏を安置して、お参りにきた人は甘茶をそそいでお祈りをする、はなやかな仏教の行事になっています。


「4月8日にあった主なできごと」

1147年 源頼朝誕生…平安時代末期に源義朝の3男に生まれ、平治の乱で敗れて伊豆へ流されるも平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定して、はじめて武士による政権となる「鎌倉幕府」を開いた源頼朝が生まれました。

1350年 吉田兼好死去…清少納言の『枕草子』と並び、随筆文学の傑作『徒然草』を著わした僧侶で歌人の吉田兼好が亡くなりました。

1820年 ミロのビーナス発見…ギリシアのミロス島で、ひとりの農夫が両腕の欠けた美しい大理石の女神を発見。島の名にちなんで「ミロのビーナス」と命名されました。古代ギリシア時代の一級彫刻作品として、パリのルーブル美術館が所蔵しています。
 
1973年 ピカソ死去…スペインが生んだ世界的な画家・版画家・彫刻家・陶芸家のピカソが、この日92歳で亡くなりました。

今日4月7日は、日本初の女性ジャーナリストで、「婦人之友社」や「自由学園」を創設した教育者・思想家の羽仁もと子(はに もとこ)が、1957年に亡くなった日です。

1873年、青森県八戸市に生まれた羽仁もと子(旧姓・松岡)は、1889年に上京して、府立第一高女に入学後クリスチャンとなり、その信仰は、生涯にわたる思想の原点となりました。1891年「女学雑誌」の編集長をしていた巌本(いわもと)善治が校長をつとめる明治女学校に入学すると、「女学雑誌」の校正を手伝いながら雑誌作りの基礎を学びました。翌年中退して帰郷、教員となって結婚するもののまもなく離婚。1897年にふたたび上京して、報知社(現・報知新聞社)に校正係として入社します。やがて自主的に書いた原稿が認められて記者に登用され、わが国初の女性ジャーナリストになりました。

1901年に同僚記者の羽仁吉一と再婚。1903年に夫婦で雑誌「家庭之友」(のちに「婦人之友」に改題)を創刊し、「社会の改革は家庭から」をスローガンに、男が中心の家にかわる夫婦による家庭づくりを提唱し、主婦の自覚と家庭生活の合理化のために力をそそぎました。「婦人之友社」の読者組織「友の会」は今もつづき、家庭生活研究の全国団体に成長しています。

戦後は、新教育運動の流れの中で、1946年「自由学園」を創立し、キリスト教的自由主義に基づき「生活即教育」を掲げ、生徒みずからが昼食をこしらえるなど、文部省の規則にしばられない自由・自治の女子教育(のちに男子部も設置)を実施して注目されました。現在は、東久留米市にある学校法人として、幼稚園から大学まで独自の教育理念に基づいた一貫教育を行っています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、「たましいの教育」など、羽仁もと子の著作5編を読むことができます。また教育評論家として活躍した羽仁説子は長女、説子の配偶者が歴史学者の羽仁五郎です。


「4月7日にあった主なできごと」

1133年 法然誕生…平安時代末期から鎌倉時代初期の僧侶で「浄土宗」を開いた法然が生まれました。

1506年 ザビエル誕生…1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペインのイエズス会宣教師ザビエルがフランスとスペインとの国ざかいのナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に生まれました。

1882年 小川未明誕生…『赤いろうそくと人魚』 『野ばら』 『月夜とめがね』 など1000編近い童話を著した小川未明が生まれました。

1894年 宮城道雄誕生…『春の海』など、琴を主楽器とする日本特有の楽曲(箏曲<そうきょく>)の作曲者、演奏家として世界に名を知られた宮城道雄が生まれました。

1945年 戦艦大和撃沈…大日本帝国海軍が建造した排水量6万8千トンという当時世界最大の戦艦「大和(やまと)」は、この日沖縄にむけて出撃途上、屋久島沖でアメリカ航空機部隊386機の集中攻撃を受けて3000人の将兵とともに、海底深く沈没しました。

1947年 フォード死去…流れ作業による自動車の大量生産を成功させ、世界一の自動車会社を創立したフォードが亡くなりました。

今日4月4日は、南北朝時代に興った漢詩を中心とする「五山文学」を代表する臨済宗の学僧・義堂周信(ぎどう しゅうしん)が、1388年に亡くなった日です。

1325年、土佐国(いまの高知県高岡郡)に生まれた義堂周信(号・空華)は、8歳のときに家の蔵書にあった「臨済録」を見つけて読み、14歳のとき比叡山にのぼって剃髪し、天台宗密教を学びました。帰国後禅宗に改宗すると、17歳のとき京にのぼり、夢窓疎石の門弟となって10年、その法を受け継ぎました。1351年に夢窓が亡くなると、竜山徳見に教えを請い、建仁寺、南禅寺、天竜寺と竜山が移ったのに随いました。

1359年、幕府が関東地方の統治のために設置した鎌倉公方・足利基氏に招かれて鎌倉の円覚寺へ移ると、ついで善福寺、瑞泉寺に住み、報恩寺を開くなど1380年まで滞在し、基氏や関東管領の上杉氏などに禅宗を教え、基氏の没後に幼くして鎌倉公方となった足利氏満の教育係も務めるなど、関東における禅の指導者として信望を集めました。この間、建長寺の大覚門徒と円覚寺の仏光門徒が武器を持って衝突する事件に際し、両者の和合を説いて解決に導いたのは、義堂にしてなしとげられたといわれ、その公明正大、厳正中立な態度は多くの人たちに感銘を与えました。

1380年56歳のとき、将軍家より京都によびもどされて建仁寺の住職となり、3代将軍足利義満の禅の指導にあたりました。義満は建立した相国寺を京都五山(南禅寺・天竜寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)に加えたいと義堂にはかったところ、南禅寺を別格の五山の上とし、相国寺を天竜寺に次ぐ2位に割りこませることを進言して、これにより五山制度が確立しました。

1386年には南禅寺の住職となり、この日死期を悟って南禅寺の慈氏院に入り、端坐したまま64年の生涯を終えました。義堂は、とくに詩文に優れ、絶海中津とともに五山文学を代表する学問僧とされ、中国・明人も賞賛したという詩文集『空華集』をはじめ、40年以上も書き続けた日記を「日用工夫集」と名づけ、その抄録『空華日用工夫略集』20巻や語録4巻が遺されています。


「4月4日にあった主なできごと」

1284年 北条時宗死去…鎌倉幕府第8代執権で、はるかに国力の勝る元(中国とモンゴルを含む大帝国)の2度にわたる襲来を退けた北条時宗が亡くなりました。

1615年 大坂夏の陣…前年の大坂冬の陣で大坂城を攻め落とせなかった徳川家康は、講和を条件に外堀を埋めさせて防備が弱くなったところへ、諸大名の兵20万人を率いて攻め入り、落城させました。豊臣秀頼と生母淀君は自害し、ここに豊臣家は滅びました。

1968年 キング牧師死去…アメリカの黒人指導者キング牧師は、白人による人種差別撤廃する法律を認めさせ、黒人の権利と自由を求める公民権運動を進めたことでノーベル平和賞を受賞しましたが、これに反発した白人により、この日演説中に暗殺されました。

今日4月3日は、『髪』『竹取物語(昇天図)』『いでゆ』など、独自の日本画を数多く描いた小林古径(こばやし こけい)が、1957年に亡くなった日です。

1883年、いまの新潟県上越市に地方官吏の子として生まれた小林古径(本名・茂)は、父の転任により、新潟や新発田などに移り住みましたが、3歳のときに母を10歳のときに父を失い、妹とともに孤児となってしまいました。画才は天性のものだったらしく、周辺の人たちに助けられて地元の画家の指導を受け、1899年に上京すると、新進気鋭の画家として活躍していた梶田半古の塾に入門して日本画を学びました。

たちまち頭角をあらわし、創設したばかりの日本美術展や日本絵画協会共進展に出品した『春霞』『敦盛』『女三の宮』などで受賞を重ね、注目をあびます。その後岡倉天心の指導を受け、安田靫彦や今村紫紅らが結成した青年画家のグループ「紅児会」に加わったことで、しだいに半古の影響から離れ、ロマン的で清澄な作風に変わっていきました。

1922年に半古門下の前田青邨と共に日本美術院の留学生としてヨーロッパに渡り、ロンドンの大英博物館で中国・東晋の名画「女史箴(しん)図」を模写し、この中国古典を研究することによって、古径は「東洋絵画の命である線描の技術を高めた」と記しています。

帰国後の古径の画風は、むだのない線と、豊かな色彩による品格のある作品が多くなり、「新古典派」とか「新古典主義」とよばれるようになりますが、とくに1931年に院展へ出品した『髪』は、古径の線描の特色をいかんなく発揮した名作といわれ、髪の毛一本一本や美しく縁取られた顔の輪郭、半裸の女性の皮膚の柔らかな感触までを描き出したものです。

その後古径は、1944年から51年まで東京美術学校教授(のちに東京芸術大)として後進の指導にあたりました。代表作には、『阿弥陀堂』『竹取物語(昇天図)』『いでゆ』『弥勒』『河風』『猫』などがあり、1950年には文化勲章を受章しています。

なお、生地の上越市には「小林古径記念美術館」があり、高田城跡には東京大田区南馬込から移築された古径邸があって、国の登録有形文化財に登録されています。



「4月3日にあった主なできごと」

604年 十七条の憲法…聖徳太子は、仏教や儒教に基づくきまりや道徳を示した「十七条の憲法」を制定しました。

1673年 隠元死去…江戸時代の初期に禅宗の流れをくむ「日本黄檗宗」を開き、インゲン豆を日本に伝えたとされる中国の僧・隠元が亡くなりました。

1682年 ムリーリョ死去…『無原罪の宿り』 など甘美な聖母像や、愛らしい子どもの絵で知られる、スペインバロック絵画の黄金期を築いた画家ムリーリョが亡くなりました。

1890年 ブラームス死去…バッハ、ベートーベンとともに、ドイツ音楽の「三大B」と讃えられる作曲家ブラームスが亡くなりました。

今日4月2日は、アイヌ研究に生涯をかけたイギリス人宣教師のバチェラーが、1944年に亡くなった日です。

1854年、ロンドンの南にあるセサック州に生まれたジョン・バチェラーは、インドへの布教をしていた宣教師の説教に刺激されて、東洋への伝道を志し、1876年に香港のセント・ポール学院に入学しました。ところが、在学中に健康を害したことで翌年、静養のために函館を訪れ、アイヌ民族のことを知りました。当時のアイヌ民族の悲惨な生活や不当な差別に衝撃をうけたバチェラーは、1879年正式に聖公会宣教師に任命されると、アイヌの中心地の一つである日高地方平取を訪問し、この地の長老の家に滞在して、3か月間アイヌ語を学びました。

一時帰国後の1883年、再び函館にもどると、登別に近い幌別でさらにアイヌ語を学びました。このことがきっかけとなって、1885年に代々ユーカラを伝えてきた金成家のマツとナミ姉妹に、バチェラーは最初の洗礼を授けました。アイヌ語研究で著名な金田一京助にマツを紹介したのもバチェラーでした。

1888年には、アイヌにキリスト教に基づいた教育をするための「愛憐学校」を設立、子弟のための寄宿舎をこしらえました。1891年札幌に移転すると、自宅を拠点にアイヌ伝道を本格的に展開し、日本人信徒のためにバイブルクラスと日曜礼拝を開始しています。また、1892年にはアイヌが無料で診療が受けられる「アイヌ施療病室」を開設し、1895年には平取と有珠に教会堂を建設するなど、1900年代のはじめまでに、信者は2千人をこえるまでになりました。

いっぽうバチェラーは、伝道のかたわらアイヌ文化の研究にいそしみ、「アイヌ語聖書」や「アイヌ語英和辞典」をこしらえたり、『アイヌ炉辺物語』『蝦夷(えぞ)今昔物語』などを書いたことで、アイヌ言語学や民俗学研究の先駆者のひとりとされています。

ところが太平洋戦争の勃発により、1940年に日本を去ることを余儀なくされてしまいました。養女にしたアイヌ出身の八重子は、北海道に残って伝道活動をつづけ、のちにアイヌ民族の悲しみをうたった歌集『若きウタリ』を著し、バチェラーの遺志をついでいます。


「4月2日にあった主なできごと」

1805年 アンデルセンの誕生…『マッチ売りの少女』『みにくいアヒルの子』『人魚姫』など、たくさんの創作童話を著し、「童話の王様」といわれるデンマークのアンデルセンが生まれました。

1956年 高村光太郎死去…彫刻家、画家、評論家であり、詩集『智恵子抄』などを著した高村光太郎が亡くなりました。

2008年 石井桃子死去…創作童話『ノンちゃん雲に乗る』や「ピーターラビット」(ビアトリクス・ポター)「クマのプーさん」(ミルン)「ミッフィー」(ブルーナ)シリーズなどの翻訳で、戦後のわが国児童文学界をリードしてきた作家・翻訳家・編集者の石井桃子が亡くなりました。

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