児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年04月

今日4月15日は、江戸時代後期の廻船船頭で、ロシアに漂着して10年後、無事に帰国を果たした大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)が、1828年に亡くなった日です。

1751年、伊勢亀山藩(いまの三重県鈴鹿市)の船宿の子として生まれた光太夫(幼名・兵蔵)は、姉の嫁ぎ先の廻船問屋にやとわれて働くうち、1780年船頭に取り立てられて大黒屋光太夫を名乗りました。1782年12月、光太夫は船頭をつとめる神昌丸で、船員15名乗員1名とともに紀州藩の米を積み、伊勢の白子の浦から江戸へ向かって出航しました。ところが駿河沖付近で台風にあって漂流してしまい、7か月以上も北の海を漂流ののち、アリューシャン列島のアムチトカ島へ漂着しました。

光太夫らはこの島に4年も暮らすうち、先住民や毛皮収穫にやってきたロシア人たちからロシア語を習得すると、1787年にありあわせの材料で造った船に乗ってロシア人らと島を脱出することに成功、カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経て、1789年ロシア東部のイルクーツクに至りました。

この地で、日本に興味をもっていた博物学者キリル・ラクスマンに出会うと、1791年、キリルに随行して首都サンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力によって女帝エカチェリーナ2世と会見し、帰国を正式に許されました。日本に漂流民を返還する目的でロシア使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、光太夫と船員の磯吉と2人だけが、根室をへて10年ぶりに帰国を果たしました。(乗組員16名のうち13名死亡、2人がロシア滞在希望)

帰国後光太夫らは、11代将軍徳川家斉や老中松平定信の前で、ロシアで出合ったことを調べあげられ、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』や『北槎聞略』としてまとめました。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与するとともに、樺太や千島列島など北方への防衛意識を強めるための重要情報を幕府にもたらします。取り調べ後、外国の事情が世間に広まらないように、しばらく番町の薬園内に軟禁されましたが、のちに光太夫は幕府の天文台につとめ、ロシア語を教えたと伝えられています。


「4月15日にあった主なできごと」

905年 古今和歌集完成…『古今和歌集』(古今集)は、日本で最初の勅撰(天皇の命令で和歌などを編集)和歌集で、醍醐天皇の命によって紀貫之ら4名によって編まれ、この日、約1100首、20巻が天皇に奏上されました。『枕草子』を著した清少納言は、古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたと記しています。

1452年 レオナルド・ダビンチ誕生…ルネッサンス期に絵画・建築・彫刻そして自然科学にも通じていた万能の天才と讃えられるレオナルド・ダビンチが生まれました。

1865年 リンカーン死去…「奴隷解放の父」といわれるアメリカ合衆国16代大統領リンカーンが、南北戦争の終わった5日後の夜、ワシントンの劇場で南部出身の俳優にピストルで撃たれ、翌朝、56歳の生涯を閉じました。

今日4月14日は、1960年代初期に環境問題を告発したアメリカ生物学者で女流作家のレイチェル・カーソンが、1964年に亡くなった日です。

1907年、ペンシルベニア州スプリングベールの兼業農家に生まれたレイチェル・ルイーズ・カーソンは、幼いころから自然が大好きで、一日じゅう森や小川ですごし、動植物と親しみました。10歳のときに雑誌に投稿した物語が採用されたことで、作家になりたいという夢をいだきました。やがて、ペンシルベニア女子大学に入って生物学を学び、ジョンズポプキンス大学院で海洋動物学の修士号をとり、科学者と作家の両方の道に進む決意をしました。

卒業後はアメリカ連邦漁業局に水生生物学者として勤務するいっぽう、1941年に海の生態系について書いた『潮風の下で』で高い評価をえると、1951年には生命の源である海をわかりやすく紹介した『われらをめぐる海』を発表してベストセラーとなり、32か国で翻訳出版されたのを機に作家生活に入りました。1955年に出版した『海辺』とあわせ海の3部作と呼ばれていますが、レイチェルの名を世界的にしたのは、1962年に出版された『沈黙の春』です。

この作品は、人類を環境保護に目覚めさせた本といわれ、当時飛行機から、無差別に大量にまかれる農薬(DDTなどの合成化学物質)の蓄積が、生命にとってどんなに危険かを具体的に証明したことで、アメリカじゅうを議論のうずにまきこみました。これを読んで感銘したケネディ大統領は、大統領諮問機関に調査を命じました。これを受けたアメリカ委員会は、1963年に農薬の環境破壊に関する情報公開をおこたった政府の責任を厳しく追及し、DDTの使用は全面的に禁止され、環境保護を支持する大きな運動に広がりました。そして1972年の国連人間環境会議のきっかけをつくったばかりか、世界的な環境保護運動の始まりとなった「事件」といってもよいのかもしれません。

レイチェルは、『沈黙の春』出版の2年後にがんで亡くなりますが、没後に出版された『センス・オブ・ワンダー』は、幼少のころから自然の不思議さ・素晴らしさにふれることの大切さを説き、自然環境教育のバイブルとなっています。この著作は、「レイチェル・カーソンの感性の森」として2008年に映画化されています。


「4月14日にあった主なできごと」

1759年 ヘンデル死去…『水上の音楽』『メサイア』などを作曲し、バッハと並びバロック音楽の完成者といわれる、ドイツ生まれでイギリスに帰化した作曲家ヘンデルが亡くなりました。

1867年 高杉晋作死去…江戸時代の末期、長州藩に非正規軍「奇兵隊」を組織して幕府軍と戦った志士・高杉晋作が亡くなりました。

1912年 タイタニック沈没…イギリスの豪華客船タイタニック号が、処女航海の途上、カナダ・ニューファンドランド沖で氷山に衝突して沈没、死者1500人以上の惨事となりました。

1917年 ザメンホフ死去…世界でおよそ100万人の人が使用している人工言語、エスペラントの創案者ザメンホフが亡くなりました。

今日4月11日は、中国「隋」の第2代皇帝で、中国史を代表する暴君といわれながらも「大運河」を建設した煬帝(ようだい)が、 618年に亡くなった日です。煬帝は、聖徳太子が小野妹子を「遣隋使」に派遣した時の皇帝としても知られています。

569年、のちに隋王朝を建国する文帝の次男として生まれた煬帝(楊広)は、588年に陳王朝討伐軍の総大将となり、首都建康(いまの南京)を攻め落とし、およそ300年ぶりに中国再統一に大きく貢献しました。600年に皇太子だった兄に代って皇太子になると、604年には父と兄を殺して皇帝になりました。

煬帝がまず行ったことは、都の大興城(いまの西安)とは別に東の都として現在の河南省西部に洛陽を建設し、国内から数万という富豪を強制移住させて、大経済都市にしました。605年には、北は今の天津から黄河、長江を経て杭州にいたるまで延々1500キロメートルにも及ぶ運河の建造を開始し、女性を含む100万人もの民衆を動員して610年、華北と江南を結ぶ「大運河」を完成させました。これにより、中国の南北の物資の流通が便利になったばかりでなく、人の交流が盛んになったことで、政治上でも大きな役割をはたすようになりました。この大運河は、歴代の王朝によって整備されながら、「京杭大運河」の名で今も機能しているのは、煬帝に先見の明があったといわれています。

いっぽう煬帝は、モンゴル・中央アジアを支配していた突厥にそなえて万里の長城の修理にはげみ、西や南に隋と接する諸民族をしたがえ、琉求(琉球でなく台湾またはフィリピン)にも軍を派遣するなど、領土の拡大にも努めました。わが国への働きかけに対し、607年に聖徳太子が小野妹子を遣隋使に派遣し「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な書き出しで始まる国書を手渡したのも、積極外交を続ける煬帝の意図に関連するものと思われます。煬帝は「自分を日没の国の天子とは何ごとか」(倭王が天子と勝手に名乗ったことに対するものかは不明)と激怒したといわれますが、のちにわが国へ裴世清を返礼に派遣しています。

さらに煬帝は、612年から3度にわたり朝鮮半島を支配する高句麗遠征を実施するものの失敗に終ったことで、煬帝の権威は失墜しはじめました。大規模な土木工事や遠征に必要な費用は、民衆の税金からまかなわれていたことから、全国あちこちで民衆の反乱がおこり、煬帝は難をのがれるために江都(いまの揚州)に逃れましたが、護衛の兵士に殺され、隋は滅びてしまいました。


「4月11日にあった主なできごと」

1868年 江戸城開城…徳川15代将軍だった徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸城が明治新政府の手にわたりました。前月行われた、旧幕府代表の勝海舟と、新政府代表西郷隆盛の会談できめられた、江戸城の無血開城が実現したものです。

1921年 メートル法の公布…欧米との交流がさかんになり、わが国でこれまで使われてきた尺貫法では不便なことが多く、メートル法の採用を決めました。しかし、なじんできた尺貫法も、業種によっては今も使用されています。

1951年 マッカーサー解任…太平洋戦争で降伏した日本は、連合国軍総司令部(GHQ)に占領され、アメリカのマッカーサー元帥が5年半近く総司令官として君臨してきました。この日、「老兵は死なず消え去るのみ」という名文句を残して解任されました。

今日4月10日は、メキシコ革命動乱期に、農民運動を指導したことで知られるサパタが、1919年に暗殺された日です。

1879年、比較的裕福なインディオ系農民の子として南部モレロス州の小村に生まれたエミリアーノ・サパタでしたが、17歳で小さな弟や妹とともにみなし子となるものの、村人たちからの人望は厚く、1909年に村の防衛委員長に選出されるなど、村のスポークスマンとして働きました。

当時のメキシコは、1876年に権力を握ったディアスの独裁政治による支配下にありました。1910年の選挙でディアスが北部の地主マデロを破って再任されると、サパタは村民を率いて大農園に占拠されていた土地を奪還しようと武装蜂起しました。アメリカ・テキサス州に亡命後、ディアス追放と社会改革を掲げるマデロと秘かに同盟を結ぶと、翌年サパタ軍は首都メキシコ市を武力で封鎖して、ディアスを追放しました。35年間続いた長期政権のあっけない幕切れでした。

マデロが大統領に選出されると、サパタは「アヤラ案」という、大地主たちに奪われた土地や森林などの財産は、正当な権利を持つ村や人民が保有するという農地改革計画を示し、これを直ちに実行するように要求しました。ところが、政治の民主化を優先するマデロは受けつけません。そのためサパタは、数千の農民軍を率いてマデロに対するゲリラ的な武装闘争を開始すると、一時は南部6州を制圧して初の農村貸付銀行を創立するなど、社会革命を進めました。

いっぽう北部の指導者ビリャと提携するなど、革命諸勢力を集めた会議を1914年に開いて、農地改革を全国規模で実施する綱領を採択させました。その後、ウエルタ将軍にマデロが殺されると、政権をとったウエルタ政府に対しても武力闘争を継続しました。

ところがサパタは、ウエルタ政権打倒に立ち上がった他の革命軍には加わらず、「サパタ派に寝返りたい」と近づいてきた穏健派のカランサ派将校の策略にかかり、暗殺されてしまったのでした。いまもサパタは、農地改革運動のシンボル的な存在として、メキシコ市にはたくさんの銅像が残されています。
 

「4月10日にあった主なできごと」

1946年 初の女性議員…この日、日本ではじめて女性が参加した衆議院議員選挙が行なわれました。この選挙の女性投票率は67パーセントをこえ、女性立候補者82名のうち39名が当選をはたしました。

1952年 「君の名は」放送開始…NHKは、連続ラジオ放送劇「君の名は」(菊田一夫作)を、この日からスタートさせました。放送開始から爆発的な人気を呼び、銭湯の女湯がガラ空きになるほどの社会現象をひきおこしました。

1959年 皇太子の結婚…皇太子明仁親王(現在の天皇)がこの日結婚。皇太子妃となる正田美智子さんが、民間から初の妃ということで慶祝熱が高まり、ご成婚パレードには美智子妃を一目みようと沿道に53万もの人がつめかけるなど、日本じゅうが「ミッチーブーム」にわきたちました。

今日4月9日は、「経験や実験」を重視した哲学を創始し、デカルトとともに「近世ヨーロッパ哲学」をはじめたとされるイギリスの哲学・神学・法学者のベーコンが、1626年に亡くなった日です。

1561年、エリザベス1世の国璽尚書(印鑑保管する高官)の8男としてロンドンに生まれたフランシス・ベーコンは、12歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学しましたが、当時の同大学がスコラ哲学しか教えないことに不満をもち、ロンドンのグレイ法曹院で法律を学びました。1576年に駐仏大使に随行してフランスに渡りましたが、3年後に父の死のため帰国すると、1584年23歳で下院議員となり、当時エリザベス女王の寵臣といわれたエセックス伯の腹心となって、がむしゃらに出世街道をめざしますが、なかなか栄達には恵まれませんでした。

ジェームズ1世の法務長官のときの1601年、王位をめぐるエセックス伯の陰謀に対し法律家として告発、結果的に処刑となる起訴状を作成して事件の全貌を公開しました。1605年に『学問の進歩』を出版すると、1607年法務次長、1617年に国璽尚書、翌18年には大法官に昇りつめました。このころベーコンは『新機関』を著し、子どものようなかたよりのない眼で個々の現象をみつめ、実験や観察によって一般的な原理に導いていくという「帰納法」を主張し、ものごとを科学的に考えていく基本を示しました。

ところが1621年、職務を利用してわいろをとったことが発覚して、4日間ロンドン塔に閉じこめられて失脚しますが、これがベーコンにとって幸いでした。亡くなるまでの5年の隠退生活の中で、「学問の尊厳と進歩」「自然研究の方法論(ノウム・オルガヌム)」「宇宙の諸現象」の3部からなる『大革新』を著し、未完ながら経験をはじめ実験・観察を重視する哲学体系を発表したことで、「理性と合理」を重視するデカルトと並び、「知識は力なり」という言葉とともに近世ヨーロッパ哲学の2大流の一つといわれるようになりました。日本では明治以来、『随想録』がよく知られています。


「4月9日にあった主なできごと」

752年 奈良大仏開眼…聖武天皇の発案により完成した奈良の大仏の開眼供養会(魂入れの儀式)が行なわれました。1万人の僧がお経読む、盛大な儀式でした。

1865年 南北戦争終結…アメリカ合衆国の南北戦争は、1861年に北部23州と、南部11州の意見の食い違いからはじまりました。黒人のどれいを使うかどうかが主な対立点で、工業の発達していた北部はどれい制廃止、大きな農場主の多い南部はどれい制維持です。1860年にどれい制廃止を叫んだリンカーンが大統領に当選すると、南部は、北部と分れて「アメリカ連邦」を設立して、戦争がはじまりました。当初は南部が優勢でした。1862年リンカーンは「どれい解放令」を出すと形勢逆転、1863年7月のゲッティスバークの戦いで決定的な勝利をした北部が主導権をにぎり、この日南部は北部に降伏し、5年にわたる南北戦争が終結しました。

1976年 武者小路実篤死去…『友情』『愛と死』『真理先生』などの小説、人生賛美あふれる人生論を著した武者小路実篤が亡くなりました。

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