児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年04月

今日4月22日は、「ジェニー紡績機」を発明したことで、イギリスに産業革命がおこるきっかけを作った技術者ハーグリーブスが、1778年に亡くなった日です。

1720年頃、イングランドの北部ランカシャー地方オズワルトウィスル近郊に生まれたとされるジェームズ・ハーグリーブスですが、生い立ちなど詳しいことは、ほとんど知られていません。40歳のころ、大工を兼ねた織布工をしていたことがわかっていますが、当時の紡績業は、昔ながらの手を使って動かす方法で、1台の機械に糸を紡ぐ紡錘が1個ついているだけの能率の悪いものでした。

研究熱心だったハーグリーブスは、糸車が床に倒れたときに糸車と紡錘が回り続けたのを見て紡績機の改良を思い立ち、1760年に羊毛用の梳綿(そめん)機を組立てました。そして1764年、1台の機械に8本の糸を同時に紡ぐことのできる多軸紡績機を発明すると、自分の妻(または長女)の名をつけて「ジェニー紡績機」と名づけました。さらに工夫を重ねて、1767年には1台の機械に80本も紡げる機械にして発売すると、紡績工たちは、仕事を奪われることを恐れて、ハーグリーブスの家におしかけて、機械をこわしてしまいました。

ハーグリーブスは、木綿の靴下の生産が盛んなノッティンガムにのがれ、本格的に多軸紡績機を製造するために1770年に特許をとりました。特許は取得以前に販売していたことで無効になってしまいましたが、ノッティンガム靴下製造業界の支持をえて、新紡績機は一気に広まり、70年代にはアークライトの水力紡績機と並んでイギリスの産業革命のきっかけをこしらえました。

「ジェニー紡績機」は小規模な家内工業でもあつかえることから、亡くなった10年後の1788年には、イングランドだけでも2万台以上普及したということです。


「4月22日にあった主なできごと」

1451年 イサベル1世誕生…1474年カスティリャ王国の女王となり、夫がアラゴン国王となったのを機に両国を統合し、スペイン王国を建国、初代女王となったイサベルが生まれました。イサベルは、1492年にはイスラム国家グラナダ王国を制圧し、約800年にわたったレコンキスタ(国土回復運動)を完成させました。同年女王の援助したコロンブスが新大陸を発見、スペイン海外発展のキッカケとしたことはとくに有名です。

1500年 ブラジル発見…ポルトガル人のカブラルがブラジルに漂着し、ポルトガルの旗を立てて領土としました。そのため、中南米の国々では、ブラジルだけがポルトガル語を言語としています。

1927年 支払い延期令…この年の3月に倒産や休業したりする銀行が続出、この金融恐慌を鎮めるために、3週間にわたる「支払い延期令」(モラトリアム) を発令、即日実施しました。日本銀行は、2億円の非常貸し出しに印刷が間に合わず、片面白紙の200円札を発行しました。

今日4月21日は、『ロビンソン・クルーソー』を著すなど、作家、ジャーナリストとしてぼう大な作品を残したデフォーが、1731年に亡くなった日です。

1660年、ロンドンの肉屋の子として生まれたダニエル・デフォー(本名フォー)は、非国教会の学校に学び聖職者をめざすものの果たせず、メリヤス商やレンガ製造などさまざまな商業活動に従事しました。政治にも興味を持ち、1685年にチャールズ2世の子のマンモス公が王位をねらって失敗する反乱に参加したり、商売でも何度となく大きな浮き沈みを体験し、1691年に破産するなど、絶えず借金に悩まされました。

やがて文筆家をめざすようになり、1697年に『企画論』がヒットして、パンフレット作者として有名になりました。しかし1702年、トーリー党の宗教政策を風刺するために、トーリー党を装ってパンフレット「非国教徒処理の近道」を制作して人々をうまくだましたものの、トーリー党と国教徒の両者の怒りを買って投獄され、3日間のさらし台の刑を受けました。これに対しデフォーは、「さらし台への賛歌」を発表したことで、さらし台に上げられた者へは汚物を投げつけられるのが習慣だったにもかかわらず、観衆は花と飲み物を与えたと伝えられています。

その後、定期刊行物「レビュー」を独力で刊行すると、政治、宗教、経済、教育、歴史、伝記、科学、旅行など、幅広いジャンルの著作を500点以上も刊行しています。いっぽう、小説にも新しい活動分野を見出し、1719年に発表した長い題名の孤島漂流記『ヨークの船乗りロビンソン・クルーソーの不思議にしておどろくべき冒険』(「ロビンソン・クルーソー」)は大評判となり、以後5年間にわたり、『海賊シングルトン』『ジャック大佐』『ロクサーナ』など、正確な日付や数字を並べた波乱に富む一代記形式をとる小説をやつぎばやに発表したことで、イギリス初の近代小説とされたばかりか、『スイスのロビンソン一家』など、これらの作品によく似た漂流記や冒険物語がたくさん作られるきっかけをこしらえました。


「4月21日にあった主なできごと」

1782年 フレーベル誕生…世界で初めて幼稚園をつくるなど、小学校就学前の子どもたちのための教育に一生を捧げたドイツの教育者フレーベルが生まれました。

1910年 マークトウェーン死去…『トムソーヤの冒険』『ハックルベリーフィンの冒険』『王子とこじき』など、わんぱくな自然児や少年たちの冒険物語を著したアメリカの作家マークトウェーンが亡くなりました。

1951年 民間放送の日…民間放送16社に予備免許がおりて、これまでNHKだけの放送から、さまざまな局の番組を選べるようになりました。放送はこの年の秋、ラジオからスタートしました。

今日4月18日は、オーストリアの作曲家で、オペレッタとその序曲や劇中歌で有名なスッペが、1819年に生まれた日です。

ダルマチア地方にベルギーから移住した貴族の家に生まれたフランツ・フォン・スッペは、幼年期に音楽の手ほどきを受けて作曲をはじめ、10代のはじめに北イタリアのクレモナでフルートと和声法を学びました。ところが、父の希望でパドバの大学で法学を専攻するものの、音楽の道をあきらめきれません。

16歳のときウィーンに出てウィーン音楽院のジーモン・ゼヒターに入門、1841年にヨーゼフシュタット劇場に所属する指揮者兼作曲家として活躍をはじめました。スッペは同劇場以外にも、レオポルトシュタット座、アン・デア・ウィーン劇場、バーデン歌劇場などの公演のために、1895年76歳で亡くなるまでに、オペレッタ30曲を含む、バレー曲や劇中音楽など200曲以上もの作品を提供しました。

代表作のオペレッタ『軽騎兵』は、詩人のカール・コスタの台本で作曲されたもので、1866年にウィーンのカール座で初演されて大評判となりましたが、いまでは序曲だけが残っています。トランペットとホルンによるファンファーレのあと、騎兵隊による勇猛で華やかな行進、やがて中間部で戦死した将兵たちのへの鎮魂の調べが重々しいチェロの合奏がかなでられ、最後はふたたび砂塵をまきあげての進軍で終わるこの曲は、今も人気をほこり、映画やアニメーション、コマーシャルなどの音楽に転用されたりしているので、誰もが耳にしたことがあることでしょう。

オペレッタ『ボッカチオ』の序曲もよく知られ、大正時代に浅草オペラの台頭によってスッペのオペレッタが紹介されたとき、田谷力三の愛唱歌として「♩ 恋はやさし野辺の花よ」で有名になり、「ベアトリーチェ」は「ベアトリ姐ちゃん」とタイトルを変え、榎本健一の歌でヒットしました。他に『詩人と農夫』『美しきガラテア』の序曲や劇中歌だけが愛されているのは、残念な気がします。


「4月18日にあった主なできごと」

1849年 葛飾北斎死去…『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』など、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、フランス印象派の画家をはじめゴッホ、セザンヌらに大きな影響を与えた葛飾北斎が亡くなりました。

1942年 B25が日本を初空襲…米軍のB25爆撃機16機が、東京、横浜、名古屋などを初めて空襲しました。

1943年 山本五十六戦死…太平洋戦争を進めたときの日本海軍大将の山本五十六が、ソロモン諸島でアメリカ軍の攻撃にあい、戦死しました。日本海軍の暗号が米軍に解読されたのが原因といわれています。

1955年 アインシュタイン死去…相対性理論によって新しい科学を開き、核戦争に反対をとなえた20世紀最大の物理学者アインシュタインが亡くなりました。

今日4月17日は、中国「明」の儒学者で江戸時代初期に来日し、水戸学に大きな影響を与えた朱舜水(しゅ しゅんすい)が、1682年に亡くなった日です。

1600年、浙江省の名家に生まれた朱舜水は、明末期の不安定な世情にまどわされず、朱子学を学び、仕官することなくじっくり自己を鍛えました。ところが、1644年李自成の乱により明朝が滅亡し、満州民族による清朝が成立しました。こんな動きに対し舜水は、鄭親子らが明朝再興のために活動を開始するとこの運動に参加し、日本の長崎・べトナムとの三角貿易船を組織して軍資金を得るための行動をしました。1659年には、鄭成功を主力とする最後の決戦といわれる南京攻略戦に参加しましたが、敗戦の屈辱を味わいました。

失意のうちに舜水は、無一物で長崎へ亡命すると、幸運にも翌1660年、筑後国柳川藩の儒者安東省庵があらわれ、自分の俸禄の半分をさいてくれました。そして1665年、水戸藩藩主の徳川光圀(みつくに)が舜水を招くと、古今の学問によく通じ、理に走り虚に流れる学問を嫌う舜水の人柄を高く評価して、江戸駒込の徳川別荘内に宅地を与えました。

光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀がのちに『大日本史』と命名する修史事業の編さんに参加した安積澹泊、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友させました。没後は、光圀により遺稿の編さんが行われ、『舜水先生文集』(全28巻)としてまとめられました。その思想は日本儒学史に、「陽明学を取り入れた朱子学」として、藤原惺窩(せいか)、朱舜水、木下順庵、大塩平八郎という流れの中にとらえられています。


「4月17日にあった主なできごと」

723年 三世一身法… 聖武天皇が即位したこの年、農民の人口が増え、耕地が不足したため、田地を開墾した者には、本人・子ども・孫の代まで、その土地の所有を認める「三世一身法」を、この日に公布しました。当時は、土地の所有は認められず、班田収授制によって貸与された土地からの何割かを「租」として納める制度でした。

1616年 徳川家康死去…応仁の乱以降100年以上も続いた戦乱に終止符を打ち、織田信長、豊臣秀吉により統一された天下を、「江戸幕府」を開いてさらに磐石のものとした徳川家康が亡くなりました。

1895年 下関条約調印…1894年7月に始まった日清戦争は日本の勝利に終わりましたが、この日山口県下関市で、日清戦争の講和条約のための下関条約が調印されました。

今日4月16日は、樋口一葉に続く女流作家として注目された田村俊子(たむら としこ)が、1945年に亡くなった日です。

1884年、現在の東京・蔵前にあった米穀商の子として生れた田村俊子(本名・佐藤とし)は、府立第一高女を経て、1901年に日本女子大国文科に入学しますが、まもなく作家を志して中退し、幸田露伴の門下に入りました。翌1902年に露伴から与えられた露英のペンネームで『露分衣(つゆわけごろも)』を発表するものの生き方に悩み、岡本綺堂らの文士劇に参加したことがをきっかけとなって女優の道に進みます。しかし文学へ道を捨てきれず、露伴門下の兄弟子だった田村松魚と1909年に結婚すると、松魚の勧めで書いた『あきらめ』が、1911年大阪朝日新聞懸賞小説1等になって文壇デビューをはたし、作家生活に入りました。

やがて『木乃伊(みいら)の口紅』『女作家』『炮烙(ほうらく)の刑』などの小説を次々に発表すると、自己主張する近代女性の苦悩をリアルに描く作風は、樋口一葉に続く女流作家として注目される存在となりました。

ところが才能を生かしきれず文学活動は数年で終わり、1918年に朝日新聞記者の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住し、現地の邦字紙の編集にたずさわりました。1936年に18年ぶりに帰国し、作家としての活動を再開しますが、かつての筆力はなく、また佐多稲子の夫の窪川鶴次郎との情事が発覚し、その体験もとにした『山道』を発表すると、日本を離れ上海に渡って婦人雑誌『女声』を主宰しますが、大戦下の上海で波乱にみちた生涯を終えました。

没後の1961年に「田村俊子賞」が創設され、 第1回受賞した瀬戸内晴美(寂聴)の『田村俊子』から、第17回の1977年まで毎年優れた女流作家の作品に賞が贈られました。なお、オンライン図書館「青空文庫」では、代表作『木乃伊の口紅』を読むことができます。


「4月16日にあった主なできごと」

1397年 金閣寺完成…室町幕府3代将軍の足利義満は、金閣寺の上棟式を行ないました。巨額の資金を投入した3層建で、下から寝殿づくり、武家づくり、仏殿づくりとなっています。1950年に放火による火事で全焼してしまい、1955年に再建されました。1994年、古都京都の文化財として世界遺産に登録されています。

1828年 ゴヤ死去…ベラスケスと並びスペイン最大の画家のひとりであるゴヤが亡くなりました。

1889年 チャプリン誕生…『黄金狂時代』『街の灯』『モダンタイムス』『独裁者』『ライムライト』など山高帽にチョビひげ、ダボダボずぼん、ドタ靴、ステッキといういでたちで、下積みの人たちの悲しみや社会悪を批判する自作自演の映画をたくさん制作したチャップリンが生まれました。

1972年 川端康成死去…『伊豆の踊り子』 『雪国』 など、生きることの悲しさや日本の美しさを香り高い文章で書きつづり、日本人初のノーベル文学賞を贈られた作家 川端康成が亡くなりました。

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