児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年04月

今日4月30日は、大正末期から昭和初期にかけて陸軍の実権を握り、5次にわたる内閣の陸軍大臣をつとめた宇垣一成(うがき かずしげ)が、1956年に亡くなった日です。

1868年、いまの岡山市に農家の子として生まれた宇垣一成は、小学校を卒業後に代用教員となるものの、軍人を志して上京。1888年に陸軍士官学校に入学し、1900年には陸軍大学校を優等で卒業すると、陸軍将校としての道を歩みはじめ、1902年から2年間ドイツ留学後、1906年ドイツ駐在武官をへて、1910年に陸軍大佐となりました。

1911年に西園寺内閣のもとで陸軍省軍事課長となって田中義一軍事部長のもとで、憲政擁護運動反対に活躍したことで陸軍中央部で頭角をあらわすと、1924年に清浦内閣の陸軍大臣となりました。つづく加藤高明、若槻礼次郎両内閣でも陸軍大臣にとどまり、その間、予算の削減を要求する世論の高まりに対し、21個師団のうち4師団を廃止するなど軍備縮小をおこないました。いっぽうで削減した分の費用を飛行機、戦車、機関銃などの大規模購入に当てて軍備の近代化をおこなうとともに、軍縮で余った将校を中等学校以上に配属させ、軍事教練を実施するようにしたことで、その名声を高めました。

1929年、浜口雄幸内閣でふたたび陸軍大臣となり、1931年には陸軍青年将校が首謀者となったクーデター計画(三月事件)がもちあがりました。クーデター後の首相就任が予定されていた宇垣はこれに興味を示すもののずさんな計画を知り、合法的に政権を獲得できると判断して中止させ、事件発覚後に辞職しました。

その後宇垣は、朝鮮総督として朝鮮の農村更生に努めながら日本の政局を見守っているうち、1936年に2.26事件がおこると、自身の出番がやってきたと確信して帰国、1937年に首相になる方向が決まったにもかかわらず、その政治力を恐れる陸軍中央部の反対で内閣を作れず、以後なんども首相候補とされたものの、いずれも実現しませんでした。1938年近衛内閣の外相を短期間つとめた後公職から引退、戦後の1953年参議院選挙の全国区に最高点で当選をはたしましたが、議員としてほとんど活動できないまま、88年の生涯を閉じました。


「4月30日にあった主なできごと」

1189年 義経衣川で自害…一の谷・屋島・壇ノ浦の戦いに勝利して、平氏を滅ぼした源義経は、兄源頼朝と対立、この日奥州藤原氏当主の藤原泰衡(やすひら)の率いる500騎の兵に、衣川の館を襲われました。泰衡の父秀衡(ひでひら)は、義経をかくまうよう遺言を残していましたが、頼朝からのおどしに泰衡が屈したためで、義経はいっさい戦わず、妻子を殺害して自害しました。

1945年 ヒトラー自決…ドイツの独裁者ヒトラーは、1933年から12年間ドイツを支配しました。1939年にポーランドに侵入、ソ連に戦争をしかけたことで、第2次世界大戦を引き起こしました。当初は、連戦連勝の勢いでしたが、やがてソ連の反撃にあい、1945年4月に入ると、首都ベルリン陥落まで追いつめられ、この日、前日結婚したばかりの妻エバァとともに自殺しました。1週間後の5月7日にドイツは降伏し、ヨーロッパに平和がもどりました。

今日4月28日は、第40代イタリア首相で、ファシズム理論を独自に構築して20年も独裁政治を行ったムッソリーニが、1945年に銃殺された日です。

1883年、ボローニャの南東にあるプレダピオという小村に鍛冶屋でアナーキスト系社会主義者の父と小学教師の母との子として生まれたベニート・ムッソリーニは、寄宿学校で学び成績は優秀だったものの、教師に石を投げつけたり、けんかをして相手をナイフで刺すなど暴力事件を引き起こしたことで、5年のときに退学処分を受けています。その後師範学校を卒業して小学校の教師になりましたが、19歳のときに兵役をのがれるために2年間スイスへ行き、社会主義者たちと交わりを深めました。

帰国後、イタリア社会党に入ると、はげしく政府を批判する行動で何度か投獄されるものの、そのあらっぽい言動や行動が受けて、1912年の党大会では、指導部に選出され、日刊機関紙の編集長のポストにつきました。

1914年に第1次世界大戦がはじまると、党が中立の方針を決めたのにもかかわらず、参戦を主張したことで除名されると、独自の日刊紙を創刊して参戦主義の主張をくりひろげ、1915年に召集されドイツとの戦場におもむくものの2年後に負傷して帰国、ふたたびジャーナリスト活動にもどりました。

大戦後の1919年5月、ミラノに復員兵士や右翼青年ら150人と「戦闘ファッショ」を結成して同年秋の選挙に立候補するものの落選。翌年北イタリアで労働運動が激しくなると、「黒シャツ隊」を作って、社会党員や労働者を暴力で襲わせたことで、政府や資本家を喜ばせた効果もあり、1921年の選挙で下院議員となりました。さらに、「戦闘ファッショ」を「ファシスタ党」に改めて党首となると、1922年10月、4万もの党員を武装させて首都ローマに進軍させ、力ずくで政権を奪うと、以後20年間も首相の地位につき、ファシズム体制を築いて独裁的な統治を行いました。

この間、貧困にあえぐ国民の眼をそらそうと1935年、アフリカ北東部のエチオピアを侵略してこれを併合したことで国際連盟の経済制裁を受け、ヒトラー率いるドイツや日本と3国防共協定を結んで、第2次世界大戦を引き起こす情勢を作り出しました。

はじめは静観したものの、1940年にフランスがドイツに降服したのを機に参戦、敗色が濃厚になった1943年7月、王家や政・財界・軍部から批判が高まり、ファシズム評議会で動議を突きつけられると、国王に逮捕され幽閉されました。一時、ドイツ軍に助け出されますが、イタリアに上陸した連合国軍と、労働者・農民・市民の遊撃隊「パルチザン」の反撃にドイツ軍も逃げ出し、1945年4月26日にスイスへ逃亡するところを国境の小村でパルチザンにつかまり、2日後に銃殺されたのでした。


「4月28日にあった主なできごと」

1952年 日本が独立回復…第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国軍に敗れた日本は、連合国軍に占領されていましたが、前年のこの日に調印された「サンフランシスコ平和条約」が発効し、6年8か月ぶりに独立を回復しました。

今日4月25日は、戦国時代の甲斐武田家に仕え、武田滅亡後は徳川家の家臣となり、のちに鉱山開発などの業績が認められ、江戸幕府の奉行にまでのぼりつめた大久保長安(おおくぼ ながやす)が、1613年に亡くなった日です。

1545年、武田信玄おかかえの猿楽師の子として甲斐(山梨)に生まれた長安は、武田領内にある黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事しました。信玄没後は武田勝頼に仕えるものの、長篠の戦いに敗れ、1582年、織田信長・徳川家康連合軍の侵入(甲州征伐)によって武田家が滅ぶと、長安は家康にしたがうことになりました。

長安は家康の家臣・大久保忠隣(ただちか)の与力に任じられ、大久保姓を授けられ、本能寺の変で信長没後に家康の領地となった甲斐国の民政を命じられました。長安は、釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発などに尽力し、わずか数年で甲斐国の内政を再建したといわれています。

1590年の小田原征伐後、家康が関東に移ると長安は国奉行なみ代官に抜てきされ、1591年には武蔵国八王子に陣屋を設けられて、8000石の所領を与えられました。武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し、八王子五百人同心の創設を具申して認められると、軍事の拠点として周辺を支配、1599年には同心を倍に増やすことを家康に許され、八王子千人同心としました。

1600年、関ヶ原の戦いが起こると、徳川秀忠率いる徳川軍の後背役を務め、1601年に徳川家の直轄領となった石見(いわみ=島根県)銀山奉行となって銀の産出量を倍にすると、1603年には佐渡奉行に任じられるなど、甲州流の採掘法に南蛮流の技術を取り入れた長安の手腕は驚異的で、全国30か所以上もの鉱山から金銀を採掘するのに成功しました。いっぽう交通網を整備して東海道、中山道の宿駅制度を確立したほか、東海道、中山道、北陸道に一里塚を築造して交通行政の管轄をしたり、豪商角倉了以とともに、天竜川、富士川、千曲川を開発して河川交通の整備にかかわったほか、江戸城の改築、名古屋城築城にも大きな手腕をふるいました。

こうして長安の権勢は強大となり、諸大名との人脈も広く「天下の総代官」といわれて、大久保忠隣を中心とした大久保派を幕府内に形成すると、本多正信を中心とする家康側近グループと幕政の権勢をめぐって争うようになりました。

長安没後は悲惨で、生前に長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をした疑い、ポルトガルと連合して幕府転覆をはかる計画をしていたという理由で、長安の7人の男児は全員処刑され、一族や縁故者の処罰、長安を庇護してきた大久保忠隣らも失脚しました(大久保長安事件)。家康は、埋葬されていた長安の遺体を掘り起こし、駿府城下の安倍川川原でさらし首にしました。

しかし近年では、長安の不正蓄財や幕府転覆計画は本多正信・正純父子のでっち上げで、長安の財力と権勢を警戒した徳川家による「粛清」と、不正を行いやすい他の代官に対する「見せしめ」という説が有力となっています。


「4月25日にあった主なできごと」

1599年 クロンウェル誕生…イギリス清教徒革命で、議会を率いて王党派を破り、国王を処刑して独裁政治を行ったクロンウェルが生れました。

1840年 チャイコフスキー誕生…『白鳥の湖』『くるみわり人形』などのバレー組曲をはじめ、交響曲『悲愴』など数々の名曲を残したチャイコフスキーが生れました。

1868年 近藤勇死去…江戸幕末期に「新選組の局長」として幕府側に立って活躍した近藤勇が亡くなりました。

1953年 DNAの構造…イギリスの科学誌『ネイチャー』に、英米の科学者二人がDNA(デオキシリボ核酸)が、生物の細胞にめずらしい構造をもっていることを発表しました。この発見により、生物学は大きく発展、最近では犯罪捜査の犯人割り出しや、親子など血縁の鑑定などに、DNA鑑定が威力を発揮しています。

今日4月24日は、「学農社」をおこし、西洋農法の普及につとめた津田仙(つだ せん)が、1908年に亡くなった日です。

1837年、下総国佐倉藩(今の千葉県佐倉市)の家臣小島家の子として佐倉城内に生まれた仙は、佐倉藩の藩校に学び、1851年に元服して桜井家の養子となり、藩命により江戸に出て、蘭学や英語、洋学や砲術を学びました。1861年に津田大太郎の娘初子の婿となると、江戸幕府外国奉行の通訳として採用され、1867年には、小野友五郎が幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されることになり、福沢諭吉とともに通訳として随行しました。

西洋農法に感銘して帰国すると、1869年に築地ホテルに勤め、西洋料理には西洋野菜が不可欠であるため、同ホテルの理事となってさまざまな洋菜栽培に取り組みました。いっぽう1871年に明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を連れていくことを知ると、次女の梅子を応募させて同行させました。梅子はのちに女子英学塾(津田塾大の前身)を設立したことはよく知られています。

民部省に勤めたのち、1873年には、ウィーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民の書記官として随行し、そこで知り合ったオランダ人農学者の指導を受け、帰国後の1874年5月に新農法『農業三事』を刊行すると、ベストセラーになりました。

1875年、米国メソジスト教会の宣教師から妻の初と共に洗礼を受けた仙は、盲聾唖者教育のため「楽善会」を組織するいっぽう、翌1876年には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍や雑誌の出版などを行う「学農社」を設立させ、農学校を併設して、西洋農法の普及に尽力しました。創刊したばかりの「農業雑誌」に、アメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始めましたが、これはわが国初の通信販売といわれています。

「農業新書」シリーズなどを残すものの、晩年は事業に苦しみ、この日横須賀線の車中で脳溢血により、71年の波乱の生涯を閉じてしまいました。仙は、同志社大の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝大教授の中村正直とともに、「キリスト教界の三傑」といわれています。


「4月24日にあった主なできごと」

1951年 桜木町事故…京浜東北線の電車が、桜木町駅到着寸前に切れた架線にふれて1・2両目が炎上、木製屋根と旧式の3段開き窓のため乗客は逃げ切れず、死者106名、重傷者92名を出す大事故となりました。この事故から、電車の鋼鉄化が急速に促進されました。

1955年 アジア・アフリカ会議…インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心となって、インドネシアのバンドンで「アジア・アフリカ会議」が開催され、この日反植民地主義・民族主義・平和共存など世界平和と協力の推進に関する宣言・平和十原則を採択、アメリカ(西側諸国)、ソビエト(東側諸国)のどちらの陣営にも属さない、いわゆる第三世界の存在を確立しました。

今日4月23日は、イギリスの代表的なロマン派詩人で、自然讃美の詩をたくさん残したワーズワースが、1850年に亡くなった日です。

1770年、北西イングランドの「湖水地方」と呼ばれる美しい湖と山岳からなる地域のコカマスに弁護士の子としとて生まれたウィリアム・ワーズワースは、少年時代から山野を歩き回って自然と親しみますが、7歳のときに母を、13歳のときに父を失い、おじの世話で成長し、1787年ケンブリッジ大学のカレッジに入学しました。

在学中にフランスへ渡り、革命後のフランスに感動したことで、大学卒業後の1791年、ふたたびフランスに渡りました。九月虐殺などの恐怖政治に幻滅するいっぽう、フランス人のアネット・バロンと恋に落ち、1792年に娘をさずかったものの、ワーズワースは経済的理由などからひとり帰国しました。罪の意識やふさいだ気持ちを、詩集『夕べの散策』『風景小品集』『罪と悲しみ』などに著すものの不評で、精神的危機におちいりました。しかし、妹ドロシーのはげましと、1795年に出会った詩人コールリッジと親交を結ぶことで立ち直ることができました。

1798年、コールリッジと共著で出版した『抒情歌謡集』は、イギリスロマン主義の幕あけをつげる革新的な詩集といわれています。ワーズワース19編、コールリッジ5編の詩からなる作品集の序文に、詩とは「人間の心情の自然な発露」とし、人間の内部の感情を話し言葉を使ってすなおに表現すべきと主張したことは、従来の詩が様式的で修辞を重んじていたのに対する画期的な挑戦でした。このロマン派の流れは、やがてバイロン、シェリー、キーツらに引きつがれ、イギリス文学史上の重要な詩人の多くが、この運動のなかから生まれています。

その後ワーズワースは、ドロシーと共にドイツを旅行し、自伝詩『序曲』(1805年完成)を書きはじめたほか『ルーシー詩篇』を含むたくさんの代表的な詩を書き、1799年末に帰国すると、湖水地方の湖畔にコテージをかまえ、80歳で亡くなるまで、生涯妹ドロシーとともにここに住みました。

なお、ワーズワースの作品のうち、高く評価されているのは1795年~1805年の10年間に書かれたものがほとんどで、「偉大なる10年間」といわれています。晩年は保守的になって作品に生気がなくなりましたが、1843年にはイギリス王家が与える称号「桂冠詩人」に選ばれています。


「4月23日にあった主なできごと」

1616年 シェークスピア死去…『ハムレット』『ロミオとジュリエット』『べニスの商人』などイギリスのエリザベス朝演劇を代表する劇作家シェークスピアが亡くなりました。

1863年 寺田屋騒動…薩摩藩主の父で事実上の指導者島津久光の公武合体論に不満を持った薩摩藩の過激派、有馬新七ら6名は伏見の船宿寺田屋に集まり、幕府の要人の襲撃を謀議中、久光の命を受けた藩士らに殺されました。この事件によって朝廷の久光に対する信望は大いに高まり、久光は公武合体政策を実現させるために江戸へ向かいました。

1949年  1ドル360円…GHQはこの日、日本円とアメリカドルの交換レートを1ドル360円と定めました。このレートは1971年まで22年間にわたって維持されました。ちなみに、明治初期の1ドルは1円と定められていました。

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