児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年03月

今日3月7日は、第52~54代内閣総理大臣をつとめ、日ソ国交回復、国際連盟加盟を実現させた鳩山一郎(はとやま いちろう)が、1959年に亡くなった日です。

1883年、衆議院議長をつとめた父鳩山和夫と、共立女子職業学校(いまの共立女子大)を設立した母春子の子として東京・東五軒町に生まれた一郎は、6歳のとき有名になった音羽の「鳩山御殿」に移り住み、1907年に東京帝国大英法科を卒業後に弁護士となりました。しかし、父が志なかばにして亡くなったことで政治家になる決意をし、1912年東京市議会議員、1915年に衆議院議員に当選すると、以後15回の当選をはたしています。

戦前は主として保守政党の政友会議員として行動しました。1927年田中義一内閣では幹事長および内閣書記官長、犬養毅内閣と斎藤実内閣では文部大臣をつとめましたが、1933年の京都帝国大の滝川幸辰(ゆきとき)教授の思想を非難する「滝川事件」(京大事件) の際には、京大総長に対して教授の免職を要求、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にしました。右翼の圧力があったとはいえ、学問の自由、大学の自治を侵害した責任はまぬがれません。

戦時中は主だった活動はしませんでしたが、戦後いちはやく日本自由党を結成して総裁となり、1946年の総選挙で第一党になると、首相の指名を待つばかりとなりました。ところが、GHQから戦争に協力したことなどが問題視され、公職追放となってしまいました。ところが1951年、追放解除を目前に脳梗塞で倒れたことから周辺の同情を集めることになり、翌年衆議院議員に復帰すると、鳩山ブームが起こり、盟友だった三木武吉の尽力により改進党とともに日本民主党を結成、1954年末に総理大臣となりました。

1955年には、自由党と日本民主党を合同させ、強力な保守政党の自由民主党をつくり、その総裁となりました。これが長く政界を支配する「55年体制」のはじまりでした。これにより、吉田茂前首相のアメリカ中心の外交から転換、1956年に「日ソ共同宣言」に調印して日ソ国交回復をなしとげ、日本の国際連合加盟を実現させたのでした。

いっぽう、日本の独立確保のためには憲法を改正し、再軍備をとなえ、改憲のために小選挙区制度の導入をはかろうとしましたが、野党だけでなく、与党内からも非難されたことで総理を辞任し、政界を引退しました。

なお、鳩山一郎の長男の威一郎、孫の由紀夫、邦夫も国会議員となっています。


「3月7日にあった主なできごと」

BC322年  アリストテレス死去…古代ギリシアの哲学者・学者・教育者・著述家として、さまざまな学問を集大成したアリストテレスが亡くなりました。

1608年 中江藤樹誕生…人を愛し敬う心を大切にし、母に孝養をつくして 「近江聖人」 とその徳望が慕われた江戸時代の儒学者 中江藤樹が生まれました。

1778年 ハワイ島の発見…イギリスの探検家クックがハワイ島を発見しました。翌年に上陸すると、原住民たちは神の化身として厚くもてなしたといわれています。なおハワイは、王国、共和国を経て、1898年にアメリカ合衆国に合併されました。

今日3月6日は、カント哲学の翻訳と研究者として知られ、第3次吉田内閣の文部大臣、独協大学の初代学長をつとめた天野貞祐(あまの ていゆう)が、1980年に亡くなった日です。

1884年、現在の相模原市に豪農の子として生まれた天野貞祐は、旧制中学の独協学園に在学中に内村鑑三の著書に感銘、旧制一高に入学して内村から直接教えを受けて卒業後、京都帝国大に進学して西田幾多郎らからカント哲学を学び、在学中にカントの『哲学序説』を翻訳出版するほどでした。

1902年卒業後は、旧制七高(のちの鹿児島大)や学習院高等科(のちの学習院大)の教授としてカント哲学や倫理学を教え、1922年にはドイツのハイデルベルク大学に留学して研究を深め、1926年から京都帝大助教授となり、カントの代表作『純粋理性批判』を初めて日本語訳に成功したことが評価され、1931年に教授となりました。

1937年には『道徳の感覚』を出版し、カント主義に立った良心と熱情のこもった道徳論は、学生や知識人らに深い感銘をあたえました。ところが、そのなかに「軍事教練」と「陸軍幼年学校」を日本の教育界の2大障害物とするなど、日中戦争以後の軍国主義的風潮を批判する部分があったことから、軍部、右翼、マスコミ、御用学者たちから糾弾され、絶版にさせられてしまいました。これにこりず、1939年には『学生に与ふる書』を著して、時流に流される世の中に警鐘を発し続けました。

1944年、京都帝大を定年退職し甲南高校校長在任中に終戦を迎え、翌年に母校の一高校長に就任。1950年には吉田茂にこわれて、2年間文部大臣をつとめました。その間、時流に流されない教育という自身の信念に基づく教育行政を推進しようと「静かな愛国心」「道徳教育の必要性」を強調したことが、野党社会党や進歩的知識人たちから厳しく非難され、政治問題となってしまったことは、天野にとって不本意なことでした。

その後天野は、母校の独協学園の再建のための校長就任要請を受け、信条とする「学問を通じての人間形成」の精神のもとに、大学を創設すべきという声に支えられ、1964年に独協大学を創立して初代学長に就任、独協学園の学園長をつとめました。


「3月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が生れたとされる日です。

1972年 日の丸飛行隊が金・銀・銅独占…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金さえとったことのなかった大ニュースに、3人は「日の丸飛行隊」とよばれ話題を独占しました。

今日3月5日は、生涯にわたって電気の研究を続け、「電気盆」や「ボルタ電池」を発明したイタリアの物理学者ボルタが、1827年に亡くなった日です。

1745年、北イタリアの平原にある町コモの旧家に生まれたアレッサンドロ・ボルタは、少年のころから科学に興味をもち、当時アメリカやフランスから伝わってきた雷が電気だという説や、ライデン瓶の不思議な現象に心をひかれました。コモの王立学院で自然科学を学んで卒業すると、自宅の一室に電気や化学の実験道具をそなえて、熱心に研究しながら内外の研究者と文通することで、実力をつけていきました。

1774年に母校の王立学院教授にまねかれ、電気に関するさまざまな発見や発明をなしとげました。そのひとつが、金属板とエボナイトを組合せた一種のまさつ起電器「電気盆」でした。1779年にはパビア大学の教授になって、蓄電器など電気機器の発明につとめたことで、物理学者としての名声がヨーロッパじゅうにひろがりました。

そのころ、ボローニャ大学の解剖学者ガルバーニが、カエルの脚の研究をしていて、カエルの脚の筋肉収縮は、脳からだされる「動物電気」の作用によるものと提唱しました。これに対しボルタは、電気発生は、生物体内にあるのではなく、作用はなんらかのしめった物体に接触した金属から発生するという「金属電気説」を提唱。さらにその後、しめった物体がなくとも、異種の金属を接触させることで電気を帯びることを明らかにしました。しかし、金属板をいくら重ねても電気を発生させることができないことに気づき、銅または銀と亜鉛の円板の間に湿った布をはさみ、これを多く積みかさねたところ、電気を発生させることに成功しました。

さらに研究を重ねて1800年、銅と亜鉛と食塩水をしみこませた紙を交互に重ね合わせ、「ボルタの電堆(でんたい)」という一種の電池を発明したのでした。これが、人類が初めて手にした電流発生装置で、これをきっかけに電池の研究は大きな進歩をとげました。

1801年、ボルタは、ナポレオン1世に招かれて電池の実験をし、ドヌール勲章を授かれています。なお、現在使われている電圧の単位(V ボルト)は、ボルタの名にちなんでつけられたものです。


「3月5日にあった主なできごと」

1932年 団琢磨死去…三井・三池炭鉱を経営し、三井財閥の総帥となって、大正・昭和初期の日本実業界のトップに立った団琢磨が、暗殺されました。

1953年 スターリン死去…ソ連の独裁者、共産党指導者、首相、大元帥となったスターリンが亡くなりました。

今日3月4日は、長崎平和公園にある『平和祈念像』をはじめ、『光にうたれる悪魔』『笑う少女』などの作品で知られる彫刻家の北村西望(きたむら せいぼう)が、1987年に亡くなった日です。

1884年、いまの長崎県南島原市に生まれた北村西望は、尋常小学校を卒業後に臨時教師となりました。1901年正教員をめざして長崎師範学校で学びますが、風土病にかかって長期療養中に彫刻家を志すようになり、1903年京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、さらに卒業後の1907年に上京すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学しました。翌年の第2回「文展」に『憤闘』が初入選をはたし、1912年同校を首席で卒業しました。

その後召集令状を受けて久留米の工兵大隊に入隊しますが、1915年に兵役除隊すると本格的に彫刻の道へ進み、初期の代表作『怒涛』を制作。この作品を第9回文展に出品したところ最高賞(二等賞)をうけ、翌1916年の第10回文展でも『晩鐘』が特選主席をうけると「力強い男性ブロンズ像作家」としていちやく頭角をあらわしました。その後も文展の常連となって『光にうたれる悪魔』『将軍の孫』などを次々に発表。1919年には帝国美術院展彫刻部審査員となって、長くその地位にありました。1921年には、母校東京美術学校の塑造部教授に任命され、1931年には京都市立美術工芸学校の教諭もつとめています。しかし、戦争がはげしくなると、銅像の制作はむずかしくなり、1944年には、朝倉文夫とともに銅像救出委員会を組織して、銅像供出の阻止運動を行っています。同年東京美術学校を退職すると、埼玉県秩父地方に疎開しました。

なんといっても北村西望の代表作は、1955年に発表された大作『平和祈念像』でしょう。1950年に、長崎市から平和祈念像の建設の相談をうけると、井の頭自然文化園の土地を東京都から借りうけてアトリエを建設、5年間をかけて10mを超えるこの作品の制作に打ちこみました。そして1955年、長崎市の平和公園にある『平和祈念像』が同年8月に除幕式がおこなわれ、いまも世界平和を願う人々のシンボルとなっていることはよく知られています。

この作品について西望は、「あの悪魔のような戦争 身の毛もよだつ凄絶悲惨 肉親を人の子を かえりみるさえ堪えがたい真情 (中略) 右手は原爆を示し左は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る……」と、記しています。なお、象の花子さんのいる動物園として有名な「井の頭自然文化園」には、北村西望の「彫刻園」があり、3棟の建物には、長崎の平和祈念像が制作されるまでのアトリエ、小さな石膏の段階から実物大までの祈念像原型ほか、思わず笑いをさそう『将軍の孫』『笑う少女』『猫ー防衛』などたくさんの作品が収録され、中庭の雑木林には『怒涛』『晩鐘』『光にうたれる悪魔』など38作品が転々と配置され、親しまれています。

なお、西望は1958年に文化勲章を受け、日展の名誉会長などの重責を歴任し、満102歳の長寿をまっとうしました。日本彫刻会ではその功績を称え、同会展覧会の最優秀作品に「北村西望賞」の名を冠しています。また、生地に近い島原城址には「西望記念館」があります。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父藤原道長からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった松平定信を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家有島武郎が生まれました。

今日3月3日は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、豊臣政権の五大老の一人・加賀藩主前田家の祖として知られる前田利家(まえだ としいえ)が、1599年に亡くなった日です。

1538年、尾張国愛知郡(いまの名古屋市)の土豪前田利春の次男として生まれた前田利家(幼名・犬千代のちに孫四郎、又左衛門を名のる)は、1551年に織田信長に小姓として仕えました。若いころの利家は、勇猛でしたが短気でけんか早く、19歳のとき、信長お気に入りの若者を切り殺したことで追放されたこともありました。3年後に許されて再び仕え、1560年「桶狭間の戦い」をはじめ、美濃攻めに参加するなど槍の名手として数々の手柄をたてて、主力部隊に編入されました。1569年には、信長のとりはからいにより、兄にかわって前田家を継いでいます。

その後も、姉川の戦い(1570年)、長篠の戦い(1575年)、10年にもわたる石山戦争などで次々と功績をあげ、近江長浜城主、越前府中城主、能登七尾城主などをつとめ、柴田勝家を助けながら各地を転戦し、能登一国を拝領して大名となります。

1582年に信長が、本能寺の変により明智光秀に討たれると、織田の後継者を決する「賤ヶ岳の戦い」(1583年)では、はじめ柴田勝家につくものの、やがて羽柴(のちの豊臣)秀吉に味方して勝利し、以後、秀吉の天下統一に協力したことで、加賀・越中を与えられて82万石の大大名となり、加賀藩百万石の礎をきずきました。

秀吉の利家への信頼はとくにあつく、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家とともに豊臣政権五大老のひとりに列せられ、豊臣秀頼が生まれるとその守役を任じられて大坂城へ入るほどでした。1598年秀吉の死後、家康と石田光成らの対立が顕在化すると、多くの大名に信頼される存在だった利家は、両者の対立をうまく仲裁しましたが、秀吉の死の8か月後に、病死してしまいました。

政局はいっきに緊迫し、天下分け目の戦いといわれる「関ヶ原の戦い」がおこるのは、利家の死後1年半後のことでした。


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになりました。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功したベルが生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカのペリー提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたため、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老の井伊直弼と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。

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