児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年03月

今日3月14日は、ロールフィルムを発明し、イーストマン・コダック社を創業して写真の大衆化をはかったアメリカの実業家イーストマンが、1932年に亡くなった日です。

1854年、ニューヨーク州ウォータービルにある農場経営者の子として生まれたジョージ・イーストマンは、ロチェスターの公立学校で学んだ後、銀行の帳簿係をつとめながら、趣味の写真撮影を楽しんでいました。たまたま、ある島へ撮影に出かけたおり、カバンの中の衣類が、写真用の薬品で使い物にならなくなったことで、当時の湿板法にいやけをさしてしまいました。そこでイーストマンは、乾板法の実験をはじめ、3年もの実験の末、ガラス板にゼラチンと臭化銀をぬる方法をみつけだし、イギリスとアメリカで特許を取得しました。

イギリスの特許を売って得た資金をもとに、1880年に写真事業を始めたイーストマンは、1884年写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える方法を見つけ出し、1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得しました。そして、持ち運び自由な上、照明や焦点合わせ不要の箱型カメラを、100枚撮りのフィルムを装てんしたまま25ドルで売り出しました。写真を撮り終えた客は、10ドルをそえてカメラごと工場へ送れば、写真が焼きつけられ、カメラに新しいフィルムが装てんされて送り返されました。まさに「あなたはシャッターを押すだけ、あとはおまかせください」という宣伝文句にいつわりはありませんでした。

1892年にイーストマン・コダック社を設立させ、1897年には、明るい場所でも装てんでき、客はカメラを送り返す必要のない「ポケット・コダック」を発売しました。これが、今日の写真の普及のきっかけを作るとともに、アメリカ最大のカメラ・フィルム会社に育て上げたのでした。

従業員の福祉を重視したイーストマンは、アメリカの実業家として初めて労働者に会社の株や配当を分配しました。また、慈善家としても知られ、巨額の寄付金をロチェスター工科大学、ロチェスター歯科診療所など欧米の多くの大学や歯科医院に送っています。

晩年は、病気のために慢性の痛みと身体の衰えに苦しみぬき、「友よ、私の仕事は終わった。もう待てない」と書かれた遺書を残し、ピストル自殺により78年の生涯を閉じました。


「3月14日にあった主なできごと」

1497年 毛利元就誕生…戦国時代に中国地方ほぼ全域と四国の一部を支配し、毛利家の最盛期をつくった毛利元就が生れました。

1868年 五箇条の御誓文…天皇集権による明治新政府の基本方針となる「五箇条の御誓文」を公布しました。

1879年 アインシュタイン誕生…「一般相対性理論」を完成させてノーベル物理学賞を受賞し、平和活動に尽力した20世紀最大の物理学者といわれるアインシュタインが生れました。

1883年 マルクス死去…「科学的社会主義」を提唱し、労働運動の理論的指導者として世界に大きな影響力を与えたドイツ出身の経済学者マルクスが亡くなりました。

今日3月13日は、帝政ロシア12代皇帝で、「農奴解放令」など数々の改革を実施したアレクサンドル2世が、1881年に亡くなった日です。

1818年、ニコライ1世の長男として生まれたアレクサンドルは、幼いころから帝王教育を受け、ドイツ語・フランス語・英語・ポーランド語をマスターし、軍事・外交・財政などの政治的教養を身につけていきました。1855年、ロシアとトルコ・英・仏連合軍との戦い「クリミア戦争」のさなかに父が亡くなったことで、皇帝の座につきました。翌1856年3月にロシアは敗北を認め、パリ条約を結びました。

敗北はロシアの「立ち遅れ」にあると分析したアレクサンドル2世は、経済発展や自由主義的な社会改革こそが国を救うと考えました。そこで、古い社会制度の象徴とされた農奴制の解体に着手し、1861年2月に農奴解放令を発布して、農奴の人格自由と土地所有を認めました。さらに、1864年には司法権の行政権からの独立、徴税請負制の廃止、国立銀行の創設など政府内の構造を近代化したばかりか、「ゼムストボ」とよばれる地方自治会を設立して農民でも地方議会へ選出できる制度をつくり、「初等国民学校令」を出して基礎的公教育を無償にしたり、1871年には女性が教員や公務員となることを許可、軍事面では男子に対する徴兵制をしくなど、改革を矢つぎばやに実施しました。しかしこうした改革も国民は満足せず、革命をおこそうとする秘密結社や、農民騒乱があちこちでおこりました。

1864年、ロシア領になっていたポーランドに独立をめざす大反乱がおきると、自治権をとりあげて母国語の使用を禁じました。また1866年に皇帝暗殺の動き(カラコーゾフ事件)があると、秩序維持高等委員会を設けて、べラルーシやウクライナなどヨーロッパロシア各地域にロシア化政策を強化し、革命運動を徹底的に弾圧するようになりました。こうした皇帝の反動的ともいえる行為は、逆に革命運動を刺激することになり、1870年代には農民革命をめざす「ナロードニキ運動」がさかんになりました。

そしてこの日、首都のペテルブルクの路上で、ナロードニキの「人民の意志」派メンバーが投げた爆弾により、暗殺されてしまったのでした。


「3月13日にあった主なできごと」

1578年 上杉謙信死去…戦国時代に、甲斐(山梨)の武田信玄と5度にわたる「川中島の戦い」をともに戦った越後(新潟)の武将の上杉謙信が亡くなりました。

1813年 高村光太郎誕生…彫刻家、画家、評論家として活躍し、詩集『道程』『智恵子抄』などを著した詩人の高村光太郎が生れました。

1988年 青函トンネル開通…青森県と北海道を結ぶ全長53.85kmという世界一長い海底トンネルが開通しました。これにより、津軽海峡を運航していた「青函連絡船」が姿を消すことになりました。

今日3月12日は、わが国で初めて労働組合運動、生活協同組合運動に取り組んだ高野房太郎(たかの ふさたろう)が、1904年に亡くなった日です。

1869年、長崎で生まれた高野房太郎は、幼いころに一家で上京しますが、父が亡くなったことで、横浜の伯父のもとで働きながら横浜商業を卒業しました。1886年に渡米すると、サンフランシスコなど西海岸の都市で10年間働きながら、英語や経済学を学びました。その間、労働問題に関心をいだき、1891年洋服仕立工の沢田半之助らと職工義友会をサンフランシスコに結成。アメリカ労働総同盟(AFL)会長のサミュエル・ゴンパーズの教えを請いながら、アメリカやヨーロッパの労働問題の研究をするうち、ゴンバーズからAFLの日本での宣伝・勧誘活動の役割をになうように要請されました。

日清戦争後の1896年に沢田とともに帰国すると、日刊英字新聞「ジャパン・アドバタイザー」の記者となり、翌年7月に片山潜や沢田らと労働組合期成会を設立。幹事長となって「職工諸君に寄す」を書き、労働組合の結成を呼びかけ、12月には鉄工組合を創立させてその常任幹事となりました。1898年には労働者消費組合として「共営社」を運営するなど、労働組合運動の先駆者として貢献しました。

しかし、高野が穏健な労働組合運動を理想としていたのに対し、社会主義に傾いていた片山と対立するようになり、1900年に「治安警察法」が出されて、運動が弾圧されるようになると、将来に対する展望を失って運動から身をひいてしまいました。

「ジャパン・アドバタイザー」の従軍記者として中国に渡って取材活動をおこなっていましたがこの日、中国青島(チンタオ)のドイツ病院で亡くなってしまいました。36歳の若さでした。なお、弟の高野岩三郎は、社会運動家・社会統計学者として大成し、兄の遺志をついでいます。


「3月12日にあった主なできごと」

1876年 日曜休日制…日本の官庁は、明治時代以降、毎月31日を除いて、1と6のつく日を休日としていましたが、欧米にならって日曜を定休、土曜を半休とすることを決めました。

1925年 孫文死去…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている孫文が亡くなりました。

1945年 アンネ・フランク死去…『アンネの日記』を書いたことで知られるアンネ・フランクが、ナチの収容所で亡くなりました。

今日3月11日は、「母をたずねて三千里」や「難破船」などが収録されていることで知られる名作『クオレ』を著したアミーチスが、1908年に亡くなった日です。

1846年、イタリア北西部の町オネーリアに生まれたエドモンド・デ・アミーチスは、当時イタリアが7つの小国に分かれていて、統一運動の嵐のなかで少年時代を送りました。14歳のとき、イタリア独立運動に参加しようとガリバルディの赤シャツ隊に志願しましたが、若すぎるとことわられたと伝えられています。成長して軍人になるもののコレラにかかって戦線を離脱、1861年のイタリア統一を機に本格的な作家活動に入り、ヨーロッパ各地を旅行して、『スペイン』『モロッコ』『パリの思い出』などの旅行記を著しました。

世界じゅうに名が知られるようになったのは、1886年に発表した『クオレ(愛の学校)』がベストセラーになってからでした。この作品は、10歳のエンリコ少年が新学期の10月から翌年7月までの学校での10か月を日記形式で書かれたものです。毎月初めに語られる9つの講話は、「父の看病」「難破船」「フィレンツェの少年筆耕」「アペンニーノ山脈からアンデス山脈まで(わが母いずこ)」など、独立した物語としても愛読されています。日本では「アペンニーノ山脈から~」は、初めて日本語に訳した三浦修吾が、「母をたずねて三千里」としたことから、このタイトルが一般化していて、次のような内容です。

イタリアの港町ジェノバに住む少年マルコが、両親と兄とで貧しくもつつましく暮らしていたところ、生活は日増しに苦しくなり、母が遠いアルゼンチンへ出稼ぎに行くことになりました。さみしさをこらえるマルコでしたが、やがて母からの便りがとだえてしまいました。心配になったマルコは母をさがしに停泊中の船に忍びこみます。こうして、母のもとへと向かう長く苦しい旅が始まるのでした……。

いまだに子どもたちに人気がある作品で、とくに、1976年にフジテレビ系世界名作劇場シリーズのアニメ『母をたずねて三千里』(1年間52話)の原作として全国的によく知られるようになりました。1980年には劇場版、1999年にはリメーク版が公開されています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、日本童話研究会訳によるアミーチス作『母を尋ねて三千里』を読むことができます。


「3月11日にあった主なできごと」

1444年 ボッティチェリ誕生…イタリア・ルネッサンス期の画家で『ビーナスの誕生』や『春』を描いた、ボッティチェリが生まれました。

1582年 武田勝頼死去…武田信玄亡き後、織田信長・徳川家康軍と対抗するものの、「長篠の戦い」に敗れたことがきっかけとなって家臣団の統率に失敗した武田勝頼が自害しました。

1955年 フレミング死去…青かびからとりだした物質が大きな殺菌力をもつことを偶然に発見し、ペニシリンと命名して世界の医学者を驚かせたフレミングが亡くなりました。

今日3月10日は、原爆症に苦しみながら、原水爆反対運動に力をつくした詩人の峠三吉(とうげ さんきち)が、1953年に亡くなった日です。

1917年、父の勤務地だった大阪豊中市に生まれた峠三吉は、生後まもなく父の故郷広島市に転居しました。幼いころから病弱でしたが、母の影響をうけて文学好きな少年時代をすごしました。広島商業学校に在学中から詩作に親しみ、1935年に卒業してからは肺結核が悪化し寝たり起きたりの生活のなかで、その思いを俳句や短歌づくりなど文学の世界につづりました。

そして1945年8月6日、広島に落とされた原爆の「死の灰」を、爆心地からわずか3キロのところであびてしまいました。その直後に親戚や知人をさがし歩いた体験が、のちの『原爆詩集』の原点となったといわれています。

それ以後、持病に加え原爆症の後遺症に苦しみながら、「われらの詩の会」などさまざまな地域文化サークルに参加して中心的な役割を果たしたばかりでなく、丸木位里・俊「原爆の図」展の開催など、原水爆反対運動に力をつくしました。とくに1951年に刊行した『原爆詩集』は、たくさんの人びとに大きな感動を与えました。翌年には、大喀血して入院するものの、子どもたちの詩を集めたアンソロジー『原子雲の下より』の編集にたずさわるなど、再び精力的に活動に奔走する日々を送ります。

ところが1953年2月、創作活動や社会活動に耐えうる身体にしたいと、肺葉切除手術を受けましたが術中に病状が悪化、手術台上で亡くなってしまいました。被爆から8年後のことでした。

なお、広島市の平和公園内には、「にんげんをかえせ」の詩碑が建立されています。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

オンライン図書館「青空文庫」では、峠三吉の『原爆詩集』を読むことができます。


「3月10日にあった主なできごと」

710年 奈良時代始まる…天智天皇(中大兄皇子) の4女である元明天皇が、藤原京から奈良の平城京に都を移し、奈良時代がはじまりました。

1945年 東京大空襲…第2次世界大戦の末期、東京はアメリカ軍により100回以上もの空襲を受けましたが、前夜から深夜にかけての空襲はもっとも大規模なものでした。B-29爆撃機およそ300機が飛来して、超低空から木造家屋へ、大量の手榴弾、機銃掃射、焼夷弾を浴びせました。爆撃は2時間40分にもわたり、その夜の東京は、強い北西の季節風が吹いていたため、下町地区は火の海と化し、死亡・行方不明者は10万人以上、焼失家屋18万戸、罹災37万世帯、東京市街地の3分の1以上が焼失しました。

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