児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年03月

今日3月24日は、生前はほとんど無名のまま夭折したものの、没後に高く評価されている作家・梶井基次郎(かじい もとじろう)が、1932年に亡くなった日です。

1901年、大阪に生まれた梶井基次郎は、父の転勤と共に東京や三重県・鳥羽などで病弱な少年期をすごしますが、1919年に旧制北野中学を卒業後、エンジニアを志して旧制三高理科(現・京都大総合人間学部)に入学。ところが、中谷孝雄、外村繁らと交わるうち文学をめざすようになり、授業にもでなくなって肺結核を発病、転地療養を余儀なくされました。復学するものの退廃的生活を送るようになり、このころの生活ぶりは、泥酔してラーメン屋の屋台を引っくり返したり、けんかしてビール瓶でなぐられたり、家賃がたまった下宿から逃亡したり、料亭の池に飛びこんで鯉を追ったりと、その無頼ぶりは、学生たちの間で評判になるほどでした。

1924年、東京帝大英文科に進学すると、翌1925年、中谷、外村ら友人たちと 同人誌「青空」を創刊し、京都に下宿していた時代に不治の病といわれていた肺結核と宣告された直後の気持、思春期の不安や焦燥を描きこんだ『檸檬』や『城のある町にて』を発表すると、翌年病状が悪化したことで大学を中退、伊豆湯ヶ島温泉で療養生活に入りました。

その後も死への恐怖におびえながらも、『冬の日』『冬の蝿』『桜の樹の下には』『闇の絵巻』などを「青空」に発表、自身の病とまっすぐに向き合いながら、自己と外界との認識を深めた短編をつづっていきました。1928年に病状がいっそう進んだことで郷里の大阪へ戻り、1931年に『交尾』を発表すると、三好達治ら友人たちが力を合わせて梶井の作品集『檸檬』を刊行しました。

そして最期の年となる1932年1月、結核患者の静かな日常を描いた『のんきな患者』を「中央公論」に発表したことで、生涯初の原稿料を受け取りました。この作品を正宗白鳥や直木三十五らが新聞時評で採り上げたことで、世間は梶井の存在を知ることになりましたが、それもごく一部の人たちだけでした。翌3月に入ると、病は急速に悪化し、この日31年の生涯を閉じてしまいました。

梶井の作品はわずか20編の短編しか遺されていません。にもかかわらず、どの作家にもない独自の短編群は珠玉の名品といわれるようになり、文芸評論家の小林秀雄をはじめ、三島由紀夫、井伏鱒二、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、福永武彦、安岡章太郎、開高健ら世代や個性の違う多くの作家たちに高く評価されて、教科書に載るまでにもなり、近代の古典の地位を占めるようになっています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、『檸檬』をはじめとする代表作を読むことができます。


「3月24日にあった主なできごと」

1185年 平氏の滅亡…一の谷、屋島の戦いに敗れた平氏は、源義経の率いる水軍を、壇ノ浦(山口県・下関市)で迎えうちました。この日の正午近くに戦闘が始まり、平氏は西から東へ流れる潮流にのって有利に戦いを進めていました。ところが、3時過ぎになって潮流が逆になると形勢は逆転。敗戦を覚悟した平氏は、次々に海に身を投げていきました。この「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡、以後源頼朝の支配が確立しました。

1603年 エリザベス女王死去…「グッド・クィーン・ベス」(すばらしい女王、エリザベス)という愛称で国民からしたわれたエリザベス1世が亡くなりました。

1870年 本多光太郎誕生…明治から昭和にかけて、日本の科学の基礎をきずき、長岡半太郎と並んでその力を世界に示した物理学者本多光太郎が生まれました。

1905年 ベルヌ死去…『80日間世界一周』『海底2万マイル』『十五少年漂流記』などを著し、ウェルズとともにSFの開祖として知られるフランスの作家ベルヌが亡くなりました。

今日3月20日は、竹中半兵衛とともに豊臣秀吉の側近としてつとめ、半兵衛亡きあとは秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛(くろだ かんべえ)が、1604年に亡くなった日です。

1546年、播州平野(兵庫県)に勢力を持つ戦国大名の小寺政職(まさもと)に仕える黒田職隆(もとたか)の長男として播磨国の、まだ小城だった姫路城に生まれた官兵衛は、1562年に政職の近習となり、この年に父と共に土豪を征伐して初陣を飾りました。1567年ころ、父から家督と家老職を継いで姫路城主となりましたが、当時は毛利氏の影響が強く、主君の政職や重臣たちも毛利氏につくことを考えていました。ところが官兵衛は、勢いをます織田信長につくべきと重臣たちを説きふせます。1577年、官兵衛はわずか500の兵で毛利と同盟する播磨の三木通秋軍5千の兵を打ち破る成果をあげると、忠誠を示すために長男の松寿丸(のちの黒田長政)を人質として信長の元へ送りました。

やがて中国地方の攻略をまかされた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の軍勢が播磨に入国すると、官兵衛は中国攻略の拠点にするよう、居城の姫路城を明け渡します。その後は竹中半兵衛とともに秀吉の指揮下で才能を発揮していきました。

1582年本能寺の変での信長の死で、天下統一目前まで来ていた織田軍団は大混乱に陥り、備中(岡山県)の地において秀吉もまた絶望に打たれました。しかし官兵衛は、「織田軍は各地に散らばってしまっています。今、ただちに大軍を動かせられるのはわが軍のみ」と耳打ちしたと伝えられています。そんな態度を周囲に見せまいと秀吉は大号泣する芝居をしますが、秀吉に官兵衛のすえ恐ろしさを植えつけ、亡くなるまで官兵衛を警戒するきっかけとなったようです。

高松城の水攻めなど四国征伐での長宗我部元親との対決、毛利氏との講和、九州征伐での島津氏との対決、小田原征伐など、秀吉の行動の裏にはいつも官兵衛の姿がありました。

秀吉が、自分の死後に天下を取るのは誰かと近習にたずねたところ、五大老の前田利家、徳川家康らの名が出るなか、秀吉は「さも恐ろしきは官兵衛」と答えたそうです。大大名の中でわずか10万石程度の一軍師に過ぎない官兵衛の名前をあげたのは、秀吉がその才覚を恐れ、わざと低い石高に抑えていたのかもしれません。これを聞いた官兵衛は家督を息子の長政に譲り、自身は「如水」と称して出家しました。

1600年、秀吉の死後に天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」がおこります。石田三成、毛利輝元らの西軍と、徳川家康を中心とする東軍が激突する中、豊前中津(九州の大分県)にいた黒田官兵衛(如水)は、「この戦いは長期化する。そのすきに九州を制圧し、疲弊した中央政権に攻めこむ」という構想を練ったばかりでなく、たちまち九州の諸城を落としていきました。ところが、息子の長政と共に戦った小早川秀秋の寝返りにより戦いはわずか一日で終わってしまい、官兵衛の野望が明るみに出ることはありませんでした。


「3月20日にあった主なできごと」

1727年 ニュートン死去…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが亡くなりました。

1828年 イプセン誕生…『人形の家』『ブラン』『ペール・ギュント』などの戯曲で知られ、「近代演劇の父」といわれるノルウェーの劇作家イプセンが生まれました。

1882年…上野動物園開園…東京上野に、博物館(いまの国立博物館)の付属機関として、日本初の近代的動物園が開園しました。

1995年 地下鉄サリン事件…通勤・通学で混雑する8時ころ、東京の5つの地下鉄の中に猛毒サリンがまかれ、死者12名、重軽症者5500人以上という大惨事がおこりました。犯人は、オウム真理教という宗教団体であることが判明しました。

今日3月19日は、鎌倉時代前期の伝説的陶工と語り伝えられている加藤景正(かとう かげまさ)が、1249年に亡くなったとされる日です。

1168年ころに生まれた加藤景正(通称・藤四郎)は、1223年に永平寺を開いた道元禅師に随行して宋に渡り、5年間宋の陶器づくりを学んで帰国すると、京都で陶器づくりをはじめました。その後、陶器にふさわしい土を求めて各地をめぐるうち、尾張国(愛知県)瀬戸・祖母懐というところで陶器に適した土を発見し、定住して窯を開きました。

景正の作った陶器は「古瀬戸」といわれ、これが瀬戸焼の起源として、のちに「瀬戸の陶祖」とよばれるようになりました。景正の子の加藤基通も藤四郎を名乗り、加藤家は12代にわたって続き、1824年には瀬戸深川神社境内に景正が祀(まつ)られ、「陶彦(すえひこ)神社」といわれています。

1962年には、「せと陶祖(陶器)まつり」が愛知県瀬戸市ではじまり、毎年4月下旬ごろに開催されています。いまも陶器は瀬戸や旧美濃国(岐阜県多治見市、土岐市、可児市など)で盛んですが、景正以来、本格的な製陶業がこの地に根づき、常にわが国の焼き物の中心となって、陶磁器の総称・焼き物の代名詞ともいえる「瀬戸物」とされています。


「3月19日にあった主なできごと」

1813年 リビングストン誕生…文化の灯から閉ざされたアフリカ原住民たちへ深い愛を注いだ、イギリスの宣教師で探検家のリビングストンが生まれました。

1982年 フォークランド紛争…アルゼンチン軍が、イギリスと領有権を争うフォークランド諸島のジョージア島に上陸。果敢な航空攻撃でイギリス海軍艦に大きな損害を与えましたが、イギリス軍の逆上陸を阻止できず、約3か月後に降伏しました。

今日3月18日は、ロシア史上もっとも強力で個性的だった皇帝のイワン4世が、1584年に亡くなった日です。

1530年、ロシアを統一をしたイワン3世の孫、バシリー3世の子としてモスクワに生まれたイワンは、3歳のときに父王が亡くなったためにモスクワ大公になります。ところが摂政をつとめた母も急死したことで、宮廷クレムリンの中は大貴族たちが私闘をくりかえし、陰謀と暴力、人身攻撃がうずまくなかで、少年期をすごしました。

やがて、少しずつに実力をつけたイワンは、1547年にモスクワ・ロシアの初代皇帝(ツァーリ)イワン4世を名乗り、ギリシャ正教の首長となりました。また、選抜会議をもうけて国政に参加しましたが、当初はアダシエフが中心になっていたことで、イワンは地方行政面に力をそそぎ、代官制度をやめて住民に選ばれた長老に徴税や裁判をになわせる改革などを実施しました。

権力を強めたイワンは、慣習法の使用をやめて法典を定め、軍隊改革を行って東方に軍をすすめ、1552年にモンゴルのカザン・ハン国、1556年にはアストラハン国を併合しました。さらに西方のバルト海や黒海方面にも進出しようとしましたが、これは阻止されました。

専制政治を展開するのは1560年代に入ってからで、国家の中央集権化を推し進め、大貴族の専横を抑えることに力をそそぎました。1565年には、オブリチニナ(近衛府)を設けて、反対派の貴族を弾圧し、死刑や流刑をおこなったために「グローズヌイ」(日本では「雷帝」)と呼ばれるようになります。しかし、イワンの支配の時代は長く続きませんでした。農民の生活は重税や労役により苦しく、土地を捨てて東方や南方へ逃げ出す者も多くあらわれました。イワンは土地を離れることを禁止しましたが、コサック(自由民)は増え続けました。

1584年に入ると、健康がむしばまれ、翌年に生涯を終えました。なお、イワン4世の詳しい記録は、1626年のモスクワ大火でほとんどが消失したため、不明な点が多くあります。荒々しい性格だったことは事実で、1581年には長男を口論の末になぐり殺したといわれています。


「3月18日にあった主なできごと」

724年 柿本人麻呂死去…飛鳥時代の歌人で、山部赤人らとともに歌聖と称えられている柿本人麻呂の正確な生没年は不詳ですが、亡くなったとされる日です。

1871年 パリ・コミューン…普仏戦争の敗戦後のこの日、パリに労働者の代表たちによる「社会・人民共和国」いわゆるパリ・コミューンが組織されました。正式成立は3月29日で、5月28日に政府軍の反撃にあってわずか72日間でつぶれてしまいましたが、民衆が蜂起して誕生した革命政府であること、世界初の労働者階級の自治による民主国家で、短期間のうちに実行に移された革新的な政策(教会と国家の政教分離、無償の義務教育、女性参政権など)は、その後の世界に多くの影響をあたえました。

今日3月17日は、「ドップラー効果」を発見したことで知られるオーストリアの物理学者・数学者・天文学者ドップラーが、1853年に亡くなった日です。

1803年、ザルツブルクに石工の子として生まれたクリスチアン・ドップラーは、病弱だったために家業を継ぐのをあきらめ、ウィーンの工芸学校を卒業後、同市の工業研究所の助手となり、大学教授となる目標をたてました。

しかし国内では不可能なことがわかると、1835年にアメリカに渡ろうとミュンヘンまで行ったところ、チェコのプラハ州立中学からの依頼で数学と会計学の教師となり、1841年にはプラハ国立工科大学(現チェコ工科大学)に移って念願の数学教授となると、翌年「二重星(くっついて見える一対の恒星)の光に関し、星の運動方向と色の変化」という論文を発表しました。これは「ドップラー効果」の存在を主張したもので、世界にその名を広めることになりました。

たとえば線路のそばにいて近づいてくる電車の警笛を聞くとした場合、電車が通り過ぎると急に音が低くなるとか、電車に乗っていると、踏切の警報音が通り過ぎると低くなるなど、音源と観察者との音や光の振動数が変化することを詳しく調べあげ、数学的な関係式をつくったものでした。1845年にはオランダのユトレヒトで、列車に乗ったトランペット奏者が一定の音を吹き続け、それを絶対音感を持った音楽家が聞いて音程が変化することで証明しています。この理論は、のちに航空機飛行に欠かせないドップラー・レーダーや、自動車の速度測定などに応用されています。また、光については本格的な分光器が開発されるまで待たなくてはなりませんでしたが、ほぼ関係式の通りであることが証明されています。

その後ドップラーは、1850年に新設されたばかりのウィーン大学物理学研究所の所長に就任し、遺伝の法則で知られるメンデルらを育てましたが、肺を病んだことで、3年後に亡くなってしまいました。


「3月17日にあった主なできごと」

1220年 サマルカンド征服…モンゴルの征服者チンギス・ハンは、インドから黒海に至る交通路を占めていたホラズム・シャー朝の首都サマルカンド(現・ウズベキスタン)を徹底的に破壊し、数十万という人口の3/4を殺害しました。

1836年 ダイムラー誕生…ドイツの技術者で、自動車開発のパイオニアと讃えられているダイムラーが生まれました。

1945年 硫黄島玉砕…2か月ほど前から小笠原諸島の南西にある硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じていた戦闘は、この日、アメリカ軍は猛爆を加え、日本軍は守備兵力2万余名のほとんどが戦死、アメリカ軍に島を奪取されてしまいました。このため、アメリカ軍は日本本土空襲の理想的な中間基地を手に入れ、東京大空襲、名古屋大空襲、大阪大空襲を続けざまに実施、日本軍は、勝ち目のほとんどない絶望的な本土戦を余儀なくされました。

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