児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年02月

今日2月6日は、徳川2代将軍となる秀忠の長女に生まれながら、豊臣秀頼と結婚させられるなど、時代の流れに翻ろうされた千姫(せんひめ)が、1666年に亡くなった日です。

1597年、徳川家康の子秀忠(のちの第2代将軍)と江(ごう=浅井長政と織田信長の妹お市との子・3人姉妹の3女)の長女として伏見城内の徳川屋敷に生まれた千姫は、1603年にわずか7歳で11歳の豊臣秀頼(豊臣秀吉と江の長姉淀君との子)と結婚し、大坂城に入りました。いわば祖父である家康が、千姫を人質として豊臣家に送りこんだ政略結婚でした。

それから12年目の1615年、「大坂夏の陣」で大坂城は落城して豊臣家は滅びますが、千姫の身を案じた家康は「千姫を助け出した者に、姫を嫁がせる」というふれを出しました。このとき落城する大坂城から全身やけどを負いながらも千姫を背負って救出し、家康の本陣に連れ帰ったのは、猛将として知られる坂崎出羽守直盛でした。ところが、千姫は、無教養な出羽守をきらって妻になることを承知せず、翌1616年、桑名藩主本多忠政の長男・本多忠刻と結婚することになりました。これをうらんだ出羽守が、この輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚、直盛は自害したといわれています(千姫事件)。

1617年、本多家は播磨姫路に移しかえになり、桑名から姫路城に移った千姫は、「播磨姫君」と呼ばれ、長女勝姫、長男幸千代を生みますが、1621年に長男、夫、姑、母が次々と亡くなるという不幸が続き、本多家を出ることになりました。

江戸城に入った千姫は、出家して「天樹院」と称すると、竹橋の邸(吉田御殿)で勝姫と暮らしました。1628年に勝姫が池田光政の元へ嫁いだことで一人暮らしとなりましたが、のちに弟で3代将軍家光の三男綱重と暮らすようになると、江戸城中で将軍につかえる女性たち「大奥」のなかで、大きな権力を持つようになったといわれています。

なお千姫に関し、「吉田御殿のご乱行」という俗謡があります。「♪ 吉田通れば二階からまねく しかも鹿の子の振袖で…」(通りがかりの美男子を連れこんではお楽しみ、あきたら惨殺して井戸に投げこむ、そんなことを繰りかえすうち、御殿のまわりは雄猫さえも通らなくなった。ある時、自分の弟子が行方不明になったのを不審に思った大工の棟梁が、御殿に殴りこんで大騒ぎ。これらの乱行が発覚するのを恐れた千姫は、自害する) といったような内容です。これはまったくのでっちあげで、俗謡の「吉田」は、東海道吉田宿の遊女たちと吉田御殿とをかけて、ともに男は素通りできないとしたものです。千姫が自害していたなら、30歳過ぎで亡くなったはずなのに、亡くなったのは70歳、東京・小石川の伝通院に眠っています。


「2月6日にあった主なできごと」

1537年 豊臣秀吉誕生…戦国時代に足軽百姓の子に生まれながら、織田信長にとりたてられて、全国統一をなしとげた豊臣秀吉が生れたとされる日です。

1972年 日の丸飛行隊が金・銀・銅…札幌冬季オリンピックのスキー70m級ジャンプで、笠谷が金、金野が銀、青地が銅メダルを獲得。過去の冬期オリンピックで金さえとったことのなかった大ニュースに、3人は「日の丸飛行隊」とよばれ話題を独占しました。

今日2月5日は、明治期に政論家・新聞記者・政治小説家・衆議院議員として多彩な活動をした末広鉄腸(すえひろ てっちょう)が、1896年に亡くなった日です。

1849年、伊予国宇和島藩(愛媛県)の勘定役の子として、城下に生まれた末広鉄腸(本名・重恭[シゲヤス])は、幼いころから優秀で、1861年藩校の『明倫館』に入って朱子学を修めると、わずか20歳で母校の教授になり、藩政にも参加しました。学問好きで、特に陽明学に傾倒するとその師を求めて東京や京都にのぼって、研究を深めました。

1874年に大蔵省へ出仕するものの、翌75年、自由民権運動の高まりのなかで決然と辞職、「東京曙新聞」の編集長になります。直後に公布された、讒謗律(ざんぼうりつ=名誉毀損に対する処罰)と新聞紙条例(新聞の反政府的言論活動を封ずる)が公布されるや、これらを非難する投書を掲載したことで、自宅禁錮2か月・罰金2000円をいいわたされ、最初の違反者となりました。

禁固後に「朝野新聞」の編集長となると、成島柳北社長のしゃれた諷刺と鉄腸の痛烈な論説が人気をよんで部数を伸ばしました。しかし1876年2月に、讒謗律・新聞紙条例の主導者である井上毅らを紙上で茶化したことで、成島は禁獄4か月と罰金100円、鉄腸は同8か月と150円の罰を受け、投獄されてしまいました。釈放後に鉄腸は、朝野新聞に『転獄新話』を載せたり、立憲政治を強調するなど、その論調には少しもいしゅくするものではありませんでした。

鉄腸のめざすものが政治家だったことから、政談演説会や討論会にも参加して、国会開設の啓蒙演説を続けたり、積極的に地方遊説を行うほどでした。1881年に国会設置が予告され、「自由党」が結党されると党に加わり、機関誌「自由新聞」の社説を執筆するほどでした。ところが板垣退助の外遊を批判したことで、幹部と意見がくい違い1883年に脱党、馬場辰猪らと「独立党」を結成するものの健康を害して政治活動ができなくなり、政治小説を書きはじめました。

1886年に『雪中梅』、翌87に『花間鶯(かかんおう)』を出版すると、政治の背景がわかりやすいとベストセラーとなって、文名を高めました。1888年にはこれらの印税を資金に欧米を旅行して翌年帰国すると、「大同新聞」にかかわりながら、大同団結運動を推進しました。1890年7月、大同新聞記者の肩書で第1回衆議院議員選挙に愛媛県から立候補し、当選します。ところが、所属した立憲自由党から脱党しその後の選挙に2度落選、1894年の選挙で返り咲いてその後の活躍が期待されましたが舌ガンにかかり、言論・政治・文学の各分野にわたって先覚者として多彩な活動をした48年の生涯を閉じてしまいました。


「2月5日にあった主なできごと」

664年 玄奘死去…中国・唐の時代の高僧で、中国の仏教を発展させた玄奘(げんじょう)が亡くなりました。玄奘三蔵の著した旅行記「大唐西域記」は、のちの民の時代に、三蔵法師が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄をしたがえて、さまざまな苦難を乗り越えて天竺へ経を取りに行く物語『西遊記』として描かれ、世界的に有名になりました。

1597年 26聖人の殉死…豊臣秀吉の命令により、カトリック信徒二十六名が長崎で処刑されました。

1869年 小学校設置の奨励…明治政府は、小学校設置令を公布して小学校を設置するように全国に働きかけました。翌年に学制が発布され、1873年1月設置の東京師範学校附属小学校を皮切りに、1875年には約2万4千校の小学校が全国各地に設置されました。

今日2月4日は、日露戦争の勝利に深くかかわった海軍軍人の秋山真之(あきやま さねゆき)が、1918年に亡くなった日です。

1868年、松山藩・下級武士の5男として生まれた秋山真之は、幼少の頃から漢学塾に学ぶとともに、親友の正岡子規と和歌にも親しみました。子規の上京に刺激され、旧制愛媛第一中学を中退し、1883年に3男の兄好古(よしふる)を頼って上京すると、子規と東京・神田に下宿しながら大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に入学します。子規とともに東京帝大をめざすものの、秋山家の経済的苦境から好古に学費を頼ったことで、真之は海軍兵学校に進学し、文学を志して帝大に進んだ子規と別れました。このとき子規は「君を送りて思ふことあり蚊帳(かや)に泣く」と悲しみの俳句を詠んでいます。

1890年、海軍兵学校を首席で卒業した真之は、海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、1892年に海軍少尉となりました。1894年に始まった日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦して後援活動に参加して水雷術を学び、軍令部諜報課員として中国東北部で活動するなどさまざまな体験をするうち、海軍の派遣留学生に選ばれ、1898年アメリカへ留学しました。ワシントンに滞在して軍事思想家であるアルフレッドに師事して近代米国海軍戦術を学び、1902年には海軍大学校の教官となるなど、日本海軍有数の戦術家に成長していきました。

1904年、朝鮮半島をめぐる日本とロシアとの関係が険悪化して「日露戦争」がはじまると、真之は中佐として連合艦隊司令長官東郷平八郎のもと、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する作戦担当参謀になります。ロシア海軍旅順艦隊を旅順港に閉塞させる作戦では先任参謀を務め、機雷敷設を行うなど活躍。そして翌年の「日本海海戦」では、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を対馬沖に待ち伏せし、「皇国の興廃此の一戦にあり」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」を駆使し、意表をつく敵前旋回を展開、敵艦隊を一方的に撃滅して、戦局の大勢を決しました。この海戦の報告に 「本日天気晴朗なれど波高し」という有名な一句を書きました。「天気晴朗」は濃霧に悩まされていた海軍への不安を取り除き、「波高し」は勝てるという自信を人々に与えたといわれています。この勝利により両国間のポーツマス講和会議への道を開き、当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北に、世界じゅうの人々は仰天しました。

その後の真之は、第1次世界大戦では海軍省軍事局長として、朝鮮半島からシベリア鉄道でロシアを経て欧米を視察。1917年に中将となりますが、翌年虫垂炎を悪化させて、海軍きっての戦術家としての生涯を閉じました。

なお秋山真之は、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』で子規とともに主人公になった結果、「日本騎兵の父」といわれ陸軍大将となった兄好古とともに、国民的な知名度を得ることになりました。また、2009年11月29日から2011年12月25日まで3年にわたり年末にNHKで放送されたテレビドラマの特別番組でもよく知られていますが、生前の司馬は、戦争を鼓舞するような誤解を与えたくないと、この小説の映像作品をいっさい拒否していました。


「2月4日にあった主なできごと」

1181年 平清盛死去…平安時代末期の武将で「平氏にあらざれば人にあらず」といわれる時代を築いた平清盛が亡くなりました。

1703年 赤穂浪士の切腹…前年末、「忠臣蔵」として有名な赤穂浪士46名が、吉良義央(よしなか)邸に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)のあだ討ちをしたことに対し、江戸幕府は大石良雄(内蔵助)ら赤穂浪士46名に切腹を命じました。

1945年 ヤルタ会談…第2次世界大戦でドイツの敗戦が決定的になったことで、ソビエトのクリミヤ半島にあるヤルタに、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソビエト連邦(ソ連)首相スターリンの3国首脳が集まって、「ヤルタ会談」がはじまりました。

今日2月3日は、大正・昭和期の児童文学界に指導的役割をになった児童文学者で詩人の与田凖一(よだ じゅんいち)が、1997年に亡くなった日です。

1905年、現在の福岡県みやま市に生まれた凖一は、生後まもなく親戚の与田家の養子となりましたが、養父母が相次いで亡くなったため、実家の浅山家で育ちました。地元の高等小学校を卒業後に町役場などに務めるかたわら、小学校検定試験にいどんで合格。筑後市で小学校教員として働きながら、鈴木三重吉が創刊した児童文学雑誌「赤い鳥」に詩や童話を送り続けるうち、同郷の詩人北原白秋に認められました。1928年に上京し「赤い鳥」の編集にたずさわるいっぽう、「子どものくに」など「赤い鳥」以外の児童雑誌にも積極的に作品を発表して、本格的な執筆活動を開始しました。

1933年に初の童謡集『旗・蜂・雲』を刊行、これまで発表してきた作品以外にも未発表作品を含む81編の童謡を収録しました。白秋はこの童謡集の序に「わたくしは最も親しい分身として、彼を世に推薦することを喜ぶ」と書き、与田にいかに大きな期待をよせていたかがわかります。この処女作には、与田の代表作といわれる「鶴」「木鼠(りす)」、「月を」「父」「雪を待つ」など短詩型印象詩といわれる秀作も収録され、昭和初期を代表する童謡集と評価されています。

さらに与田は、白秋、西条八十、野口雨情らによって築かれ童謡を、少年詩として読むに耐えうる「うた」へと高めることに心血をそそぎ、1940年の『山羊と皿』(第1回児童文化賞)、戦後に発表した詩集『野ゆき山ゆき』(野間児童文芸賞)、『ゆめみることば』などに結実させています。

戦後は、主として童話を書き続け、『十二のきりかぶ』『五十一のザボン』『小さな町の六』など、人間愛を追求した多くの作品を発表。1967年には「与田凖一全集」でサンケイ児童出版文化賞を受賞しています。1950年から1960年まで日本女子大講師として児童文学を講じ、1962年からは日本児童文学者協会の会長として、新人の育成に力をそそぎました。門下にはまど・みちおをはじめ、岩崎京子、生源寺美子、あまんきみこ、宮川ひろらがいます。

与田の作詞・芥川也寸志作曲による童謡「ことりのうた」(♪ ことりはとっても うたがすき かあさんよぶのも うたでよぶ ぴぴぴぴぴ ちちちちち ぴちくりぴい……)は、いまも子どもたちに根強い人気があります。また、与田の訳詞したロシア民謡「ステンカラージン」(♪ くおんにとどろく ヴォルガの流れ 目にこそ映えゆく ステンカラージンの舟……)は、戦後に盛り上がった「うたごえ運動」の、定番ソングのひとつでした。

なお、「ブルーライトヨコハマ」「君だけを」「ブルーシャトー」など、たくさんのヒット曲を作詞した橋本淳(本名・与田準介)は、与田の長男です。


「2月3日にあった主なできごと」

1468年 グーテンベルク死去…ドイツの金属加工職人で、活版印刷技術を実用化し、初めて聖書を印刷したことで知られるグーテンベルクが亡くなりました。

1637年 本阿弥光悦死去…豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけ、書、陶芸、蒔絵、茶道、作庭、能面彫などさまざまな芸術に秀で、出版までも手がけた本阿弥光悦が亡くなりました。

1809年 メンデルスゾーン誕生…世界3大バイオリン協奏曲の一つと賞賛される「バイオリン協奏曲」をはじめ、『真夏の夜の夢』『フィンガルの洞窟』などを作曲したメンデルスゾーンが生まれました。

1901年 福沢諭吉死去…『学問のすすめ』『西洋事情』などを著し、慶応義塾を設立するなど、明治期の民間教育を広めることに力をそそぎ、啓蒙思想家の第一人者と評される福沢諭吉が亡くなりました。

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