児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ

30歳で独立、31歳で出版社(いずみ書房)を創業。 取次店⇒書店という既成の流通に頼ることなく独自の販売手法を確立。 ユニークな編集ノウハウと教育理念を、そして今を綴る。

2014年02月

今日2月14日は、「バレンタインデー」または、「セント・バレンタインズ・デー」といわれ、世界各地で男女の愛を誓う日とされています。それでは、なぜそういわれるようになったのでしょうか。もっとも一般的な説は、強力な軍隊を持ったことで知られる古代ローマ帝国の時代にさかのぼります。

3世紀の後半にローマ皇帝だったクラウディウス2世は、愛する人を故郷に残していると士気が下がるという理由で、兵士の結婚を禁止していました。ところが、司祭のバレンティヌス(英語読みバレンタイン)は、これは神の心や人間愛に反するとして、皇帝の禁止を無視して秘かに兵士を結婚させました。ところがこれが判明し、269年のこの日、拷問にかけられて殺されてしまいました。やがてバレンタイン司祭は、愛のために命をささげたということで聖人とされ、この日を「愛の日」と定め、若い男女が、好きな相手に手紙やプレゼントを贈るようになりました。

また、欧米には2月15日に、豊作と男女の結びつきを祈るルベルカリアという祭りがあったことや、うるう年の2月29日のことを英語でleap year(跳躍の年) といい、女性から結婚の申し込みが許される日とされていたこともあり、いつしかこれらの行事が、殉教したバレンタインの行為と合体して、愛を告白する日になったともいわれています。

なお、日本では、バレンタインデーに女性が男性にチョコレートを贈る習慣が根づいていますが、こんな習慣があるのは日本だけで、欧米では、男女をとわず、赤いハートをつけた手紙やキャンデーなどをハート型の箱に入れて贈ったりして、想いを告げる日とされているようです。こんな欧米の習慣をヒントに、ある日本の菓子メーカーが、1959年ころに女性から好きな男性にチョコレートを贈りましょうと宣伝し、デパート各店がバレンタインデーの普及に努めましたが、なかなか定着しませんでした。

ところが、オイルショックに見舞われて、高度経済成長が終えんした1970年代前半になると、チョコレートの売上が急増しだし、不況にあえいでいた小売業界がより積極的にマーケティングを行ったことで、バレンタインデーにチョコレートを贈答するという習慣が、小学高学年から高校生までの学生層に広まり、1980年代後半には主婦層や職場にも普及していきました。こうして、女性が男性にチョコレートを贈るという「日本型バレンタインデー」が行事のように定着すると、「義理チョコ」などという、愛とは関係のない日本独自の習慣が登場したり、この日にもらった男性がお返しをする「ホワイトデー」などというのも登場しています。これなどは、まさにチョコレート業界の陰謀といわれてもしかたがありません。

チョコレートでなくては愛がとどかないわけではありませんから、そろそろ違ったプレゼントを考える時期にきたような気がしますが (もらえないヒガミ?) いかがでしょうか。


「2月14日にあった主なできごと」

940年 平将門死去…武士による独立国家を関東に築こうと「将門の乱」をおこした平将門が亡くなりました。同時期に瀬戸内海でおこした藤原純友の乱とあわせて、承平・天慶の乱といい、武士が勃興するさきがけとなりました。

1779年 クック死去…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、さまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家クックが亡くなりました。

今日2月13日は、映画『ビルマの竪琴』『野火』『炎上』『おとうと』『犬神家の一族』、テレビ映画『木枯し紋次郎』などを監督した市川崑(いちかわ こん)が、2008年に亡くなった日です。

1915年、現在の三重県伊勢市に呉服問屋の子として生まれた市川崑(幼名・儀一)は、幼いころに父が亡くなったため伯母の住む大阪に住むものの、身体が弱かったことで長野県に転地療養しました。その後広島市で暮らすうちディズニーのアニメ映画にあこがれ、親類のつてで1933年、京都のJ.O.スタヂオ(のちの東宝京都撮影所)のトーキー漫画部に入社しました。アニメ映画の下絵描きからスタートし、1936年には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画を発表しますが、京都撮影所の閉鎖により東京・砧の東宝撮影所に転勤し、日活、大映に移籍したほぼ10年以外は、生涯のほとんどをここを拠点に活動しました。

1948年の『花ひらく』で実写映画の監督デビューをはたすと、1951年の『恋人』以後、由美子夫人(シナリオライター・和田夏十)とのコンビによる監督作品を、次々に発表していきました。1954年に映画製作を再開した日活に移籍すると、翌1955年に『ビルマの竪琴』(竹山道雄原作・ベネチア映画祭サンジョルジュ賞)で大ヒットをとばし、大映に移籍すると、文芸映画を中心に『鍵』(谷崎潤一郎原作・カンヌ映画祭審査員特別賞)、『野火』(大岡昇平原作)、『炎上』(三島由紀夫「金閣寺」原作)、『破戒』(島崎藤村原作)、『ぼんち』(山崎豊子原作)などの名作を毎年のように発表してヒットさせ、国際的な名監督の地位を確立しました。1960年の『おとうと』(幸田文原作)は、キネマ旬報年間ベスト1を獲得しています。

文芸作品からメロドラマ、喜劇にいたるまでさまざまなテーマに積極的に取り組んだ市川は、1964年に開かれた「東京オリンピック」の記録映画にも挑戦しました。記録よりも、選手とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を克明に描いた作品は爆発的なヒットになったものの、一部の政治家から「記録性に欠ける」と批判され、「この映画は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こしたことはよく知られています。

1976年には横溝正史の長編推理小説を原作とした『犬神家の一族』をヒットさせ、さらに横溝の「金田一耕助シリーズ」を手がけて、横溝ブームをひきおこしました。テレビにも深い関心を示し、1965年から1966年にかけて放送された『源氏物語』(毎日放送)や、1972年の連続テレビ時代劇『市川崑劇場・木枯し紋次郎シリーズ』(フジテレビ)では、その斬新な演出と迫真性が、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えました。

1983年に、35年連れ添った夫人を亡くしてからもその制作意欲は衰えず、1969年に黒沢明、木下恵介、小林正樹と作った「四騎の会」で共同執筆した「どら平太」の撮影をしたり、リメーク版『犬神家の一族』『ビルマの竪琴』に取り組むなど、トレードマークだったくわえタバコを禁煙タバコに変えながら、92歳で亡くなるまで映画への情熱を持ち続けていました。


「2月13日にあった主なできごと」

1689年 権利宣言の承認…ジェイムズ2世の専制からイングランドを救ったオレンジ公ウィリアムと妻のアンは、即位の前に議会の立法権、課税の同意権、討論の自由などの盛りこまれた「権利宣言」を読み上げ、ウィリアム3世とメアリー2世として共同統治する文書に署名。「権利宣言」は同年12月に「権利章典」として立法化され発布されました。ジェイムズ2世の追放から二人の即位までのクーデターが無血だったことから「名誉革命」ともいわれ、「権利章典」は大憲章(マグナカルタ)・権利請願とともにイギリス国家における基本法として位置づけられています。

1840年 渋沢栄一誕生…明治から大正初期にかけて大蔵官僚、実業家として活躍した渋沢栄一が生れました。

1875年 平民苗字必称義務令の布告…1870年9月に農民や商人など武士以外の平民も苗字(姓)をつけるようにという布告が出ていましたが、まだつけていない者が多くいたため、この日必ずつけなくてはいけないという布告が出されました。文字も書けない人たちは、大変苦労しながら苗字を考えたといわれています。

今日2月12日は、『鉄の町の少年』『リンゴ畑の四日間』などを著した児童文学者で、作文教育に力をそそいだ教育実践家の国分一太郎(こくぶん いちたろう)が、1985年に亡くなった日です。

1911年、現在の山形県東根市に床屋の子として生まれた国分一太郎は、1925年に山形県師範学校に入学すると、島木赤彦に傾倒して短歌を作りはじめ、村山俊太郎らと短歌同人誌『にひたま』をつくっています。1930年に卒業後、郷里の小学校に赴任し、文集「がつご(この地方の植物名)」「もんぺ」「もんぺの弟」などを作り、教育実践の報告や作文教育に関する論文を雑誌『綴り方生活』や『北方教育』に投稿すると、その優れた指導法が注目されました。しかし、1937年家業をついでいた弟の急死や、教育法が特高警察ににらまれるなど疲労がたまったことで肺を患い、休職せざるをえませんでした。

1939年に知人の紹介で南支派遣軍報道部に務め、軍が管理する広東のラジオ「子どもの時間」の番組制作にたずさわりました。帰国後にその体験を記した『戦地の子供』が中央公論社から出版され、文部省推薦を受けました。ところが1941年10月、突然逮捕されて身柄を山形警察署にうつされ、特高警察官から治安維持法違反をみとめさせる強引なとり調べをうけました。何か月にもわたって未決監房に入れられた上に裁判は長引き、1943年7月、1934~37年に行った「生活綴方運動」が治安維持法違反とされ、懲役2年、執行猶予3年の判決を受けたのでした。

戦後は、「日本綴り方の会」(のちの「日本作文の会」)の結成に参加するなど、教育評論家として活躍するいっぽう、1954年に少年長編小説『鉄の町の少年』を出版すると、翌年にこの作品は、第5回児童文学者協会児童文学賞を受賞しました。この作品は次のような内容です。

戦争中に、山形から東京の工場に働きに出てきた6人の少年たちがいました。戦争がおこってまもなくこの工場に組合ができました。組合の必要なことを熱心に説明にまわったのは、兵隊に行くのがいやで、中指を切り落とした島木や、軍隊でひどい目にあわされた人たちでした。その人たちにすすめられて組合に参加した中に、山形から出てきた6人の少年工がいました。この中の一人である勇作は、組合が賃上げのストライキに入ったとき、会社の上役にそそのかされ、ストライキを失敗させるために、友だちや仲間を裏切って倉庫泥棒をやります。その勇作の態度がおかしいと気がついたのは健四郎で、4人の仲間と、給仕の少女美恵子と6人で勇作の行動を見守ります。6人の働きのおかげで倉庫泥棒の罪を会社からおしつけられていた組合は、立ち直ることができました。緊急組合大会の席上、健四郎たちの活動が全組合員に報告されて、工場じゅうに拍手がおこりました。みんなの前に立たされた健四郎は、涙ながらに勇作を許してやってくれと訴えます。人々はその美しい友情に感激し、おなじ立場にたっていた守衛らも許すことに「異議なし」といいました。しかし、彼らをそそのかした上役たちを許すことはできません。組合の委員たちは、重役や労務課長などを呼びにいきます。そのうしろ姿に、組合員たちのはげましの拍手はいつまでも終わりませんでした……。

この他に国分は、リンゴを盗んだ犯人にされる5人の少年たちが団結して疑いをはらす『リンゴ畑の四日間』、『すこし昔のはなし』『しなやかさというたからもの』『ずうずうぺんぺん』『みんなの綴方教室』などを著してします。


「2月12日にあった主なできごと」

1603年 江戸幕府開かれる…1600年の関が原の戦いで勝利して全国を制覇した徳川家康は、この日征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。

1809年 リンカーン誕生…第16代アメリカ合衆国大統領となり、「奴隷解放の父」と呼ばれたリンカーンが生まれました。

1809年 ダーウィン誕生…生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に、「自然淘汰説」という新しい学説をとなえ、『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンが生まれました。

1912年 清朝の滅亡…中国清朝最期の皇帝である7歳の宣統帝・溥儀(ふぎ)が退位して、初代の太祖から12世297年にわたる清王朝の統治が終わりました。なお、溥儀は20年後、日本軍に満州国皇帝にされ、はかない役割をになわされました。その生涯は1987年公開の映画「ラストエンペラー」に描かれ、第60回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

1984年 植村直己消息不明…世界初の5大陸最高峰単独登頂をはたした冒険家の植村直己は、北アメリカ最高峰マッキンリーの初厳冬期登山に成功した翌日、消息を絶ちました。この日は、1941年の誕生日でもありました。

1996年 司馬遼太郎死去…『梟の城』で直木賞を受賞した後、『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など戦国・幕末・明治を扱った作品を数多く遺した作家の司馬遼太郎が亡くなりました。『街道をゆく』など文明批評家としての評価も高いものがあります。

今日2月10日は、キリスト教的人道主義の立場から社会民主主義運動を主導し、教育・政治・スポーツなどに大きな役割をはたした安部磯雄(あべ いそお)が、1949年に亡くなった日です。

1865年、福岡藩士岡本家の次男として福岡市に生まれた磯雄 (安部姓は、1884年に徴兵免除の特典のえられる60歳以上の老人のいる家を探し名義上安部家の養子となったもの) は、英語を学ぶために新島襄が京都に設立した同志社英学校(のちの同志社大)に入り、在学中に新島からキリスト教の洗礼を受けました。1884年に同志社を卒業すると欧米にわたり、アメリカの神学校やベルリン大学に留学して社会主義思想にふれたことで、みずから社会主義者を名乗りました。帰国後に同志社教授を経て、1899年に東京専門学校(早稲田大学前身)の講師、さらに教授となります。

そのかたわら、人道主義の立場から社会運動や労働運動にかかわり、1901年には片山潜や幸徳秋水らと社会民主党を結成するものの、2日後に禁止をいいわたされました。1904年にはじまった日露戦争時には、幸徳らが設立した反戦組織「平民社」には加わらなかったものの、「平民新聞」を後押しし、反戦論をとなえました。

1910年に「大逆事件」(幸徳らが明治天皇暗殺計画を企てたとして11名が死刑となったえん罪とされる事件) 以後は、社会主義の実践活動から離れましたが、婦人問題に力をそそぎ、1911年に「吉原遊廓」が全焼し多数の娼妓が逃げ場を失って焼死したことを重く見て公娼制度の廃止を求めた「廓清会」をリードしたり、産児制限など、初期の女性解放運動にも積極的にかかわりました。

1924年、日本フェビアン協会を設立して社会民主主義の普及につとめ、1928年の第1回普通選挙に社会民衆党から立候補し、衆議院議員連続5回の当選をはたしました。社会民衆党の党首、社会大衆党委員長を歴任しましたが、大衆党委員長時代の1939年には、右翼から襲撃されて負傷したこともあります(安部磯雄襲撃事件)。戦後は日本社会党の結成に参加して同党の顧問となり、東京市会議員にも選ばれましたが、83歳で亡くなりました。

なお安部は、1901年に早稲田大野球部初代部長となり、アメリカ遠征を行って野球技術や練習法を持ち帰って早慶戦のきっかけをつくり、1930年東京六大学野球連盟初代会長、1946年日本学生野球協会初代会長に就任したことで、「学生野球の父」ともいわれています。また、1912年には柔道の嘉納治五郎らと大日本体育協会を設立し、近代スポーツの導入にも大きな役割を果たしています。


「2月10日にあった主なできごと」

1657年 新井白石誕生…江戸時代中期に活躍した旗本・政治家であり、歴史、文学、言語学、政治、地理、兵法、考古学、民俗学などにも通じる博学の学者だった新井白石が生まれました。

1763年 イギリスがカナダを獲得…イギリスとフランスとの間で争われた植民地7年戦争が終わり、パリ条約が結ばれて、フランスはカナダをはじめ、ミシシッピー川以東のルイジアナをイギリスに譲渡し、北アメリカの領土を失いました。英国はすでにインドのフランス植民地も得て、いわゆる「太陽の没しない大帝国」を築き上げました。

1851年 水野忠邦死去…江戸時代末期に「天保の改革」を指導した水野忠邦が亡くなりました。

1904年 日露戦争勃発…中国東北部の満州と朝鮮半島の支配権をめぐって紛糾した両国でしたが、日本政府はこの日、大国ロシアに対し宣戦布告をしました。

今日2月7日は、平清盛の弟平経盛の子で、源平合戦(一ノ谷の戦い)に敗れた若武者・平敦盛(たいらの あつもり)が、1184年に亡くなった日です。

1169年、平清盛の異母弟・平経盛の子として生まれた平敦盛は、元服して従五位下という位をさずかるものの官職がなかったために「無冠大夫」とよばれました。美少年として有名で、祖父平忠盛が鳥羽院より賜ったという「名笛・小枝(または青葉)」を譲り受けた笛の名手でもありました。1181年に清盛が亡くなり、父が平氏一門の長老として力を尽すものの勢力は衰え、源氏と平氏との戦い「治承・寿永の乱」(源平合戦)が勃発しました。

平家一門の武将のひとりとして、16歳で合戦に参加した敦盛は、1184年、一ノ谷(いまの神戸市須磨)で、源氏側の奇襲 (精兵70騎を率いた義経が、一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上から坂をかけ下る作戦=ひよどり越え作戦)を受けました。この奇襲に平氏は敗れ、一族が船で海上にのがれたとき、船に乗り遅れたために馬を泳がせて船を追う敦盛を見て、敵将をさがしていた熊谷直実は「敵に後ろを見せるのは卑怯でしょう」と、大声で呼びとめました。これに敦盛は憤然と引き返すと、直実と敦盛は取っくみあいになり、組み勝った直実が首を斬ろうとしたところ、わが子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見てちゅうちょします。直実は敦盛を助けようと名をたずねたところ、敦盛は「名乗らずとも首を取って人にたずねよ」と答えたために、直実は涙ながらに敦盛の首を切りました。敦盛を討った直実は、世の無常に感じいり、出家したと伝えられています。

この悲しくも美しい少年の死は、平氏滅亡の象徴的な事件として哀れさをさそい、『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物の名場面として、また能、幸若舞、歌舞伎などの題材となって長く人々に語り伝えられ、生き続けています。

織田信長の好んだ「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」は、幸若舞『敦盛』の一節です。また、文部省唱歌の「青葉の笛」(♪ 一の谷の軍破れ 討たれし平家の公達[キンダチ]あわれ 暁寒き須磨の嵐に 聞えしはこれか 青葉の笛) は、敦盛が討たれたときに腰にたずさえていた笛の名です。


「2月7日にあった主なできごと」

1812年 ディケンズ誕生…『オリバー・ツイスト』『クリスマスキャロル』『二都物語』などを著したイギリスのヒューマニズム作家ディケンズが生まれました。

1834年 メンデレーエフ誕生…ロシアの化学者で、物質を形づくっている元素の研究をつづけ「元素の周期律表」を作成したメンデレーエフが生まれました。

1885年 岩崎弥太郎死去…明治の初期に海運業をおこし、船の運送にともない海上保険、造船、鉱山、製鉄、銀行、製紙など、さまざまな産業に進出し、三井財閥と並んで近代日本の産業界に勢力をほこる「三菱財閥」の基礎をつくった実業家 岩崎弥太郎が亡くなりました。

↑このページのトップヘ